知るということ(4)
戻る前はうつむいて憂鬱な気持ちでくぐっていた正門。その前で僕は黄陽の校舎を見上げていた。
西校舎と東校舎にわかれていて、二階に二つの校舎をつなぐ外廊下がついている。戻る前に使っていた前期課程生の教室があるのは東校舎で、後期課程生の教室がある西校舎には三階の美術室に授業で行くとき以外、ほとんど足を踏み入れたことがない。
一ヵ月ちょっと通っていたのに、何だか初めて見るような気分がする。
それにしても、中学生の期間を前期課程、高校生の期間を後期課程と呼ぶのが不思議でならない。わかりづらいし、説明するのも面倒くさい。特別な呼びかたをつける意味がまったく理解できない。
「見学会に参加される方ですか?」
満面の笑みを浮かべたお姉さんがひょいと視界に現れて、僕は背負っているリュックとともにびくっと跳ねた。
「ごめん。驚かせちゃったね」
「あ、いえ、驚いてないです」
僕は落ち着いた感じで返した。
赤色のネクタイをしてこげ茶色のスカートを穿いているから、この人は後期課程生だ。学校の制服を着ているから先輩だとわかるけれど、僕の目には大人との違いがよくわからない。
うん、大人先輩と呼ぼう。
じいちゃんに、隼なりに楽しんでこい、と言われたので、とりあえず、あだ名をつけてみることにした。
大人先輩は付き添いの母さんのほうを向いた。後ろでひとつに結ばれた茶色っぽい髪がふわっと踊って、柴犬の尻尾みたいだった。
「本日はご来校くださりありがとうございます。保護者の方は体育館のほうで説明会がございます。受付まであちらの青い腕章をつけた生徒がご案内いたします」
そう言うと、大人先輩は同じ赤色のネクタイをした男の先輩を手招きで呼んで、笑顔を添えて母さんに向けてお辞儀をした。
「ご丁寧にありがとうございます。息子をよろしくお願いします」
母さんも同じようにお辞儀を返した。母さんは僕が受験に前向きだと思っているので、今日はいつになく上機嫌だ。ばっちりと化粧をして、見るからに値段が高そうな服を着ている。
僕は目の前で繰り広げられた大人風の洗練されたやりとりを見て、素直にかっこいいと思った。僕もいつかこんな風な大人になれるのかな。
「君は私と一緒に行こっか」と大人先輩が言った。
「は、はい」
僕は大人先輩と、東校舎と西校舎のあいだにある芝生が張られた中庭のほうへ歩いていく。
「私には妹がいてね、君と同い年なんだー」
「そうなんですか」
「もし君が妹と同級生になったら、仲良くしてあげてね」
「はい」
「しっかりしてるねー」
そう言って、大人先輩は、ふふっと笑った。
「い、いえ、そんなことないです」
僕は照れながら返した。
大人先輩はまた、ふふっと笑った。
しっかりしてると褒められた。うれしくて、タイムバックするときみたいに体が熱くなった。家に帰ったら褒められたってじいちゃんに自慢しよう。
バスケットコート一面分ほどの広さの中庭には、すでにたくさんの人が集まっていた。
知っている子がたくさんいて、みんな、よそよそしい雰囲気をだしつつも、近くの子と何か話をしていた。
ああ、そういうことか。入学式のときにグループができていた理由がわかった。みんな、この見学会で仲良くなっていたのか。
「みなさん、おはようございます」
前方の宣誓台から声が広がり、中庭にいる人たち全員がそちらを向いた。ちらほらと、挨拶を返す声もあがり、僕も失礼のないようにちゃんと挨拶をした。
「それではまずグループ分けを行ないます。受付で渡された紙に書かれたアルファベッドの文字を確認してください。確認したら、その文字と同じプラカードを持った生徒のところに一列に並んでください」
宣誓台の上で拡声器を使って話しているのは、英語の武本先生だ。
先生は英単語ノートというものを生徒たちに作らせ、毎日一ページずつ英単語を練習して提出するという宿題をだす。英語が苦手な僕にとって地獄のような宿題だった。
まあ、放課後に遊びに行くような友だちがいなくて時間があり余っていたから、一度もその宿題を忘れたことはないけど。
それにしても、先生が言った紙とは一体、何のことだろう。
僕は校内に足を踏み入れてから、紙をもらった覚えがない。でも、他の参加者は手に持った白い紙を見て、首を伸ばして前方に視線を送っている。
どうやら、僕だけが紙を持っていないらしい。気になったことは誰かにちゃんときかないと。今朝、じいちゃんと約束したんだ。
気になったことはとりあえずきいてみる。
僕は隣に立つ大人先輩の腕をつんつんと突いた。
「あの、紙って何ですか?」と僕はきいた。
「え、あ、そうだ」
大人先輩は目を見開いた。
「受付に連れて行くの忘れてたー」
「僕はどうしたらいいですか?」
「ちょっと待ってねー」
大人先輩はスカートのポケットかメモ帳とペンを取りだし、ささっとペンを走らせた。
「君はGグループね」
大人先輩から渡された紙には走り書きで青色のGの文字が書かれている。先輩が勝手に決めたので大丈夫なのかな。
「Gグループは私の担当だから大丈夫」
大人先輩は自信満々な顔で言った。
大丈夫と言った大人先輩を僕は信じることにした。
自分が担当しているからという理由だけで、先生の了承も得ずに僕をそのグループにねじこむなんて、もしかして大人先輩はこの学校内ですごい権力を持っているのだろうか。
大人先輩改め、権力先輩と呼ぼう。なんだか強そうでいいあだ名だ。
僕は二十人くらいが並んでいるGグループの列の最後尾に加わった。後ろを見ると権力先輩が堂々とした様子で立っている。
「それでは順番に教室に案内します。プラカードを持った生徒についていってください」
僕がねじこまれたGグループは西校舎のほうへ入っていく。
東校舎と下駄箱の作りは一緒なのに、西校舎は静かで洗練されて空気に包まれている。長い定規をあてられているみたいに背中が真っすぐ伸び、肩に変に力が入る。
「模擬授業を受ける教室に案内するのでついてきてください」とプラカードを持っている先輩が笑顔を交えて参加者に呼びかけた。
その笑顔が、母さんが応援している五人組のアイドルグループのひとりにそっくりだった。その人はファンからMJと呼ばれていて、テレビで爽やかな笑顔をみせてファンを魅了している。
うん、この先輩はMJ先輩と呼ぼう。
MJ先輩と権力先輩に挟まれたGグループは移動しはじめる。
「模擬授業を受ける教室は私の教室だから、君には特別に私の席を使わせてあげようー」
後ろから権力先輩の楽しそうな声。
「ありがとうございます」
僕はふり返ってしっかりと感謝を伝えた。
また、しっかりしてるねって褒められたい。
「君は本当にいい子だね。妹に見習ってほしいよ」
権力先輩は困ったように眉を曲げて話しているけれど、口元は笑っていて声は跳ねるように楽しそうだった。きっと、妹さんのことが大好きなのだろう。
「おーい、吉岡。ついてこーい」
MJ先輩の大きな声がした。
「ごめんごめん。今行くー」
権力先輩が同じような声量で返した。
前を向くと、Gグループの人たちが廊下の突きあたりで僕と権力先輩を待っていた。
権力先輩は吉岡さんという名前らしい。でも、僕は権力先輩と呼ぶことをやめようとは思わなかった。けっこう気に入っているから。