花火と後の祭り(1)
戻る前は嫌で苦しかった黄陽での学校生活は、新しい目標と大切な友だちのおかげで、楽しいものに変化した。最初の一年はあっという間に過ぎていき、僕は黄陽の二年生になっていた。
昨日で期末試験が終わり、二年A組の教室は朝から快活な声が衝突していて、騒がしかった。みんな、日曜日の丹駕祭りが楽しみなんだろう。それに、その祭りの後には夏休みが待っている。
僕は楽しみがあふれる教室内で、廊下側のいちばん前の席に座る桜井さんに見惚れていた。僕の席は、桜井さんの席の隣の列のいちばん後ろ。
桜井さんの顔は拝めないけれど、僕はこの席をとても気に入っている。
だって、桜井さんの美しく伸びた背筋が拝めるから。桜井さんのことを好きになったいちばんの理由だ。美しい姿勢からは自身を感じるし、すごくかっこいい。
もちろん、他にも好きなところはある。
肩にかかりそうな長さのさらさらの黒髪。雪みたいに白い肌。子猫のように愛くるしい垂れ目。小さくて可愛らしい鼻と口。耳をくすぐるような落ち着きのある声。テストでは常に学年で十位以内。美術部で絵がうまい。誰にでも笑顔で誠実に対応する優しい性格。奥ゆかしいなかにほろっと煌めく美しさがある雰囲気。
桜井さんを眺めているだけで、僕は幸せな気持ちになる。
幸せをくれる桜井さんは、親友の吉岡と楽しそうに話をしている。後ろ姿なのに楽しそうと感じるのは、桜井さんと向かい合う吉岡の顔に、満開の笑顔が咲いているからだ。
まあ、吉岡はいつも豪快に口を開けて笑っているから、吉岡だけが楽しんでいるだけかもしれない。
吉岡は見学会のときにお世話になった権力先輩の妹だ。
茶色みのかかったショートヘアで肌はこんがりと焼けている。小さいころから権力先輩と一緒に水泳を習っているから、髪が茶色っぽいらしい。口を閉じているところをほとんど見たことがなく、常に明るくからっとした声で喋って豪快に笑う。元気な女子の日本代表という感じだ。
僕が権力先輩のお気に入りということで、一年生のころから廊下で会うと絡まれた。遠慮なく肩や背中を叩いてくるけれど、なぜか憎めない。
二年生になってからは、同じ教室にいるからか、やたらと絡んでくる。憎めないけれど。
それにしても、桜井さんが正反対な吉岡と親友だというのが不思議でならない。
「また、桜井のこと見てる」
横から笑いを含んだ声がきこえた。僕はどきっとしたけれど、冷静を装った顔をして、桜井さんから声の主に目を移した。賢人が目を細めて唇の端をつりあげている。
「み、見てないよ」
見事に声が上ずってしまった。
「へえー」
賢人はにやにやしながら頷いている。
「それで、桜井のことを祭りに誘った?」
「……まだ」
「早くしないと、他の男子にとられるぞ」
「そう、言われても……」
「当たって砕けろ」
賢人は握り拳を胸の前で力強くふった。
僕だって桜井さんと丹駕祭りに行きたい。絶対に可愛い浴衣姿を間近で拝みたい。一緒にかき氷を食べたい。かわいい笑顔に癒されたい。祭りの最後に打ちあがる花火を美しい桜井さんの隣で見たい。
でも、誘えない。
賢人は当たって砕けろと言うけれど、砕けてしまうことばかり考える僕にはできない芸当だ。断られたら、永遠に立ち直れない自信がある。
「吉岡を誘ったら?」
賢人が不安げな表情で、僕の顔をのぞきこむように言った。
最悪な結果を考えていたのが、顔にでていたみたいだ。
「吉岡はちょっとね……」
「でも、吉岡を誘えば、桜井も来るんじゃないか」
「そうかもしれないけど」
正直言うと、僕は吉岡を誘いたくない。別に吉岡のことが嫌いなわけではない。
ただ、桜井さんへの恋心がばれるのが嫌なのだ。絶対にいじってくる。恥ずかしいし、容赦ないいじりを想像するだけで怖い。
「すげえ、嫌そうだな」
また、顔にでていたみたいだ。
「うん、まあ」
「それなら、頑張って桜井を誘えよ」
賢人は僕の肩をぽんっと軽く叩き、自分の席へと戻っていった。
賢人が座ったタイミングで教室の扉が開き、ジャージ姿の中島先生が入ってきた。一年生のときからの担任である中島先生がスーツを着ている姿を見たのは、入学式のときだけだったと思う。体育教師だからジャージでいいのだろう。
「吉岡、そろそろ席に座れ」
中島先生の朝の決まり文句。
「はーい」
間延びした声を発した吉岡は、桜井さんに向けて小さく手を振って、こちらに歩いてくる。
吉岡と目が合ってしまった。獲物を見つけたときのライオンのような目。この目にロックオンされたら、もう終わりだ。
吉岡は桜井さんの列のいちばん後ろの席に座った。そう、僕の隣の席。これから口を閉じることを知らない吉岡に絡まれる一日がはじまる。
吉岡の口が、愉快そうに弧を描いた。ああ、はやく席替えがしたい。