勉強、喧嘩そして海へ(5)
「海だぁぁぁー」
ピンク色の水着を着た吉岡が、砂浜に敷かれた色とりどりのレジャーシートの隙間を縫うように走っていき、白く揺れ輝く海に倒れこむように飛びこんだ。
吉岡が生みだした波が周りで浮かぶ人たちを揺らした。浮き輪に乗っているひとりの女の子が声をだして笑っていた。
合流するなり賢人に目もくれず、叫びながら海に飛びこむと思わなかったけれど、吉岡らしいなと僕は思った。とりあえず怒って帰らなかったので、隣で困惑した様子の賢人にきこえないようにほっとした息を吐いた。
「電車、混んでたね」
僕はうさぎのキャラクターが描かれたシートを砂浜に広げる桜井さんに声をかけた。
僕と賢人は丹駕駅で合流し、一時間ほど電車に揺られてこの海水浴場に来た。夏休みということもあって海を求める人たちで電車はぎゅうぎゅう詰めだった。遊ぶ前から疲れた。
空色の水着の上に薄い白のTシャツを着た桜井さんはうさぎの顔のあたりに座り、申し訳なさそうな顔でこちらを見上げている。どうしたんだろう。何かあったのかな。
僕は桜井さんの隣にそっと座った。導かれるように視線が桜井さんの胸元に集中してしまう。Tシャツではっきりと見えないのがもどかしい。いや、今は、そういうことを考えている場合ではなくて。
「隼くんだぁぁぁー」
唐突に聞き覚えのある声が耳を貫いた。首を巡らせ後ろを向くと、木造の海の家から手を振ってこちらに走ってくる人がみえる。紫色の髪が太陽の光で輝いている。これは驚いた。
「ど、ど、どうして先輩が?」
「隼くんたちに会いたくてっ」
僕たちの前に立った黒色の水着姿の桃太子先輩は、大人の色気をまとっている。目のやり場に困り、僕は首を色んな方向に忙しなく動かした。
「舞先輩に車をだしてもらったの」
桜井さんが申し訳なさそうに言った。
「帰りはふたりも乗せてあげるからねー」
桃太子先輩はうれしそうに体を揺らしている。
どうやら、桜井さんと吉岡が今日のことを電話で話しているのを帰省していた桃太子先輩がきいていたらしい。それで車をだすという条件で先輩もついて来たそうだ。
桜井さんに、あのことは? と他のふたりにばれないように口の動きだけで伝えると、知ってる、と桜井さんの可愛らしい口が返事をくれた。作戦を知っているなら、どうして桃太子先輩が来ることを僕に教えてくれなかったのだろう。
「俺、ちょっと飲み物買ってきます。何かいりますか?」
桃太子先輩がいるから賢人が敬語でみんなに尋ねた。賢人のこういう真面目な部分は本当に素敵だと思う。
僕はサイダー、桜井さんはオレンジジュースと答えた。桃太子先輩はフランクフルトと元気よく答えて賢人に二千円を渡した。食べ物を答えるあたり、さすが桃太子先輩だと僕は感心した。
「可愛い後輩のためなら、いくらでもだしちゃうー」
太陽を背に従えた桃太子先輩のかっこいい発言に僕たちは甘えることした。合図をだしたわけでもないのに、ありがとうございます、が三人きれいに揃って、なんか照れるなぁー、と先輩は色気を放つ体をくねらせた。
「どうして先輩が来るのを教えてくれなかったの?」
海の家に向かう賢人の背中を見送って、僕は桜井さんにきいた。
「隼くんを驚かせたくてっ」
桜井さんではなく、砂浜の上に座った桃太子先輩がにししっと笑って答えた。その笑顔は吉岡がいじってくるときの悪い笑顔にそっくりだった。
この姉妹は本当によく似ている。見た目も、語尾を伸ばしたがるのも、僕をいじるときの笑顔も。違うのは、肌の色と胸の大きさだけだ。
何てことを考えているんだ。目の前の桃太子先輩の胸元に視線が向いてしまう。だめだ、だめだ。
僕は慌てて雲ひとつない青空に視線を逃がし、首を左右に激しく振って、桃太子先輩の白い胸の膨らみが記憶の引き出しに入ろうとするのを、必死に阻止する。
「あれ、賢人はー?」
海から戻ってきたこんがりと焼けた肌の吉岡は首を動かして、賢人を探しているようだった。気にかけるということは、知らないあいだに仲直りしたのだろうか。
「飲み物を買いに行ったよ」
日焼け止めを塗っている桜井さんが答えた。
「おっけー。じゃあ、わたしも行ってくるー」
海の家に向かって元気よく走っていく吉岡の後ろ姿は、とても楽しそうだった。
「そうそう、ふたりとも」
大胆に胡坐をかいた桃太子先輩が僕と桜井さんの顔を交互に見て、にかっと笑った。
「ふたりの作戦、芽唯にばれてるよ」
「えっ」
僕たちは声を揃えて驚き、目を見合わせた。今日は桜井さんと揃うことが多くてうれしい。
「詩ちゃんとの電話の後、いきなり海に行こうって言ってきたのはおかしいって、芽唯が言いだしたの。それで、今日、隼くんたちに会ったから、ふたりが仲直りしてほしいって思ってるのに気づいたんじゃないかな。あ、私は作戦のこと何も話してないからね」
桃太子先輩の両腕が伸びて、細くきれいな手が僕と桜井さんの頭の上に優しく乗った。
「隼くん、詩ちゃん。芽唯のためにありがとぉー」
桃太子先輩に髪をわしゃわしゃとされるようになでられた。先輩の手についていた砂粒が髪の隙間を通り、落ちてくる。陽に照らされた砂粒の雨はきらきらと光っていて、その向こうの先輩の笑顔は輝いていた。
僕は、砂粒の雨、桃太子先輩の手の優しい温もり、輝く笑顔、語尾を伸ばした感謝の言葉を記憶の引き出しに閉まった。僕たちをなでる先輩の揺れる胸が引き出しを閉める間際に入りこんできたけれど、無理に追いださなかった。
これも、そう、大切な思い出だ。
「三人で何してるのー?」
後ろから吉岡の声がした。
「可愛い後輩を――」
「ちょっと、詩の髪砂まみれになってるっ」
吉岡は桃太子先輩の手を退けて、桜井さんの髪に絡まる砂粒を優しく払いのけた。
「どうぞ」
賢人が桃太子先輩にフランクフルトとお釣りを渡した。僕をなでていた手のひらの上で硬貨が軽く当たって音が鳴った。桃太子先輩は、にかっと笑い、桜井さんをなでていた手に持ったフランクフルトに豪快にかぶりついた。
「ねえ、みんなでバレーしようよー」
砂粒を取り終えた吉岡が桜井さんに抱きつき、楽しそうに揺れている。
「私もがんばるぞー」
真っ先に反応した桃太子先輩が気合をこめて立ちあがった。先輩のお尻から砂粒が雪のようにさらさらと舞い落ちる。
「お姉ちゃんは審判だから」
「ええええぇぇぇー」
桃太子先輩はがくっと肩を落として、足下に落胆の声を伸ばしつづけている。
「男子対女子でやろうよ」
僕は桃太子先輩に元気を取り戻してもらうため、フォローを入れた。
顔をあげた桃太子先輩のきらきらとした瞳がこちらを向いた。
「隼くん大好きぃー」
桃太子先輩が愛の叫びを伸ばして勢いよく僕に向かって倒れこんできた。僕は慌てて体を横にずらして、ぎりぎりで先輩との衝突を避けることができた。シートに倒れこんだ先輩が唇を尖らせて睨んでくる。
「受け止めてよー」
「いや、その……」
大人の色気の桃太子先輩は刺激が強すぎる。もし、受け止めていたら心臓はどきどきで破裂していただろう。それと、心臓じゃない大事なところも。危なかった。
「ほんとっ、戸島はお姉ちゃんに甘いんだからー」
「そうだな」賢人がははっと笑いながら同意した。
「そうだね」桜井さんまで天使の微笑みで頷いた。
桃太子先輩は依然として睨んだままだ。
三人からも痛い視線をひしひしと感じる。向けられる視線に耐えられなくなり、僕は素早く立ちあがると海に向かって走った。
「あー、逃げたなー」
後ろからきこえる桃太子先輩の声と足音から逃げるように、僕は砂浜を駆けて海に飛びこんだ。必死に泳いで逃げたけれど、十メートルもいかないくらいで桃太子先輩に捕まってしまった。
僕は陸では速いけれど水中では遅くて、桃太子先輩は水中ではめちゃくちゃ速かった。
吉岡が、水泳ではお姉ちゃんに勝てない、と悔しそうに言っていたのを、先輩に抱きしめられながら思いだした。
冷たい海にいるはずなのに、温泉につかっているかのように体がぽかぽかと温まっていった。
のぼせたような感覚を引きずったまま、桃太子先輩と一緒にみんなのところへ戻った。
賢人がぱんぱんに膨らませたスイカ柄のビーチボールで、波打ち際でバレーをした。
男子チームはぼろ負けだった。敗因は間違いなく僕だ。
桃太子先輩に抱きしめられるという強すぎる刺激のせいで体の神経がふやけてしまったから。
「楽しかったー」
助手席に座る吉岡が腕を伸ばしながら言った。
運転席の桃太子先輩は前から射しこむ赤みの強い陽の光が眩しいのか、サンバイザーを下ろして光を遮断している。
後部座席の真ん中に座った僕は、車が夕日に向かって走っているように感じて、夕日が目的地だったら素敵だなと思いつつ、眩しい光を見つめすぎないように左側を向き、窓外を流れる海岸線を眺める。
主に桜井さんの横顔に見惚れているけれど。
視線を感じたのか、桜井さんがこちらを向いた。
桜井さんは口元に手を当てて顔を近づけてきた。潮の香りとミントっぽい制汗剤の香りで思わず鼻がひくついてしまう。
「うまくいったね」
桜井さんは僕にだけきこえるように囁いた。落ち着きのある声が吐息とともに耳を優しくくすぐった。
「そうだね」
僕も笑顔を添えて囁いた。
吉岡が賢人を追いかけて海の家に向かい、ふたりで戻ってきたあたりから喧嘩前のように楽しそうに話すようになっていた。きっと、ふたりきりのときに色々と話したのだろう。
無事に仲直りしてくれて本当によかった。
桃太子先輩は誰よりもはしゃいで疲れているはずなのに、ひとりひとりを家の前まで送ってくれた。帰り道のルート的に僕が最後だった。
吉岡姉妹との三人の車内はいじられ地獄で僕は家に着くなり、潮の香りをまとったままベッドに倒れこんだ。
母さんに、晩ごはん、と揺すられながら声をかけられ、初めて自分が眠ってしまったことに気づいた。
海水できしんだ髪をかきながら、ベッドに座って大きな欠伸をする。ぽーんという音で、ズボンのポケットのなかで一緒に眠っていた携帯電話が目を覚ました。
携帯を取りだし画面を光らせると、吉岡からメッセージが届いていた。眠っているあいだに賢人からも届いていた。
画面には、
〔わたしたちのためにありがとー〕
〔今日は俺らのためにありがとな〕
とふたりからの感謝が並んでいた。
僕は〔どういたしまして〕と返信して、晩ごはんを食べるため、一階へと下りていった。




