旗とエール(9)
僕は美術室の前に戻った。
中をのぞくと桜井さんがひとり、クラス旗を眺めていた。
僕は桜井さんのもとに駆け寄った。
「おはよう」
「戸島くん、おはよう」
「桜井さんは賢人のことが好きなんだよね?」
「え、えっ、あ、……なんで知ってるの?」
桜井さんは顔を真っ赤にして目を見開いている。
そうか、タイムバックしたんだから、桜井さんの気持ちは知らないことになっているんだった。僕は慌てて理由を作りあげる。
「えっと、その、みんなで一緒に帰ってて、そう思ったんだ」
「……そ、そうなんだ」
「賢人に告白しないの?」
「……う、うん」
「ちゃんと想いを伝えようよ」
桜井さんはうつむいて首を横に振った。
「吉岡のこと?」
僕がそう言うと、桜井さんは驚いた様子で顔をあげ、苦しそうに唇を噛みしめた。
「まずは、吉岡に自分も賢人が好きだって伝えよう。自分の気持ちを大事にできない人は、相手の気持ちも大事にできないんだよ」
桜井さんはまたうつむいて黙りこんでしまった。
吉岡、早く、早く来てくれ。
悪い笑顔を浮かべる吉岡に早く来てほしいなんて思うことはこの先、一生ないだろうな。
「あー、戸島に先越されたー」
やっと来た。
僕はそそくさと窓際に移動して、ふたりの様子を見守ることにした。
僕の不審な動きと桜井さんのかもしだす不穏な空気を感じ取ったのか、吉岡は悪い笑顔をしまい、桜井さんのほうへ駆け寄った。
「詩、どうしたの?」
「…………」
「もしかして、戸島に変なことされた?」
心外だ。僕は何もしてない。また、あらぬ疑いを――いや、今回は僕のせいか。
「ねえ、詩ー」
「あ、あのね、芽唯ちゃん」
「えっ、うん」
「……わたしも一色くんのことが好き」
桜井さんの告白で、美術室に重たい沈黙が流れた。
ふたりは見つめ合ったまま立ち尽していて、伝わってくる緊張感に僕は唾をごくりと飲んだ。
「ねえ、詩、」
沈黙を破ったのは吉岡だった。
「わたしが一色のことが好きって言ったときに、どうして、応援するねって言ったの?」
「……それは」
「自分の気持ちを押し殺してる詩に応援されるなんてわたしは嫌」
吉岡の声に非難の色は感じなかった。
現に吉岡は頭上にぴかっと電球が点ったような顔をして、桜井さんの手を握った。吉岡の頭のリボンうれしそうに揺れている。
「詩っ、今日一緒に告白しようよ!」
「えっ」
「どっちが選ばれても、恨みっこなしだからねー」と吉岡は明るく笑った。
桜井さんはしばらく悩んでいたけれど、吉岡に何度も説得され、何かを吹っ切るように首を縦に振った。
桜井さんは晴れやかな表情でクラス旗を持って美術室をでて行った。
天使の笑顔が戻ってきた。よかった。
やっぱりあの笑顔が大好きだ。
僕も一緒に教室に戻ろうとしたけれど、吉岡に話があると引き止められた。天使の背中を見送り、何か言いたげな鬼と対峙する。
「戸島はこれでいいの?」
「うん」
「詩に告白しないの?」
「もう告白したから」
「えっ、いつしたのー?」
鬼がぱあっと瞳を輝かせ、にししっと笑った。
「さあ、いつでしょう?」
「隠したって意味ないのにー。後で詩に教えてもらうもん」
「桜井さんは知らないよ」
「はへ?」
何とも間抜けな声をだした鬼は、目を点している。きっと、頭がおかしくなった人を見るときの目なのだろうと僕は勝手に解釈した。無理もない。僕が逆の立場でも、同じような顔をするだろうし。
「よくわからないけど、ありがとねー」
「えっ」
「戸島のおかげで詩は前に進んだから」
「そうかな」
「まあ、一色と付き合うのはわたしだけどねー」
吉岡が上目づかいと無駄に可愛い声でアピールをしてきた。今さらそんなまやかしは通用しない。
「もし、賢人に相談されたら桜井さんを推すよ」
「えっ、うわっ、ないわー」
吉岡はおじさんのような低い声をだし、目を細めて睨んできた。吉岡の喉にはものすごく怖いおじさんが住んでいるのだろう。僕はその喉のおじさんに怒られる前に急いで教室に戻った。そして、二度目の体育祭を楽しんだ。