なんで知っているのよ?
道を見失った。
見渡す限りの緑。噎せ返るような森の香り。ほんの数十メートル林道から離れただけなのに、最早どの方向からやって来たのかさえわからない。スマホはもちろん圏外だ。山菜採りのお年寄りが裏山で遭難する話は聞いたことがあったけど、まさか自分がこのような状況に陥るとは思ってもみなかった。
まずは落ち着け、俺。
朽ちた倒木に腰掛け、ペットボトルの水を口に含み考える。そんなに大きな山ではない。とにかく斜面を下ろう。下れば必ずどこかに出る。仮に日が暮れたとしても真夏だ。最悪山の中で一晩過ごしても死ぬことはない。たぶん。
少し休憩してから下山を開始した。雑木林を突っ切る強行軍だ。手や腕が笹の葉に擦れてかゆい。進めど進めど景色は変わらず、この選択は間違いだったかと後悔し始めたころ、不意に視界が開けた。高さ7メートルほどの崖。下に渓流が見える。大和川に注ぐ川の一つに違いない。これを伝って歩けば街に出られるかも。しかし川沿いに進める道が見当たらない。よし。ここは崖を降りて川の中を歩くことにしよう。上から見る限り川の深さは精々膝程度だ。
木の根に掴まり崖を下ろうとしたところ、空が光った。まぶしいなんてもんじゃない。目を閉じても光が見えるぐらいの光量だ。目が眩んだ拍子に足を滑らせた。掴んでいた木の根がブツリと切れ身体が宙に投げ出される。
ヤバい。この山に俺が入ったことを知る者はいない。足でも折ったらマジ遭難である。たとえ救出されても数日後に控えた高校初の夏休みは確実に台なしとなる……。しかし俺の予想に反し、落ちた川は足が付かないほど深かった。身体が水に沈み込み、水流音が直接頭蓋骨に響く。どう言うことだ? 上から見たときは精々膝くらいの深さにしか見えなかったのに!
流れは速く渦巻いており、必死に水を掻いても一向に水面にたどり着かない。衣服が身体に纏わり付き自由に動けないのだ。何も出来ないまま流され、再び身体が宙に浮いた。この時俺が思ったのは死でも家族や友人の顔でもない。「スマホ水没」の五文字である。高校進学のお祝いに買って貰ったばかりだったのだ。
スマホ水没。最悪だ。
「大丈夫か?」
川辺に這い上がり息も絶え絶えの俺に声をかける女がいた。体力を使い果たし顔を上げる気力さえ残っていない。わずかに目を開き、声のした方に眼球を動かす。湿った砂利の上に白くほっそりとした裸足が見えた。
「どうやってここに入ってきた? おまえは何者だ」
女がしゃがみ、濡れた長い黒髪を手で押さえながら俺の顔を覗き込んだ。その姿を見て「ああ、俺は死んだんだ」と思った。なぜならその女は一糸まとわぬ姿だったからだ。
部活が必須であることを知ったのは入学してからだった。進学にしろ就職にしろ、何かしらの部活動はプラスに作用するらしい。それ故の必須だという。最もポイントが高いとされるのはボランティア活動、次が体育系。よってウチの高校にはボランティア活動を行う部が二つもある。利を狙ってのボランティアって本当にボランティアなのって思っちゃうけど、昨今の社会はそんな青少年を求めるらしい。
ボランティアなんてガラじゃないし、体育系はしんどそうだ。結果選んだのは美術部だった。もちろん「絵を描くのが好き」という前提もあっての話。
放課後美術室で人物や静物を静かに描く。そんな優雅な部活を想像していたのに、美術教師でもある顧問の山崎先生が、文化系とは思えない想定外の熱血指導者だった。部員全員にスケッチ道具一式を持たせ、「自然は芸術を模倣することを証明せよ!」と訳のわからない号令をかけ毎度毎度屋外へ追い立てるのである。
幸か不幸か学校周辺は自然で一杯だ。川にはコサギ、アオサギ、カワウ、マガモ等がエサを啄み、すこし山に入ればサル、シカ、イノシシ、タヌキが現れるちょっとした野生の王国状態。解りやすい言葉に変換するとド田舎。
この日、田園風景を描くのにも飽きた俺は、高台からの街並を描きたくなって山に登ることにした。この御諸山はちょっと特殊で、山そのものが神社のご神体だったりする。なので登山には神社の許可と参拝料が必要だ。しかも登山口は神社の境内にある。いちいち面倒臭いこともしていられないので、裏の林道から登ることにした。山の手入れをするための、作業用登坂路である。この罰当たりな行動が、全ての間違いの始まりだったのだろう。
蜩の声に目が覚めた。
目の前に俺の顔を無表情に覗き込む女の子がいた。少し年上ぐらい。知らない顔だがかなり可愛い。声をかけようと口を開いたが、出たのは咳だった。マラソンを終えたような疲労感。頭の芯が重く胸が痛い。女の子は無言で立ち上がるとポニーテールを揺らし、襖を開け出て行った。作務衣? 作務衣を着ていたのか? 女の子の作務衣姿なんて、蕎麦屋の店員以外では初めて見たような気がする。
俺は畳の上で布団に寝かされていた。タオルケットが一枚掛かっている。上半身をゆっくり起こしたところでギクリとした。全裸だったのだ。慌ててタオルケットをたぐり寄せ辺りを見回す。襖が開け放たれており、田の字作りの古民家であることがわかった。タオルケットを腰に巻き、襖から顔を出し様子を伺う。縁側でさっきの女の子が、ノートパソコンの前で胡座をかいているロングヘアの女に話しかけている。パソコン女が何か言うと、女の子はポニーテールを揺らし奥の部屋へと消えた。
パソコン女に声をかける。
「あ、あの……」
かすれた声が出た。また少し咳き込む。パソコン女がゆっくりとこちらを見た。整った顔、切れ長の目、意志の強そうな眉と唇。芸能人と見紛うオーラを放つ美形だった。しかし着衣は裾の短いブルージーンズと「千客万来」と書かれた白いTシャツ。あまり良い趣味じゃない。年齢は二十代後半と言ったところだろうか。
「すみません。ここは何処でしょう。あの、俺の服は……?」
「おまえは何者だ」
声の主は岸辺の裸女に違いなかった。この人が俺をここまで連れてきたのか? この人が俺の服を脱がせここに寝かせたのか? さっきの女の子と一緒に? ハズいなんてもんじゃない、最悪だ。わき上がる羞恥心に目眩を憶えたが俺は続けた。
「絵を描きに山に登ったのですが道に迷って……」
「ほう。それで沐浴を覗いておったのか?」
「ちげぇ……じゃなくて違います! 俺は崖から落ちて、それで……!」
沐浴という言葉に、白い膝の間に垣間見えたものを思い出した。そうだ。俺は見てはいけないものを見てしまったような気がする。しかもけっこう間近に……。
「沢に落ちて流されてきたのか! それで怪我一つないとは大した強運だな。ん? どうした? 顔が赤いぞ。具合でも悪いのか」
「な、なんでもないです。その、俺の服は?」
「外に干してある。自分で取りに行け」
タオルケットを腰に巻き立ち上がる。少しふらついた。頭がまだボーッとしている。
「し、失礼します」
パソコン女の前を通り縁側に出る。軒先に作られた物干しに制服と下着が干してあった。竿の端にはスニーカー。縁側に広げた風呂敷の上には水彩セットとボコボコになったスケッチブック、そしてスマホが置いてあった。
「これも運んでくれたんですか?」
返事がないので顔を向けると、女はパソコンに向かい背中を丸め、両手の人差し指でキーボードを不器用に叩いていた。見た目は若そうなのに物腰や仕草は妙に年寄り臭い。いったい幾つなんだろう。服を取り込み障子の陰で身につける。生乾きだったが構わない。夏だ、直ぐ乾く。
家は屋敷と言って良いほどの大きさで、山中に不自然に開けた狭い平地にあった。こんな不便な場所にどうやって建てたのだろう。スマホを手に取り電源ボタンに触れてみる。完全に死んでいた。買ってからまだ三ヶ月しかたっていないのに! 最悪だ。保証って水没もカバーするんだっけ?
俺はタオルケットを畳み、パソコン女の前に正座すると頭を下げ言った。
「助けていたいただき、ありがとうございました。俺……僕は宮路彰人っていいます。よろしければお名前を教えて頂けますか」
パソコン女がむっつりと顔を上げる。
「名を聞いてどうする?」
「後日改めてお礼に……」と言いかけたところに、さっきの作務衣姿の女の子がお盆を手に現れた。お盆にコップがひとつ乗っている。膝をつき、お盆を俺の前に置くと、さささとパソコン女の後ろに下がり正座した。見た目といい、動きといい、なんか、その、忍者?
「飲め」
パソコン女がコップを手に取り俺に差し出す。コップには白く濁ったドロドロの液体が満ちている。手に取ると冷たかった。
「これ、なんですか」
「甘酒だ。疲労回復に覿面だぞ」
言われて極度に消耗していることに気が付いた。身体が激しく水分とエネルギーを欲している。遠慮している余裕などないぐらいに!
「頂きます」
一口飲んだ。ほのかな甘みと麹の香りが口一杯に広がる。飲み込むと糖と栄養が細胞の隅々まで行き渡るのを感じた。思わず一気に飲み干す。
「こらこら、もっとゆっくり飲め。むせるぞ」
「美味しい。甘酒がこんなに美味しいとは知りませんでした」
心からそう思った。
「甘酒は冬の飲み物と思われがちだが、実は夏負に効がある。冷やして飲むと格別だ。電気冷蔵庫は人類最高の発明品だとは思わんか? エジプトのクフ王も、秦の始皇帝も、これ以上の贅沢を味わった事はあるまいて」
俺は甘酒の旨さに舌鼓を打ちながらも、パソコン女の奇妙なしゃべり方に違和感を覚え始めていた。あるまいて?
「そ、そうだ。まだお名前を聞いていなかったんですけど」
「そんなに名を知りたいか」
「はい」
「なぜだ」
「なぜって……。助けて頂いた人の名前も聞かなかったなどと、父さ……父母に知られたら怒られます」
「なるほど。わしは滅多な事では人に名を明かさぬが、その殊勝な心掛けに免じて教えて進ぜよう。心して聞くがよい」
なにを勿体ぶっているのだろう。しかも「わし」って。面倒臭せぇ女……と思ったものの、俺は「お願いします」と答えた。
「サヨリと申す」
「サヨリ、さん? 名字は?」
「わしに名字はない」
名字がないとはどういう意味だろう。とたんに好奇心が湧き出る。
「なにをされている方なんですか?」
「今風に言うと……占い師かな」
なるほど。このしゃべり方は占い師としての「キャラ」なのか。「サヨリ」は芸名かペンネームなのだろう。
「こんな山奥で占いですか」
「今時はこれ一台あれば全て事足りる」
アゴでパソコンを指した。
どこのメーカーだろう。見たことのないロゴが付いている。
「そちらの方は? 妹さんですか?」
「ああ、これか?」
作務衣姿の女の子を振り返り言った。
「これはジジョのカスミだ」
「次女? 娘さんですか。随分大きな娘さ……」
「馬鹿者。侍女だ、侍女。身の回りの世話をする女」
お手伝いさん? この歳で働いているのだろうか。カスミと呼ばれた女の子は自身が話題になっているのに、眉一つ動かさずサヨリさんの後ろで正座している。
「今度はわしが問う」
「あ、はい」
「おまえは何者だ?」
「えっと、はい。宮路彰人、御諸山高校の一年生です」
「そうではない。どうやってここに入ってきたかと聞いておるのだ」
「ですから沢に落ちて……」
「ここは本来、並の人間が迷い込める場所ではないのだ。イノシシ一匹入ることは敵わん」
「すみません。仰っている意味がわかりません」
「物怪には見えんしなぁ」
サヨリさんが真顔で言うのをみて俺は悟った。この人は可哀想な人なのだ。訳あってここに隔離されているのだ。河原にマッパでいたのもこれで説明がつく。こんなに綺麗な人なのに! おそらくカスミさんはサヨリさんの介助人かなにかだろう。
「甘酒、ご馳走様でした。本当に美味しかったです。父と母も心配していると思いますので、ここでお暇させて頂きます。改めてお礼に伺いますので……」
「おまえ、今わしのことを『頭のおかしな女』と思ったであろう?」
「とんでもありません」
冷や汗が出た。
「話を上手く合わせて、早々にここを立ち去ろうとしておるだろう?」
「本当に父母が心配しますので……」
「気に入らんなぁ」
サヨリさんは腕を組み、口をヘの字に曲げた。
「世が世なら首をはねられても文句は言えんのだぞ」
うわ。とうとう物騒な事を言い始めた、本性を現した! 最悪だ。
なんとしても早くこの場を離れたい。けどここを飛び出しても街への道がわからない。再び山を流離うのは避けたい。このサヨリという女の機嫌を取り、道を教えて貰わなければならないのか。
「あの、電話をお借りできますか」
「電話などない」
「え? じゃ、そのパソコンはどうやってネットに繋がってるんですか?」
「聞くな。わしはパソコンには詳しくないのだ。全ては他人に任せておる」
俺はサヨリさんの肩越しにカスミさんに話しかけた。
「あの、そうなんですか?」
だがカスミさんは相変わらずの無表情で、なにも答えてくれない。俺のこと嫌いなのかな。気を取り直し、サヨリさんとのコミュニケーションに再挑戦する。
「あ、あの」
「ん?」
「占いをされているんですよね」
「うむ」
「どんな占いですか。星占いとか?」
「亀卜だ」
「き……」
聞かなければ良かった。
「八洲古来の占いだ。今ではすっかりすたれてしもうたが。そうだ、占ってやろう。おまえの正体もわかるやもしれん。生まれ年を教えろ」
「い、いいです! 僕、お金もありませんし」
「金など取らん。わしの興味で占うのだ。カスミ、用意を。彰人とやら、おまえも手伝え。火をくべなくてはならん」
火をくべる? 恐ろしく時間が掛かりそうだ。なんとしても遠慮したい! しかし立ち上がりかけたサヨリさんに、カスミさんがボソッと耳打ちすると「ああ、そうだった」と再び胡座をかいた。
「沐浴を邪魔されたので今日は占いが出来んのだった」
諦めてくれたとホッとしたのもつかの間。俺を睨んで言った。
「それどころか男の子の身体に触れてしもうた。この身を穢されてしもうた。どう責任をとってくれるのだ?」
「そんな大げさな! 触ったぐらいで穢れるだなんて!」
「いいや。わしにとっては大問題だ。それに見とうないものまで見てしもうたしな」
サヨリさんの視線が俺の下半身に落ちた。全裸で目覚めた時のことを思い出し耳が熱くなった。
「す、すみません」
「穢れを落とすのに何回沐浴をすれば良いのかのう」
恨めしそうに俺を見る。
「あの、何をすれば許して頂けますか」
「そうだな」
宙を仰ぎ、ふと思い当たると言った。
「小姓になれ」
「こしょう?」
「わしの世話をするのだ」
「カスミさんがいるじゃないですか」
「そういう意味の世話ではない。一度若い男を侍らせてみたいと思っておったのだ。良く見ると可愛らしい顔をしておるではないか」
やっぱり山を流離うことにしよう。
「帰らせて頂きます」
慌てて立ち上がる俺にサヨリさんが穏やかな笑みを浮かべ言った。
「すまん。冗談が過ぎた。そんなに怯えるな」
もうしばらく休んでいけというサヨリさんの誘いを丁寧に断り、改めてお礼を述べてから家を出た。日は既に傾き始めていた。学校に戻る頃には真っ暗かも知れない。
縁側の庭から連なる小道を、カスミさんがポニーテールを揺らし先導する。足元を見ると地下足袋を履いていた。名前といい、服装といい、髪型といい、本当に忍者っぽい。小道の脇には小さな畑。トマトやナス、キュウリなどの夏野菜が植わっており、どれも見事な実をつけている。八百屋で見るものと遜色ない。自給自足しているのだろうか。
カスミさんはおもむろに立ち止まると指さし言った。
「この小川を少し上ったところに滝壺があります。姫巫女様が沐浴をしておられたところに、あなたが滝から落ちてきたのです。落ち方によっては首を折っていたかも知れません。無傷とは本当に運が良い」
年齢に不相応と思えるぐらい落ち着いたしゃべり方だった。姫巫女様とはサヨリさんのことだろう。
「手を貸してください」
カスミさんが俺の手を取り、小川に向かって一歩踏み出す。
え? また川の中? と思ったとたん視界が歪み、地面がぐにゃりと波打つのを感じた。思わずカスミさんにしがみつく。
「あまり気安く抱きつかないで貰えますか」
目を開けるとカスミさんの顔が目の前にあった。澄んだ褐色の瞳が俺を見つめている。猫のようなしなやかな身体と甘い体臭を感じた。
「す、すみません!」
慌てて離れ辺りを見回す。目の前に林道、背後には雑木林。小川は跡形もなく消えていた。
「い、今のはなんですか?」
「結界です。本来常人が越えることの出来ぬもの」
「結界?」
「それを何をどう間違ったのか、あなたは越えてしまった。良いですか。今日見たこと、聞いたことは全て他言無用です。口にすれば命はありません」
「またまたぁ。そんな物騒な事言わないでくださいよ」
カスミさんが俺を睨み「誓ってください」と懐に右手を入れた。
うわ。この人も危ない人? ここは素直に従おう。
「解りました。誓います。誰にも言いません。約束します」
「よろしい」
カスミさんの表情が少し和らいだ。
「この道を真っ直ぐ下りなさい。一本道です。十町も歩けば参拝者用の登山道に出ます。そこから先はわかるでしょう」
「あの、本当にありがとうございました。改めてお礼に……」
「礼など良いからさっさと行きなさい。そして二度とその醜いモノをわたしの前にさらさぬように」とカスミさんが俺の尻を思いっきり蹴った。躓き転びそうになる。
「痛て! なにするんですか!」
振り返るとカスミさんの姿はなかった。
「じゅっちょう」ってなんだよ、距離なのか時間なのか全然意味わかんねーし。でもいい匂いしたなぁ……などと思いながら、林道をとぼとぼ下り登山道に入る。未舗装の下り坂は思いの外体力を消耗する。膝が笑いかけた頃ようやく神社の境内が見えた。幸いにも社務所に人影はない。小走りで境内を通り抜け、参道を通って街へ続く道へと出た。
先生も部員も俺を捜しているはずだ。早急に学校へ戻り無事を伝えなければならない。しかしだ。あまりにも消耗していた。ヘトヘトだ。ここからなら家の方が近い。そうだ一度家に戻ろう。家から電話しよう。それが一番早い。既に学校から家に連絡が入っているかもしれないし。残る力を振り絞り再び歩き始める。だが住宅街に入ったところで、突如得体の知れない胸騒ぎが俺を襲った。
なんだろう、この感覚は? しいて言えば既視感とは正反対の感覚。
『知っている街なのに、知らない街のような気がする』
まるで街が俺を拒絶しているようだ。
日暮れ時だから?
疲れているから?
そうだ。疲れているのだ。あまりにも色んなことがありすぎて混乱しているのだ。何といっても溺れて死にかけたのだ! 人生でそう何回も経験する出来事じゃない。家の近くまで来たときには駆け足になっていた。そこの角を曲がれば家がある。あるはずだ。なのにますます高まるこの不安は一体なんなんだ!
角を曲がると家はあった。二階建ての建て売り住宅。築十二年。父さんと母さんとの三人暮らし。軽自動車一台と自転車が二台。俺の自転車はどこのメーカーかわからない、ホームセンターで買った格安のマウンテンバイク……。
しかし俺の自転車がなかった。軽自動車もなかった。代わりに見慣れないママチャリが二台。その横に大きな犬小屋が一つ。これではクルマを置くことが出来ないではないか……。いや、そう言う問題ではない。そもそもウチは犬を飼っていないのだ。この犬小屋はなんだ? いつ誰が置いた? 玄関前に立ち観察する。置いてある植木鉢が違う。プランターが違う。掛かっているカーテンが違う。壁の色も違うように思えるのは夕日のせいか? 家の形は同じなのに佇まいがまるで違う。
恐る恐る表札を見る。
父の名、母の名。その次にあるはずの俺の名前がなかった。
代わりに知らない女の名前がひとつ。
「茉菜」って、誰?
吐き気がこみ上げてきた。
怖くて扉を開けることが出来ない。
扉の向こうに父と母の笑顔が想像できない!
「どちら様ですか?」
振り返りギクリとした。見知らぬ女の子が巨大な白犬を連れていたからだ。しかもシベリアンハスキーのように厳つい犬。女の子は訝しげに俺を見ている。同年代ぐらい。女の子は続けて言った。
「ウチに用ですか?」
ウチ? なにを言っている。ここは俺のウチだ! そう思ったが声にならなかった。
小さい頃、これに似た悪夢を見たことがある。朝目覚めたら親も友人も先生も、誰も俺を知らないと無視するのだ。心細くて、怖くて、目覚めたあとも無性に泣けてきたのを憶えている。これは当にその時の悪夢そのものではないか!
俺は絞り出すように女の子に向かって言った。言葉を選んで。
「……ここは、宮路さんのお宅ですよね」
「はい。そうですが」
「宮路彰人っていますか?」
「彰人? いいえ、いませんよ? ウチじゃないですね」
予想通りの答えに、目の前が真っ暗になった。
「あ、ちょっと待って下さいね。母に聞いてみますから」
女の子が俺の前を通った。すれ違う瞬間、俺と女の子の間にバチッと火花が飛んだ。
「きゃっ! ビックリしたぁ。夏に静電気って。ねぇ?」
女の子は少し戸惑ったような笑顔を見せると、玄関の扉を開け家の中に叫んだ。
「おかぁーさん! ちょっと来てぇー」
玄関に並ぶ靴に、どれひとつとして見覚えのあるものはない。下駄箱の上の置物も記憶にない。しばらくすると「お母さん」が出て来た。髪型も服装も今朝とはまるで違っていたが、それは間違いなく「俺の母さん」だった。
一瞬ホッとし「母さん」と声を掛けようとしたが、母さんは俺を一瞥すると「あら、お客さん?」と言った。俺を見るその目は完全に他人を見る目だった。警戒の色さえ見て取れる。
やっぱりそうだ。あの悪夢と同じだ。絶望に膝が震え、再び吐き気が押し寄せる。
「この人、宮路彰人って人を捜しているんだって。この近くで宮路姓なんてウチ以外にあったっけ?」
「さぁ。ここにも長く住んでいるけど、聞いたことないわねぇ」
ドラマや映画の一シーンなら「母さん、なに言ってるんだよ。俺だよ。俺!」とか言って縋りつくのだろう。けど俺にはそれが無駄であることがわかった。理屈ではなく本能的に悟るものがあった。
「ここは俺の知る世界ではない」と。
根本的な何かを修正しなければならない。俺はどこかで何かを間違えてしまったのだ。どこで踏み外した? どこで掛け違えた? 考えるまでもない。あの女だ。あの露出狂の占い師だ!
「大丈夫ですか? 顔、真っ青ですよ?」
女の子が俺の顔を覗き込む。
一度ここを離れよう。でないと今にも泣きそうだった。叫んで喚いて暴れそうだった。
「失礼しました」
ウチをあとにした。
日が落ちた。いま何時だろうとポケットからスマホを取り出したものの、壊れていることが確認出来ただけだった。何時にせよ今からサヨリさんの家に向かっても、再び道に迷い行き倒れるのが落ちだろう。とにかく今は喉が渇いた、カラカラだ。腹も減って倒れそう。だがカバンも財布も全て学校に置きっぱなし。一円の小銭すら持っていない。持っているのは水彩セットとボコボコのスケッチブックとこの壊れたスマホだけ。そうだ、とりあえず公園に行こう。公園なら少なくとも水が飲み放題だ。
小学生の頃よく遊んだ児童公園。俺が遊んでいた頃には多数の遊具があったが、近年危険という理由で撤去され、ブランコと鉄棒だけになってしまったはずの公園。ところがどうだ。今ここには昔遊んだジャングルジムやシーソー、滑り台などの遊具が街灯に照らし出されているではないか。まるでタイムスリップしたかのよう。タイムスリップ? 俺は過去の世界にタイムスリップしてしまったのか?
水飲み場で乾きを癒し飢えを誤魔化す。そしてベンチに腰掛け考えた。
今日はここで野宿しよう。朝一番で山に登り、あの占い師に会おう。ここが過去だろうが未来だろうが知ったことじゃない。なにがなんでも元の世界に戻して貰うのだ。しかしあの占い師は一体何者? よくよく考えればご神体である御諸山に住んでいる時点でおかしい。あの山には俗世の物を持ち込むことが禁じられているはず。もちろん飲食もNG。まさかこの状況はその戒律を破った俺への罰?
ふと気配を感じ、顔を上げる。思わず悲鳴をあげそうになった。目の前に巨大で厳つい白犬の顔があったのだ。
「な、なんだ、おまえ?」
犬は俺の前に座りひたすらシッポを振っていた。精悍な面構え、尖った耳、灰色の目、キツネのようなモフモフのシッポ……。ああ、これはさっきの女の子が連れていた犬だ。俺のあとを付いて来てしまったのか。ちゃんと繋いでおけよな。
公園の外で声がした。
「ブナタロウー。ご飯だよー。ブナタロウ」
ブナタロウ。この名前を聞いたとたん、記憶の片隅に眠っていた想い出がビッグバンのようにふくれあがった。
ブナタロウ。それは俺がむかし飼っていた犬の名前。俺をクルマから守るため、身を投げ出して死んだ犬の名前。俺はこの状況の全てを悟った。
「あ、いたいた。すみませーん。その犬、ウチのでーす」
女の子が走ってきた。
「ちょっと目を離すとすぐ……あれ? さっきの人? というか、なに泣いているんです?」
俺は泣いていた。涙腺が壊れたかと思うほどの涙が頬を伝う。
「ブナタロウ……こんなに大きくなる犬だったんだ」
俺は涙を拭うこともせず、ブナタロウをただ見つめ泣き続けた。
「あの、なに人の犬で感慨にふけっているんですか? 気持ち悪いからやめて下さい。ほら、ブナタロウ。帰るよ」
女の子が首輪にリードを付け引く。しかしブナタロウは俺の前から微動だにしない。俺はブナタロウの頭に手を伸ばした。
「あ、ダメです! この子頭を触れるのが嫌いで……」
そっと撫でてやるとブナタロウは気持ちよさそうに目を細めた。
「なんで? わたし以外に……」
「わたし以外の人間に頭を触らせない」
「……え?」
「雨の日、橋の下で震え、死にかけていたのを見つけたんだ。ネズミみたいに小さくて。介抱して家族の前で育てるって宣言して。自分で登録して、小遣いはたいて予防注射して」
「……なんで、知っているの?」
「好物はお摘みチーズ。お気に入りのオモチャは音の出る小さなキューピー人形。あんなに小さかったブナタロウが……」
「なんで知っているのよ!」
「たぶん君は俺だ。そして俺は君だ」




