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恋だけがそれを知っている  作者: 羽田宇佐
決断と躊躇
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「駅裏に新しくできたお店知ってる?」


 校門を通り過ぎ、少し前を行く先輩が軽い調子で問いかけてくる。その言葉はどちらへ投げかけたものなのか明確に示されたわけではなく、鈴は反応しなかった。私は宙ぶらりんになった言葉を放っておくこともできず、「知りません」と答える。


「そっか。元々ラーメン屋だったのが潰れて、タピオカの店になったんだけど。知らないってことは、二人ともまだ行ってないんだ?」


 先輩の問いかけに、やっぱり鈴は答えない。回答すべき相手が指定されていないのだから、鈴が答えなければいけないわけではないし、私が答えなければいけないわけでもないと思う。それでも、ふわふわと漂う言葉を見ないふりでやり過ごすのは居心地が悪い。


「行ってないです」


 葉が一枚もない寒そうな街路樹を横目に短く答えると、先輩が二度目の「そっか」を口にしてから当然だというように続ける。


「鈴、流行りもの嫌いだもんね」


 言われてみれば、鈴と話題のスイーツを食べたり、雑誌に大きく載っているようなお店には行ったことがなかった。初めて一緒にケーキを食べたお店は蔦が絡まった古びた喫茶店で、その後にも地元のテレビ番組が紹介するようなお店を選んだことはない。

 気がつく機会はいくらでもあったのに、気付かないままいた私の足が少し重くなる。


 私が知らない間に、鈴と先輩がどんな時間を過ごしていたのかなんてことが気になりかけて、鞄を持つ手に力を入れる。

 今、頭の中にあることは、考えてもどうにもならないことだ。

 喉を刺すような冷たい空気を強く吸って、体の中のいらないものと一緒に吐き出す。

 先輩の背中を見ると、家とは反対方向の駅に向かっているのに足取りがやけに軽かった。


「晶ちゃん、今日どこに寄るつもりだったの?」


 冬の風に乗って、先輩の声が聞こえてくる。


「特に決めてなかったです」

「鈴、行きたい場所あった? あるならそこでもいいけど」

「どこでもいい」


 空を流れる雲みたいに、頼りない声で鈴が言った。


「じゃあ、目的地の変更はなしで」


 先輩が歩く速度が少し速まる。

 いつも駅前で鈴と別れて電車に乗る私は、駅裏にまで行くことがほとんどない。だから、元々はラーメン屋だったという場所がよくわからない。それは鈴も同じようで、私たちは先輩の後をついて行く。


 三人に共通した話題があるわけでもなく、鈴には会話をするつもりがない。私は会話の糸口を探す努力を放棄していたし、先輩が話さなければ三人の間には沈黙しかなかった。

 時々先輩が話して、私が答えて。

 そんなことを繰り返しているうちに、長い行列が見えてくる。人の群の先頭は、おそらく駅裏のラーメン屋さんがあったという場所だ。


「結構、並んでるね」


 先輩がやる気を失ったような声を出して、振り返る。私たちを見るその顔は、げんなりしていた。隣を見れば鈴も露骨に嫌な顔をしていて、目的地はすぐに座れるファーストフード店に変更される。


「三人でなに話すの?」


 三分の二ほどが埋まった赤い看板のお店の中、ポテトをつまみながら鈴が言う。向かい側に座った先輩は、「うーん」と唸った。


「なに話そうか?」


 おそらく話したいことは決まっているはずなのに、先輩が笑顔を作って問いかけてくる。

 鈴は答えないし、私にも話さなければならないことはない。知っているのに、先輩は答えを待っていた。

 店内はいくつもの声が混じってざわざわとしているけれど、私たちの前は静かなまま空気が止まっている。

 先輩がオレンジジュースを片手に、鈴のポテトを一本引き抜く。


「散々人のこと振り回しておいて、飽きたら電話にすら出ない誰かさんのことでも話す?」


 悪意は感じられなかった。でも、趣味が良いとは言えない言い方だった。三人で話すには適当と言えない話題に、あまり居心地の良い場所ではなかった空間が捻じり上げられて気分が悪くなりそうになる。

 できることなら、帰りたい。

 そう思った瞬間、鈴が薄っぺらい鞄とコートを掴んで立ち上がる。


「晶、帰ろう」


 唐突に言い放って、私の腕を掴む。


「ちょ、ちょっと、鈴」


 立ち上がることを強要するように引っ張られて、反射的に引っ張り返す。ぐらりとよろけた鈴に、先輩がポテトの先を向けた。


「否定すらしないの?」

「なにを?」

「飽きたらって言葉」

「飽きたわけじゃないけど、言っても信じてくれないでしょ」

「本当なら信じる」


 静かに言って、先輩がしなびれたポテトを胃の中に収める。鈴が何か言いかけて、飲み込む。そして、私の腕を掴んだままの手に力を込めた。


「今日は帰る。その話は、今度するから」

「今は話しにくい?」

「晶」


 今度こそ帰るという意思を込めた手で、鈴が私の腕を引っ張った。流されるように半分ほど椅子から腰を浮かせた私に、先輩が手を振る。さよならとひらひらと伝えてくる手には、私の腕を掴む鈴の半分ほどの力も見えない。


「鈴、待って。えっと、私、先輩と話していってもいい?」


 意識から遠く離れた場所から、言葉が出る。


「私は話さないよ。帰る」

「うん」


 鈴は、私の腕を離さない。それが『帰ろうよ』という言葉の代わりだということは、わかってはいる。けれど、私は椅子に座り直した。


「晶」

「ごめん、鈴」

「だって。晶ちゃん借りるね」


 先輩の声に、鈴があからさまに不機嫌な顔をする。でも、すぐに「先に帰るから」と諦めたように言い、先輩が鈴に力なく手を振った。そして、さよならのひらひらに見送られ、鈴が店を出る。


「で、話って?」


 置いていかれた鈴のポテトを食べながら、先輩が私に疑問符をぶつけた。


「……ないです」

「だよね」


 予想通りと言わんばかりに、単調な声が返ってくる。

 私自身、どうして鈴と一緒に帰らなかったのかわからない。気まずい空気に包まれながらポテトを食べ続ける趣味はないし、先輩と語り合わなければならない話もなかった。


「修学旅行、楽しかった?」


 ぽつりと問われて、時間が過去へ飛ぶ。

 くたびれかけたソファーの上、鳴り響く呼び出し音とスマートフォンをポケットの中にしまったままの鈴。

 あのとき、彼女が電話に出なかったことは私を安心させた。けれど、目の前にいる先輩の顔を見ていると、どこかから湧き出た罪悪感が心の外側にぶつかってずきずきと痛む。


「――電話、すみません。あのとき、私が一緒にいて」

「晶ちゃん、その答えおかしいから。あたしが聞いたのは、修学旅行が楽しかったかどうか。それに、そうだと思ってたことを改めて言われると傷つく」

「……すみません」

「冗談だから、謝らないで。それはそれで傷つくから」


 オレンジジュースをストローでかき混ぜながら、先輩が乾いた笑いを付け加える。謝ることを封じられた私はと言えば、返す言葉を見つけることができずに黙り込むしかなかった。


「意地悪したいわけじゃないんだけどね」


 そう言って、先輩は橙色の液体を飲む。

 先輩は私にとって良い人ではないけれど、鈴のことがなければ悪い人でもないと思う。ただの先輩と後輩として出会うことができれば、もう少しましな関係になれたはずだ。

 でも、それは想像でしかない。鈴がいなければ、私たちは出会うこともなかっただろうし、こんな場所に二人でいることもなかった。


「何か話したいことある?」


 話題を探すことを放棄したのか、先輩が私に問いかける。ざわつく店内で何も喋らずにいるのも落ち着かなくて、私は少し考えてからこの状況を作り出した元凶である人物の名前を口にした。


「鈴のこと、どれくらい知ってるんですか?」

「晶ちゃんよりは知ってるかな。鈴が一年生の頃から一緒にいるから」


 私の知らない鈴をどれくらい知っているのかは聞かなかったけれど、考えていた以上に長い時間を過ごしていたことに驚く。そして、そんなに長く一緒にいるのなら、あの人のことも知っているのかもしれないと思う。


「……雪花ちゃんのことも?」


 口にした名前に、先輩が目を伏せる。

 ちょっとした間があってから、感情のこもらない声が聞こえてくる。


「――イルカの君ね。会ったことはないけど、聞いたことはある。晶ちゃんは会ったことある?」

「あります」

「……似てる?」


 あたしに、とは言わなかったけれど、その“似てる”が何を意味しているかはすぐにわかった。でも、だからこそ私はその問いに答えを出すことができない。


「似てるんだ」


 先輩の声は、ぽたんと落ちる水滴のようだった。望みを投げ捨てたみたいな響きに、心臓が軋む。


「適材適所、なんてやめておけば良かったかな。もうすぐ卒業だし、適材にはなれなくても適所くらい目指すべきだったかも」


 先輩の視線が落ちていき、声のトーンもつられるように落ちて辺りの空気が沈む。

 こういうとき、声をかけるべきか迷う。

 何か言うような立場でもない私がどうすべきかなんてすぐには思いつかなくて、黙り続けていると先輩が顔を上げた。


「でも、もう嫌われてるか」

「……鈴、先輩のこと嫌いじゃないと思います」


 自嘲するように笑う先輩に、かけるべき言葉だったのかはわからない。けれど、今、口にした言葉は事実だと思う。


「晶ちゃんは良い子だね」

「良い子じゃないです」


 人に良い子だと言われるほど、良い人じゃない。嫌われることが怖くて、良い人を演じたいだけだ。

 心の片隅に菜都乃の顔が浮かぶ。

 私は今も昔も、良い人の振りをしている。


「良い子だよ。もう少し悪い子になってもいいくらい」


 先輩が誰かに言い聞かせるように小さな声で続けた。

 私が良い人だったら、先輩も良い人だ。

 私のためではなく鈴のためだとしても、私を適材だと言って、鈴との仲を取り持つようなことをしたくらいなんだから、悪い人とは言えない。

 口には出さないけれど、そんなことを考える。


「晶ちゃんに先に会えたら良かったかもね」


 変えようのない過去を変えるように、先輩が笑う。私もあははと笑って返して、鈴が残したポテトをつまんだ。

 それから先は、たいした話はしなかった。

 十分も経たないうちに外へ出て、先輩と別れる。


 赤い看板の前、頬に冷たいものが当たって空を見上げると、水滴がぽつぽつと落ちてきていた。手の甲にそのうちの一つがぴたんと着地して、私は駆け出す。

 先輩は傘を持っているだろうかと考えながら、駅へ向かう。ダッシュで構内に入って、スマートフォンを取り出す。

 悪い子になろうとは思わないけれど、もっと自分を変えたいとは思う。


 私は電車に乗る前に、鈴に「話が終わったから、今から帰る」とメールを送る。そして、もう一通。

『久しぶり。もし良かったら、今度会えないかな?』

 何年ぶりかに菜都乃にメールを送った。

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