子猫の名前は茶々(3)
僕は助けられなかった子猫をぎゅっと抱きしめ、家へと引き返した。学校へ行かなきゃいけないのはわかっているけれど、子猫をそのままにしておけなかった。
また、置いていくことなんてできない。
ねずみ色の塀の向こうに、黒い屋根の大きな家が見えた。
僕がまだ赤ん坊のとき、父さんと母さんと兄さんの家族四人で、じいちゃんとばあちゃんが住むこの家に引っ越してきたらしい。家族想いのじいちゃんが僕たちのことを心配して、一緒に住もうと提案したそうだ。
駐車場に赤い車が停まっている。ホームセンターに仕事に行くとき、星のマークが目印のスーパーに買い物に行くとき、母さんとこの車はいつも一緒にでかけていく。
車があるから、母さんは家にいる。いきなり、洗濯物を干しに二階のベランダにでてくるかもしれない。気をつけないと。
僕は背中を丸め、体を小さくして歩き、父さんが生まれたときに植えられたという大きな木の陰に隠れた。六月に白い花を咲かせ、母さんやばあちゃんを笑顔にする素敵な木。父さんもこの木のように母さんを笑顔にしたらいいのに。
父さんの姿を一ヶ月以上見ていない。家に帰らないのは、家族がどうでもいいということなのだろう。じいちゃんが心配して一緒に住もうと提案した理由もわかる。本当にじいちゃんは家族想いだ。
そういえば前に、お父さんはじいちゃんに似たのかもね、とばあちゃんが言っていた。
僕は手のひらであめ色に炒められた玉ねぎが入ったハンバーグをぺたぺたと叩きながら、首を傾げた。じいちゃんは、いつも優しくて、僕の話を楽しそうにきいてくれて、家にも帰ってくる。
僕は両手で優しくお肉の空気を抜きながら、全然似てないよ、とむすっとしながら答えた。
僕の答えをきいたばあちゃんはにっこりと笑って、じいちゃんにとって隼ちゃんは特別だからねえ、と楽しそうに言っていた。
特別って言葉がすごくうれしすぎて、思わずハンバーグを落としそうになったっけ。
僕のことを特別に思ってくれているじいちゃんは、いつも家の隣の赤い屋根の小さな家にいる。
僕が生まれてちょっとしてからできた同い年の家。
そこは、じいちゃんの研究室だ。
僕が生まれるまえまでは、黒い屋根の家の三階が研究室だったらしい。今、三階は、ばあちゃんの部屋と兄さんの部屋と物置部屋になっている。
三階からだとずっと遠くの景色がみえていいなと思って、物置部屋と二階の僕の部屋を交換したいとじいちゃんにお願いしたことがあった。
でも、困った顔をしたじいちゃんに、物置部屋には動かしたくない大事な機械があるからだめだ、と断られてしまった。大事な機械があるなら仕方がないと僕はしぶしぶあきらめた。
ただ、ひとつだけ納得できないことがある。
それは、母さんたちがこの赤い屋根の家のことを離れと呼んでいることだ。それをきくたびに、その呼びかたは間違っているなと思う。
いつか、じいちゃんの研究室って言うんだよ、って母さんたちに教えてあげないと。
僕は木の陰から母さんが潜んでいる家をもう一度見て、誰もこちらを見ていないことを確認すると、さささっと研究室の裏口に回った。