あの怪士(あやかし)は人に害をなす
「天叢雲剣に何か起きている。それを確認しに行きたい」
サヨリさんとカスミさんが俺の顔をぽかーんと見た。それはちょうど茉菜に啖呵を切られた田井中さんご一行のよう。カスミさんが俺の額に手を当て「少し熱がある。熱い風呂に浸かり、葛根湯を飲んで早く休むと良い」と真顔で言った。
「……なんで、そうなるんです?」
「これまでの言動と真反対のことを言いだしたからです」
確かにそうだけど、天叢雲剣に何か起きたのであれば、それを確認しなければならない。並の人間に扱えるとは思えないけど、もし悪意を持つ人間が手にしているのなら、それを阻止しなければならない。ナチスの手に渡っているのであれば取り戻さなければならない。それが叶わないのであれば破壊しなければならない。これは理屈ではない。本能的にそう感じるのだ。
「やはり少々おかしいぞ宮路彰人。連日の修行でのぼせたか。いちど頭を冷やした方が良い。また暴れられてはたまらん」
「サヨリさんまで? サヨリさんも感じたでしょ? あれは天叢雲剣だ。天叢雲剣に何かが起きている。放っておけな……」
「サヨリヒメ様。わたしが見に行きましょう」
俺を押しのけ言ったのは茉菜だった。使命感に燃えているのか、眼をキラキラと輝かせている。
「ふむ。よう言うた。さすがはタキツの血を引く者。だが茉菜一人を行かせるわけにもいかない。わしも行こう」
茉菜を天叢雲剣と対峙させる?
「いや、茉菜はダメだ!」
茉菜が不服そうに俺を睨む。
「どうしてよ?」
キレたら俺以上にヤバいことになるからだよ! と思ったけど、本人を目に前にはちょっと言いにくい。
「えーっと、よし。ここは、お互いがお互いを監視する事にしよう。そうすれば危険度も減る」
「監視? 危険度? 何言ってるの? 全然わからない」
こいつ、マジで自覚ないんだな。
「だから、俺と茉菜とが……」
突然誰かに足首を掴まれた。見下ろすと眼帯ゾンビ女が床に這いつくばり、恨めしそうに俺を見上げていた。
「うわっ!」
「……お、おまえら、舌の根の乾かぬうち、この島を出る算段か!」
隣の部屋で寝ていたはずのアヤネさんだった。ここまで這ってきたらしい。
「出て行くのなら、この私を殺してから行け!」
懐からクナイを取り出しカスミさんが言う。
「望みとあれば仕方がない。今すぐ叶えてあげましょう」
あー。めんどくせー。
「ここはいっそのこと、みんなで行きませんか」
天鳥船の定員は4人。前回はこれに7人も乗った。今回は5人プラス一匹と多少は余裕があるけど、席順はそれなりに揉めた。まずは漕ぎ手。茉菜が主パイロットなのは良しとして、問題になったのが副パイロット。なんとブナタロウが副パイロットとして天鳥船をここまで漕いできたのだ。カスミさんが「私が漕ぎます」と名乗りをあげたが、「ブナタロウの霊力はタキリヒメ(祭主)様並。相性も抜群」と茉菜が譲らず、結局ブナタロウが引き続き副パイロットを勤めることになった。これで前列2席は確定。
後部座席においては重病人のアヤネさんの扱いが問題になった。カスミさんは「無意識にしめ殺してしまうかもしれない」と相席を拒否し「姫巫女様に輩の世話をさせるのも論外(カスミさんの言葉をそのまま引用)」と付け加えた。と言うわけでアヤネさんは再び俺の膝の上に乗ることになった。
またカスミさんは当初「姫巫女様にはおひとりでお座り頂く」とキャビンの上に上がろうとしたが、天鳥船が時速200キロメートル近い速度で飛ぶことを知り諦めた。そして前回宝物を詰め込んだキャビン後部の隙間に入り込んだ。その姿はほぼ日光東照宮の眠りネコ状態。たぶん「姫巫女様にはおひとりでお座り頂く」は言い訳で、ブナタロウから少しでも離れたかったのだろう。
出発前アヤネさんは「延命丸」という謎の忍者薬と、病院から持ち出した(盗んできた)解熱剤・鎮痛剤・抗感染症薬・抗炎症薬を、粗塩と砂糖で作った自家製ポカリ2リットルで流し込んだ。そして「着いたら起こしてくれ」と俺の上に座ると気を失うように寝た。なんとも豪快。「忍者ってみんなこんな感じなんですか?」とカスミさんに聞くと意外な答えが返ってきた。
「これほど優れた忍びは滅多にいない。特に変装術は一級品です。おそらく自身に暗示をかけ、別人格になりきるのでしょう。だから誰も気付くことができない。わたしには出来ない芸当です」
忍者の主任務は戦闘ではない。諜報・工作が本来の仕事だ。特に女性の忍び(カスミさんは何故かクノイチって言い方を嫌う)は必要に応じて色仕掛けも行うが、カスミさんはこれが苦手だという。
「わたしは不肖の弟子だった。師匠から『お前には才が無い。せいぜい武芸に励むが良いだろう』と見限られました」
他人になりきる・組織に馴染む・人心を掌握する。忍者にはそう言った総合的人間力が求められる。その視点から見ると、カスミさんは劣等生という評価になるらしい。これまた意外。
ちなみに。飛行中幸いにもアヤネさんに対し「変な気持ち」になることは無かった。と言うのも正直「臭かった」のだ。入院以降ほとんど風呂に入っていなかったようで、アヤネさんの頭髪は汗臭いを通り越して野良犬の匂いがした。それに加えて病院の匂いである。たぶん農作業を終えたあとの、俺の靴下の方がよほどマシだと思う。
茉菜とブナタロウが漕ぐ天鳥船はまるで別物だった。前回の乗り心地を自転車とするなら、今回は普通乗用車並の快適さだ。中国山地上空を力強くそして滑らかに飛行してゆく。淡路島が見えたところで瀬戸内海に出た。明石海峡大橋を越えしばらく行くと、神戸沖に一際目を引く人工島が現れた。高層ビルがいくつも立ち並ぶ学研都市である。この世界にしてはとても近代的な光景。そのビル群のひとつに理研神戸研究所があるという。
理研こと理化学研究所は、三柏商会(現三柏コンツェルン)が出資し創設された民間の総合科学研究所である。その研究分野は化学・工学・生物学・医学・物理学・天文学などと実に幅広い。理研の強みは研究分野の幅広さと、各研究部門同士の垣根の低さにある。分野を超えた研究者同士の交流が様々な発見に繋がるのだ。特に神戸研究所は全国11カ所ある研究拠点の中でも最も革新的な研究を行っていることで知られている。
襲われた秘密研究所も理研の研究拠点のひとつで、国に秘密にしておきたい研究を行うため作られたという。だが親ナチス派には全くの筒抜けで、襲撃され壊滅的被害(ほとんど俺のせいだけど)を被ってしまった。開き直ったチャラ男はあえてこの神戸研究所に天叢雲剣を持ち込むことにした。つまり半ば公然と神器の研究を始めたのだ。本来であれば見過ごせない「不敬行為」だが、宮内省は今日まで沈黙を保っている。
人工島上空に複数のヘリが飛びかっていた。やはり何か只ならぬ事態が起きている様子。理研に直接乗り付けるのを諦め、海面ギリギリの低空飛行で人工島に近づき着水。海に面した緑地公園の小さな船着き場に着けた。時折遠くで「ぽんぽん」とか「たんたん」と聞こえる破裂音は銃声っぽい。
カスミさんが天鳥船を降り上陸する。俺もそれに続こうとしたらカスミさんに制止された。
「まずは私が様子を見てきます。彰人以下全員、ここで待っていてください」
「俺も行きますよ、その為に来たんだから!」
「彰人にはここで姫巫女様を守って貰いたい」
「しかし……」
「これは彰人を信頼して頼んでいるのです」
真っ直ぐな目が俺を見た。カスミさんが自身の命よりも大切に想うサヨリさんを、この俺に預けようと言うのだ。しかも「信頼」という言葉まで使われては断りようがない。
「分かりました」
「半時で戻らなかったら、私に構わずここを離れてください。なにか異変が起きた時も同様です」
カスミさんが念を押し、街中に姿を消した。目を覚ましたアヤネさんがボソッと言った。
「半時って。ババアかよ……。てか、ババアなのか……」
「どう言う意味です?」
アヤネさんが俺を不思議そうに見た。
「……知らないのか?」
「何をです?」
「あいつは……いや、止めておこう」
「え? なんです? 教えてくださいよ」
「それより私の尻の感触はどうだった? また硬くなったか?」
「な!」
茉菜が俺を見た。
サヨリさんも俺を見た。
ブナタロウまで俺を見た。
耳が熱くなるのがわかった。
たぶん、真っ赤。
「なってない! てか『また』って何です?!」
「まえも尻に何か固いものが当たってたぞ?」
「『も』ってなんです! なってないって!」
「まさかもう、出ちゃったとか?」
ド下ネタ。この人、セクハラで俺に復讐している?
確かに酷いことをした。それは認める。だからある程度の非難は甘んじて受け入れよう。しかし茉菜とサヨリさんの前でこれは洒落にならない。今後の円滑な人間関係を維持するため、はっきりと否定しなければならない。
「アヤネさんの頭が臭くて、そんな気分にはなれませんでした!」
「彰人くん。それって女子に対して酷くない?」と茉菜。
「酷いもなにも……」
「……臭い?」とアヤネさんが左手で頭をかき、その手の臭いを嗅いだ。
「訓練で山に3ヶ月籠もったときは、動物園の匂いがすると笑われた。それに比べれば大したことないと思うのだが」
「頭が臭い」程度の反撃、この人にはなんのダメージにもならない様子。しかし既に動物園に近い匂いが……。
アヤネさんが徐に立ち上がった。
「大丈夫ですか?」
「充分寝たし薬も効いた。問題ない」
杖をつきながら器用に天鳥船から降りた。
「どこに行くんです?」
アヤネさんは振り向かず答えた。
「トイレ」
俺たちも上陸し手足を伸ばす。陽射しを避け、公園の中ほどにあった藤棚下のベンチに陣取った。持ってきた水筒で水分補給。茉菜が脹ら脛のマッサージを始めた。
「やっぱ疲れただろ。大丈夫か?」
今日だけで700km以上飛んだはず。クルマの運転だってこの距離はかなりしんどい。なのに休み無しで飛んできたのだ。
「うん? ああ、ちょっとオシリが痛いけど全然平気。ほとんどブナタロウが漕いでくれたから」
「へぇ……」
そのブナタロウが背伸びをしながら大きなアクビをした。まだまだ余裕がありそう。さすがは白大神様。
「あのお爺さんたち、対馬の出だったんだね」
「田井中さんか。それがどうかした?」
「一〇〇年以上昔のことなのに、未だに沖津島を信仰してくれている。私なんてつい最近まで何も知らなかったのに」
結局田井中さんたちにはろくな説明もせず、逃げるように壱岐島を出てしまった。茉菜がタキツヒメの子孫であることを田井中さんたちが知ったら、話が余計拗れていただろう。
「こんな私が御神剣を持っていて良いのかな」
サヨリさんがキセルに火をつけながら言った。
「お前は間違いなくタキツの血を引く。自信を持て。何より姉上のお墨付きだ」
ガキんちょのお墨付きって。むしろそっちの方が心配。
「それよりもだ。ふたりとも叢雲の気配を感じるか? わしには少しもわからんのだが」
「そう言えば……」
出発前に感じた明らかな気配以降何もない。ただ漠然とした不安感があるだけだ。ここに天叢雲剣があるのなら、天羽々斬に何かしらの反応があっても良いはずなのだが。茉菜も同様だった。
「そうか。まぁ、じきにカスミが何かしらの答えを持って帰ってくるだろう。ところで茉菜」
「はい」
「何を見たのだ?」
「はい?」
「宮路彰人に斬りかかった時のことだ。何を見てそこまで激高したのだ?」
「それは……」
茉菜の目が泳いだ。あからさまに動揺している。
「宮路彰人。おまえも同じものを見たのではないか?」
甘ったるい紫煙を俺に吹きかけた。俺もあの肌色映像を鮮明に思い出し、急に気まずくなった。こうして改めて面と向かって問われると、メチャクチャ恥ずかしい。
「彰人くん、言ったら撲つ!」
「茉菜……茉菜さん。これってサヨリさんには聞いて貰った方が良いよ。きっと何か意味があるはず」
「けど……」
戸惑う茉菜を見てサヨリさんの頬が緩む。
「ほー。その様子から見て『シモ』の話か?」
茉菜の耳が少し赤くなった。
「やはりそうか。だが恥ずかしがることはない。わしもお前ぐらいの年頃には、口に出すのもはばかれるような夢想を……」
「……え?」と茉菜が顔を上げる。
「驚くにあたらず。これは皆通ってきた道……」
「ち、違いますサヨリヒメ様。あそこ、公園入口の木の影」
茉菜が指さす先を見ると黒い塊があった。一瞬木の影かと思ったが、良く見ると何かのオブジェのよう。それがこちらに向かって「ぬるり」と動き出した。
この世界に来て三週間近くが経過した。神様がいたり忍者がいたりするけれど、そんなに異世界って感じはしない。情報通信機器の遅れさえ除けば、一般の人の暮らしぶりは俺のいた世界とそんなに変わらない。軍隊があったり、ナチスがいたりするのはゾッとしないけど、よくよく考えれば俺のいた世界にも非人道的な連中は世界にいっぱいいて、それを俺はただ知らないだけだったのかもしれない。けどいま目の前にいるそれは明らかに異質だった。
脚がいっぱいあって全身に棘のような毛がビッシリ生えている。俺の知る範囲ではクモと呼ばれる節足動物とよく似ていた。けど決定的に違うのはその大きさである。脚を入れたボリュームは、遊園地で見るゴーカートよりも大きい。それがCGのような滑らかな動きで、こちらに向かって這ってくるのだ。全身に鳥肌が立つ。茉菜が「ひぐっ」と息を飲んだのが聞こえた。紛れもない怪物、怪獣、UMA。アニメやゲームに出てくるモンスターそのもの。
「茉菜、彰人! 剣を構えよ! あの怪士は人に害をなす」
「は、はい!」
剣を抜き青眼に構える。そして隣をチラリと見た。茉菜とアイコンタクトするつもりだったのに、その茉菜がいなかった。
「え?」
振り返ると茉菜が「ぎゃあぁああ!」と叫びながら天鳥船を停めている船着き場に向かって走っていた。
「茉菜!」
「無理無理無理! クモは無理!」
まさかの敵前逃亡!
「彰人! 怪士から目を離すな。鍛錬の成果を計る良い機会だ。土蜘蛛ごとき、ひとりで倒してみせよ!」
ツチグモ? やっぱあれ、クモなんだ。
「この世界では、ああ言うの、普通なんですか?!」
「いや、わしも目にするのはちとせぶりだ」
チトセブリ? チトセブリってなんだ? まぁいい。今はツチグモに集中……いやいやいや! 全然集中できない! 呼吸が整わない! だってあんなキモいものがこっちに向かってくるんだぞ!
ブナタロウが「ガルッ!」と牙を剥きツチグモに突進した。ツチグモがそれに気付き歩みを停める。ブナタロウは数メートルの距離を置き、ランダムに動き周りながら吠えかかった。ツチグモはこれにどう対処すべきか惑っている様子。ナイスフォロー、ブナタロウ! この隙に集中だ。
呼吸を整え剣を構え直す。落ち着いたところでツチグモを改めて観察。ビー玉のような目玉が大小8つあった。まさにクモ。でも脚はクモよりも太くカニっぽい。これで赤くてハサミがあったら毛ガニだ。
よし、とりあえずあの脚を切り払ってやろう。動きを止めてから仕留めるのだ。道頓堀のカニ看板よりは小さいぞと自身に言い利かせ、射程距離までゆっくりと近づく。そして気を吐きながら剣を振り降ろした。
「はっ!」
手応えがあった。「バツッ」と音がしてツチグモが傾く。左側の脚2本の切断に成功だ! よし、いけるぞ。このまま至近距離からトドメを刺してやろう。さらに接近しようとしたところ、ブナタロウが俺に向かって激しく吠えた。
少し落ち着けブナタロウ。アドレナリン全開で興奮しているのはわかるけど、吠える相手が違うだろ。あとは俺に任せるんだ。
さらに進むと何を思ったのかブナタロウは、毛を逆立てツチグモに飛びかかった。その瞬間、ツチグモが目にも止まらぬ速さで動いた。巨大な爪の付いた前脚がブナタロウを襲う。ブナタロウの大きな身体が宙に舞った。
「ブナタロウ!」
俺は肝心なことを忘れていた。節足動物には痛点がないことを。8本ある脚の2、3本を失っても、運動能力にたいした影響のないことを。ツチグモにとってこの程度、ダメージのうちに入らないのだ。ブナタロウはそれを俺に教えるために……。
クルマに跳ねられ死んだ「俺のブナタロウ」の映像がフラッシュバックする。俺をクルマから守るため、リードを振り払い跳ねられ死んだブナタロウ。再び俺の身代わりになって……。
押し寄せる吐き気と悪寒。視界が歪み、自身への憤りが身体の中を駆け巡る。その憤りが感じたことのないベクトルを持って膨張してゆくのが分かった。気付くと俺は地面に叩きつけられたブナタロウに向かって走っていた。
「彰人! 何をしている! 怪士はまだ……」
サヨリさんが何か叫んでいるが知ったことではない。茉菜のブナタロウまで死なせるわけにはいかないのだ。黒い影が俺の前に躍り出る。それを「いなし」ブナタロウの元にたどり着いた。
「ブナタロウ?」
グッタリとしているが呼吸はある。怪我は見当たらない。衝撃で気を失ったのか。振り返るとツチグモは俺に背を向けていた。こいつ何やってるんだ? まるで俺が見えていないような……。
だが直ぐに8つの目が俺を捕らえた。そしてその大きさからは考えられないほど高く俺に向かって飛んだ。ツチグモの裏側、キモッ!
立ち上がりざま思いっきり踏み込み、下段から剣を振り上げる。微かな恍惚感と共に宙が裂けるのを感じた。そうか、こうすれば良かったのか。出来てみればなんてことはない、逆上がりと同じじゃないか。
だが力加減を間違えたらしくツチグモが宙で弾けた。バラバラになった破片があたりに降り注ぐ。鋭い爪の付いた脚がブナタロウに向かって飛んだ。
「ブナタロウ!」
気を失っていたはずのブナタロウが、その場でゴロゴロっと転がり破片を躱した。
「え?」
素知らぬ顔で立ち上がるブナタロウ。
こいつ、ジャンプして攻撃のダメージを軽減させていた?
「おまえ、やられたふりをしていたのか?」
ブナタロウが口角をあげた。ニヤッと笑ったように見えた。まさか俺のために一芝居打ったとでもいうのか。
「彰人」
「サヨリさん! やりましたよ。ひとりで倒せました」
「禹歩をどこで憶えた?」
ウフ? そんなにはしゃいだ覚えは無いが……。
「面前の土蜘蛛を見事な禹歩で眩まし……」
「……ウフってなんです?」
「また自覚がないのか?」
「いえ、今度はちゃんと自分の意志で宙を切り裂くことが出来ました。まだ強弱がよく分かりませんが……」
「そうか。ならば引き続き戦えるな?」
「はい?」
みると公園の入口にツチグモがもう一匹……いや、三匹いた。
「チトセブリ」が千歳、つまり「千年ぶり」であることに気付いたのは、俺が一番近くにいたツチグモに向かって走っているときだった。身体が軽い。自分でも驚くほど身体が良く動く。だがけして振り回されているわけじゃない。あくまで俺の意志の範囲内。
後ろからブナタロウが着いてくる。背中はこいつに任せることにしよう。さっきは勢い余ってツチグモを破裂させてしまったが、こんな大雑把な攻撃では味方も巻き込みかねない。もっと精密に的を絞らなければ。表面的なダメージにこだわる必要はない。例えば……身体の内側、そう、神経とか内臓だけを破壊できないものか……。
ツチグモの身体構造を大雑把に分析し、射程に捕らえたところで気を吐く。しっかりとした手応え! ツチグモが糸の切れたマリオネットのように崩れた。出来るじゃないか俺! 次は?
残りの二匹を捜すが見当たらない?
しまった。この一匹に集中するあまり二匹の行方を見失った。
背筋に寒いものが走る。
「ブナタロウ! 残りは何処に行った?!」
ブナタロウが上空を見て吠えた。視界の片隅に木の上から飛ぶツチグモの姿。くそ、クモって木登りするのか! 迎撃するには機を逃した。直撃を躱すべく、その場からダッシュする。
走れ俺! 少しでも間合いを取れ! 捕まったらお終いだ!
ツチグモが真後ろに着地したのが分かった。ヤバい。いくらも距離がない。このままでは後ろから襲われてしまう。意を決し振り返る。丁度俺に向かってジャンプしたところだった。ギザギザのサバイバルナイフのような爪を剣で受け止めながら後ろに飛んだ。ブナタロウを真似ての衝撃吸収だ。だがツチグモの慣性は想像以上に大きく、そのまま背中から地面に叩きつけられた。
激痛! 慌てて立ち上がるが咳き込んでうまく呼吸できない。ツチグモが再び俺にジャンプしようと溜めを作った。
ヤバい。宙を切る間がない。ツチグモの口、キモい! あれに噛まれるのだけは勘弁。こうなったら力業で切り刻んでやる……と思ったとき「タタッ、タタタッ」と破裂音がしてツチグモの頭が砕け、その場に崩れ落ちた。
銃撃?
破裂音のした先をみると、公園の外に自動小銃を構えたアヤネさんがいた。
「なんだ、その気持ち悪いのは。思わず撃っちゃったけど、良かったのか?」
「アヤネさん! もう一匹何処かにいます!」
「なに?」
ブナタロウが公園中央の花壇茂みに向かって吠えた。アヤネさんが躊躇うことなく銃弾を打ち込む。茂みからツチグモが飛び出し、そのまま俺に向かって来た。しかし今度は呼吸も万全。身を躱しながら薙ぐと、崩れ落ち動かなくなった。
「おい、そのでかいクモ、本物なのか? 作り物じゃないよな?」
「アヤネさん、その銃はどうしたんです?」
「ん? さっき『トイレに行く』と言っただろ?」
「……トイレ?」
「自身のテリトリーに武器を隠し置き、備えるのは忍びの基本だ」
「トイレに行く」というのは「公園の公衆トイレ内に隠している武器を取ってくる」という意味だったらしい。自動小銃の他に拳銃、ナイフ、手榴弾等が軍用と思われるベストに装着されている。用意周到であることもカスミさんが言う「優秀」に含まれるのだろう。
「とにかく助かりました。ありがとうございます」
「それより、それはなんだ? 近くで見るとグロテスクだな」
サヨリさんがこちらに歩きながら答えた。
「根の国の生きものだ。ここ中つ国に現れると怪士・怪異などと呼ばれる。誰かが叢雲で常世を開いたのだろう」
「幽世から来た化け物? お伽噺かよ」
「身体に毒を注がれ、ドロドロになった肉や臓物を生きながら吸われるのは『お伽噺』では済まないぞ」とサヨリさんが笑った。
え?
「ちょ、ちょっと待ってください! ツチグモってそんなに危ない生きものだったんですか」
「毒が廻ったら最期。身体だけ麻痺し、意識のある状態で体液を吸われてゆく」
ちっとも「ツチグモごとき」じゃない。メチャクチャ危険じゃないか!
「それ、聞いてないですけど!」
「言ったら怖じ気づいたであろう?」
「知っていたら戦い方も変わったってことです!」
「なぁ、宮路彰人よ」
「はい」
「この程度で倒れるようなら、お前はそこまでの男と言うこと。覚悟がないのなら今からでも壱岐に戻るが良い」
そうだった。天叢雲剣との対峙とは、こう言うことなのだ。「ツチグモごとき」でビビっていてはこの先に進めない。むしろアヤネさんに助けて貰ったことを恥ずべきなのだ。
「いえ。戻りません」
「よろしい。ならばより一層の奮励努力を期待する」
「はい?」
「おい、クソガキ。いったい何匹いるんだ? ゾロゾロ出て来たぞ」
周りを見てゾッとした。ザッと見ただけで7匹いる。それが公園を包囲しつつあった。
「なんでこっちに向かって来るんです!」
「何かに追われてきたのか。それともその女神がよほど美味そうなのか。とにかくこれでは弾丸が足りない。勇ましい茉菜ちゃんはどこに行った?」
「たぶん船着き場の天鳥船に。クモは苦手らしくて」
「女神を連れて船着き場まで走れ。私が援護する」
「アヤネさんは?」
「今は女神第一に考えろ。3人で脱出するんだ」
「え?」
「鼻持ちならない女だが、数少ない現人神には違いない。天子様に準ずる存在を死なせては一族に顔向けできない。いずれにせよ私は走ることが出来ない。だから早く行け」
あまりにも意外な提案に理解が付いていかない。アヤネさん、命がけでサヨリさんを逃がすと言っているのか? つい数時間前まで「クソ女神」と罵倒していたくせに?
「伊武木戸は国体堅持に身命を賭す。我が一族もその端くれだ。その辺りの雇われ忍者と一緒にするな」
「あ」と思った。アヤネさんの覚悟は昨日今日の覚悟じゃない。この世界に足を踏み込んだとき、すでに決めたものなのだ。だから「女神を逃がすため死のう」は「今日はよく晴れたから布団を干そう」程度のことでしかない。覚悟とはそう言うものなのだ。俺も覚悟を決めた以上は……。
「アヤネさん、俺も戦います」
「は?」
「サヨリさんの言うとおり、ここで倒れるようなら、俺はそこまでの男と言うことです」
「お前の生き死にやプライドなど知ったことではない。女神を第一に考えろと言っているのだ」
「サヨリさんは俺が守ります」
「ちょっと神剣を使えると思って調子に乗るな。守りながら戦うのはプロでも難しい。今すぐ行かないとこの場で殺す」
「その脅し、脅しになってませんよ。俺が死んだら余計サヨリさんが危なくなるでしょう?」
アヤネさんが自動小銃の銃口を俺に向けた。
「10数えてまだ私の前にいたら、撃つ」
目を見てアヤネさんが本気なのがわかった。つまりアヤネさんはこれ以外にサヨリさんを助ける手段が無いと考えているのだ。でもそれは俺を戦力として数えていないから。2人で戦えば……。
「10、9、8……」
「アヤネよ」
「話しかけるなクソ女神! 言霊を使ったらお前も撃つ!」
さすがにそれは本末転倒。
「アヤネよ。わしはただの出がらしだ。命をかけるほどの価値はないぞ」
「お前はお飾りだ。存在することに意味がある。飾っておく分には金メッキも純金も変わらん」
女神様を金メッキ扱い!
「それに……」とサヨリさんは辺りを見回しながら言った。
「船着き場への道はもう塞がれた。ここで戦うしかない」
ツチグモの数はさらに増え、1ダースを越えていた。
「ちっ」と自動小銃をツチグモに向かって構え直す。
「ライフルで出来る限り倒す。取りこぼしをクソガキ、お前が倒せ」
タタタッ、タタタッ。
数発ずつ狙い定めて撃つ。
タタタッ、タタタッ。
なのに一向に当たらない?
「どうしたんです?」
「一発一発が怪我に堪える。反動を抑えられない。まるで狙いが定まらない」
「さっき見事に命中させたじゃないですか?」
「あれは偶然だ」
「え?」
「クモに当たるか、お前に当たるか、一か八かで撃った」
「マジですか!」
「『マジ』だ。生きながら喰われるより、撃たれて死ぬ方がマシだろ?」
「そんな!」
「だから走れと言ったのだ。幸い自決用の手榴弾は人数分ある。心置きなく戦え」
タタタッ、タタタッ。
ようやく一匹倒した。アヤネさんのベストには予備の弾倉が2つ。こんな調子では全く足りない。俺ひとりで何匹倒せる? 間合いを必要とする俺はある程度動き回る必要がある。だが動き回っていてはサヨリさんを守ることができない。この状況で何匹倒せる? アヤネさんの言うとおり、守りながら戦うのは至難のわざ。やはりふたりを逃がすため、ひとりが犠牲になるのが最善の選択だったのか。このままでは本当に3人とも……。
自決用の手榴弾?
思考が停止し頭の中が真っ白になった。その真っ白がジワジワと頭からはみ出し全身を包み込む。うわ。なんだこれ。右も左もわからないぞ。上下さえもわからない。早く抜け出さないと! 必死に目を懲らすと、白い闇の中に髭面の男の姿の姿が浮かび上がった。
誰?
「御託をならべている暇があったら戦え、この薄鈍めが」
そうだ。
何匹倒せるかではない。俺ひとりで全部倒せばいい。
自決用の手榴弾? ふざけるな。
ツチグモごとき俺ひとりが全て倒す。