旗とエール(5)
僕は屈んで履き慣れた黒のシューズの靴ひもをしっかりと結び直す。
「絶対に負けんなよ」
「賢人もね」
僕たちは意思を確認するように頷き合い、歩調を合わせて入場門へ向かった。
賢人とは決勝で戦おうと約束しているので、予選では絶対に負けられない。もちろん、決勝も負けない。
入場門では足に自信がある選手たちが体育委員の指示に従って整列している。僕は二年生男子の予選一組目だ。僕の後ろに賢人が並んだ。
静かな闘志に包まれている入場門で、ひとりだけ後ろを向いている選手がいた。その選手は僕の目の前で、にししっと笑っている。
「詩にかっこいいところみせないとねー」
二年生女子の予選二組目に走る吉岡が周りにきこえないように囁き、くるっと前を向いた。吉岡は運動神経が抜群で、水泳も陸上も速いのだ。
僕の視線が自然と退場門の隣にある二年A組のテントを捉えた。ここからだと遠くてテント内にいるどの人が桜井さんか判別できない。
今、桜井さんはこちらを見ているかもしれない。
勝手に意識してしまい、緊張で体が石像のように硬直してしまった。
明るい声のアナウンスが流れ、流行りのロック調の音楽とともに石像が一体混じった入場門の選手たちが、来賓席の前に引かれた五十メートル走のスタートラインに並んだ。
最前列の一年生女子がスタートラインに並び、後ろの選手たちと一体の石像はその場に座って待機する。目立ちたがり屋の生徒たちがテントから飛びだしてきて、コースの手前で旗や鉢巻きを振り、声援を送っていた。
その楽しそうな姿を見ていると、体を固めていた緊張が嘘みたいに消えていった。
先ほどの吉岡の言葉を思いだす。
そうだ、僕は桜井さんにかっこいいところをみせるんだ。
選手のなかに混じっていた石像は、誰よりも強い意志を持った選手に生まれ変わった。
中島先生が合図をだし、スターターピストルを青空に向けて構えた。
グラウンドに時が止まったかのような静寂が流れる。
その空気を切り裂くようなバンッという音が鳴り、一年生女子が走りだした。
僕の視界で選手が小さくなるにつれ、鼓膜を揺らす声援が大きくなっていった。その声援につられて僕は立ちあがり、全身からわきあがってくる興奮を力に声援を送った。
座っては立ってを繰り返して、ついに順番が回ってきた。
もう一度、靴ひもの輪をきゅっと引っぱり、スタートラインに立った。
後ろにいる賢人が、勝てよ、と力強い声で言って鼓舞するように背中を叩いてくれた。
中島先生の合図で僕は片膝をつけて、指先を揃えるようにして地面につけ、スタートの姿勢を整える。クラウチングスタートは陸上の大会で何度も経験しているから、他の選手よりこの姿勢には慣れている。
先生の、よーい、という言葉で、僕はお尻をつきあげてピストルの音を待った。
バンッ、ときこえた瞬間、僕は右足を思いっきり前に踏みだした。
砂を蹴りあげ、風を切りながらずんずんと走り、僕は白いゴールテープを自分のものにした。
『1』と書かれた赤い旗に並ぶ列の最後尾に座る。
「戸島がゴールした瞬間、詩が飛び跳ねて喜んでたよー」
前に座る吉岡が言った。
「ほ、ほんとにっ」
「うっそー」
にししっとお決まりの笑顔を浮かべている吉岡にむかっとして、普段なら絶対にやらないけれど、今は走り終えた余韻に身を任せ、僕は吉岡の頭のリボンを軽く引っぱった。
「変態っ」
吉岡は少しずれたリボンを調整しながら、軽蔑の眼差しを向けてきた。
「僕の気持ちをもてあそんだ罰だ」
こんな反抗的な言葉も、普段なら絶対に言わない。
「うわっ、心の狭い男はきらわ、あっ、一色、がんばれー」
気づけば賢人の組がスタートしていた。僕も慌てて声援を送る。賢人もゴールテープを自分のものにしていた。
僕も賢人も、一応、吉岡も無事に一位で予選を突破した。
クラスのテントに戻ると、ほとんど話さないクラスメイトにも、おめでとう、と称賛された。僕は照れながら、ありがとう、と返して、水筒に入ったスポーツドリンクを喉に流しこんだ。
トラックではムカデ競争が行われていた。僕は躓いてドミノ倒しのように倒れる選手たちから、テントの隅で膝を抱えている桜井さんに視線を移す。桜井さんは吉岡や他の女子たちに声をかけられても軽く頷くだけで、暗い表情で遠くのほうを眺めている。
桜井さんだけがどこか違う場所に取り残されているみたいだ。何があったのだろう。
勇気をだして理由をきこうと腰をあげた途端、運悪く招集のアナウンスが流れてしまい、僕はタイミングを逃してしまった。
後ろ髪を引かれつつ、借り物競争に出場するために入場門へ向かった。
出番を待つあいだ、ああだこうだと考えていると、やっぱり理由をきかないほうがいいような気がしてきて、僕は静かに見守ることに決めた。放送委員の人、止めてくれてありがとう。
僕は借り物競争でも一位を取った。
引いたお題で迷うことがなかったからだ。
尊敬する人というお題を引き、僕は真っ先に桃太子先輩がいるテントへ向かった。うつむいて照れた表情を隠そうとしている桃太子先輩と手を繋いで一緒にゴールテープを切った。
じいちゃんがいたら、迷ったかもしれないな。
競技が終わった後、隼くん大好きだよー、と桃太子先輩に髪をわしゃわしゃとなでられた。
テントに戻ると、僕たちの様子を見ていたのだろう吉岡に、ああいうことするからお姉ちゃんが調子に乗るのっ、と軽くお叱りを受けた。
僕は小さく頭をさげて謝罪の意思を示し、テントの前で騒ぐ賢人のもとへ逃げた。今日の賢人は信じられないくらいテンションが高い。僕も周りの熱気に圧され、トラックの誰かに向けて声援を投げ飛ばした。




