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はじまりの島で君を待つ  作者: かじかけい
7/17

テンプラにするととても美味しい

 今朝はカスミさんに顔を踏まれる前に目が覚めた。

 布団を片付けている俺を見たカスミさんが、残念そうに去ってゆく。手には特種警棒。何をするつもりだったのか。

 御諸山に戻った俺たちは、騒動前の日常(俺にとっては依然非日常)に戻った。祭主様は神宮に戻り、茉菜は夏休みの間ここで寝食を共にすることになった。住み込みで修行をするのだ。部屋は日当たりの良い六畳間。俺は依然台所横の三畳間。これが主人公と脇役の差である。

 それでも俺は「姫巫女様格別の計らい」により戸籍を得ることができた。そしてこの世界の御諸山高校に編入することになった。今は夏休みなので編入は二学期からとなる。できればそれまでに何かしらの物語の進展と決着をを望みたい。

 鶏小屋の掃除をしながらカスミさんが言った。

「いいですか。この屋敷における彰人の立場は下男です。これをよくわきまえること」

「げなん?」

「下働き、使用人、下僕、(はした)もの、奴隷。この屋敷の最下層にあることを自覚しなさい。この(にわとり)と同等です」

 鶏と同等。タマゴが産めなくなったら絞めるぞってことだろうけど、施設に放り込まれるという最悪の事態は避けられたのだ。それよりはマシと考えることにしよう。

「なのにあなたは相も変わらず姫巫女様のことを『サヨリさん』などと……」

 カスミさんが何かに気付き作業の手を止めた。鶏小屋から出ると畑に向かって叫んだ。

「兵長! そこで何をしているのですか!」

 トマトの影から戦闘服を着た男が姿を現した。背中には小銃。

 結界の無くなったこの屋敷を、兵隊さんが二十四時間警備することになった。1分隊という単位の兵隊さんが社務所の一角で寝泊まりし、交代でこの屋敷を警備しているのだ。ただし警備しているのは畑に繋がる林道から参道、そして社務所のみ。屋敷そのものと上流の滝壺は、山と崖に囲まれた自然の要塞となっており、警備の必要はないらしい。また屋敷にはアンテナが設置され、高速回線が使えるようになった。

 兵隊さんが答えた。

「中尉。見事なトマトですね!」

 あからさまにイラッとしたカスミさんが畑に向かいながら言う。

「何をしているのかと聞いているのです。あなたの持ち場は林道入口でしょうに!」

「すみません。田舎が農家なもので、立派な野菜を見るとつい……」

「つい、とは何なんです、ついとは! あなたはそれでも……」

「トマトは水のやり方が難しいんですよねぇ。葉が少し萎えるぐらいが、甘みが増し美味しくなるんだけど、少なすぎると実が育たないし。このトマトは絶妙ですよ」

「……」

「しかも無農薬とは。なかなか出来ることではありません」

「……わかりますか?」

「わかりますよ。中尉も実家が農家なのですか」

「信濃で代々野菜を作っていました。兵長は?」

「自分は磐城であります」

「福島? 何を作っているのです?」

「桃と野菜を」

「桃! あれは手間がかかるとか?」

「手間もそうですが、台風や嵐の……」

 あのふたり、何をしているのだろう。


 俺が畑仕事と鶏小屋の掃除を終えたころ、茉菜もこの日の修行を終える。一緒に昼食を摂り、小休憩を挟んだあとの三時間は勉強会となる。

「学生の本分は勉強である」

 これを条件にお父さんは茉菜の泊まり込み修行を許可したのだ。

 参加するのは茉菜と俺と、わざわざこの為に御諸山に登ってくる溝口。通年の入山許可証を発行して貰ったとはいえ、毎日やってくる溝口の下心には頭が下がる。

 一区切り付いたところで溝口が言った。

「宮路、修行は進んでいる?」

「うーん。どうだろう」

「と言うと?」

「滝行と瞑想が中心で、あとは神道の基礎を教わるだけだから」

「ずいぶんのんびりしているんだな。そんな悠長なことで大丈夫なの」

「姫巫女様が急ぐ必要ないって」

 サヨリさんは茉菜に無理させたことを猛省したらしい。千里視はいったんお預けにし、時間をかけ修行させる方針に転換したのだ。そもそも捜査は警察の仕事である。千里視というオカルトめいた手段が有効なら、それはそれで警察の捜査そのものの根幹に関わる問題にもなる。警察もその威信をかけ必死に探しているのだ。

「でも単調すぎて最近ちょっと集中力に欠くというか。姫巫女様にも『おまえは煩悩の塊のような女だな』って言われちゃうし。あーあ。ブナタロウ、今頃どうしてるかなぁ。お母さん、ちゃんと散歩させてるかな。あの子、わたし以外の言うこと全然聞かないからなぁ」

 小学生の頃から共に育ってきた茉菜にとって、ブナタロウは特別な存在である。だが御諸山はペットの持ち込みが禁じられているため、当然ブナタロウの入山は許されない。

「ところでさ。ここだけの話だけどさ。宮路ってやっぱあれか。祭主様みたいに、神様の生まれ変わりなのか?」

「うーん。あまり話すなって言われているの」

「姫巫女様も九州の出だろ? 関係あるのか?」

「ごめんね。やっぱり話せない」

「えー? だからここだけの話って言ってるじゃん。教えろよぉ」

「だからダーメ」

 その傍らで俺は日本史の教科書に目を通していた。茉菜の物語に参加するため、この世界の基礎知識・常識を身につけるのだ。歴史を学ぶことはその第一歩。しかし今の「だからダーメ」のイントネーション。なんかバカップルぽいよなぁ。これが本当にこの物語の主人公なのかねぇ。

 縄文時代から古墳時代にかけてはほぼファンタジーだった。古事記に書かれている神話に、無理矢理年号を当てはめたような歴史なのだ。

 室町時代までは俺の世界とあまり変わらないように思える。戦国時代からは微妙に異なり、関ヶ原の戦いでは織田信忠と徳川家康が戦っている。しかし勝ったのは家康なので結果は同じ。

 幕末も俺が知るものと随分違う。幕府の呼びかけで諸侯会議という日本初の議会が誕生し、ゆるやかで平和的な明治維新が行われた。そのぶん大政奉還はあとの時代に大きくずれ込んだ。このため日本は日露戦争においてロシアに後塵を拝したのだ。

 だがその後日本は大きな戦争には巻き込まれていない。ふたつの大戦も呼び名が第一次欧州大戦・第二次欧州大戦と表記されている。第一次欧州大戦において日本皇国は……。

「姫巫女様からの差し入れです」

 お盆を持って現れたのはカスミさんだった。サヨリさんから「様子を見てこい」とでも言われたのだろう。

「あ、わらび餅!」

 喜ぶ茉菜だったが直ぐに「あれ?」と言った。

「カスミさん。ふたり分しかないですけど?」

「彰人にはその辺の野草でも与えておけば充分でしょう」

 あんまりだ。

「でもカスミさんの分も無いじゃないですか」

「私はこの勉強会には関係ありませんから」

「そんなこと言わずにカスミさんも一緒に食べましょうよ」

 ふたつのわらび餅を四人で食べることになった。


「中尉さんは、どのような経緯で近衛師団に入られたのですか」

 興味津々に尋ねるのはもちろん溝口。

「近衛師団? ……ああ、まぁ、いろいろあって」

「失礼ですが士官学校は……」

「出ていません」

「けど、士官学校を出ていないのに、その年齢で中尉っておかしくありませんか? なにかもの凄い軍功を上げたとか?」

「それは……」

「溝口君、やめなさいよ。カスミさん困っているじゃない」

「だって気になるじゃん。宮路も見ただろ? 5人の武装兵をあっという間に……」

 あっという間に叩きのめした瞬間は誰も見ていない。噂って言うのはこうやって変化しながら拡散して行くのだろう。

「カスミさん」と俺。

「なんです?」

 俺は数学の教科書をカスミさんに差し出した。

「見ますか?」

「教科書がなにか?」

「さっきからテーブルの上の教科書を見ていたので、興味あるのかなと思って」

「……案外目ざといのですね彰人は」

 カスミさんは素直に教科書を手に取った。そしてパラパラとページを捲り「ずいぶん難しいことを学んでいる」と感心したように言った。その表情を見て俺ははたと気が付いた。この人ってひょっとして……。

「関数はやっておいた方がいい。砲弾の軌道計算に役立ちます」

 そう言いながら熱心に教科書に目を通していた。


 勉強会が終わったあと俺は滝壺に向かった。やはり滝の上流がどうなっているのか一度確認してみたかった。だがけして沢に飛び込むためではない。冷静に考えてみれば、この世界に来たのは空が光ったことが原因だ。その現象のヒントがこの上流にあるかも知れない。今はそう考え滝壺に向かっている。なのに溝口と茉菜、そしてカスミさんまでが着いてきた。

「だからもう沢に飛び込んだりはしないって」

「いいや、キミのことだ。絶対何かしらの無茶をする」

 滝の脇の斜面を登ってみる。だが所々苔むしており、半分も登ることができなかった。側面の山から登ろうにも雑木林が邪魔をしてやはり登れない。

「この世界、ドローンって無いのか?」

「ドローン? ドローンって空軍で使っている無人機のことか?」

「え? いや、ほら、無線で操縦する小さい飛行機、ヘリコプター」

「……ラジコンヘリのこと?」

「それ、ラジコン!」

「キミの世界ではラジコンヘリのことをドローンって言うのか。随分マニアックな言い方だな」

 そう言えばドローンとラジコンヘリの違いってなんだろう。

「で、ラジコンってあるの?」

「あるよ。あるけどそれでどうするんだい?」

「滝の上を撮影するんだ」

「空撮用のラジコンヘリなんて、借りたら十万円単位で金がかかるぞ。それにこれだけ枝が張り出ていては飛ばせないよ」

「だからドローンならこの程度の枝は……」

「カスミさんは登ったことないんですか」と茉菜。

「もちろんあります」

 え?

「山菜を採りに時々。春にはこごみが採れます。テンプラにするととても美味しい」

「なんで言ってくれなかったんですか?」

 俺が訪ねるとカスミさんは怪訝な表情を浮かべ答えた。

「聞かれなかったからです」

「……」

 これは大和川の源流のひとつで、上流には木々に覆われた渓流が続いているという。梅雨時以外、人が流されるほどの深さと水流は無いらしい。また転落するような崖はないとカスミさんは断言した。


 翌日俺はカスミさんと共に街に出かけることになった。収穫した野菜の販売と、日用品・コメ・乾物等の買い出しが目的だ。山から野菜をおろし、神社から借りた軽トラの荷台に乗せる。野菜運びに二人で1往復した。この時点でけっこうな重労働だが、カスミさんは今までこれを一人でやっていたという。軽トラの運転はもちろんカスミさん。農家に嫁いだ幼妻って感じで妙に様になっている。

 車窓から街中を眺める。もともと田舎街だが、さらに田舎っぽく感じた。コンビニや自動販売機が全くないのだ。この近辺に暮らす人はコーラ一本買うにも、駅前か神社周辺にあるお土産屋さんまで行かなければならない。なんて不便な世界。

 訪れたのは「スーパーなむち」。スーパーというより田舎の道の駅って雰囲気の店だ。俺の世界のスーパーは常時棚に物が溢れているが、ここは商品もまばらで品数が少ない。レジもスキャナーではなく手打ち式。

 持ってきた野菜はここで委託販売して貰っている。前回委託した野菜の売り上げを、今回の買物から引いて貰う仕組みだ。カスミさんの作る野菜は評判が良く、高く売れるんだとスーパーなむちの店主は喜んでいた。

「あ、カスミさん、それちょっと見せて貰えますか」

 一万円と書かれた紙幣に、見知らぬお爺さんの肖像があったのだ。

「これ、誰です?」

「三柏商会の創業者、坂本龍馬直柔伯です」

 福山雅治って長生きすると、こんなしわくちゃになるんだ。

 五千円札、千円札、五百円札の肖像に、知っている人はひとりもいなかった。


 買い物を終え神社まで戻ってきた。荷台の買物を「雑嚢(ざつのう)」に詰め込み山を登る。畑まで戻ってきた頃には太股がパンパンに張っていた。

「中尉」

 カスミさんに声をかけたのは、警備隊の隊長さんだった。最年長の曹長さんである。曹長は下士官では一番上の階級だという。その横には先日トマトを褒めていた兵長さん。

「買い物ですか。言って頂ければ非番の若い者を行かせましたのに」

「いえ。公私混同は良くありません。みなさんは警備に専念してください」

「しかし近衛師団の将校が買い出しとは。権威を損ないませんか」

 そう言った隊長さんの口調には皮肉がこもっていた。

 近衛師団は精鋭であり、赤いラインの入った階級章を身につけることは兵士の憧れという。その憧れの階級章を女子高生のような少女が身につけている。しかも将校である。溝口も言っていたが普通にはあり得ないことらしい。たたき上げと思われる曹長さんには思うところがあるのだろうけど、正直大人げない。

 それを無視し屋敷へ向かおうとするカスミさんに、今度は「中尉殿」と声をかけた。あまりにもあからさま。

「中尉殿は格闘戦のエキスパートと聞きました。5人のテロリストをひとりで倒したとか。一度その技をご教授願えませんか」

「曹長、止めてください。問題になりますよ」

 当惑するトマト兵長さん。

「訓練の申し出をしているのだ。なんの問題がある?」

「しかし……」

「中尉殿。逃げるのですか」

 カスミさんが立ち止まり小さくため息をついた。何かしらのけりを一度付けなければならないと思ったのだろう。

「時間がないので、今ここでも構いませんか?」

「望むところです」

 曹長さんが不敵な笑みを浮かべ、携帯していた武器を兵長さんに渡す。そして戦闘服の上着を脱いでタンクトップ姿になった。美術室の石膏像を思わせるムキムキな肉体。身長は175センチメートル程度だが、身体の厚みはカスミさんの倍はありそう。カスミさんも背負っていた雑嚢を俺に押しつけると、隊長さんの元へ向かった。その足取りに緊張感はない。

 曹長さんが腰を落とし構えた。カスミさんは2メートル半ぐらいの距離で立ち止まると、少しだけ腰を落とした。曹長さんがジリジリと距離を詰める。そして牽制のためだろうか。右手を前にスッと出したとき、ドンっと低い音がして曹長さんが片膝を付いた。

 カスミさんがバネのように弾け、曹長さんの胸に掌底を食らわせたのだ。それは全くのノーモーションで、曹長さんは反応する間すら無かった。素人目にもこれが技以前の問題であることがわかる。身体能力そのものの次元が違うのだ。人間離れしたそのスピードは、まさに格闘ゲームの美少女キャラ。もしくは蟷螂(かまきり)

「どうします? 続けますか?」

 カスミさんの問いかけに、曹長さんは胸を押さえ無言で首を横に振った。額に脂汗。

「曹長、深呼吸。深呼吸です! 息をして!」

 トマト兵長さんが曹長さんの背中を叩く。

 屋敷に戻るとカスミさんが袋入りのパインアメと、小さなスケッチブック雑嚢から取りだし「野菜を運んで貰ったご褒美です」と俺に渡した。

「え? 貰っていいんですか?」

「たまには文字通りのアメも必要でしょう」

 丁寧語なのに毒舌。華奢に見えて屈強な忍者。

 野菜作りの得意な、女子高生のような見た目の将校さん。

 そんな矛盾の塊からの初めてのご褒美。

 すごく嬉しい。俺が犬だったら、きっと死ぬほど尻尾を振っていたに違いない。俺を手懐ける策略としては大成功。


 翌朝。いつものように畑仕事に精を出す。野菜の成長を日々目にするのが楽しくなってきた。葉も枝も実も蔓も、そして土も、昨日と同じ物はなにひとつないことに気が付いたからだ。

 カマヘビを見つけた。トカゲとヤモリの中間みたいなやつ。害虫を食べる益虫だ。子どもの頃、こういったものを捕まえるのが結構得意だった。それを思い出し、ちょっと捕まえてやろうかと思ったところ、カマヘビがパクッと何かを咥えた。見るとイモムシである。しかも自分の頭と同じぐらいのサイズのイモムシ。こんなもの、どうやって飲み込むつもりなんだろう。興味津々に眺めていると、カスミさんが(ささや)くような声で俺の名を呼んだ。

 また怒られるのかと思い顔を上げると、カスミさんの視線は俺に無く、俺の背後にあった。振り返ろうとしたら「動くな」と言われた。

 その顔には緊張の色。昨日曹長さんを相手にしたときとはまるで違う。

 背中に冷たいものが走る。まさかヴリル協会? ナチス? 武装した兵隊が守っているのに、ここまで登ってきたのか? 物音も立てずに?

 カスミさんが懐に手を入れクナイを取り出す。クナイは忍者用のサバイバルナイフで、武器と言うより道具に近い。いくらカスミさんが強くても、遮蔽物のないこの畑で銃を持った連中に囲まれては勝ち目がない。雷を落とすことができる祭主様も今日はいない。

 クナイを構えるカスミさんの顔が恐怖に歪んだ。突然後ろに二メートルほどジャンプすると、そのまま鶏小屋に駆け込み戸を締めた。

 え?

 俺を置いて逃げた? それとも何かの作戦か? そうだ作戦に違いない。カスミさんは口は悪いが根は優しい。仲間を見捨てるような真似は絶対しない。あの安川さんでさえ助けたのだ(過ちだったけど)。

 間近に何かの息づかいが聞こえた。俺の真後ろだ。すぐ後ろにいる! やっぱりカスミさんは俺を置いて逃げたのか? 最悪だ! ちょっと尊敬していたのに。ちょっと好きになりかけていたのに! 後ろからドンと突き飛ばされた。頭からナスに突っ込む。そして結構な体重が俺を地面に押しつけた。これで俺の物語は終わり? 最期に見たものがカマヘビの捕食行為? なんかそれ、マジ最悪。

 ちくしょう、ただでは死なないぞ、指の一本でも食いちぎってから死んでやる! と力の限り振り返ったところ、俺の視界が真っ白なものに覆われた。そして生暖かく湿ったものが俺の顔を「ぺろり」と舐めた。

「な、なに?」

 灰色の瞳が俺を見つめていた。

 それは茉菜の飼い犬のブナタロウだった。

「なんだよぉー、おまえかよぉ。心臓が止まるかと思ったぞ!」

 よほど茉菜が恋しかったのだろう。家を抜け出し茉菜の匂いを辿ってきたに違いない。茉菜もブナタロウに会えないと寂しがっていたし。ふたりは姉弟同様の関係なのだ。

 ……。

 鶏小屋に目を移す。鶏小屋の隙間から、カスミさんがこちらの様子を伺っていた。顔面蒼白で。

 

「ブナタロウ!」

 茉菜がブナタロウを抱きしめ頬ずりする。

「よくここまで登ってきたね! 社務所で止められなかったの?」

 3メートルほど離れた位置からカスミさんが言った。

「これは由々しき問題です。警備に隙があったと言わざるを得ません。早速体勢を見直さなければ!」

「カスミさん。犬の一匹や二匹、どうと言うこともないでしょう?」

「彰人! ここは不浄(ふじょう)なケモノの立ち入りは許されません。とっととそのイヌを街に返してきなさい!」

不浄(ふじょう)なケモノだなんて酷ーい。ブナタロウは家族なんだよ」

 茉菜がカスミさんを睨む。それに賛同するようにブナタロウが「ばう」と吠えた。カスミさんがさらに3メートル後退した。

「いま(いぬ)の声がしなかったか?」と現れたのは我田引水の四文字が書かれたTシャツを着たサヨリさん。ブナタロウを見て目を丸くした。

「これはまたでかい(いぬ)だな!」

「姫巫女様申し訳有りません、今すぐこのケモノを山から降ろしますので……」

「茉菜。これがおまえの言っておった飼い(いぬ)なのか?」

「ブナタロウって言います。見た目は厳ついですけど、頭さえ触らなければ大人しくて良い子なんです」

 サヨリさんはブナタロウの側にしゃがむと、その目を見つめた。ブナタロウも一頻りサヨリさんを見つめると、サヨリさんに向かって頭を下げた。ブナタロウの頭をそっと撫でるサヨリさん。ブナタロウは気持ちよさそうに眼を細めた。

「さすがは姫巫女様です! わたし以外ではふたりめですよ、大人しく頭を触らせたのは」

「ホロケウカムイは気高(けだか)いからな。ふつう人に頭を触らせたりはしない」

「ほろけう?」

「ホロケウカムイとはエゾオオカミのアイヌ名だ。しかも全身白毛とは珍しい。初めから白大神(しろおおかみ)と言ってくれたなら歓迎したものを」

「おおかみ? ブナタロウはただの雑種犬(ミックス)ですけど」

「知らずに飼っておったのか」

 この世界の日本には、ニホンオオカミとエゾオオカミの二種類のオオカミが住む。本州・四国・九州に生息するのがニホンオオカミ、北海道・千島・樺太に生息するのがエゾオオカミ。野生種はいずれもその数を減らしているが、動物園において繁殖に成功しており絶滅は免れている。近年はその繁殖オオカミをペットにする富裕層も少なくないが、エゾオオカミは気性が荒く飼うのが難しいと言う。ブナタロウはそのエゾオオカミらしい。

「これを拾っただと? 白大神(しろおおかみ)は古来より神の使いとされる。捨てる人間がいるとは思えないが」

「へぇー、おまえはオオカミだったんだね。どうりで強そうなわけだ」

 茉菜がまたブナタロウを抱きしめた。

 クルマにはねられ死んだ俺のブナタロウもオオカミだったのだろうか。俺の世界ではニホンオオカミは絶滅したはず。けどエゾオオカミはどうだったっけ? 記憶にない。

「とにかく!」

 6メートルほど離れた位置からカスミさんが叫んだ。

「彰人! そのケモノを茉菜さんの家まで送り届けなさい!」

 俺の代わりにサヨリさんが答えた。

「カスミ。これはただの(いぬ)ではない。白大神だ。三顧の礼を持って迎えようではないか。イノシシ除けにもなるぞ」

 ブナタロウもここで暮らすことになった。

 歓喜する茉菜。

 悲痛な表情を浮かべるカスミさん。

 このあと御諸山を警備する兵隊さんたちに対するカスミさんの態度があからさまに厳しくなった。「鍛え直す」との名目で「格闘戦の実技講習」が頻繁に行われるようになった。それは「とても実戦的な内容」で苛烈を極めた。隊長さんはこれを自身の非礼に要因があると考え正式に謝罪したが、これが聞き入れられることはなかった。


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