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 『……続いて、天気予想です。ここ2日ほど太平洋側では北風の強い日が続いています。しかし、今日は一段と強く吹くでしょう。洗濯物を外に干される方は飛ばされないように注意が必要です。』


 テレビをつけて、女性のアナウンサーのやわらかな声を聞き流しつつ、すうっと大きく息を吸ってみる。コーヒーの香ばしい香りを胸いっぱいに感じながら、朝ご飯の準備をする。


 いつもと同じ時間、同じ香り。


 コーヒーに牛乳を入れ、フランスパンをナイフでザクザクと二切れ分用意する。


 あと30分くらいで家を出ないと、また駅まで坂道を走らないといけなくなってしまう。


 焦ったり、急いだりするのは好きじゃない。パンをこんがり焼いてくれそうな温度のヘアアイロンで、火傷をしそうになりながら慎重に整えた前髪も、向かい風にいたずらされてバラバラに分けられてしまう。


 でも今日は、走らなくても風と押し相撲をしなければいけないみたい。


「風って嫌い。むかつく。雨と風のコンビよりましだけど、何をするにも邪魔だもの。」


 小さな溜息が一つ、口から漏れる。


 ああ、少し憂鬱になってしまった。朝からこんなのは良くな、良くない。

 コーヒーやパンの匂いにも慣れてきて、朝の香りを意識できなくなる。


 幸せな香りってたまに嗅ぐからいいんだな、と実感する。


 どうにか気を逸らしたい。幸せな一日でありたいし、始まりは肝心だ。


 今考えなきゃいけない他のことを考えよう。

 何があるかな…。


 そういえば。


「一限に必要な教材ってどこに置いたんだっけ。」


 リビングの窓際の角にある、学習棚代わりのタンスの引き出しを下から順に開けてみるが、ここには無いようだ。


 やっぱり学校かな。


 視界には飲み終えたコーヒーカップやパンくずが落ちたテーブルの黄土色が映されているが、額の奥が見ているもう一つの風景は、すでに自分の学籍番号が書かれたロッカーの扉を開けようとしている。


 左から、生物学、生命倫理、機械工学、カップラーメン…。


 何とか思い出そうとこめかみに力を入れてみても、靄がかかってそれ以上は見えない。


 仕方ない、早めに行ってみよう。もしなかったら、図書室で借りるか誰かに印刷させてもらえばいい。


 友人達よ、いつも当てにしてごめんよ、と心の中で先に謝る。


 右腕の時計を逐一確認しながら朝食の残骸を片付け、念のためのトイレを済ませた。


 クローゼットから春物のトレンチコートを取り出し、陽の光が当たらない冷たい暗闇で出番を待っていたためか、少しヒヤッとした風を感じながら羽織る。クローゼットの独特のにおいも一緒についてきて、私のコロンになる。


 家の鍵を片手に靴を履き、チェーンと鍵を外してドアを開ける。


 瞬間、ぶあっと勢いよく開くドア。


 しまった!


 そう思ったときにはもう遅い。


 テーブルの上に置きっぱなしにしていた郵便物やチラシが宙を舞い、家の中の空気が一斉に外に出ていく。


 開きっぱなしだったトイレのドアもバアンッとひとりでに開かれ、廊下に置いてあった空の段ボール箱にぶつかる。


「うわっ最悪だ!閉まらない!」


 風と小競り合いをするうち、一瞬だけ背中を押す風の力が弱くなる。


 そのゆるみを見逃したりはしない。


 思いっきり全体重でドアノブを引っ張り、何とかドアを閉めることに成功した。


「あー、危なかった。」


 別に何も危なくはなかったが、ドアが閉まらないと本気で思った危機を脱した安心感から、思わず口をついて出る。


 鍵を閉め、靴を脱いでリビングに戻ると床に物が散乱している。


 予想はしていたものの、その惨状を目の当たりにした瞬間、「片付けなければいけない」という義務感にエネルギーを吸い取られた。


 力なく床のものを拾いながら元の場所に戻していくうちに、目の前の窓が全開のままであることに気が付いた。


 昨日窓も網戸も掃除したから、透明すぎて窓が開いていることに気が付けなかったのか。


 なんてまぬけなんだ。朝からずっと風も通っていただろうに…。


 自業自得だと自虐的になりながら窓を閉めると、手書きされた大きな封筒が足に当たった。


 拾い上げて中身を開くと、教科書の払込取扱票が入っていて、支払い期限の日付は今日を示している。


「これ、完全に忘れてた!あぶない。今なら銀行に行く時間もまだある。良かった、朝のうちに気が付いて。」

 あれ、ちょっと待てよ…。


 何かの思考にひっかかった途端に、脳が状況整理を始める。


 気が付けたのは窓が開いていて風を吹き込んだから。しかも強風だったから窓が開いていることに気が付き、散乱したであろう物を片付けにこの部屋に戻ってきたからだ。


 あれ…。強風のおかげなのか、この状況。


 納得したくない。


 認めたくない、と無意味な抵抗をして、風は嫌な奴というエビデンスを脳内の検索エンジンにかける。

 強風が吹いて、私の髪の毛も見事に崩されたし、駅まで走らないと間に合わない時間になった。


 いや、しかしそれ以上に…。


 前髪なんかよりも払込取扱票の期限がずっと大事だし、電車に間に合うことより、戸締りが大事。


 ああ、もう仕方ないな。今日は負けた。私の完敗。

 君の邪魔もごくごくたまには、私の役に立つみたい。


 風は嫌い。でも、今日はちょっと風の勝利を認めてみる。


 そう思ったら、胸がぽかぽかして足が軽くって、まるで春風にでもなったよう。どこへでも飛んでいけそうな気分。


 つい口角が上がりそうになり、頬に緩く力が入るのを抑えて呟く。


「でも、明日の風には負けてやんない。だって明日は明日の風だから。」




明日の風が吹くっていう日常の例を書きたかったのですが、なんだかオチのない話になってしまいました。

私小説のようですが、私小説ではないんです。1人暮らし、憧れます。公共料金の払い忘れもまた、日常って感じがして結構好きです。でも、引き落としにされてる方はきっと体験することはないのでしょう。コーヒーの香りとフランスパンが朝に欠かせない…っていう毎日を過ごしたいなと妄想しているのは本当です。

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