知るということ(3)
ゴールデンウィークの最終日。
日曜日ということもあって、遊歩道ではたくさんの人が行き交っていた。
下の河原では、すっきりと晴れて心地よい風が吹くなかで小学生たちが元気いっぱいな声をだし、楽しそうに野球をしている。ボールを打ち返した金属音をきくと、関係のない僕まで爽快な気分になった。ヒットを打った少年は一塁ベースの上で飛び跳ねて喜んでいた。
「おお、これだけ人がいれば、エネルギーもたっぷりとたまるな」
なぜかうれしそうなじいちゃんの横で、僕は背中を丸めて、できるだけ目立たないようにしていた。
コートを羽織っているからTバックマシンを隠せてはいるけれど、ここにいる人たちの視線がすでにこちらをみているような気がして恥ずかしい。
この時期にコートを着て、しかもサイズが合っていないのだから、怪しく見えるのだろう。それに、隣には白衣姿ではしゃいでいるじいちゃんがいるから、何の事情も知らない人からしたら気になるのも当然だ。
「さあ、隼。思いっきり走ってこい」
とんっとじいちゃんに背中を押された。
僕はふぅーと大きく深呼吸をし、靴とコートを脱ぐと、赤いアスファルトを力強く踏むように走りだした。
「隼、がんばれー」
後ろからじいちゃんの雄叫びのような声援が追いついてきた。
その大声のせいで、遊歩道を歩く人、河原で野球をする小学生たち、きれいなお姉さんに連れられている派手な服を着た小型犬までもが、僕を驚きの目で見てきた。
じいちゃん、大きな声をださないでよ。
人々と犬から放たれる一律に冷たい視線を感じ、僕は恥ずかしくてぎゅっと目を閉じた。
今は、ただひたすらに足を前にだしつづけるしかない。
全身が火照って、熱くなっていく。火に包まれながら走っているようだった。
その熱とともに走っていると、今度はふわふわと浮くような感覚に襲われた。
足裏に何の感触もなくて、空を走っているような気分だ。
まただ。茶々のために戻ったときと同じだ。
ふわふわ浮いていているようで気持ちいい。この感覚、癖になりそう。
このままどこまでも風に流される雲ように進んでいきたい。
懐かしい浮遊感に体を預けていると、また急に頭を強く押されて、何かの上に僕は落ちた。
ぼふっとした音とともに、慣れ親しんだ匂いがした。
おそるおそる目を開けると、そこは自分の部屋だった。どうやら、ベッドの上に落ちたみたいだ。
僕はゆっくりと体を起こし、明るい部屋を見回してみる。
勉強机の上に、母さんに問答無用で片づけられてしまったランドセルが置かれていて、横には黄陽のスクールバッグがかかっていなかった。クローゼットの扉にかかっているはずの制服も無くなっていた。
壁に飾られたカレンダーは去年の五月のページになっている。
本当に、一年前に戻ってきたみたいだ。
やっぱり、すごい。じいちゃん、すごいよ。
僕は急いで研究室へ向かった。
忘れないうちに白い光を放つTバックマシンをじいちゃんに返して、僕は丸椅子に座った。
戻ってきたのはいいけれど、黄陽について何をどうやって調べたらいいのか、何も考えていなかったことに気がついた。こんなときに頼れるのは、じいちゃんしかいない。
「じいちゃん、黄陽についてどうやって調べたらいいかな?」
「ちょっと待ってろ」
そう言って、じいちゃんはTバックマシンを持って暖簾の向こうへと消えた。また秘密の部屋に行ったのだろうか。
しばらく待つことになりそうなので、僕は本棚から適当な本を引きだしてページをめくってみた。
英語ではない、どこかの知らない外国語で書かれた本はまったく読めないけれど、この本を眺めているだけで、じいちゃんのすごさが伝わってくる。だって、このよくわからない外国語をじいちゃんは理解できるのだから。
「これを使いなさい」
暖簾の向こうから戻ってきたじいちゃんが持っていたのは、薄型のノートパソコンだった。
「まずは、インターネットで黄陽について調べてみたらどうだ?」
「うん。じいちゃん、ありがとう」
丸椅子に戻り、ノートパソコンを膝のうえに置いて右上にある電源ボタンを押した。ピピピッと機械音が鳴り、真っ暗だった画面が忙しそうにちかちかと光りはじめた。
パソコンはパスワードを打つ画面が現れることなく、あっさりと開いてしまった。パスワードの設定をしないと危ないって、小学校の授業でも言っていたのに。
じいちゃんは、たまに抜けているところがある。
この前も、晩ごはんを食べ終えた後にロウソクが立てられたケーキがでてきたとき、何かめでたいことでもあったのか? とじいちゃんは不思議そうに首をかしげていた。
その日が、ばあちゃんの誕生日だったことをすっかり忘れていたのだ。
私の誕生日ですよ、と答えたばあちゃんは、ちょっぴり頬を膨らませてじいちゃんを睨みつけてから、ケーキを見てにこにこと笑っていた。
「じいちゃん、パスワードを設定しないと危ない、って授業で言ってたよ」
「そのパソコンは使わないから設定してないんだ」
「使わないのに持ってるの?」
「新しくしようと思ったんだが、古いほうが使いやすくてな」
「そうなんだ」
「そのパソコンは、隼が好きなときに使っていいからな。薫さんには内緒だぞ」
じいちゃんは、にかっと笑ってまた設計図のほうを向いた。
僕は自分が覚えやすいパスワードを設定してからインターネットを開いた。
黄陽中等教育学校と打ちこんで検索すると、いちばん上に学校のホームページがでてきた。クリックして開いてみる。画面の真ん中に、学校見学会&授業体験という大きな文字が現れた。
その枠をクリックして、表示された説明に目を通していった。
どうやら、夏休み中に受験生を対象とした、学校内を見学するツアーや在校生との交流、黄陽の先生による模擬授業が行われるらしい。
こんなことをやっていたなんて、全然知らなかった。
「試しに参加してみたらどうだ?」
設計図と向き合っていたはずのじいちゃんが、パソコンの画面をのぞきこんでいた。
「うん。母さんにきいてみる」
じいちゃんにパソコンを返して僕は家のほうに戻った。
居間をのぞくと、母さんとばあちゃんと伯母さんが机を挟んで、ぼそぼそと何かを話し合っていた。
母さんが怖い顔で畳をかいている。あれは母さんがいらいらしているときの癖だ。
小声だからききとれないけれど、きっと父さんのことを話しているのだろう。
たしか、父さんはこのゴールデンウィークに仕事だと嘘をついて愛人と旅行に行っていた。そのことが母さんにばれて、父さんはもうすぐ家を追いだされる。自業自得だから仕方がない。
「母さん、お願いがあるんだけど」
僕はおそるおそる言った。
「何?」
母さんの棘のある声に背筋が伸びる。空気が凍っているかのように冷たい。今は言わないほうがいいのかな。
「あら、隼ちゃん。どうしたの?」
ばあちゃんの温かい声で、空気がすうっと和んだ。ばあちゃん、ありがとう。
「その、夏休みにある黄陽の見学会に参加したいなって」
うかがうように母さんの顔を見ると、先ほどまでの怖い顔は瞬く間にゆるんで、口元には笑顔が浮かんでいた。
「あら、いいじゃない。隼が受験に前向きでよかった。母さんがちゃんと申しこんでおくわね」
「あ、うん。ありがとう」
「隼ちゃんはえらいわね」とばあちゃんが言った。
「えらい、えらい」と伯母さんがつづけた。
うれしそうに笑顔を浮かべる母さんと、感心するように頷くばあちゃんと伯母さんには、受験をしないためにタイムバックしてきたなんて、絶対に言えない。言っても信じないだろうけれど。
三人の顔を見ていると、ふつふつと胸に罪悪感がわいてきたので、僕は足早に研究室のほうへ逃げた。
「じいちゃん、母さんが行っていいって」
「よかったな」
「あと、何をしたらいいかな……」
「とりあえず、見学会までは二回目の六年生を楽しんだらいいじゃないか」
「うん」
「ちゃんと勉強はするんだぞ」
うん、とまた答えて、僕は友だちの家へ向かった。戻る前は少し大人びていた友だちも元に戻っていた。
久しぶり、と僕が挨拶したら、昨日も会ったぞ、と変なボケと勘違いされて笑われた。僕は夏休みの見学会まで二度目の六年生を楽しんだ。