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はじまりの島で君を待つ  作者: かじかけい
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今の、忘れなさい!

 伊武木戸雅巳オリジナルが釈放された。三柏側はあくまで被害者であるという主張を貫き、国家公安警察はこれを認めざるを得なかった。三柏側の武装は法の定める範囲内(この世界では民間の武装が認められている)にあり、巡視艇を沈めることが出来る兵器を海洋調査船『かいじん』に見つけることが出来なかったのだ。

 また海上保安庁が警告なしに海洋調査船を攻撃する動画が公開され、世論の政府への批判が強まったことも大きく影響した。テレビ各局が繰り返し放送したことで「炎上」したのだ。もっとも動画はチャラ男により巧妙に編集されていたわけだが……。現在、内閣総辞職と解散総選挙の気運が高まりつつあるという。チャラ男は雅巳オリジナルの釈放に合わせ壱岐島を出た。


 そんな政治的動向の外で、俺は毎日カスミさんにいびられ……しごかれていた。カスミさんは竹刀、俺は神剣と同じ重さに作った木刀を使っている。両刃の真剣を剣道のように振り回すと自分自身を切りかねない。まずは木刀で剣捌きの基本を憶えるのだ。とは言え木刀である。俺はともかくも、まかり間違ってカスミさんに当たったら大怪我だ。「打撲じゃ済まないですよ」と言ったら「当てられるものなら当ててご覧なさい」とカスミさんは竹刀を片手でクルクル回した。

 むかつく。こうなったら何がなんでも当ててやる。当たって大怪我して泣いたって知らないからな……と意気込んだものの、これがものの見事に(かわ)される。ある程度カスミさんの剣捌きを目で追えるようになってきたのに、一本も取ることができない。感覚としては常に俺の紙一重上を行く感じ。どうやら俺が紙一枚上達すると、紙一枚レベルを上げているらしい。そんな状態がかれこれ十日ほど続いている。


 今日はサヨリさんが縁側で見学。このあと神剣の使い方を教えて貰う予定。これまでにも瞑想や気の巡りを整える呼吸法を教えて貰ったけど、神剣の使い方を教えて貰うのは今回が初めてだ。しかしここ数日どことなくサヨリさん、元気がない。霊力を消費したせいなのか、これからの動向を憂いているのか、それは分からない。分からないがとりあえずサヨリさんにちょっと良いところを見せたかった。多少は成長していることを知って貰いたかった。

 粋がって上段から打ち込もうとしたところ、痛烈な籠手を打たれた。思わず木刀から手が離れる。その木刀がカスミさんの顔面に! 喉から心臓が飛び出るほどギクリとしたが、カスミさんはそれを当たり前のように躱した。ほとんどゼロ距離の木刀を躱すとは! こりゃ、勝てるわけがない。

 カスミさんがじっとりと俺を見た。

「今のは故意ですか?」

「とんでも無い! 事故です! ほら!」

 俺は両手をカスミさんに見せる。連日の稽古で手に出来たまめが潰れ、握力も腕力もギリギリの状態なのだ。でもカスミさんの表情は「それがどうした?」って感じ。

「早く拾いなさい」

 よくよく考えると今どき竹刀で人を殴るだなんて。俺の世界だったらパワハラどころか立派な傷害罪だ。訴えたら絶対勝てるよな……てなこと考えながら草むらの木刀を拾い上げたところ、古びた軽トラがやって来た。

 田井中雄三さん。伊武木戸に頼まれ、俺たちの面倒を見てくれているおじさんだ。70近いらしいけど、物腰が若々しいのでお爺さんって感じはない。時々こうして食料や日用品を街から届けてくれる。

「やぁ、カスミちゃん。稽古かい? 精が出るねぇ」

「いつもすみません。彰人!」

 助かった。少し休憩できる。荷下ろしのため軽トラへ。

 積まれたダンボール箱のひとつにジャガイモが詰まっていた。フライドポテトをえらく気に入ったカスミさんは、秘密研究所で食べた味を再現すべく日夜研究しているのだ。おかげでフライドポテトが毎日食卓に並ぶ。若干食傷気味だが、これだけはいくら食っても嫌みを言われないので、ほとんど俺の主食になりつつある。その箱を抱えようとしたところ……。

「ドサッ」

 田井中さんが野菜の入ったダンボール箱を落とした。

「大丈夫ですか」

 転がるタマネギを追いかける俺。けど田井中さんは突っ立ったまま。

 え? なに? 脳卒中でも起こした?

 見上げると田井中さんは一点を見つめ固まっていた。視線の先にはサヨリさん。ああ、そう言えば田井中さん、サヨリさんがここにいることを知らされていなかったっけ。確かにそんじょそこらの美人とは訳が違う。思わず見とれてしまうのはわかるけど、荷物を落とすだなんてコントじゃあるまいし。俺はもう一度「大丈夫ですか」と声をかけた。

「あの方は?」と田井中さん。

 どう答えたら良いのだろう。カスミさんが代わりに答えてくれた。

拠所(よんどころ)ないお方です」

 拠所(よんどころ)ないお方。なるほど、こう言えばいいのか。しかし時代劇以外でこんな言葉を使うのを初めて聞いた。

「母方の先祖は日露戦争前、対馬に住んでおった」

 は? なんのはなし?

「着の身着のまま小舟で逃げ、かろうじて壱岐までたどり着いたという。そのとき偶然持ち出した、今でも仏間に飾ってある一枚の写真。わしが小さい頃、曾祖母が幾度も話してくれた。ここに写っているのは女神様なんだよと」

 まさか。

「生き写しではないか、その女神様に!」

 田井中さんは数歩サヨリさんに近づいたところで跪いた。腰が抜けたらしい。歴史から抹消された女神様だけど、こうして語り継ぐ人たちが今もいるのだ。

「田井中さん」

 カスミさんが田井中さんの肩に手を置く。

「それは違います。女神ともあろう存在がこのような四阿(あずまや)に……」

「初恋の人なのだよ」

「はい?」

「その写真を眺めながら、こんなに美しい人がこの世にいるのかと幾度ため息をついたことか。それをどうして間違えると言うのだ。ああ、当時の記憶が頭の中に溢れる!」

 なんか、ご自分の世界に入り込んでしまった様子。カスミさんの話なんか聞いちゃいない。

「あなたは道主貴(みちぬしのむち)様ではありませんか!」

 縁側でこちらをぼんやりと眺めていたサヨリさんが答えた。

道主貴(みちぬしのむち)は死んだ。島を捨てたその刹那に。神はその土地と民無くして生きてゆけない。他人のそら似だ」

 納得したのかしなかったのか。田井中さんは帰って行った。


 荷物を屋敷に運び入れたあと訓練を再開。今度はサヨリさんを教官に、神剣の初トレーニングである。周りに被害が及ばないよう、海の見える高台まで上がった。

「そこの灌木を切ってみせよ。まずは呼吸から」

 ここで言う「切る」とは直接刃で切ることではない。他空間から何かしらのエネルギーを取り出すことを意味する。また「呼吸」とは身体を巡る気の流れを整えること。丹田とかチャクラとか呼ばれている「気を溜める場所」に意識を集中し呼吸するのだ。初めはなんのことだかさっぱり分からなかったが、サヨリさんにガイドして貰うことで多少はコツが摘めた。分かりやすく言うと腹式呼吸の発展版と言った感じ。

 しかし俺は3メートルほど離れた立木を前に途方に暮れていた。剣を構え習った呼吸法を試みたものの、秘密研究所での体験が思い出せない。どうやったのかさっぱり憶えていないのだ。ふたりが神妙な面持ちで俺を見ている。特にカスミさんが異常に警戒しているのがわかった。万が一に備えサヨリさんを守るためだ。あまり待たせるのも申し訳ないので、溜めた気を吐きながら「てぇい!」と剣を振り降ろしてみた。当たり前のように何も起きない。

「空を裂くのはさすがに難しいか。では(ゆが)めるところから始めよう。枝が切れゆく様子を具体的に思い浮かべてみよ」

 今度は歪める? ぜんっぜん意味分かんねー……。分からなかったが分からないなりに「やぁ!」とか「うりゃあ!」とか色々声を出して振ってみた。やはり葉っぱ一枚揺れない。サヨリさんが冷めた目で言った。

「たわけているのか?」

「いや、これ、マジ。マジですって!」

「まったく」

 サヨリさんは俺の背後に廻ると後ろから抱きしめるように俺の腕をとった。身体が密着し、背中に豊かで温かく柔らかいものが当たった。そして鼻腔に広がる甘い香り! 全神経が背中に集中し、身体が硬直した。もはや神剣どころではない。持っている感覚もなかった。そして耳元にサヨリさんの囁き声。 

「左上の一本だけ飛び出した枝、あれを切るぞ。そうだな、包丁で菜を切るのを思い浮かべると良いだろう」

 無理無理無理! 何ーんにも思い浮かばない!

「もっと肩の力を抜け」

 サヨリさんの息が耳にかかり、全身に鳥肌がたった。俺はサヨリさんに操られるマリオネットように剣を振り上げると、そのままカクンと下げた。剣になにか引っ掛かる微かな感触。

「出来るではないか」

「え?」

 見るとその枝が地面に落ちていた。

「その調子で今一度」

「あれって俺がやったんですか?」

「今一度試せば分かることだ」とまた耳に息をかけた。

「い、いっかい離れてください、いっかい!」

 腕を振り解きサヨリさんから離れた。これ以上密着していては、確実にその反応が身体に現れる! 

「ふむ。何となく仕掛けが分かった様な気がする。宮路彰人には触媒が必要なのだ、神剣の力を引き出すのに」

「しょくばい?」

「今一度試してみよ」

 呼吸を整え神剣を構え直す。

 包丁で菜を切るイメージって言ったな。家庭科の授業でカレーを作ったのが唯一の料理体験。そのとき切ったニンジンを思い浮かべる。生のニンジンは意外と固い。慎重に刃を入れないと結構危なかったりする。刃を当てゆっくりと力を入れていけば……。

「ガサッ」

 さっきと同程度の大きさの枝が地面に落ちた。今確かに手応えがあった。何かを切った感覚があった。コンクリートの壁を切り裂いた時の事がフラッシュバックする。汗がドッと出た。

 その気になれば何十人もの命を一瞬にして奪うことができる。以前ほどの恐怖は無いものの、神剣とはそう言った存在であることを再認識した。技術的なことはもちろん、使用者の人格も問われるべきものだ。なのに俺はサヨリさんに後ろから抱きしめられただけで自分を失ってしまった。本音としてはあのまま密着していたかった。カスミさんが見ていなかったら、背中に当たる柔らかな感触をもっと堪能したかった。こんな色ボケクソ童貞に神剣なんて使いこなせるわけがない。いや、使っちゃいけないだろう。

「宮路彰人。お前は勘違いをしている」

 勘違い?

「お前は依り代だ。お前が神剣を使うのではない。神剣がお前の身体を使うのだ。彰人はこれを俯瞰しなければならない。その上で神剣を制御抑制するのだ」

 使う側ではなく、使われる側? なのに抑制?

「その点、お前の性質は最適と言える。煩悩が……絶妙な集中力の無さが完全な憑依を退けている。この強弱と俯瞰を体得できれば、神剣はお前のものとなるだろう」

 まさか煩悩まみれであることが褒められるとは。そして「煩悩こそが無に到達する近道である」という俺の悟りが正しかったとは。

 その晩俺は色んな意味で悶えた。触覚・聴覚・嗅覚に残る鮮明なサヨリさんの感触に悶えた。カスミさんには申し訳ないが、比較にならないほど女性を感じた。そして何よりも神剣が内包する力に悶えた。天羽々斬でこれだ。神殺しと呼ばれる天之尾羽張は? サヨリさんが剣呑なるものと呼ぶ天叢雲剣は? 底の見えない力に煩悶した。


 翌日も朝からカスミさんのしごき。そしてボロボロになったところでサヨリさんの神剣講座。体力を使い切ったぐらいが、肩の力が抜けて良いらしい。再び高台まで上がり枝の伐採訓練。同じ力で同じ切り方が出来るようになれという。ほとんど剪定作業をしている植木屋さん状態。もしくは板前さんの修業。そのうち丸太の桂剥(かつらむ)きでもやらされるんじゃないか。

「ムラがある。もっと押し(なら)すように」

 サヨリさんが再び俺の背後に廻り腕をとる。またまた背中に豊かで温かく柔らかいものが!

「また肩に力が入っている」

 だからそれ、サヨリさんのせいだって!

「えーっと、横文字でなんと言ったか。りらくり?」

「リラックスのことですか?」

「そうそう。りらくす。あまり気負うな」

 そう言って今度は俺の身体をまさぐりだした。

「うわわわ! 何やってるんです!」

「だからりらくす」

 まさぐるサヨリさんの手がだんだん下半身へと下がってゆく。

「ちょ、ちょっと! カスミさん、助けて!」

 そのカスミさんは俺たちを見ていなかった。見ていたのはこちらに向かって登ってくる年齢高めの島民集団。男女合わせて9人。先頭は田井中さん。最後尾には杖をつき、歩くのもやっとなお婆さんが少し離れて登ってくる。集団はサヨリさんを見つけると遠巻きにした。

「間違いない。ほら、この写真に生き写しだ!」

 田井中さんが小さな写真立てを集まった人たちに見せる。全員が驚きどよめいた。もう少し口の堅い人に世話係をお願いできなかったのかねぇ、チャラ男も。

道主貴(みちぬしのむち)の女神様、この地にお帰り頂いたのですね!」

 サヨリさんがため息混じりに呟いた。

「難儀なことだ」

「ここに集まったのは沖津島を信仰する者達です。曾祖父の時代からお帰りをお待ちしておりました。どうかお言葉を!」

 目を少年のようにキラキラさせながらサヨリさんを見つめている。ここまで信仰されているとは。いっそのこと、名乗り出てあげれば良いのに。

「民と土地を捨てたこのわしが、今さら道主貴(みちぬしのむち)を名乗れようか」

 カスミさんがサヨリさんの前に立ちはだかり言った。

「田井中さん。我々のことは詮索しないと、伊武木戸氏と約束されたはずです。お引き取りください」

「カスミちゃん、あんたにはわからんだろうけど、沖津島信仰はわしらの拠り所なのだ。ロシアに先祖を殺され故郷を盗られた。これを命がけで取り戻してくれたのが道主貴(みちぬしのむち)の三女神様だ。姫巫女伝説などという生やさしいお伽噺じゃない。道主貴(みちぬしのむち)は我らの女神様なのだ!」

 そう言って押しのけようとした田井中さんの手を、カスミさんが掴んだ。

「手荒な真似はしたくありません。お願いします」

「何をする、離しなさい! カスミちゃんでも許さんぞ! これでも若い頃は消防団の副団長を……あれ? カスミちゃん、ずいぶん力が強いな。離しなさいって言っておろうが」

 そのとき頭の奥で何かを感じた。ちょっと懐かしさのある不思議な感じ。思わずサヨリさんを見ると、サヨリさんも何か感じたようで空を見上げていた。その視線の先を追う。遠くに小さな白い点。それがこちらに向かって飛んで来る。結構なスピードだ。飛行機? 近づくにつれその形がだんだんハッキリとしてくる。見覚えのあるその形は……巨大なアヒル、天鳥船だった。島民たちもこれに気付き騒然となった。

 天鳥船は俺たちと島民の間に割って入るように着陸した。油を差したのか耳障りな金属音はない。屋根には補修のあと。中から現れたのは巫女衣装に身を包んだ茉菜とブナタロウだった。懐かしさはこれか! 茉菜の背にはあれほど嫌っていた天之尾羽張。茉菜は天之尾羽張を鞘からスラリと抜くと、島民たちに向かって叫んだ。

「わたしは道主貴(みちぬしのむち)ゆかりの者です! サヨリヒメ様への無礼はこのわたしが許しません! この天之尾羽張がモノを言いますよ!」

 合いの手を入れるようにブナタロウが「うおん」と吠えた。

 島民全員が「ぽかーん」と茉菜を眺める。

「早く下がりなさ……あれ?」

 啖呵(たんか)を切っている相手が、だいぶん年齢高めであることに気が付き、茉菜が戸惑ったようにこちらに振り返った。

「この人たちは?」

「茉菜、あれらはこの島の民だ。土地柄ゆえ伊武木戸に何かしらの縁があるが、みな善人ばかりだ」

「そ、そうでしたか。てっきりこの高台に追い詰められているのかと……。とにかくご無事でなによりです、サヨリヒメ様」

「茉菜も息災……どころか(みなぎ)っているな。まさか彰人が神器を使った波動を感じ、ここまで飛んできたのか?」

「はい。大変微弱でしたが、昨日から何回も繰り返してくれたので、正確な方角の特定が出来ました。祭主様がこの方角なら壱岐島ではないかと」

「なんと無鉄砲な。しかし天鳥船をあんなに速く飛ばすとは」

「祭主様にさんざん鍛えられましたから……それよりも早く天鳥船へ! 伊武木戸が来る前に脱出しましょう! 彰人くんもカスミさんも……カスミさんがいない? さっきいたよね?」

 島民のひとりが言った。

「田井中さん、あのでかいアヒルは田井中さんにも見えているかね」

「見えている。幻ではない……と思う」

「アヒルから降りてきた女の子も見えるかね」

「見える」

「じゃ、あれも女神様なのかね?」

「いや、あの顔は……」

 写真を確認する田井中さん。

「無いな」

 すると後ろから「うひゃひゃひゃ」と下品な笑い声が上がった。杖をついたお婆さんである。左目には大きな眼帯。よくここまで登ってきたなって感じ。

「あんなタヌキ顔、女神であろうはずがない。女神に仕える(はしため)のひとりだろうて」

 茉菜が顔色を変えた。

「たぬき? はしため?」

 剣を背の鞘に戻すとそのお婆さんのもとにツカツカっと歩み寄る。

「タヌキ顔なのは言われなくても知ってますぅ! それでも道主貴(みちぬしのむち)ゆかりの者なんですぅ! 毎日修行しているんですぅ!」

 田井中さんが怪訝な表情を浮かべ、眼帯婆さんに言った。

「あんた誰だ? いつからいる? 島のもんじゃなかろう?」

 島の人じゃない?

 眼帯婆さんの腕が茉菜の首にスルリと絡みつく。あっという間に動きを封じると、刃先の黒いナイフを首に押しつけた。

「やぁ、茉菜ちゃん。ずいぶんと勇ましくなったじゃないか」

 その声はアヤネさんだった。アヤネさんが老婆に変装していたのである。

「カスミ! 両手が見えるように出て来い! そこに隠れたのは知っている!」

 立木の影から両手を上げたカスミさんが姿を現す。

「それでいい。そう易々と逃げられてたまるものか」

「アヤネさん!」と思わず叫んだのは俺。

 全治三ヶ月の重傷って聞いていたけど、人質を取れるほど元気じゃないか!

「もう大丈夫なんですか!」

「な、なに?」

「ごめんなさい、あの時の記憶が全くないんです。本当はお見舞いに行きたかったんですけど神戸の病院にいるって……目は? ちゃんと見えるようになるんですか?」

「おまえ、少し黙っていろ。調子が狂う!」

 茉菜が静かに言った。

「安川さ……じゃなくてアヤネさん。わたしは昨日までの宮地茉菜ではありません。そんな脅しには屈しません」

「ほう? どうするって言うんだ? 神剣を抜くか? それともイヌをけしかけるか?」

「それにアヤネさん、とても体調が悪そうですね。熱があり息が荒い。相当気が乱れている。身体からは血と汗と薬と消毒液の匂い。大怪我をしたようですね。本当は立っているのも、やっとじゃないんですか?」

「ふん。それでもお前の喉をかっ切る力は充分あるぞ。人のことより自分の心配をしろ」

 茉菜は深呼吸すると祝詞を唱えだした。

「よつのうみいつつのくにのあるじたる……」

「……な? ば、馬鹿野郎! 本当に殺すぞ!」

 サバイバルナイフの切っ先が茉菜の皮膚に食い込む。

「止めよ!」

 怒号がその場にいた全員を凍らせた。サヨリさんの言霊だ。やはり足がすくむ。魂が萎縮する。アヤネさんの手からサバイバルナイフがこぼれ落ち、地面にサクッと刺さった。茉菜の首から赤い筋がツーっと流れる。島民の皆さんは腰を抜かし、その場で全員が座り込んでしまった。

「アヤネ。わしは何処にも行くつもりはない。だから脅す必要はない」

 茉菜が顔色を変えた。

「いったい何を仰っているのですか?」

「茉菜。覚悟の出迎え幸甚に思うが、今はまだ戻れない」

「何故です?」

「伊武木戸の動向を見たい」

「伊武木戸は政府の転覆を狙う国家の敵ですよ?!」

「叢雲が伊武木戸の手にある。またヴリルという共通の敵もいる。雅巳と言う男の素性をもう少し知りたい」

「しかし……」

「とりあえず……。アヤネ、おまえは充分自分の勤めを果たした。もう休め」

「よ、余計なお世話……」

「や・す・め」

 サヨリさんが言霊の念押しをすると、アヤネさんの目が虚ろになり、その場に崩れ落ちた。俺は茉菜に駈け寄る。茉菜がギョッとした顔で俺を見た。

「血が出ている。これで押さえて」

「ま、待って、触らな……」

 持っていたタオルを首に押し当てた瞬間。

 バチッ!

 すっかり忘れていた。

「しまった」と思ったときには遅かった。

 身体に衝撃が走る。けど前みたいに気を失うことは無かった。代わりに見たのは映像。やたら肌色が多く、一瞬なんなのかよく分からなかったが、やがてそれがエロ映像であることがわかった。俺主観の……。

 それは実体験としか思えないほど生々しいものだった。童貞の俺が言うのもなんだけど、過去に経験したエッチを詳細に思い出しているような感覚なのだ。匂いや触感まで記憶の奥底から蘇ってくるようだ。そして何よりも問題なのはその相手である。なんと……茉菜なのだ。

「うわ!」

 自分の叫び声で我に返った。目の前に茉菜の顔。その顔がみるみる紅潮してゆくのを見て確信した。お互い「同じもの」を体験したらしい。茉菜が背から天之尾羽張を抜くと振りかぶり言った。

「今の、忘れなさい!」

(あぶ)っ!」

 ガキン。

 訓練の成果か、茉菜の一撃を間一髪受けることができた。受けた天羽々斬を見てびっくり。

「ば、馬鹿! ちょっと欠けちゃったぞ!」

「誰が馬鹿よ! このエッチぃー!」

 再び振りかぶる。茉菜の身体がむわっと膨張するように光った。ヤバい。こいつ、完全に我を失っている。躱さずに受け止めないと、足元に倒れているアヤネさんが無事では済まない。 

 ドシン。

 二太刀目は階上から冬用の綿布団を投げつけられたような衝撃。重い。めっちゃ重い。支えるのがやっとだ。

 こっちも本気出さないと……殺される?

 三度天之尾羽張を振りかぶったとき、俺と茉菜の間に入ったのはサヨリさんだった。ひとつ間違えば一刀両断のタイミング。茉菜が歯を食いしばり、辛うじて踏みとどまる。

「さ、サヨリヒメ……」

「お前も休め。電気冷蔵庫にわらび餅があるぞ」

 すっかり毒気を抜かれた茉菜が「はい」と答えた。


 気を失ったアヤネさんを屋敷まで運び布団に寝かせた。茉菜の言うとおり熱があり病院の匂いがする。着ていた変装用の野良着をめくると、金属製の装具で固定された右腕が現れた。包帯やガーゼには茶色く変色した血。ずれたガーゼの下からは黒いナイロン糸で縫われた生々しい手術痕。左腕に無数の注射針のあと。胴に鎧みたいなコルセット。簡潔に言うと重病人。こんな状態で病院から抜け出すとは普通じゃない。

 外では田井中さんたちが依然サヨリさんに食い下がっていた。これを阻止するはずのカスミさんはブナタロウに追い回されている。静かだった島の暮らしが急に賑やかになった。

「アヤネさん大丈夫?」と隣の部屋から茉菜が現れた。首には自分で貼った小さな絆創膏。幅2ミリ深さ2ミリの小さな切り傷とはいえ、傷を付けた相手を気遣うとは。さっきの反応からは考えられないほどの大人対応。いったいどう言う精神構造なんだか。

「こんな状態でよくここまで来られたなってかんじ」

「そう」

 茉菜は俺から少し離れて座ると気まずそうに言った。

「さっきは……ちょっと自分を見失った。一応謝っておく。ごめん」

 どこが「ちょっと」だ。なにが「一応」だ。神剣持っていなかったら、大怪我どころでは済まなかったぞ……と思ったけど、ここは俺も大人の対応。

「わかるよ、あんなもの見ちゃったら……」

「ストップ! 今はその話、したくない。思い出したくない。きっと何か意味があるのだろうけど、今は無かったことにして。でないと恥ずかしくてまともに話もできない」

「わかった。今は忘れる。もう忘れた」

 忘れられるわけがない。チューをした感覚、肌に触れた感覚がハッキリクッキリ残っているのだ。ともすれば下半身が今にも反応しそう……。

「彰人くん、だいぶんしごかれたようだね」

「え?」

「身体中アザだらけ。それ竹刀で打たれたんでしょ。カスミさんに」

「ああ。つきさっきまでしごかれてた」

「わたしと同じだ」

 良く見ると茉菜の腕にもアザがあった。ガキんちょに叩かれたのだろう。カスミさんはともかくも、ガキんちょも相当な体育会系らしい。

「で、これ、彰人くんがやったって?」

 これとはアヤネさんの怪我のこと。

「らしい」

(ひど)。鬼だね」

 お前に言われたくない! と思ったけど事実なので沈黙。

「しかも天羽々斬で空を切ったって?」

「どうやったのか良く憶えてないけど」

「凄いね。わたしはまだ出来ない。『歪める』のにやっと成功したところ」

「でも雷、落とせるんだろ?」

「ああ。あれはハッタリ。雷なんか落とせないよ」

「え? マジ? そんな状態でここに乗り込んできたのか? よくあのガキんちょ……祭主様が許したな」

「勝手に飛び出してきちゃった。祭主様、怒っているだろうなぁ」

 天鳥船による無許可飛行。敵地への単独殴り込み。喉もとにナイフを突き付けられてのハッタリ。正直、どれをとってもまともな女子高生がやることじゃない。茉菜って実は祭主様以上に危ないヤツなのでは?

「大丈夫なのか?」

「オオヌサで引っぱたかれると思う。結構痛いんだ、あれ」

「いや、そうじゃなくて。天之尾羽張を嫌っていただろ?」

「サヨリヒメ様が身を挺してわたしたちを助けてくれた。好き嫌いを言っている場合じゃない……と思って祭主様にお願いして修行した。そうしたら意外と平気で」

 茉菜は神剣を使うのに加え、天鳥船をジェット機のように飛ばす。能力的にはたぶん俺以上。それでいて精神的には俺以上に難あり? こいつが敵になったらマジヤバいかも。カスミさんの「茉菜を殺せますか」のひと言が頭をよぎる。

「で、彰人くんはこれからどうするの? 彰人くんも伊武木戸の様子を見るつもり?」

 この世界の日本において、ナチスの脅威を正しく理解している人間は俺とチャラ男しかいない。チャラ男は信用できる人物とは言い難いが、実行力と財力と政治力がある。これに神剣とサヨリさんの威光が加われば、親ナチス派の排除は可能かも知れない。けど。

「その親ナチス派が排除されたあとは? 力を持った伊武木戸が好き勝手やり始めたら? それは誰が止めるの?」

 そうなのだ。チャラ男は現政権をひっくり返すと宣言している。どうひっくり返し、どんな国にしようとしているのか。具体的な話は聞いていな……聞いたような気もするが、良く理解できなかった。

「雅巳さまは国を憂いていらっしゃる」と言ったのはアヤネさんだった。

「アヤネさん、起きてたんですか?」

「伊武木戸は古代より天子様に仕えてきた一族だ。天子様に……国家に仇なす行為はけしてしない」

「けど、異世界人……虚人ですよ」

「わたしが言っている雅巳さまとは、この世界の雅巳さまのことだ。我が一門は代々伊武木戸の御庭番(おにわばん)を勤めてきた。中でもわたしは雅巳さまの直属だ。そのわたしが言うのだ。間違いない」

 早い話、家族ぐるみ親戚ぐるみのお付き合いだと。

(くわだ)ては虚人が起こしたものではない。雅巳さまが起こしたものだ。虚人はヴリルの本性を(つまび)らかにし、企てを後押ししたに過ぎない。あの虚人は正直あまり好きじゃないが、汚れ役を自ら買って出た覚悟は認める。だからわたしはあの虚人も『雅巳さま』として仕えている」

「じゃ、チャラ男がいなくても、いずれは行動を起こしていた?」

「活発化したヴリルの動きに先んじることができた。この点においても……くそ、身体が動かない。どうなってるんだ、あのクソ女神め」

「クソ女神は取り消してください!」

 そう言った茉菜をアヤネさんが右目だけ動かし見た。

「祝詞がハッタリとは。わたしもヤキがまわったものだ」

 けっこう前から聞いていたみたい。

「気が付けば廻りは化け物だらけ。これじゃあ、命が幾つあっても足りやしない」

「あの、化け物って俺のこと?」

「お前たちのことだ。こんなクソガキにここまでボロボロにされるとは思ってもみなかった」

「本当にごめんなさい。失明は免れたって聞きましたが……」

「良心の呵責(かしゃく)ってってやつか? 止めておけ、忍者には無用だ」

「でも……」

「そんなに気になるのなら潰れた目ン玉、見せてやろうか。自分で見てもクソおぞましいぞ。医者が言うには0.01ぐらいには見えるようになるらしいが」

「……いえ、遠慮させていただきます」

 0.01ってどのぐらいなんだろう。それにしても随分口の悪い人だな。

「ところでアヤネさん、素人目にもとても歩ける状態じゃないです。そこまでしてこの島に来た理由を教えてください」

「せっかく手中にした女神に人を付けていないと聞いたからだ。こんなふざけた話があるか」

「でもそれはサヨリさんがここを離れるつもりが無いってことを、チャラ男が知っていたからでしょう? だから監視など必要ないのでは……」

「ヴリルが逃げたのを聞いてないのか? お前らが捕らえた連中だ。転んでもただでは起きないクソ連中なのは知っているだろう」

 ナチスが逃げた? そんな話、聞いてないけど……と答えようとしたとき、耳元で「それは本当か?」と囁き声がした。

「わ! か、カスミさん?」

 あの殺害宣言が頭に蘇る。俺は手を広げカスミさんとアヤネさんの間に入った。

「カスミさん、ダメだ! 無闇に殺しちゃいけないってサヨリさんも……」

「伊武木戸とは現在休戦中です。だから殺しません」

 さすがに重病人を殺すほど非道じゃないよなと安心するのも束の間。「死に損ないを殺しても面白くないですし」と付け加えた。いつかこの性格を直して上げたい。アヤネさんが掃き捨てるように言った。

「万全のわたしを、そう簡単に殺せると思うなよ」

「ああ、楽しみにしている。で、ヴリルが逃げたのは本当なのか」

「……4人のうち2人が逃げたらしい。1人は渋沢。行方は知れない。カスミの腕は疑わないが、数で来られたら対処出来ないだろう。それともそのクソガキの神剣で……」

 その時突如カスミさんが前につんのめり、アヤネさんのオナカあたりに「ドスッ」と顔を埋めた。

「ぐっ! 身体が動かないのを良いことに、(なぶ)りものにする気か? こっちは脾臓摘出で腹に穴が……」

 けして頭突きを食らわせたわけではない。ブナタロウが後ろからカスミさんを突き倒し、上に乗っかったのだ。カスミさんは身体を起こそうとジタバタしたものの、ブナタロウは得意顔でビクともしない。格闘技のプロをこうも簡単に押さえ込むだなんて! まるで重量級の柔道選手のよう。

 アヤネさんがその様子を不思議そうに眺めながら言った。

「なにを……やっているのだ?」

「あ、彰人、早くこいつをどかしてくれ! 茉菜!」

 茉菜が「こらっ」とブナタロウの首輪を掴み引っ張るがビクともしない。

「カスミ……おまえ、ひょっとしてイヌがダメなのか?」

「……ち、違う! この白いのが少し苦手なだけだ!」

(かすみ)を名乗るクノイチの弱点がイヌ? 冗談だろ?」

 その顔にはパークウエイの駐車場で見たのと同じ嘲笑。

「休戦が終わったら殺す! 必ず殺す!」

 ふたりと一匹が楽しそうにじゃれ合っている中。

「あ」と思った。

 それは覚えのある不穏な気配。心の奥底から湧き上がる不安。でも以前感じたものとは少し違う。茉菜もこれに気付いたようで、俺の顔を見た。

「なにこれ?」

「天叢雲剣だ。たぶん」





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