訳のわからない言葉で誤魔化さないで!
─ 彰人、起きなさい。彰人 ─
眠いんだ。母さん、もう少し寝かせてくれよ。今日は日曜、休みだろ……。
母さん? そうか。なんだよ、やっぱり夢かよ。
そうだよなぁ。そんなことあるわけないもんなぁ。
目を開けるとそこにいたのは夕べの女の子「宮路茉菜」だった。
茉菜はムッとした表情で俺に言った。
「誰が『母さん』よ。やめてくれる?」
「ごめん。声がちょっと似ていたので」
やっぱり現実なのか。胃の奥に重たいものを感じた。
「そう言えばあんたの声、ウチのお父さんにちょっと似ているかも」
「ウチのお父さん、ねぇ……」
ここは公園内にある小さな道具小屋の中。「壊れかけていた鍵を少々いじっていたところ、偶然にも扉が空いてしまった」ので一晩厄介になったのだ。おかげで蚊の襲撃からは逃れられたが、床で寝たため体中が痛い。
外に出て背伸びをする。ブナタロウが俺を見てシッポを振った。茉菜はブナタロウの散歩ついでに俺の様子を見に来てくれたらしい。
「はい、これ。お腹空いているでしょ? またバチって来たら嫌だからここに置くよ」
茉菜がベンチの上に茶色い紙袋を置いた。中を覗くとサンドイッチと紙パックの牛乳が入っていた。
「俺、一円も持っていないんだけど」
「そのぐらい奢ってあげるわよ」
「ありがとう。助かる。超感謝」
「ちょうかんしゃ?」
茉菜が変な顔をしたが、俺は構わずサンドイッチの包み紙を破くと、口一杯にほおばった。美味い。こんなに美味いサンドイッチは人生初めてだ。ただのタマゴサンドなのに!
「ヤバい。超美味い」と思わず口にすると「え? 美味しいの、美味しくないの? どっち?」とまた変な顔をした。
無心にサンドイッチにかぶりつくこと数分、視線に気が付き顔を上げると、茉菜が俺をマジマジとみていた。
「なに? 俺の顔に何か付いている?」
「わたしが男に生まれたら、こんな感じなんだぁと思って……」と呟いてから急に顔を赤らめ「い、言っておくけど、あんたの言うこと百パーセント信じたわけじゃないんだからね! 奢ってやっているのも騙されていること前提なんだからね! だから騙されている内に入らないんだからね!」
こいつ、ツンデレ? 俺って女に生まれるとツンデレになるのか。
なんか嫌だなぁ。
俺が推測するに、ここは「パラレルワールド」とか「平行宇宙」とか呼ばれる世界。俺が住む世界とは異なる可能性を歩んでいる時空。
この世界では五年前に死んだはずの飼い犬ブナタロウが生きている。そして俺は女として存在している。名前は宮路茉菜。しかも男の俺と同時に存在している。SFではこういうとき、宇宙のバランスが崩れるとか、ややこしい話になりそうだけど、今はふたりが普通に会話をしている。年月日に変わりはなく現代。夕べは小一時間、茉菜の尋問を受けた。
茉菜は彼女しか知らないであろう事柄で俺を質問攻めにした。質問はブナタロウの名の由来から両親の仕事や趣味、癖にまで及んだ。大まかには一致したようだが、性差が両親との関係を微妙に変化させているようで、知らない事柄も多数あった。それでもサンドイッチを奢って貰えるまでの信用を得たのは、やはりブナタロウの存在が大きい。この白犬が居なければ今頃俺は空腹に耐えかね、近所の畑から野菜をくすねていたに違いない。ちなみにブナタロウは父方のひいひいお爺さん「橅太郎」からとった名前。なぜか小学生の頃にはこの名前がイケてると思ったのだ。
「おまえも美術部って言ってたよな?」
「そうよ……って、『おまえ』って気安く呼ばないでくれる?」
「おまえだって俺のこと『あんた』って呼んでいるじゃないか」
茉菜がため息をつく。
「あーあ、なんかがっかり」
「なにがだよ」
「想像していたのと違う。こんな屁理屈いう男だなんて。男のわたしはもっと格好良いはずなのに」
「その言葉、ソックリそのまま返す」と思ったが、ここは立場上言葉を飲み込み「悪かったな」と返答した。現在この世界において頼れる人間は、この茉菜をおいて他にいないのだ。
正直、茉菜の見た目は普通だ。美人でなければ不細工でもない。誰だって一度ぐらい、今とは異なる性に生まれた自分を想像したことがあるのではないだろうか。「もしも女に生まれたなら設定」の俺は、当然男が放って置かない美少女である。そしてそこそこの巨乳だ。なのに茉菜はあまりにも普通すぎる。そして胸回りは寂しい。なんかとても残念だ。
俺は話を美術部に戻す。
「美術部の同級生は誰? 溝口はいる? 同じクラスの」
「いるよ、溝口くん」
茉菜が即答した。声が若干嬉しそう。なんだこの反応は?
「溝口くんとは仲良いの?」
「うん。中学からの付き合い……『くん』ってことは、溝口はここでも男なんだ」
「そうだよ。……そうだ、答え合わせしようか。美術部の顧問は山崎先生、男。合ってる?」
「うん、男だ。やっぱりこっちの山崎先生も言うの?」
「なにを?」
「ほらあれ。自然は芸術を……」
「自然は芸術を模倣することを証明せよ! そっちでも言うんだ!」
茉菜が笑った。なんだ、笑うとそこそこ可愛いじゃないか。俺もけして捨てた物ではないな。茉菜が続ける。
「森岡は女」
「森岡って誰?」
「同じクラスの森岡由佳だよ」
「同じクラスに森岡なんて名前のやつ、いない」
「へぇー。別のクラスにいるのかな。それとも別の高校?」
人間そのものの配置も異なるようだ。男女によって進学の考え方も違うのだろう。食事を終え、水飲み場で顔を洗い、人心地。
「あんた、これからどうするの?」
「サヨリさんの所に行く」
「本当にそのサヨリって人のせいなの?」
「わからない。でも昨日来た道を遡る以外、俺には何も思いつかない。必要なら滝を登り、沢を登り、また飛び込む」
「溝口くんに相談したら? 彼、SFとか詳しいわよ」
「溝口に?」
確かに溝口はSFチックな事柄に詳しい。いわゆるオタクというやつだ。アニメ一本見るのに、その作品の背景にある文学作品まで読み込む筋金入りである。しかし所詮は素人。溝口がいたところで何が出来るというのだ。そもそも俺の言うことを信じないだろう。それに知っている人間に他人として扱われるのは結構つらい。昨日の「母さん」のあの目は、今思い出しただけでもへこむ。
「時間が惜しい。今からサヨリさんに会いに行く。直ぐにでも会いたい」
「わかった。じゃ、わたしも着いていく」
「え? いや、気持ちはありがたいけど、サヨリさんってけっこう物騒なことを言う女だぞ。それに忍者みたいな変な女もいる」
「ますます興味が出て来た。このまま去られたら、あんたが言っていることが本当なのか嘘なのかわからずじまいになるわ。サンドイッチの代金分、付き合わせて貰うし」
「わかったよ。好きにしてくれ」と答えながら「ああ、コイツって本当に俺なんだ」と感じた。ものの考え方が全く同じなのだ。逆の立場だったら俺も同じセリフを言ったに違いない。
「ちょっと待ってて。ブナタロウを家に帰してくる。勝手に居なくなったら撲つからね」
茉菜がブナタロウを連れ公園から出て行った。
居なくなったら撲てないじゃんと思いつつ、日が昇った街を見回す。見たことのない建物がいくつかあった。昨日感じた違和感はこれか? いや、これだけではない。なんだろう?
しばらく観察して気が付いた。
家々にある自家用車が全て九十年代風デザインのセダンで、ミニバンが一台も見当たらない。テレビアンテナがVHFとUHFだけで、パラボラアンテナが見当たらない。公園前のコンビニは昔潰れたパン屋のまま。その隣には電話ボックス。電話ボックスなんて俺の世界ではとうの昔に撤去されているものだ。この世界って……。
「お待たせ。さ、行こうか」
茉菜が戻ってきた。
神社への道中、聞いてみる。
「なぁ、おまえ、ケータイとか持ってる?」
「ケータイって何?」
「携帯電話だよ」
「けいたいでんわ?」
茉菜がまた変な顔をした。なんだよ、この世界ケータイないのか?
「懐中電話ならあるけど? でも高価で学生が持てるような物ではないし、この付近は電波が届きにくいから持っていてもあまり意味ないわよ」
「懐中電話? なんだよそれ。懐中電灯みたいだな」
笑う俺に茉菜が言った。
「おかしいのはそっちでしょ。懐中電灯って言い方があるなら、どうして電話だけ携帯になるの? 懐中電灯、懐中時計、懐中電話。これが自然でしょ。それに日本語として略し方がおかしいでしょ、ケータイって。考えた人、頭悪いんじゃないの?」
懐中電話って呼び名はどうかと思うが、たしかにケータイという略し方はおかしい。電話を指し示す文言が全く残っていない。正しく略すなら「ケーデン」か? でもなんか電車っぽいな。
この世界、どうやら情報通信機器の整備が遅れているようだ。
そう言えば茉菜のしゃべり方は、俺の世界の女子と比べるとちょっと変わっている。端的に言うと妙に女っぽい。「よ」や「わ」と言った女言葉を多用する。昔のドラマや邦画を見ているようだ。情報通信機器の整備が遅れると流行の進み方も遅くなるのだろうか。
「あんたの世界では学生が懐中電話を持っているの?」
「ああ。高校生ともなれば持っているのが多数派だな。あ、そうだ。壊れちまったけどこれが俺のケータイだ」
ポケットからスマホを取りだし茉菜に見せる。
「それが懐中電話?」
「ああ。スマホ……スマートフォンっていうんだ」
茉菜が立ち止まった。
「ん? どうした?」
「あんたわたしを馬鹿にしているでしょう」
すごい形相で俺を睨みつけた。
「え? 何が?」
「それ、ゲーム機か何かでしょ? そんなものが懐中電話であるわけないわ! ボタン一個でどうやって電話するのよ! あんたやっぱり詐欺師かなんかでしょ!」
ああ。ここ、スマホがないのか。
「これはタッチパネルって言って、指先で画面を触れるだけで操作出来るんだよ。だからボタンが少なくて済むんだ」
「そんな空想科学映画みたいなこと出来るわけないでしょ!」
「マジかよ。ここってそう言う次元なの? どんだけ遅れてるんだよこの世界。ここってマジ二十一世紀なの?」と言ってから「しまった」と思った。
こんな言い方されたら俺は間違いなく「キレる」。
「このペテン師! 詐欺師! 警察に通報してやる!」
やっぱりキレた。
この世界において俺は未成年の身元不明者だ。補導でもされたら施設の類に放り込まれるかもしれない。そうしたらサヨリさんと会えないどころか、元の世界に戻れなくなってしまう。
「ごめん。悪かった。馬鹿にするつもりはなかったんだ。でもこれマジ、携帯電話なんだ。色んなアプリを入れることで、色んな使い方ができる多機能電話なんだよ。音楽も聴けるし、LINEも出来るし、動画も撮れてゲームだってできる」
「そんなドラえもんみたいな道具、現実にあるわけないでしょう! アプリって何? ラインて何? それにマジって何よ? 訳のわからない言葉で誤魔化さないで!」
スマホの概念そのものがないのか。と言うことはSNSの説明なんかするだけ無駄? しかしさすがは藤子不二雄先生。この世界でもご成功されているようだ。
「いや、あるんだってば」
「じゃ、なんかやってみせなさいよ!」
「だから今は壊れちゃって……」
「嘘つき!」
ヤバ。俺を見る茉菜の目つきが不審者を見るそれに変わっている。ここは茉菜を見限って、このまま神社まで走って逃げるか? いや、この世界における「唯一の味方」を失いたくない。サヨリさんと再会できるかどうかまだわからないのだ。夕べに引き続き、俺は俺自身の説得を試みる。
「茉菜、聞いてくれ」
「呼び捨てにするな! 気持ち悪い!」
「茉菜さん。冷静に、自分自身に置き換え考えてみてくれ。茉菜さんが人に嘘をつくとき、もっと現実的な嘘をつかないか?」
「? なに言ってるの?」
「俺が仮に詐欺師だとして、もし茉菜さんに今の俺の話が突拍子のないものに聞こえるとしたら、俺は詐欺師として失格だ。スマホなんて見せなきゃ済む話だ。そうは思わないか?」
「……」
「俺の世界におけるケータイ……懐中電話は単に電話ができるだけじゃなく、社会のインフラとして欠かせない道具なんだ。メール……電子メールで文章や画像を送ったり、通販サイトで買い物をしたり、ナビ……いや、人工衛星で位置情報を確認できたりもするんだ」
「……人工衛星? まるで軍隊みたい」
「軍隊?」
「前にテレビで、軍隊ではそんな技術が使われているって話を聞いたことがある。特にドイツは進んでいるって。それってドイツ製なの?」
「いや、これはアメリカ製。組み立ては台湾か中国かどこか……のはず」
「アメリカと台湾? 環太平洋諸国連合製品ってこと?」
かんたいへいようしょこく……? 聞いたことがないがここは話を合わせておこう。
「うん、そんな感じ」
「わかった。いいよ。騙されていること前提で付き合ってあげる。ブナタロウを見て流した涙に免じて。でも勘違いしないで。わかって騙されてやっているんだからね! ちょっとでも変なことしたら警察に通報するからね!」
やっぱりツンデレだ。
大鳥居をくぐり、神社の境内入り口まで来た。
「え? サヨリって人の家、御諸山にあるっていうのは御諸山の上にあるってこと?」
「うん。だから初めからそう言っているじゃん」
「そんな馬鹿な! ご神体たる御諸山に人が住んでいるなんて聞いたことがない!」
自分で自分を説得するのにも、なんか疲れてきた。
木陰から境内の様子を伺う。今日は日曜なので早朝にもかかわらず、大勢の参拝客がすでに社務所廻りにたむろしている。これは困った。
「人がいなくなるまでここに隠れているつもりなの? 日が暮れるわよ。ここは正々堂々、入山申請して登れば? 名前と住所書くだけだし、参拝料ぐらいわたしが払ってあげるわよ」
「入山申請した人間が山から戻らなかったら、大捜索になって迷惑が掛かるだろ」
「あ、なるほど。あんた頭良いね」
俺のくせして俺ほど頭は回らないようだ。ちょっとだけ優越感。
そこに団体の参拝客が境内に押し寄せて来た。俺の世界においてこの山は、近年パワースポットとして若者に人気だ。しかしこっちの世界では老若男女の支持を集めているらしい。俺たちはこれに紛れ込むことにした。作戦は功を奏し、誰に咎められることもなく登山道に入ることが出来た。
「わー、ここ登るの何年ぶりだろう。たしか……」
「小学校の野外授業以来。郷土史の授業」
「そうそう。この辺は道が整備されていて登りやすいけど、中腹からは結構急で泥だらけで……。そこまで登るの?」
「いや、途中で林道に入る。けどそこから先はちょっと自信がない」
「結界?」
「うん。結界」
「なんか漫画っぽいなぁ結界って。凄く嘘くさい」
また胡散臭そうな表情を浮かべた。でも大丈夫。茉菜を、俺自身をコントロールするのはチョロい。ひと言こう言えばいいのだ。
「無理しなくていいよ。しんどかったら引き返せば?」
「付き合うわよ。ここまで来たんだから。最後まで付き合ってあげる」
ほらね。俺って根は良い奴なんだ。
途中で登山道を外れ林道に入る。そこをさらに登ること三十分。額に汗がにじんできたころ、カスミさんと別れた雑木林にたどり着いた。
「え、ここ?」
「うん。多分このあたり」
「何もないじゃないの!」
「何もないね。けどたしかにここに小川があったんだ」
「うーむ。なんか考えていたのと違う」
またか。
「社とか鳥居とかあると思ってた?」
「うん。思ってた。なのにただの汚い雑木林。どうすんのよ、これ」
「捜す」
「なにを?」
「手がかりを」
雑木林は立つのも困難な急斜面にあった。少し踏み入ってみる。深く積もった落ち葉に足が埋もれた。小川はおろか人の歩ける道さえない。そもそも結界とは物理的に柵や壁を設けたものをいう。呪術的な結界も聖域に悪魔や物怪が入り込まないためのお呪い(おまじない)であり、漫画やアニメみたいな「バリヤー」があるわけではない……というのを前に溝口に聞いたことがある。ひょっとして俺は何かしらの暗示を掛けられているのだろうか。カスミさんとここで別れたように思い込まされているだけなのだろうか。
「ねぇ! 何かあったぁ?」
「いや」
茉菜が待つ林道に戻る。困った。サヨリさん以前に小川さえ見つけることができない。ここは一度下山して裏の林道から登り直すか。あの沢を見つけ、そこに再び飛び込むのだ。だがどこをどう歩いて沢にたどり着いたのか全く記憶にない。とてもたどり着けるとは思えない。たとえ見つけ飛び込んだとしても、今度は本当に溺れ死ぬかもしれない。沢を捜し、飛び込むのは最終手段として考えた方がいい。
「あ」
茉菜が少し林道を上ったところでしゃがんだ。
「ほら、ここ。地面が少し削れている。石に新しい泥が付いている」
「これは……」
昨日カスミさんに尻を蹴られ、つまずいて転びそうになった石だ。
「やっぱり場所はここで間違いないんだ」
「ふーん」
茉菜が考え込む。
そしておもむろに立ち上がると雑木林に向かって大声で叫んだ。
「サヨリさーん!」
うわ。なにやってるんだ、こいつ。
「ほら、あんたもやりなさいよ」
「え?」
「え? じゃないわよ。手がかりになりそうなことを一通りやってみるのよ。元の世界に帰るんでしょ? だったら少しは足掻いて見せなさいよ。格好付けている場合じゃないんでしょ?」
馬鹿っぽいけど、清々しいぐらいの正論だった。そうだ。元の世界に戻れるならなんでもやろう。美川憲一の物まねをして戻れるというなら、喜んでやってやる。大声で叫んでみた。
「サヨリさーん! どこだぁー」
ビックリするぐらい気持ちよかった。
「サヨリさーん! いますかぁ? 出て来ーい、インチキ占い師!」と茉菜が続ける。
そうだ。あのインチキ女。全てはあの女のせいなのだ!
怒りがこみ上げ、俺はさらに声を張り上げ叫んだ。
「露出狂の淫乱女、出て来ーい!」
茉菜が叫ぶのをやめ俺を見た。
「露出狂?」
しまった。怒りにまかせ、つい余計なことを。
「い、いや。一般的な罵倒用語だよ。深い意味はない」
「馬鹿とか阿呆ならわかる。でも淫乱とか露出狂って具体的な表現はなに? 何かあったの?」
「何もないって。言葉の綾だよ」と誤魔化しつつも、脳裏にサヨリさんの白く美しい裸体が蘇った。
「あ、顔が赤くなった。何かあったんだ。解りやすい男だなぁ。観念して白状しなさい」
「誤解だよ。茉菜さんが思うようなエッチなことは何もない」
「またそう言う訳のわからない言葉で誤魔化そうとする! エッチって何? 何語? アルファベットのH?」
エッチって言葉がないのか。そう言えば何でエッチって言うんだろう。英語じゃなさそうだし。考えたこともなかった。
「まぁ、いいわ。サヨリさんに会えば解ることだし」
茉菜が雑木林に一歩踏み出す。そして再び叫ぼうとしたところ、茉菜の立つ林道の端がごっそりと崩れた。
「危ない!」
俺は反射的に茉菜の腕に手を伸ばした。
しかし腕に触れる直前、バチっという衝撃と共に意識が途絶えた。
ブナタロウが走ってゆく。
ダメだブナタロウ、そっちに行っちゃダメだ。
クルマに轢かれてしまう!
危ない!
ブナタロウが……クルマを轢いた?
クルマがペッチャンコだ。ブナタロウはピンピンしている。
そうか、この世界のブナタロウはこうやって生き延びたのか……。
ブナタロウ、つえー……。
気が付くと地面に伏せていた。土の匂いと近くに小川の流れる音。顔を上げると作務衣姿の少女がこちらに背を向け立っている。カスミさんだ。やった。ここまで戻ってきた。少し離れたところに例の小川があり、その側に茉菜がいた。茉菜も今気が付いたようで、地面に座り込んだまま辺りを見回している。怪我はないようだ。俺は立ち上がりカスミさんに声を掛けた。
「あの、カスミさん……」
カスミさんがキッと振り返り言った。
「きさま、何をした?」
その目は怒っていた。しかも相当。ちょっとヤバい感じに。
「えっと。すみません。よんどころない事情ができまして。それでサヨリさんに……」
「何をしたかと聞いている! 結界が消えてなくなっているぞ!」
結界がなくなっている? え? それって俺のせい?
カスミさんが右手を懐に入れながら続ける。
「二度とここへは来るなと言いましたよね」
「ですから、ちょっとややこしい事態に巻き込まれまして……」
「他言無用とも言いましたよね?」
茉菜をチラリと見る。
「だからですね、事情が変わったんです。たぶんサヨリさんに関係が……」と言いかけたところで俺は凍り付いた。カスミさんが懐から黒いナイフのようなものを取りだしたのだ。
「ちょっ、ちょっと。なんですかそれ! 落ち着いてください!」
カスミさんがナイフを逆手に持ち替える。
え、何これ? マジ? 嘘でしょ?
「待て!」
通る声が響いた。
見ると黒髪をなびかせ、サヨリさんが颯爽と小道を歩いてくる。神々しいまでのオーラ! 昨日に増して美しかった。しかし相変わらずジーンズとTシャツというラフな格好。Tシャツには「因果応報」の四文字。
「しかし姫巫女様!」
「なぁ、カスミよ。やたら人を殺めてはいかんと、前にも言ったであろう」
殺める? この人、人殺しをする人なのか?
「しかし……」
「電気冷蔵庫のわらび餅、わしの分をすべておまえにやる。これで手を打たんか?」
カスミさんは「わかりました」とあっさりナイフを収めると「命拾いをしましたね。姫巫女様の温情に感謝するが良い」と俺に向かって凄んだ。
俺は殺されるほどの罪を犯したらしい。そしてカスミさんにとって俺の命は、わらび餅以下らしい。サヨリさんが小川の縁まで来ると腰に手を当て言った。
「おお。本当に結界が壊れておる。現と地繋ぎだ」
そして俺を振り返る。
「一体何をどうやった?」
聞かれても今起きている状況の何一つとして俺は理解できない。
「ん? このタヌキ顔の小娘はなんだ?」
サヨリさんは座り込んだままの茉菜に近づくと、しゃがみ顔を寄せた。
「面白い顔をしておるなぁ。おまえに良く似ておる。兄妹か?」と今度は俺を見た。
「あ、あの」
茉菜が口を開く。
「ん? なんじゃ? タヌキ娘」
「ひめみこさまって……姫巫女伝説の姫巫女様ですか?」
「ああ。ちまたではそのように呼ばれているようだ」
「けど姫巫女様って百年も二百年も昔の人では……」
「これこれ、男の前で女の歳の話は御法度ぞ」
俺と茉菜は出されたお茶を前に正座していた。とてもお茶する雰囲気にはない。なんとか一通りの説明を聞いて貰えたものの、そのあと随分な時間、サヨリさんとカスミさんが真剣な面持ちで話し込んでいるのだ。今飲んだらカスミさんに瞬殺されそう。しびれを切らしたのか茉菜が小声で俺に話しかけた。
「ねぇ、なんで姫巫女様って言わなかったのよ」
「姫巫女様って言われても俺知らねーし」
「ねーしって。あんた姫巫女伝説を知らないの? あんたの世界に姫巫女様いないの?」
「知らない。聞いたこともない。有名人なの?」
「有名も何も! ロシア帝国から日本を救った英雄、軍神よ!」と大声を上げた。
サヨリさんとカスミさんが話をやめ、五月蠅そうにこちらを見る。
「す、すみません!」
茉菜が小さくなった。
「なぁ、彰人よ」とサヨリさん。
「さっき申したことに嘘偽りはないであろうな。その……パライソ?」
「パラレルワールドです。本当に俺は異世界に迷い込んだ……異世界からやって来たんです」
「そうか。虚人であったのか。となれば話は別物だな」
「うつろびと?」
「ごく稀に常世を通じ現れる異人のことだ」
サヨリさんは正座する俺と茉菜の前に膝をついた。
「タヌキ娘。触ろうとしたらバチっと来たんだな?」
「あ、はい。静電気のきつい感じでした」
「お互いの肌には触れたのか?」
「触ったか触らないかぐらいで、はじき飛ばされたと思います」
「なるほど」
うなずくと右手を茉菜の頭上に置いた。
「ほう。タヌキ娘。おまえ、良い気を持っておるな」
「気、ですか?」
「うむ。なかなかあることではない」
そして今度は左手を俺の頭上へゆっくりと近づけていく。体中にむず痒い感触がはしり、夏だというのに鳥肌がたった。俺の髪の毛がふわりとサヨリさんの手に吸い寄せられる。サヨリさんは頭から手を離すとその場に胡座をかいた。
「確かに気の質が似ておる。まるで双子のようだ。同一人物というはなし、あながち嘘ではないらしい」
「なぜ俺はこの世界に迷い込んでしまったのでしょう?」
「結界に触れた際、何かしらの力が偶然加わったのだろう。渓流に落ちる寸前空が光ったと言ったであろう? たぶんそれが原因だな」
「どうやったら元の世界に戻れますか」
「わからん」
それはあまりにもシンプルな返答だった。
「わからないってどう言うことですか! あなたが作った結界が原因なんでしょ? 何とかしてくださいよ!」
「そういわれてもな。光の正体がわからんし、いまは結界も存在しない」
「また作れば良いじゃないですか。また作るんでしょ、結界」
「残念だがわしにはもう、そのような力は残っておらん。今のわしは本当にただの占い師でしかないのだ」
「じゃ、どうやったら俺は戻れるんですか!」
「まぁ、出来ること、考えられることを一つ一つ試してみるしかないな」
「例えば?」
「滝を登り、沢を登り、来た道を遡ってみる」
それは俺と同じレベルの発想だった。
サヨリさんに会えば何とかなるものだと考えていた。唯一の帰還手段だと思っていた。なのにこの返答は一体なんなのだ。怒りを通り越して絶望が俺を包み込む。
「そんなに気を落とすな。溺れ死にしなかっただけでも儲けものだと思うぞ」
元の世界で俺は行方不明になっているに違いない。捜索願が出され、山狩りが行われ、結局見つからず人々の記憶から消えて行くのだ。これでは死んだと同じではないか!
「解りました。俺、もう一度沢に飛び込んでみます」
「まぁ。そう急くな。姉上に相談してみる。飛び込むのはそれからでも良かろう」
「あねうえ? お姉さん?」
「わしとは比べものにならぬほどの霊力を持っておる。姉上なら何か知恵を貸してくれるやもしれん」
「祭主様を呼ばれるのですか」
カスミさんがちょっと不安げに尋ねる。
「ああ。今時分はまだ暇にしているはずだ。遷宮は先だしな」
「お越しになられるでしょうか、あの出不精な方が。祭主に引き出すのも一悶着あったと聞きますが」
「夏祭りで童相撲があると電子メールを打っておこう。飛んでくるはずだ。姉上は甘味より稚児の尻が好物だからなぁ」
どんなお姉さんなんだ。
「それまでここで大人しくしておれ。早まった真似をするなよ」
それまで黙っていた茉菜が口を開いた。
「あの、姫巫女様」
「どうしたタヌキ娘」
「タ……。タヌキ娘はやめて頂けますか。わたしの器量があまり良くないのは、わたし自身よく知っています。でも繰り返されると結構傷つきます」
「それはすまん。親しみを込めての表現だったのだが。で、なんだ」
「あなたが本当に姫巫女様である証拠を見せてください」
「無礼者!」
カスミさんが懐に手を入れ、立て膝を付く。
時代劇かよ。
「カスミ、いちいち反応するな。身体に障るぞ」
カスミさんは「はい」としぶしぶ座った。
「わたしはあなたが姫巫女様と信じたわけではありません。この彰人って人や、今通ってきた結界とか、不思議な体験をして、もしかしたらと思っているだけです」
「本人が本人であると言っているのに、それでは納得できぬか?」
「できるわけないじゃないですか! だって大昔の人ですよ? とっくに死んでいるはずです。仮に生きていたとしても、こんなに若くて綺麗なはずないじゃないですか! お祭りの時に仮装する人ってことですか? 二代目とか三代目とか、そういう話ですか? 子孫がいるだなんて聞いたこともありません」
「なぁ、タヌキ娘よ」
「茉菜です」
「茉菜よ」
「はい」
「今のところをもう一度言ってくれぬか」
「え? どこですか? とっくに死んでいるってところですか?」
「違う違う。もっと終わりのほう」
「二代目、三代目?」
「もそっと前」
「……若くて綺麗?」
「うん、それそれ。良い響きじゃ。おまえは心根も良い。一度わしの元で修行してみないか?」