花火と後の祭り(3)
止まることを忘れた涙と一緒に家へ逃げ帰り、ずきずきと痛む足で研究室へ向かった。
蛍光灯の柔らかな光がみじめな僕を迎え入れる。一度、浴衣の袖でたまった涙を拭った。
じいちゃんは今日も設計図と向き合っていた。
「じ、じいちゃん」
僕のかすれた声が研究室を弱々しく漂った。じいちゃんは気づいてくれなかった。
僕は悲鳴をあげつづける足でじいちゃんに近づき、白衣の袖を引っぱって、強引に僕の存在を知らせた。
「隼、何かあったのか?」
じいちゃんは設計図と向き合うときと同じ真剣な顔で言った。
「……祭りで桜井さんを見かけたんだ。桜井さんは、吉岡と……、クラスの男子と祭りを、楽しんでて、すごくすごく幸せそうに笑ってた」
桜井さんの笑顔を思いだし、心がぎゅっと締めつけられて苦しい。
「そ、それで、僕は断られることばっかり考えて、誘わなかった自分が情けなくて……。も、もし、勇気をだして誘っていたら、桜井さんを笑顔にするのは僕だったかもしれないと思うと、悔しくて……。
だから、僕、戻りたい。うまくいかないかもしれないけど、戻ってもう一度はずるいかもしれないけど、戻りたい。大好きな桜井さんと祭りに行きたい」
「どんな結果になっても、それを受け入れる覚悟はあるか?」
じいちゃんが真剣な顔のまま、どこか苦しそうな声で言った。
「はい」
僕は力強く返事をした。
わかった、と言ったじいちゃんは金庫からTバックマシンを取りだした。
僕はその場で浴衣を脱いでTバックマシンを穿いた。
じいちゃんが今までと同じようにテープをはって調整してくれた。前のタイムバックのときよりまたテープの数は減っている。
「ありがとうございます」
僕は浴衣を着直し、しっかりとお辞儀をしてじいちゃんに感謝を伝えた。
桜井さんと祭りに行けなかったのは、僕の臆病さとちっぽけなプライドが原因だ。そんなどうしようもない僕に、じいちゃんはもう一度チャンスをくれた。だから、ちゃんとお礼を言わなければいけないと思った。
僕は下駄を履き、ひとりで研究室を後にした。
じいちゃんが、ついて行こうか、と言ってくれたけれど、僕はその申し出を断った。ひとりでも大丈夫、と伝えたとき、じいちゃんは感心したように微笑んでいた。
僕は逃げ帰るときに通った裏道ではなく、駅前につづく真っすぐな広い歩道のある大通りへ向かった。
等間隔に並んだ街灯、大通り沿いのビル、車道で渋滞を作る車。それらから放たれる人工的な光が夜を照らしている。歩道では祭りに向かう人たちが明るい足音をたてていた。駅前や商店街に比べて人通りは少ないから、走るスペースは十分に確保できる。
僕は黒色の帯をぎゅっと握り、目を閉じて深呼吸をする。瞼の裏には横断歩道の向こう側にあった桜井さんの笑顔がくっきりと焼きついていた。
今度は、絶対に、隣で見るんだ。
よし、いくぞ。
下駄を脱ぐと、僕は帯をほどいて勢いよく放り投げた。帯が夜を彩る光たちに照らされ、真っ黒なオーロラのように宙を舞った。
襟元をつかんで浴衣を堂々と脱ぐ。浴衣が抜け殻のように足元に落ちていった。
突然、Tバックマシン一丁になった僕に気づいた行き交う人たちが、ざわつきはじめた。
僕は気にせず前を向く。見られたっていい。
僕は桜井さんと祭りに行きたいんだ。
「うおおおおぉぉぉー」
僕は雄叫びをあげ、アスファルトを力強く蹴って走りだす。
叫びをきいた人たちが驚いたように道を開けてくれた。みなさん、ありがとうございます。
体が燃えるように熱くなってきた。
徐々に、道を開けてくれた驚き顔の人たちの姿は見えなくなっていく。そして、世界が桜の花びらに染められたかのように桃色に染まっていった。
視界の先に、夏の燦々と輝く太陽のように明るい白い円が見える。僕はその円に向かって走っているようだった。
桃色に包まれながら走っていると、アスファルトの硬い感触がなくなり、体が浮いてきた。前よりもふわふわと浮いている感覚が強い。
この浮遊感は、タイムバックするたびに癖になる。すごく気持ちいい。
雲みたいに漂っていたいと思った矢先、桃色の世界が跡形もなく消えて、僕は足元に穴があったかのように、まっさかさまに落ちていった。




