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マスカ・レイド  作者: 寿 丸
3/3

第三幕「白日の仮面」

    第三幕「白日の仮面」



 道化と〈ファントム〉が逮捕されてから、二日目――

「どうした、引島ぁ。えらく不景気そうな顔じゃないか」

 扇子を手に鷹揚に話しかけてくるのは、上司の細谷だ。手持ちぶさたなのか、先ほどからワイシャツ姿であちこちをうろついている。タバコを吸う趣味はないくせに、わざわざ署内指定の喫煙所にまで足を運んできているのがいい証拠だった。

タバコの火をもみ消し、喫煙所から出る。

細谷はあからさまに嫌そうな顔をして、扇子でダンを扇いだ。

「全く、暇があればスパスパと吸いおってからに。おい、知っているか? タバコを一本吸う度に、寿命が五分縮まるんだそうだ。ひと箱で一時間四十分も寿命が縮まるらしいな、はっはっは!」

「…………」

 突っ込む気になれず、ダンは細谷の前を通りすぎた。

「おいおい」と言いつつ、細谷がつきまとってくる。

「ただのジョークじゃないか。んん? 取り調べがうまくいってないのか?」

「そんなところです」

「ほう。どんな状況だ?」

「……全く、要領を得ない奴ですよ」

 吐き捨てるように言う。

「あの道化野郎……戸籍も住所も、身元を証明するものはひとつもない。こちらの質問をのらりくらりとかわしやがるし、挙げ句に『自分はすでに死んだようなものだ』とほざく。あんな野郎は初めてですよ」

「まぁ、〈マスカー〉を連行すること自体あまり例のないことだからな。とはいえ、暴れる気配がないのは好都合じゃないか」

「……だとしても、油断はできませんがね」

 刑事課のフロアに入り、ダンは自席に戻った。

なぜか細谷はすぐ近くに立っていて、ダンの机の上を物珍しげに眺めている。無造作に詰まれた書類の上にある文庫本を手に取り、「んん?」と顔をしかめた。

「『オペラ座の怪人』? お前がこんなものを読むなんて、珍しいな」

「新川の野郎が、どっかから仕入れてきたらしいんですよ。参考になるかもしれないとか言って」

「なるほど。で、参考になったか?」

「いや、まだ全然読めていないんで……」

「やれやれ」

 言いつつ細谷は、シャツのポケットから眼鏡を取り出してかけた。ぱらぱらとページをめくり、「懐かしいな」

「女房を連れて、実際に劇場まで観に行ったことがあるんだ。メロドラマは好きじゃないんだが、女房がすっかりハマってしまってな……」

「知っているんですか?」

「有名だぞ。まぁ、お前はこういうのには興味を持たないだろうが……」

 ひとしきり眺め回した後で、書類の上に戻す。

「そうそう、お前が連行したあの〈ファントム〉とやらはどうだ? なんでもあの学校の教頭だというじゃないか、ええ?」

「大したことはないですね。はっきり言って、三下だ」

「ほうほう」

「ここに連れて来られてからずっと、弁護士を呼んでくれだの本物は別にいるだのとわめいている。そのくせ、肝心なことは何も知らないときた」

「二十人分の〈マスク〉を用意していたんだろう? どこのルートからだ?」

「それもわからないんですよ。本物が用意したものらしい」

「本物、ねぇ。その教頭は何か、脅されるようなことをしたのか?」

「高校生と援助交際していたらしい」

「……やれやれ、とんだ教育者だ」

 扇子を閉じ、下唇を突き出す。

「それで、今は?」

「新川に任せてる」

「体よく押しつけたな。お前も部下の扱いがわかるようになってきたじゃないか」

「…………」

 ぱし、と扇子を手のひらに軽く打つ。

「まぁなんにせよ、これで〈ファントム〉事件は手打ちだな」

「……いや、ちょっと待って下さいよ」

 席から離れかけた細谷を、ダンが呼び止める。

「そんなの、冗談じゃねぇ。この事件はまだ終わっちゃいない。あの教頭の言う通り、本物の〈ファントム〉は別にいる」

「その根拠は?」

「あの偽物から押収した〈マスク〉はただのレプリカだった。本物の〈マスカー〉だったら、あの場から逃げ出すことも可能だったはずだ」

「んん、弱いな。他には?」

「それは、これから見つけ出す」

「そうか。なぁ、引島ぁ」

 ぽん、とダンの肩に手を置く。

「入れ込みすぎるなよ」

「……!」

「お前の姪があの学校に通っていることぐらい知っている。そこで〈マスカー〉による事件が起こったんだ、冷静でいられないのもわかってる。ただな、それで周りが見えなくなってしまうとこっちが困るんだ」

「…………」

「そういえば、もうすぐ学園祭だそうじゃないか。〈マスカー〉のことはさておいて、そこで少し羽を伸ばしてきたらどうだ? いい気分転換にもなるだろうよ。……ああ」

 何か思いついたらしく、再び扇子で手を打った。

「ついでに家族サービスもできるじゃないか。だが、そんな顔で行くのは止めておけよ?」

「…………」

「上司命令だ、じゃあな」

 はっはっは、と笑いながら去っていく。

 ダンは首の後ろを掻き、疲労混じりの吐息をついた。


     〇


「うふふ、うまくいったわ」

 足元すらろくに見えない室内の中、マキは満足そうに言った。ここが自分の定位置だというように、〈ファントム〉の膝に腰かけている。

〈ファントム〉は虚空を見つめていた。〈マスク〉の奥の瞳は、何も映していない。マキの頭を撫でてはいるが、どことなく機械的な動きである。

「まんまと引っかかってくれて良かった。これで邪魔者はいなくなったし、安心できるわね」

 マキは猫のように体を丸め、機嫌よく喉を鳴らしていた。

しかし、何の前触れもなくすっと目が細くなる。

体を起こし、〈ファントム〉の肩を掴んで向かい合わせになった。

「でも、やっぱり納得いかない。どうしてあの子なの? 私じゃダメなの?」

 真剣な声音で問いかける。

 それでも〈ファントム〉は口を開こうともしなかった。

「答えてよ、〈ファントム〉」

「…………」

「……はぁ」

 諦めたように吐息をつき、マキはうつむいた。

耳からこぼれた長い黒髪が、彼女の顔にかかる。やがてマキは面を上げ、〈ファントム〉の肩から〈マスク〉へと、手を動かしていった。

 触れそうになる寸前で、指先がぴたりと止まる。〈ファントム〉は微動だにしない。マキも〈ファントム〉の〈マスク〉をじっと見据えていたが――思い直したように手を下ろした。

「まぁ、いいわ。今は目の前のことに集中しないとね」

〈ファントム〉の膝から降りて、背伸びする。

「せっかくの舞台、あなたに観てもらわないといけないもの。他のことに気を取られている場合じゃないわよね」

 でもね、と意地悪そうに微笑む。

「いつまでも私のこと、子供のままだと思ってもらっちゃ困るんだから。……ねぇ?」

〈ファントム〉は応えない。

 ただ、虚ろな目でマキを見返すのみだった。


     〇


 道化が逮捕されてから、三日目の夜。

 引島家のテーブルの上には、カップ焼きそばのみが置かれている。

帰ってきたばかりのダンはしばらくテーブルの前で立ち尽くしていた。

ミドリはキッチンで洗い物をしている。「おかえり」の一言もなく、こちらから声をかけるのはためらいがあった。

「なぁ、ミドリ」

「…………なに?」

「晩飯、これだけか?」

「見ればわかるでしょ」

「……はぁ、わかったよ」

 ぶつくさ言いながら、カップ焼きそばの封を開ける。キッチンに赴くと、ミドリが水の入ったヤカンを差し出してくる。ダンはそれに火をかけた。二人で並ぶ形となったが、ミドリの方はさっきからこちらを見向きもしない。

 ヤカンを見下ろしつつ、「なあ、ミドリ」

「…………」

「まだ怒っているのか?」

「……当たり前でしょ」

「言ったはずだろ。〈マスカー〉には関わるなって」

「…………」

「お前がどれだけ心を許しているかは知らねぇ。だが、それでもあいつは〈マスカー〉だ。そんな奴とお前を近づけさせて、お前に何かあったら、俺は姉さんたちに顔向けできねぇ」

 ミドリは淡々と、洗い物を続けている。

 ダンは焼きそばの上にかやくを振りかけ、すぐに手持ちぶさたとなった。

 水の音が止まる。タオルで手を拭き、ミドリはダンのすぐ後ろを通った。

また、無視か――そう思った矢先。

「心配なんてして欲しくない」

「ああ?」

「わたし、もう高校二年生だよ? いつまでも子供じゃないよ。わたしがどんな人と関わったとしても、おじさんには関係のないことでしょ?」

「関係ないわけあるか。お前は何もわかっちゃいねぇ」

「おじさんこそ、何もわかってない。道化さんは……」

「『いい人だと思う』ってか? 口ではなんとでも言える」

「おじさんはどうして、そんなに〈マスカー〉が嫌いなの?」

「ミドリ」

「中にはいい人だっているかもしれないのに……もういい、おじさんなんか知らないから!」

 ぱたぱたと自室に駆け込む。

 ダンはキッチンから顔を出しかけ――ため息をつきながら引っ込めた。いつの間にかヤカンが沸いており、慌てて火を止める。取っ手に触れるとあまりの熱さに、「うあっち!」と手を振った。

「ああ、くっそ。ああもう……」

 水で手を冷やしていると、アカネがすぐ近くに立っているのに気づいた。

「なんだ、いたのか……」

「『いたのか』じゃないよ。全く、おっさんもミドリも本当に不器用だわね」

「ああん?」

「ちょっとどいて。アイス食べるから」

 無遠慮にダンを押しのけ、冷凍庫からアイスを取り出す。がじがじと口をつけ、アカネは半目でダンを睨み上げた。

「おっさんって、人の心がわかんないのかねぇ?」

「いきなり何を言い出しやがる」

「よくわかんないけどその道化って奴、ミドリと仲良かったんでしょ? そんな奴を逮捕したら、そりゃ嫌われるに決まってるじゃない」

「あいつは〈マスカー〉だぞ!」

「そんなのあたしに言われてもね」

 そっけなく、ダンの横を素通りする。

「まぁミドリの言う通りなんじゃない? もう子供じゃないんだし、いちいち口出ししていたら過保護って思われるよ」

「ぬぅ……」

「ていうかおっさん、普通にウザいし」

「なっ! お、俺はお前らのことを心配してだなぁ!」

「そういうところが、ウザいって言ってんの。心配だって口にしていれば、なんでも許されると思わないことだね。これ以上ミドリに嫌われたくないでしょ?」

「ぬ、ぬぅ」

「知ってる? 嫌いなものを嫌いだって言ってる人間って、嫌われやすいんだって。嫌いってネガティブでわかりやすい感情だから、人に伝わりやすいんだとか」

「……〈マスカー〉を好きになれとでもいうのか?」

 アカネはアイスを完食し、棒を手でくるくると回した。

「そこまでは言ってないって。程度の問題。仕事熱心なのは認めるけど、それであの子の気持ちを無視していたら、どうよ?」

「…………」

「んじゃあたし、お風呂入るから」

 そう言って洗面所へ向かう。

 タイミング良く腹が鳴り、ダンは自分が空腹だったことを思い出した。カップ焼きそばにお湯を注ぎ、ぼんやりと見下ろす。

「はぁ、どいつもこいつも。口だけ達者になりやがって」

 肩を落とし、深々とため息をついた。


     ○


 教頭が逮捕されたということで、再び全校集会が開かれた。

 さすがに今度こそ難しいだろう――生徒たちは一様に諦めの表情を浮かべている。立て続けに事件が起こり、しかも逮捕者が出たとあっては。

 しかし、いつまで経っても校長はホールに姿を現さなかった。

代わりに壇上に立ったのは、エリであった。

 当然、生徒たちは驚いた。場がざわつきかけるも、「静かに」という言葉で収束する。

 エリは講壇に立ち、生徒一同を眺め回した。

「まず、皆さんが疑問に思っていることにお答えしたいと思います。校長は現在体調を崩しており、療養中です。こういう事態になってしまった以上、さすがに学園祭の実行は難しいと、われわれ教員もそう考えていました。しかし、校長からこう頼まれたのです。『なんとしてでも学園祭を成功させて欲しい』と。校長だけでなく、教育委員会やPTAからも強い希望を頂いております。もちろん、中には中止するべきだという意見もあります。私たちはその声を真摯に受け止め、その上で答えを出していかなくてはなりません」

 ざわ、と空気が変わった。

 エリは講壇に手をつけ、前のめりとなる。

「わが台舞高校において立て続けに事件が発生し、不安に思う人もいるでしょう。このままどうなってしまうのか、先行きが見通せない人もいるでしょう。例え、仮に学園祭を実行したとしても、それは単なる一時的な気分のごまかしにしかならないのでは……そのような空気が、われわれ教員の間にも漂っていました。その空気に屈して何もやらずにいれば、確かに波風は立たないかもしれません。しかし、ここにいるあなた方は違うはずです。われわれ教員――いえ、大人とは違う立場、そしてものの見方というものがある。事件が起こってもなお、勉学あるいはスポーツに励んだり、または学園祭の準備を推し進めていたり……あなた方の姿を見ている内に、われわれは大事なことに気づかされたのです」

 芝居がかった仕草で、胸に手を当てる。

 この時点でミドリには、エリが何を言わんとしているかを推察できた。ミドリだけでなく他の生徒たちも同様だろう。

「私たちはあなた方の意思を尊重したい。悲しむべきことが起こってもそこから立ち直り、前を見据えるあなた方の強さを尊重したい。われわれが独自に定めたルールをあなた方に強くのは簡単ですが、そうしたところでなんになりましょうか。私たちは今こそ学び、そして実行していくべきです。そのための一環として、日頃の活動の成果を発揮する機会を失ってはいけません」

 そこで、と講壇を平手で打つ。

「台舞高校の学園祭は通常通り、行うこととしました。もちろん、一般開放も行います。どんな困難にも屈しないあなた方の意思を、力強さを、内外ともに披露していくことこそが、前を見続けていくために必要なことだと判断しました」

 おお、と生徒たちから感嘆の声が上がる。

 ミドリも内心でほっとしていた。このタイミングで中止となったら、今まで自分のやってきたことが無駄になってしまう。わずか短期間とはいえ、あのプレッシャーに思い悩んでいたのはなんだったのか、と落ち込むようなことは避けたかった。

 それから十分ほどで、エリの話は終わった。

他の教員と話しているエリを横目に、ミドリはホールを出る。隣を歩くミチは「いやぁ」と感慨深そうにうなずいていた。

「さすが久良木先生だよねぇ。実に堂々としてるっていうか」

「ほんとにね」

「このままやっていいのかなって不安はあるけど……まっ、今まで準備してきたものが無駄にならなくて、案外みんなホッとしてたりして」

「うーん……それは、そうだろうね」

 実際、他のクラスを通りがかる時、そのクラスの出し物らしき展示品や看板などが見えることがある。加えて、放課後はどこも騒がしい。

これで学園祭が中止となれば、全体の士気が消沈することは免れないだろう。そういう意味では正しい判断をしたといえるのかもしれない。

 ホールを出て、教育棟に入る。

 廊下を歩きながら、「ところでミドリ」

「劇の方はどうなの? 順調?」

「うん、順調だよ。たぶんね」

「たぶん、ってどういうこと? なんかうまくいってないの?」

「いや、ううん。そういうわけじゃないんだけどね。ただ、わたしが足を引っ張ってるような気がして」

「そーなの? てっきり、久良木先生にビシバシしごかれて、めきめき上手くなってるもんだと思ってたけど」

「そんな簡単にはいかないよ……」

 苦笑しつつ、階段を上がっていく。ふと、ミチが足を止めてこちらを見上げていることに気づいた。その顔はどこか不安げだった。

「ミッちゃん?」

「ねぇ、ミドリ。……大丈夫?」

「え、なんで?」

「大丈夫ならいいの。ただ、無理をしてるんじゃないかなって」

「…………」

 どう答えていいものかわからず、眉が下がる。迷った末、「大丈夫だよ」と返事したが、ミチは信じていないようだった。

「なんかあるんならさ、相談に乗るから」

「うん……ありがとう、ミッちゃん」

「アカネからもミドリのこと、よろしく言われてるから。もしものことがあったら、あたしアカネに殺されちゃう」

「大げさだよ、それは……」

 二人はぎこちなく笑い、それから教室に戻った。その後はいつものように授業を受けていたが――頭の片隅で、ミチの言葉が引っかかっている。

自分はそんなに、顔に出ていただろうか。今まで色々なことが立て続けに起こり、翻弄されている自覚はあった。

 これではいけない、と頭を振る。

 マキを差し置いてまで劇の主役になったのだ。無様な姿は見せられない。

(頑張らなくちゃ……しっかりしないと)


     〇


『クリスティーヌ、なぜなんだ! なぜ君は〈天使の声〉とやらの正体を知っても、彼から離れようとしない? 彼は悪魔だ。人をそそのかし、たぶらかし、目的のためならば殺人もいとわない。そんな悪魔を、君はかばうというのか?』

『かばっているわけじゃないわ。わたしは……わたしはただ、彼が気の毒なの』

『気の毒だって? 同情しているのかい? それなら彼に気絶させられた僕の方にも、同情心を示して欲しいものだね!』

『ラウル、あなたは彼のことを知らないのよ。彼は、彼は……』

 そこから先の言葉は出てこなかった。何度も読み込んで頭に叩き込んでいたはずなのに、台詞が出てこない。

「ストップ、そこまで!」

 エリの鋭い一斉に、ホールにいる全員が身を固くした。

「引島さん、前にも言ったけれど、台詞を喋ることだけに意識を向けてはいけないわ。広く、全体を見回すことが必要。まずは目の前にいる人をきちんと見るように。いいわね?」

「は、はい……」

「仮谷くんは結構。ただ、少し立ち位置がおろそかになっているわ。気をつけて」

「はい、すみません」

 ミドリと仮谷はそれぞれ頭を下げた。

 エリは時計を見、「少し熱が入りすぎたようね」

「今から十五分の休憩とします。各自、しっかりクールダウンしておくように」

 はい、と部員たちの声が揃う。

「結構」とエリは言い、ホールから出て行った。

 ミドリは覚束ない足取りで、舞台から降りた。顔に手を当て、重々しく吐息をつく。

「引島さん、大丈夫かい?」

 声をかけてきたのは、副部長の仮谷だ。

「はい、大丈夫です。心配かけてすみません」

「しっかり休んだ方がいいよ。ぶっ通しで練習だと、身が持たないだろう?」

「そう、ですね……」

「でも、こないだまでと比べるとすごく上達しているわ」

 マキが会話に割って入る。彼女は〈ファントム〉役を演じているため、手にはレプリカの仮面を持っていた。

「最初はどうなることやらと思ったけれどね」

「あ、あはは……すみません」

「少し、顔を洗ってきたらどうだい?」

 仮谷の勧めに、「そうですね」とうなずいた。

「じゃあ、ちょっと行ってきます」

「ええ、行ってらっしゃい」

 マキと仮谷に見送られ、ミドリはふらふらとホールから出た。

 トイレの洗面所で、何度も顔に水を打ちつける。火照った体には気持ちいい。はぁと息を吐き出し、鏡に映った自分の顔を見た。目つきがきつくなっているように思えるが、それだけ身が入っていることなのかもしれない。

「……うん、頑張ろう」

 タオルで顔を拭き、トイレから出る。

ふと、ホールへの入り口の近くで、エリが壁にもたれかかっているのを発見した。

「先生? どうかしたんですか?」

「ああ……引島さん」

 先ほどとは同一人物と思えないほど、声に覇気がない。いつものエリではないことは明白だった。

「あの、大丈夫ですか? なんだか顔色が……」

「大丈夫よ。ちょっと疲れているだけ。なんだか最近、調子がおかしくてね……」

「調子悪いなら、あそこで休んだ方が」

 ホール前の、木製の長椅子を指差す。断られるかと思ったが、意外にもエリは素直にうなずいた。

「そうね。悪いけど、少し肩を貸してもらえないかしら?」

「はい」

 エリの腕を肩に回す。思いの外体重がかかってきて、よろけそうになった。

「あ、ごめん……大丈夫?」

「いえ、大丈夫です。すぐ近くだから、このぐらい……」

 半ば引きずるような形で、エリを長椅子まで連れていく。足にもあまり、力が入ってないようだった。

 どうにかエリを座らせ、ほっと息をつく。

エリは背もたれに寄りかかり、片腕をまぶたの上に置いていた。

「先生、本当に大丈夫ですか?」

「たまにあるのよ、こういうの。生徒の前では見られないようにと気をつけていたつもりなんだけどね……」

 参ったわ、とつぶやく。

 ミドリはなんともいえない顔つきで、エリの様子をじっと見ていた。

「……引島さん、まだそこにいる?」

「あ、はい」

「悪いけど、みんなに伝えてくれないかしら。休憩時間を……そうね、あと二十分ぐらい延長するって。個人練習をしても構わないとも」

「はい、わかりました」

 振り返りかけたミドリに、「待って」

「それからもうひとつ。みんなに伝えたら、またここに戻ってきてくれない? 少しお話したいことがあるの」

 ミドリは怪訝そうに首を傾げ――ひとまず、「はい」とうなずいた。

 ホールに向かい、エリからの言葉を部員たちに伝える。彼らは不思議そうにしていたが、エリの今の状態については伝えなかった。

エリのところへ戻ると、腕を下ろして背中を丸めている。

「伝えてくれた?」

「はい」

「そう……ありがとう。とりあえず、隣に座って」

 言われるままに座ったが、どうにも調子が狂う。こんなに弱っているエリを見るのも初めてだし、彼女の隣にいるというのも落ち着かない。

 加えて、彼女は――

「引島さん」

「は、はいっ!?」

「ごめんなさいね。あなたには色々負担を強いているわ」

「そ、そんな……」

「種子島さんは素行に色々と問題のある人だったけれど、演技はすばらしかった。彼女の抜けた穴が痛くて、その埋め合わせをあなたにお願いしている点は否めないの。あまり気分のいい話ではないと思うけれどね……」

「……そう、なんですか。それならマキ先輩の方が適任なのでは?」

「適任といえば適任でしょうね。彼女ならば、そつなくこなしてみせるでしょう。でも、それではつまらないと思ったの」

「つまらない、ですか?」

「多少荒削りでも、どこか光るところのあるような。そういう人を演技のできる人たちの中に放り込むと、不思議な反応が起こるのよ。良くも悪くもお互いに影響を受け合ったりする。役に対するアプローチの仕方も異なってくる。そういう方が私にとっては面白いと思ってね」

「はぁ……」

「そう思うのは、私が高校生だった頃がきっかけ」

「どんなことがあったんですか?」

「ありていに言えば、恋をしたのよ。人並みにね」

 ミドリは目を丸くし、エリの横顔をまじまじと見た。記憶をたぐる彼女の目には、言いようのない懐かしさが浮かんでいる。

「その人は私の憧れで、考え方から言葉遣いに至るまで、色々な影響を受けた。あの人のためならば命すら捧げてもいい……そう思うぐらいに、入れ込んでいたわ。大げさでしょう? 例えるならば私が〈ファントム〉で、恋をしたその人はクリスティーヌ……ってところかしら」

「は、はぁ……」

「本気にしないで。例えの話よ」

 それにしては真剣な声音だった。

 エリは何度か深呼吸を繰り返し、ぐっと背筋を伸ばした。先ほどよりも、顔色は幾分か良くなってきている。

「ところで、引島さん」

「はい、なんでしょうか?」

「あなた、『オペラ座の怪人』――〈ファントム〉について、どう思う?」

「どう思うって……」

「あなたの考えが聞きたいの」

 脳裏に〈ファントム〉の姿が浮かぶ。もちろん、梅木を殺した方だ。

おそらくエリは戯曲『オペラ座の怪人』の方を尋ねているのだろうが、ミドリにはあの時に見た〈ファントム〉のイメージがあまりに強すぎた。

 慎重に、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「怖い人だと、思います。目的のためなら、どんな手もいとわないところが」

「そう……私の見方は違うわ。彼はね、ただ哀れなのよ」

「哀れ、ですか?」

「〈ファントム〉は醜い素顔の自分を激しく嫌っている。それでいて、自分を受け入れてくれる人の存在を強く求めている。自分を愛せないからこそ、誰かに愛して欲しい……逆説的かもしれないけれど、そうすれば自分のことを受け入れられると、心のどこかで思っているの」

「なるほど、そういう見方もあるんですね」

 あの時に見た〈ファントム〉もそうなのだろうか。

 人に見られたくない素顔があり、それを隠すための〈マスク〉。

一方で〈マスク〉をばらまいて、混乱を招いている。

「……でも、それでも。人を殺したりするのは良くないと思います」

「ええ。私も別にそのことを肯定するつもりはないわ。ただ、物事をいち側面から見ただけでは全体を理解することはできないと、そう言いたいだけ」

「全体、ですか?」

「……そうね」

 彼女は口にゆるく組んだ手を当て、そのまま唇を動かした。

「私たちは……そう。人も、物も、あらゆる出来事も、ひとつの視点でしか見ることができない。色々な角度から見て全体を理解するのには、時間がかかる。でも、それを行うことができるようになれば、自分を理解することにもつながるの。自分の中にある感情、今までの積み重ね、それらを俯瞰して見ることができる。それは人間的な成長と、大きく結びつくの」

「そういうもの、なんですか」

 どことなく実感のわかない話だった。

 しかし、エリは無駄なことは言わない。今こうして話していることには、必ずなんらかの意味があるはずだ。

 それを考えようとして――不意に、エリが立ち上がった。

「長々と話をしたわ。みんなを待たせてしまったわね」

「あ……いえ、もう大丈夫なんですか?」

 エリは額に手を当て、「大丈夫よ」

「ちょっと目がかすむ程度。座っていればどうとでもなるわ。公演まで間もないし、私が音を上げるわけにはいかないもの」

 ミドリは口を開きかけ――閉じた。自分がエリに何か言ったところで、素直に耳を貸すとは考えにくい。

 だから、こう言うことだけが、精いっぱいだった。

「無理はしないで下さいね」

「ありがとう。では、そろそろ練習に戻りましょう」

 はい、と立ち上がる。

 エリと共に、ミドリはホールへ戻った。


     〇


 練習が終わり、『鐘つき棟』を出た辺りで解散となった。

 外はすでに暗く、風にも冷たいものが混じっている。空には月が浮かんでおり、その周辺を薄雲が漂っていた。

「はぁ~……終わった」

「お疲れ様、引島さん」

 振り向くと、マキがすぐ後ろに立っていた。疲れを微塵も感じさせない、余裕げな笑みを浮かべている。

「お疲れ様です、マキ先輩。今日は何度もミスをして、すみませんでした……」

「いいのよ。ね、歩きながら話しましょう」

「は、はい!」

 一瞬にして有頂天になる。

 二人並んで、校門を出る。見慣れている道のはずなのに、隣にマキがいるおかげで新鮮に感じられた。

「ずいぶんと、遅くなってしまったわね。ご家族は心配してらっしゃるでしょう?」

「そんなことは……あるかも、しれないです」

 アカネ――次にダンの顔を思い浮かべ、ミドリはむっつりとした顔つきになった。するとマキは驚いたように、「どうかしたの?」

「あ、いえ。その、今ちょっとおじさんと喧嘩していまして……」

「あら、喧嘩だなんて珍しいわね。何かあったの?」

「その、色々ありまして。ちょっと込み入っているといいますか」

「ふぅん。どっちが悪いのかしら?」

「それはもう、おじさんです!」

 はっきりと言い切り――ミドリは顔を赤くしてうつむいた。

「すみません……」

「いえ、いいのよ。そんなに感情をぶつけられるなんて、ある意味うらやましいわ」

「うらやましい、ですか? わたしにはとてもそうは思えないです」

「どうして、そう思うの?」

「…………」

 ダンの顔、言葉が頭の中で駆け巡る。

彼の行動指針は極めてシンプルだ。憎むべき〈マスカー〉を逮捕する。それしか頭にないだろう。

だから――自分たちのことは二の次ではないかと、思う時がある。

「おじさんは、わたしたちが子供の時から今までずっと育ててきてくれました。〈マスカー〉には……危険なことには近づくなって、いつも口を酸っぱくして言っていました。心配してくれてるってことはわたしにもわかっているつもりです。ただ……」

「ただ?」

「ちょっと、重たいなぁって。〈マスカー〉のことさえなければ、いいおじさんなのに」

「…………」

「すみません。こんなことを言っても、どうにもならないですよね」

 ううん、とマキは首を横に振った。

「心配してくれる人がいるっていうのは得がたいものよ。私の場合、どれだけ願っても手に入らないもののように思えるから」

「え?」

「私、あなたがうらやましい」

 マキの横顔には寂しいものが混じっていた。

 普段はまるで見せない表情で――彼女がそんな顔をするということが、にわかには信じられない。

 だから、マキの言葉の意味を深く考えられなかった。

 ミドリは自身の足元に視線を移す。

「わたしから見たら、マキ先輩の方がずっとうらやましいです。綺麗で、美人で、演技も上手で……」

「でもそれは、表面上のことよ。本当の私は誰も知らない」

「誰も、ですか?」

「ええ。ごく近しい人を除いてね」

「近しい人って……彼氏、とかですか?」

 ふふっ、とマキは吹き出した。予想外の質問であったらしい。

「彼氏、彼氏ねぇ。まぁそんなようなものかしら」

「え、本当にいるんですか!?」

「さぁ、どうかしら?」

 人差し指を唇に当て、軽くウィンクする。

 マキは手を下ろし、「まぁ、それはともかく」

「自分が持っているものって、その価値にはなかなか気づけないものなのよ」

「そういうものですか」

「そうよ。あなたが私をうらやましいと思うように、私も……あなたのことがうらやましい。よく言うじゃない、隣の芝生は青く見えるって」

「……わたしにはよくわからないです」

「いいのよ、わからなくて。私が好きに言っているだけだから」

 交差点のところで、二人は立ち止まった。

「では、ここでお別れね」

「はい。あの、マキ先輩」

「ん? なぁに?」

「公演、頑張りましょう。わたしも頑張りますから!」

 胸の前で、両手をぐっと握りしめる。

 わかりやすく気合を入れたミドリに、マキはくすっと微笑んだ。

「ええ、頑張りましょう。でも、ほどほどにね」

「難しいですね……」

「ふふ。それじゃあね」

 マキは小さく手を振り、振り返って歩いていった。

 彼女を見送った後で、ミドリは胸の前の手をじっと見下ろした。

「うん、頑張らなくちゃ」


     〇


「…………」

「…………」

「……いつまで、だんまりを決め込んでいるつもりだ?」

「その認識は間違っているぞ、刑事。僕は答えられないことには答えられないし、答えたくないことに無理して答える義務はないだけだ」

 台舞警察署、取調室――

 道化が逮捕されてから四日目となっていた。

 最初、道化は手錠や取調室に興味を示して色々眺め回していたが、それに飽きると今度はダンや新川を突き回し、今は再び手錠をいじっている。何を聞いても今のように、飄々とかわされる。ダンとしてもいい加減、腹に据えかねていた。

 机に肘を乗せ、身を乗り出す。

「いいか、よく聞け道化野郎」

「聞いてるよ」

「出自、年齢、経歴、本名も不明ときた。どこで〈マスク〉を手に入れたかについても話す気はないときている。お前、それでこっちが納得するとでも思っているのか?」

「といってもねぇ。それで納得してもらうしかないんだよね」

「この法治国家でそんな理屈はまかり通らねぇぞ。大体なぁ……」

 がちゃり、とドアが開く。

 顔を出してきたのは新川で、手にはなぜか盆に乗せられた丼がある。

「すみませーん、失礼しまーす」

「新川、なんだそりゃ?」

「まぁまぁ」と言いつつ、新川は盆から丼を、道化の前に差し出した。蓋を開けると中から湯気の立ったカツ丼があらわになる。

「お腹空いているだろうと思って、持ってきたんですよ。あ、もちろん代金は先輩のツケですので」

「おい、お前何を勝手に……」

「ありがとう、新川くん。その心遣いが嬉しいよ」

「そう言ってもらえると、ぼくも嬉しくなります」

 ダンは頬杖をつき、にこにこ顔の新川を睨んだ。

「おい、新川。誰に断りなく、勝手に出前を頼んでいる?」

「おや、君に許可を取る必要があるのかね?」

「そもそもてめぇ、それでどうやって食べるつもりだ?」

「おや、知りたいかい? 実はね、この〈マスク〉には口があって、必要な時に開くのだよ。こう、パカッとね」

「そうなんですかぁ?」

「そうなのか?」

「嘘に決まっているだろう」

 身を乗り出しかけたダンを、新川が「どうどう」と収める。

 道化は眼前のカツ丼を前にして、「うーむ」と腕を組んだ。

「食わないのか、道化野郎?」

「あいにくと、人前で食べる趣味はなくってね」

「……そういえば、お前はここに来てから何も食ってないはずだ。看守が言うには、水しか飲んでないらしいな?」

「ああ……まぁ、僕の腹は長持ちしやすいんだよ。一度満足するまで食べれば、三日ぐらいは食わなくても平気なんだ」

「……そんな奴がいるのか?」

「いるさ。君の目の前にね。自分の知っているものだけが、世界の真実とは限らない。世の中にはまだまだ君の知らないことであふれている」

「けっ、ご大層なことを言いやがって」

 不満そうに、椅子の背に肘を乗せる。

 道化はカツ丼に蓋を戻し、脇にどかせた。机の上で手を組み、「ところで」

「学園祭の方は順調かな?」

「ああ?」

「もうすぐだろう、ミドリくんの公演。こんなところで悠長にしてていいのかな?」

「てめぇには関係のない話だ」

「……とも言い切れないと思うがね。〈ファントム〉に何らかの目的がある以上、放ってはおけない」

「なぜ、そうまで首を突っ込む? てめぇと〈ファントム〉にどんな因縁がある?」

「それを知るためにも、僕は彼と対峙しなくてはならないのさ」

 けっと吐き捨て、ダンはふんぞり返った。

「〈ファントム〉の目的だと? てめぇはどこまで知っているんだ?」

「何も。わかっているのは、ミドリくんと関係があるっていうことだ」

 ダンはかっと目を見開き――気づいた時には、道化の胸元を掴み上げていた。

「ちょ、先輩!」

「全く、乱暴だな……」

「どういうことだ。ミドリと〈ファントム〉に、なんの関係があるっていうんだ?」

「そこまではわからないよ。だが、『オペラ座の怪人』のストーリーを考えれば、自ずと答えは出るような気はするが」

「『オペラ座の怪人』? またそれか……」

 うんざりするように言い捨て、道化から手を放した。

 二人とも席に着いた後で、ダンが机を叩く。

「あんなよくわからんメロドラマが、なんの手がかりになるっていうんだ!」

「調べたのかい?」

「新川が持ってきた本をな。飛ばし飛ばしで読んでいるが」

「ならば、僕がかいつまんで説明することにしよう。いいか、〈ファントム〉はオペラ座の歌手であるクリスティーヌに恋をして、彼女が舞台の上でより輝けるよう鍛え上げた。ここまではいいな?」

「ああ」

「〈ファントム〉の目的はクリスティーヌをオペラ座のトップスターにすること。その彼女を独り占めすること。今回の〈ファントム〉も、似たようなものだと思う」

「……よくわからねぇ。どうつながってくるっていうんだ?」

「鈍いな。ミドリくんだよ。彼女、主役に選ばれたんだろ?」

「……!」

「今、彼女は学園祭の公演に向けて練習中のはずだ。その裏で、彼女を取り巻く陰謀が蠢いている。悠長にしていいのかと聞いたのは、そういうことさ」

「…………」

 ダンは後頭部を掻き、「信じられねえな」

「ほう? どこがだ?」

「てめぇの言葉の何もかもだ。その話の根拠はどこにある? 〈ファントム〉がミドリの周りで何かしようっていう証拠はどこにある? てめぇはただ、可能性を示しただけだ。それじゃあ誰も納得しねぇ」

「……だろうな」

「いいか、道化野郎」

 ダンは身を乗り出し、眉間にしわを寄せた。

「俺はお前の言葉なんか信じない。〈マスカー〉の言葉なんかな。ミドリを助けたのだって、あいつにつけ込むためだろ、ええ?」

「…………」

「あいつは単純でお人好しだからな。ちょっと褒められると、すぐその気になる。だがな、覚えとけ。俺の目が黒い内は、あいつ――あいつらには一切、手を出させねぇ。何と引き換えにしてでも、俺はあいつらを守り抜く」

「そうか」

「〈ファントム〉が何かやらかすだろうってのは、俺も考えている。だが、根拠といえるものがない。根拠がないのに、動くことは許されねぇんだ」

「不自由だな。同情するよ」

「ぬかしやがれ。とにかくだ、俺は……」

 すっと道化が手を上げ、ダンの話を遮った。

「聞いてもいいかな、刑事?」

「ああ?」

「君はなぜそこまで、〈マスク〉を憎む?」

「なんでてめぇにそのことを話さなくちゃいけねぇんだ?」

「ミドリくんを助けたぞ。しかも二度」

「……ちっ」

 ダンは椅子に座り直し、苛立たしげに腕を組んだ。

「〈マスカレイド〉っていう、十年前の事件のことは知っているよな?」

「名前だけはね。残念ながら、詳細は知らない」

「なんだと?」

「海外暮らしが長かったものでね。この国の情勢については疎いのだよ」

「全く……そこからか」

 ダンは胸ポケットからタバコを取り出し、火を点けようとした。ふと、新川が腕でバツ印を作っていることに気づき、しぶしぶポケットに戻す。もう一度新川の方を見、「おい」と呼びつけた。

「お前が説明してやれ」

「説明って、〈マスカレイド〉のことですか?」

「そうだ。説明は得意じゃねぇ。お前に任せた」

「全く、もう……人使いが荒いんだから」

 ぶつくさと文句を言いつつ、スマートフォンを取り出す。

 手早く操作し――「ああ、出ました出ました」

「ええっと、〈マスカレイド〉っていうのは十年前に起きた大規模なテロ事件のことですね。渋谷区に仮面をつけた集団が突然現れて、街を混乱に叩き込んだっていう」

「そうだったな。だが、もっと恐ろしいのはそこからだった」

「ええ。騒ぎを見ていたはずの人々も、仮面をつけて参加し出したんです。その光景がテレビやネットで流れるようになると、各地で同じような騒ぎが起こりました。仮面をつけた人たちが火をつけたり、建物を壊したり……とにかく、ひどい有り様だったようです」

「その時、〈マスク〉と〈マスカー〉の存在が世間に広く認知された。その後で、仮面の類いを取り締まる〈マスク法〉が制定されて……今に至るというわけだ」

「なるほど。それで、君は?」

「…………」

 ダンは鼻から息を吐き、道化から顔を背けた。

「俺は当時、二十歳そこそこの新米だった。〈マスカレイド〉の惨状もこの目で見てきている。ひでぇ事件だったが……それよりも、もっとひどいことが起こった」

「……ふむ?」

「ミドリとアカネの両親が、〈マスカレイド〉をきっかけに姿をくらました。まだ幼いあいつらを残してな。母親は俺の姉で、父親は時計職人だった……いや、それはどうでもいいな。とにかく、その後で父親は見つかったよ。死体となっていた」

「死体……〈カオナシ〉か?」

「そうだ。顔の皮膚が剥がれた状態で発見された。母親の方は今も行方知れずだが、俺はもう死んだものと思っている。あいつらも、そう思っているはずだ」

「ミドリくんはそのことを?」

「ああ、高校に上がる時に教えた。あいつらは強い子だからな。健気に、一生懸命に生きている。両親がいなくて寂しいだろうにな」

「…………」

 ダンは机に、拳を打ちつけた。

 そして忌々しげに道化を――〈マスク〉を睨み上げる。

「だから俺は〈マスカー〉が許せねぇ。あいつらからかけがえのないものを奪って、今もなお好き勝手暴れている連中が」

「……なるほど」

 ダンは重々しく息を吐いた。

「これでわかったか? 俺が〈マスカー〉を憎む理由が」

「ああ、とてもね」

「そうか。……いいか、よく聞け道化野郎」

 ダンは立ち上がり、道化を指差した。

「どんなことがあったとしても、例えお前がミドリの言うような『いい人』だったとしても、俺は絶対に〈マスカー〉の力なんか借りねぇ。あいつらと同類になるからな」

「…………」

「新川、後は任せたぞ」

「はいはーい、お任せを!」

 びしっと敬礼する新川を尻目に、ダンは取調室から出た。

 その直前――道化がぼそりとつぶやいたのを、耳にした。

「メンツなぞにこだわっている場合ではないだろうに……」


     〇


 台舞高校学園祭は基本、土日に行われる。一般開放もされており、『顔認証ゲート』の機能はオフとなっていた。そのため、出入りは自由である。

しかし、例年に比べてどことなく雰囲気が物々しいのは、各所に配置された警備員の存在だろう。至るところに立っており、油断なく周囲を見回している。

ミチは横目で彼らを見、たこ焼きを口に運ぶ。

「どこにもいるもんだね」

「ほんと。おかげでなんか、ピリピリしてるって感じ」

 ホットドッグをかじりつつ、アカネが言った。

 この日は日曜日、学園祭二日目である。

 土曜の時点であらかた巡り終えたため、アカネとミチは特に目的もなくぶらついていた。二人とも今は休憩中で、時間が来れば自分のクラスに戻ることになっている。

「アカネんとこのクラス、どう? どんな感じ?」

「ノリのいい客がいてくれて、まぁなかなかいい感じかな。やっぱさ、音楽系ってのはノリが重要だから」

「うーん、いいなぁ。こっちは可もなく不可もなくって感じだよ。コスプレとかしてる人もいるけど、クレープと全然関係ないものばっかだし。ていうか、ただのパジャマだし」

「ほっときゃいいんじゃない? 誰かに迷惑かけてるんでもないなら」

「まっ、そーね。ところでミドリはどう?」

「公演の準備でしょ?」

「あ、そーじゃなくて、最近の様子はってこと」

「ん?」と眉をひそめる。

「あんたクラスが一緒なんだから、そっちの方がよく知ってるでしょ?」

「うーん、そうなんだけど。ミドリって大事なことはあんまり言わないタイプだし。アカネならなんか知ってるかなって」

「あたしは知らないよ。言ってくれなきゃわかんないしね」

 突き放したような言い方に、ミチが唇を尖らせる。

「アカネは心配じゃないの? ミドリのこと」

「心配したところで、どうにかなるわけじゃないっしょ」

「でも、家族じゃん? 姉妹でしょ?」

「距離が近いからって、なんでも知ってるわけないじゃん。ミチだって、自分の趣味とか親にバラせる?」

「う。それは……無理かも」

「そういうことよ」

 歩くことが面倒になったのか、アカネは適当なところで窓際に背中を預けた。ミチも隣に並び、廊下を行き交う人々たちを眺める。

「おっさん……あたしたちの保護者もさ、やれ〈マスカー〉には近づくなってうるさいのよ。わざわざ言われなくたって、危ないもんには近づかないっての。そういう判断ができないぐらい、子供じゃないのに」

「心配なんでしょ。でも、わかる。ミチの親もいつまでもミチのこと子供扱いしてて、夜の八時とか九時とかに帰ったりすると、怒るんだよ。『こんな時間まで、どこほっつき歩いてた!』って」

「あー、おっさんもそのタイプだわ」

「ありがたいけど、うっとうしいよね」

「ね」

「心配してくれる人って、なんであんなに過保護気味なんだろ?」

「さーね、わかんない。あたしらも子供を持てば、もしかしたらわかるようになるのかもね」

「子供ぉ? 想像できなーい」

 二人で快活に笑い合う。

「あ、そういえば」とミチが手を叩いた。

「ミドリの公演って、夕方からだよね。行くの?」

「まぁ、行ってやらないとね。後で何を言われるかわかんないし」

「ミドリとアカネのおじさんも来てるの?」

「まぁ、来てるでしょ。ここで顔を合わしたくないけど」

「ふーん。なんだかんだでアカネんとこ、仲いいよねぇ」

「はぁ? どこを見ればそうなるのよ?」

 怪訝そうなアカネを横目に、ミチは得意げに鼻を高くした。

「教えてあげませーん。なんてね」

「教えなさいよ、この!」

 軽くパンチを突き出したが、あっさりかわされた。「お主の拳はすでに見切った……」などとのたまい、奇妙なポーズを取っている。

 アカネは「へぇ」と片眉を上げ、手の骨を鳴らした。

「上等じゃない。あたしをからかおうなんて、十年早い!」

 その後でアカネはミチを追いかけ回し、追い詰めた末に衆人環視の中、コブラツイストをかけるという暴挙に出た。

 ちなみにその光景をダンと新川が見ていたのだが、二人は知る由もない。


     〇


「何をしているんだ、あいつら……」

「元気でいいじゃないですか。若いっていいなぁ」

 呆れ顔のダンと、相変わらず締まりのない顔の新川。

 パトロールも兼ねて、校内を見て回っている途中である。警備員がやたら目立つぐらいで、他は特に異常はない。

 ダンと新川は一階に下り、休憩がてらテラスへ足を踏み入れた。普段は生徒の憩いの場であり、ベンチと自動販売機が備え付けられている。そのせいか、人の数も多い。

たまたま空いた席があったので、そこに陣取ることにする。

「やれやれ、どっこいしょっと」

「うわ、先輩。今のすごいおじさん臭いですよ」

「うるせぇ。てめぇに『おじさん』呼ばわりされる筋合いはねぇ」

 ごきごきと首の骨を鳴らし、腕時計を確認した。公演が始まるまでもう少しだ。

「しばらくここで、時間を潰すといくか」

「じゃあぼく、何か飲み物買ってきますね。何がいいですか?」

「コーヒー。ブラックだ」

「熱いやつと冷たいやつどっちですか?」

「熱いやつ、頼む」

 はーいと自動販売機に駆け込む。

ダンは周囲をぐるりと見回した。生徒や保護者、まだ幼い子供の姿も見かける。一見、どうということのない風景だ。

しかし――

「今もどこかで、〈マスカー〉が潜んでいるとしたら……」

「何をぶつぶつ言ってるんですか?」

 眼前に差し出された缶コーヒー。ひとまず受け取り、フタを開けてひと口つける。ふと、新川が何か言いたそうに突っ立っていることに気づいた。

「なんだ?」

「いえ、代金。まさか、タダとは思ってませんよね?」

「ツケにしとけ」

「またですか……」

 ぶちぶち言いながら、ダンの隣に座る。メロンジュースのフタを開け、ぐっぐっと喉に流し込む。

「ぷはぁ。いいもんですね、たまには仕事を離れてこういうところに来るのも」

「バカ野郎、仕事で来ているんだ。気を抜くな」

「え、仕事だったんですか?」

「なんだと思ってた?」

「いえ。学園祭に行くぞなんて言うからてっきり……最近の先輩はいつにも増してイライラしているようでしたので、気分転換を図ろうとしたのかなと」

「それは残念だったな。俺はここで〈マスカー〉の野郎が騒ぎを起こさないかどうか、見張りに来たんだ」

「とか言っといて、本当は姪御さんの姿が見たいだけなのでは?」

「…………」

「あ、暴力反対。その手を引っ込めて下さいよ」

 上げかけた手を下ろし、ダンはため息をついた。

 新川は再びメロンジュースに口をつけ、「それにしても」

「学園祭ってどこも、雰囲気あんまり変わらないもんなんですかね。ぼくのいた高校の時よりは立派ですけど、やってることは同じっていうか」

「子供が考えてやることだ。変わり映えしないのは当然だろう」

「そんなもんでしょうか。まぁ、学校自体がそんなものだから、ある意味仕方ないのかもしれませんね」

「学校自体、ねぇ」

「『顔認証ゲート』とか、そういう立派な設備があっても同じことですよ」

「お前はあれが意味ないと?」

「あるかないかでいえば、ないかと。だって現実に、〈マスカー〉による事件が起こっているじゃないですか」

「まぁ、それはそうだが」

「持ち物検査も行っているみたいですけど、どれだけ効果があるかは疑わしいですね。本気で持ち込もうと思えば、いくらでもやりようはあるはずです。教師は警備のプロじゃないから、そこまで手と時間をかけるとは思いにくいし」

「なるほどな」

 ダンはあごをさすり、後輩の話を吟味した。

「で、結論は?」

「はい?」

「お前の話だ。結局、何が言いたいんだ?」

「さぁ、何を言いたかったんでしょう? ぼくはただ、雑談のつもりでしたけど」

「……もういい」

 立ち上がり、空になった缶コーヒーをゴミ箱に入れる。

 学園祭のガイドブックを開き、腕時計と合わせて確認した。

「そろそろか」

「姪御さんの公演ですか?」

「ああ。席が埋まっていると面倒だ。さっさと行くぞ」

「はいはーい」

 ダンたちは『鐘つき棟』に赴き、ホールに立ち入った。公演はまだ三十分ほど後のはずだが、すでに座席の大半は埋まっている。

「すごい人気だな」

「ですね。コンクールで賞を取ったこともあるぐらいですから、それなりに注目もされているんでしょう。……あ、先輩あそこ、空いてますよ」

 やや後列寄りの席に座り、ダンは改めてホール内を見回した。天井は高く、座席の数も申し分ない。緞帳のかかっている舞台は広く大きく、このホール自体がさながらひとつの劇場のようだった。

確かにここならば、思う存分練習できるだろう。自分が子供の頃と比べると、設備の大きさや質というものがまるで違った。

 隣の新川は、ガイドブックをじっと読んでいる。

「ええっと、先輩の姪御さんが出てくるのは……『オペラ座の怪人』? よりにもよってこの作品ですか?」

「俺に言われてもな。ミドリはクリスなんとかっていう役だ」

「クリスティーヌですか。主役を射止めるとは、大したものですね」

「どんな役なんだ?」

「え、先輩? 本を読んだはずでは?」

「途中から読み飛ばしていたしな」

「……はぁ、仕方ないですね」

 ガイドブックを閉じ、新川はスマートフォンを取り出した。

「えーっと……クリスティーヌはオペラ座の歌手で、最初はあまり目立たないポジションでした。〈ファントム〉の手助けにより、あっという間に人気女優に上り詰めた。どうやら〈ファントム〉に亡くなった父親の面影を重ねているらしく、多少はファザコンの気がある模様です」

「父親が……」

 似ているなと思ったが、口には出さなかった。

「彼女にはラウルという幼馴染がいて、そのラウルと相思相愛なんですよ。それで〈ファントム〉は嫉妬しちゃって、その幼馴染すらも殺そうとします」

「とんでもねぇ話だな」

「もちろんクリスティーヌはそれを止めようとしましたが……」

「したが?」

「まぁこの先は実際に劇を観ればわかると思いますよ。コンクールにも出られるぐらいなら、原作に忠実かと思いますし」

 得意顔でスマートフォンをポケットに収める。

 ダンはあまり気乗りしない様子で、頬を掻いた。

そもそも劇を観るという習慣のないダンである。わざわざここに足を運んできたのもミドリが出てくるからで、それ以上でも以下でもない。ミドリの出ないシーンは寝てしまうかもしれない、という妙な自信はあった。

ホール中に、マイク音声が響き渡る。

『お待たせしました。これより、劇『オペラ座の怪人』が始まります……』

明かりが一斉に消え、幕が上がる。

舞台には古びた時計や置物、人形などが置かれていた。一番目立つのは中央にある、壊れたシャンデリアだ。

 槌で叩く音。老人(もちろん、扮装している生徒だ)が人形を手に持ち、複雑な表情で眺めている。

 時計がポーン、ポーンと時を刻む。針が逆に動いたかと思うと、ぐるぐると回転し、それに合わせて舞台が動いた。置物や人形などが舞台袖に引っ込み、きらびやかな照明が舞台上を照らしていく。中央のシャンデリアも宙に浮かび上がり、照明を受けて輝いていた。

 ほー、と新川が感嘆の声を上げる。

「大がかりですねぇ。プロ並みだ」

「そうなのか?」

「あれって、タイミングが命なんですよ。あのシャンデリアなんですけど、設計の段階でかなり考えられてると思います。重さとか」

「ふーん……」

 確かに、古びたシャンデリアが一瞬にして新品同様に輝くというのは、相当手をかけないとできないのかもしれない。

 舞台は移り変わり、何十年も前のオペラ座へ。

 劇中劇というのだろうか――見慣れない衣装を着た生徒たちが、声を張り上げ、時には歌ったりしている。その中に、ミドリの姿もあった。衣装は他の生徒と似たり寄ったりで、立っている場所も舞台の端の方だ。

とても主役には見えない。

 序盤は目立たないミドリ――もとい、クリスティーヌだったが、〈天使の声〉が聞こえるようになったことで、彼女の運命が変わる。看板女優が突然高熱を出し、代打で舞台に立つことになった。それで高い評判を得、クリスティーヌは戸惑いながらも、着実にスターへの道を歩んでいく。

 しかしその裏では〈天使の声〉を騙っている、〈ファントム〉の姿があった。クリスティーヌが舞台に立つため、あらゆる手段を惜しまず使う。自分の正体を探る者にも容赦はせず、それがクリスティーヌの幼馴染――恋敵ともなれば、なおさらだった。

〈ファントム〉は己が手でクリスティーヌを導くことに喜びを覚え、クリスティーヌもまた、〈ファントム〉を必要としている。

 だが、〈ファントム〉は激情の塊だった。

好奇心に負けて〈ファントム〉の仮面を剥がしたクリスティーヌは、彼に罵倒され、なじられる。クリスティーヌが幼馴染のラウルと会話をしているところを見れば、彼を亡き者にしようと考える。彼女がどれだけ止めようとしても、まるで聞こうとしない。

その傲慢なまでの振る舞いに、どことなく既視感があった。

「〈ファントム〉ってなんだか、先輩に似てますね」

「ああ?」

「ひっ。ちょ、ちょっとだけですよ、ちょっとだけ」

「……ったく」

 人の目もあるので、この場で殴り飛ばすのは控えた。

 舞台が目まぐるしく変わり、ミドリの衣装も変わっていく。

豪奢なドレスを着るようになっていくが、彼女の顔は明るくなかった。〈天使の声〉が〈ファントム〉であること、そして〈ファントム〉が自分のために今までどれだけ罪を犯してきたかを知り、動揺しているのだった。

 その本心をラウルに打ち明け、彼は〈ファントム〉を倒すことに闘志を燃やす。

 しかしそれは新たな悲劇の幕開けとなった。

「すごいもんですね。ぼく、お金を払って演劇を観に行ったことありますけど、それに決して負けてませんよ」

「そうなのか?」

「指導者の腕がいいんでしょうね。舞台切り替えもスムーズだし。そうでなければあんな風にはいきませんって」

「指導者、か……」

 エリの顔を思い浮かべる。

怜悧な風貌の持ち主で、ダンのような人間を好きではないと言い放った。とっつきにくい印象のある女性だが、演劇の指導の腕については確からしい。

「あの女が怪しいんだよな……」

「? なんの話ですか?」

「いや、こっちの話だ」

「……?」

〈ファントム〉の手によってクリスティーヌは誘拐され、ラウルはそれを追う。

 オペラ座には広い地下があり、血脈のようにあちこちに張り巡らされている。自由に行き来できる〈ファントム〉を追うのは困難で、迷っている間にも〈ファントム〉は、地下の更に奥深くへと進んでいく。

 そこで〈ファントム〉は、クリスティーヌに思いのたけをぶちまける。

『ようやく目覚めたか、クリスティーヌ』

『あなた……ここは一体、どこなの?』

『どこでもよかろう。お前は私の言いつけに背いた。裏切り者には罰を与えなくてはならないのだ。そしてお前を唆した者にもいずれ、罰を下す。これはもう決まったことだ。お前が私にそうさせたのだ、クリスティーヌ』

『待って、お願い! 罰を与えるならわたしだけでいいでしょう? それにそんなことをしても、あなたの魂は救われはしないわ!』

『黙れ、お前に何がわかる……!』

 唸るような低い声に、クリスティーヌは怯む。

 そこにラウルと、警官隊が現れる。『武器を捨てろ!』とピストルを突きつけ、〈ファントム〉と対峙する。

 しかし〈ファントム〉はクリスティーヌを人質にとった。

あろうことか、彼女の首筋にナイフを当てている。

『よくぞここまで来たな、恐れ知らずの勇者よ! 今からお前には地獄のいち場面というものを見せてやろう!』

『よせ!』

『誰も彼も、私から奪おうとする! 私を暗い闇の底に押しやり、光差さないように閉じ込めようとする! お前たちがまさにそうだ! 光を浴びて育った者には、闇を養分にして育った者の気持ちなどわかるまい!』

 そして、ナイフを振りかぶった瞬間――

「それは、君の本心かな?」

 唐突に、それまでに聞いたことのない声が割り込んできた。

舞台袖から出てきたその人物は、〈ファントム〉を見据えている。〈ファントム〉のみならず舞台に立つ全員――そして観客も唖然としていた。

 そいつは仮面をかぶっていた。

額からあごまで全てを覆う、白い〈マスク〉を。

「そのナイフ、本物だろう?」

「……!」

「大胆なやり方だよ。まさか、舞台の上で殺人を企てようとはね」

「…………」

〈ファントム〉は答えない。ただ、ナイフを込めた手に力が入っている。困惑するクリスティーヌ――ミドリを抱き寄せたまま、仮面の奥の目に激情をほとばしらせていた。

「なぜ、貴様がここにいる?」

「あれで僕を追い払えたと思ったら大間違いだよ。曲芸と奇術に通じていれば、それはすなわち、どこからでも脱出可能と意味している」

「ふざけたことを……!」

「失礼、道化なもんでね」

 両手を上げ、肩をすくめる。

 二人のやり取りは、観客からしたら意味不明のものだろう。しかしダンには――そしておそらくミドリにも、理解できたはずだ。

「彼女を解放したまえ、〈ファントム〉。君の幕はここで閉じる」

 道化が手を差し向けた、その時だった。

 くくっ、と〈ファントム〉が笑ったのである。マントから、ナイフの代わりにスプレー缶のようなものを取り出し、ミドリの鼻先に吹きつけた。

「あっ――」

瞬く間にミドリは気を失い、〈ファントム〉の体にもたれかかる。

 観客席のざわつきが大きくなる。誰かが「〈マスカー〉だ!」と叫び、それをきっかけにパニックが起こった。

 ダンは即座に腰を上げた。

「新川、行くぞ!」

「え? は、はい!」

 我先にと出口へ駆け込む観客をすり抜け、ダンたちは客席の間を移動する。

 その間に、数人の警備員が舞台に上がっていた。道化と〈ファントム〉を交互に見、さすまたや警棒を向けている。

〈ファントム〉は不快そうに歯ぎしりをした。

「土足で舞台に上がるとは……!」

「お、おい! そこを動くな!」

 警備員の何人かは息が上がっていた。おそらくホールの外で道化を見かけ、ここまで追いかけてきたのだろう。

二人は道化に、そして四人は〈ファントム〉にじりじりと近づいていく。

〈ファントム〉はマントから、黒い棒を取り出した。ひと振りで先端が伸び、警備員たちに突きつける。

彼らは怯む気配を見せたものの、勇敢なことに、一人が真っ先に飛び出した。

〈ファントム〉に掴みかかろうとして――宙をかすめる。

警備員の後ろに、いつの間にか〈ファントム〉が回り込んでいた。容赦なく、彼の背中に警棒を突き刺す。

「ぐえっ!」

 更に蹴り飛ばし、舞台の上から叩き落した。

「くそっ!」

残る三人も弾かれるように、〈ファントム〉に挑みかかる。

「愚か者が……」

 三人の警備員の目の前で、〈ファントム〉が消えた。その場には黒い煙のようなものだけが残されていて――次の瞬間には、一人が横から吹っ飛んでいた。

「な、なんだ!?」

「何が起きてる!?」

 残された二人――正面に、突然〈ファントム〉が現れる。不意を突かれた二人はそのまま、喉と腹部、それぞれに打撃を食らい、打ちのめされた。

 新川が舞台を指差し、大声で喚く。

「消えた、消えちゃいましたよ!」

「どういうカラクリだ、ありゃ……」

 二人はようやく、舞台の前まで辿り着いた。

道化を取り押さえようとしていた警備員二人は、この事態を前にただうろたえている。武器を持つ手も震えており、腰が引けていた。

道化が警備員の肩を掴む。

「下がっていたまえ。君たちには荷が重すぎる」

そう言って前に出て、道化は〈ファントム〉と向かい合った。〈ファントム〉は気絶している警備員を、舞台から叩き落しているところだった。

「こうして間近に会うのは二回目かな?」

「…………」

「……む?」

〈ファントム〉は手に、黒い筒状の物体を持っていた。

それを道化に見せつけ――にやり、と笑う。宙に放り投げると同時、〈ファントム〉は舞台袖に引っ込んだ。

筒状の物体が、地面に向かって落ちていく。

「いかん、伏せろッ!」

 道化が叫んだ次の瞬間、筒状の物体が炸裂した。

 目と耳をつんざく閃光と爆音。

逃げ遅れた観客の悲鳴。

ダンも新川も、ただうずくまることしかできなかった。

「な、なんなんだこりゃあ!」

 閃光と爆音は、二十秒ほどで止んだ。

 観客は声にならないうめき声を上げ、倒れ込んでいる。比較的症状の軽い者は、よろよろとホールから出て行った。

 ダンはなんとか身を起こし、ふらつく頭を手で押さえる。新川は気を失ったらしく、うずくまった体勢で固まっていた。

 なんとか舞台に上がり、筒状の物体を拾い上げる。

「スタングレネードだとぉ? 学校で使う奴があるか……」

 周囲を見回す。ミドリも、〈ファントム〉の姿もない。

道化はといえば、ちょうど舞台袖から出てくるところだった。片手で頭を抱えていることから、彼にも多少のダメージがあったらしい。

 だがそれに構わず、ダンはずかずかと道化に歩み――胸元を掴み上げた。

「おい、てめぇ! 一体なんてことをしてくれやがってんだ!」

「だが、あのタイミングで乱入しないと、ミドリくんはあのまま殺されていたぞ」

「なんの根拠があって……くそっ、まだ頭がくらくらしやがる」

 膝に手をついてあえぐ。

 道化は混乱の最中にあるホール中を見回し、「まずいな」

「このままだと〈ファントム〉に逃げられるばかりか、最悪の事態になる」

「なんだと……どういうことだ?」

「話は後だ。それよりも、ミドリくんのことだよ」

「……そうだ、ミドリだ! あいつ、一体どこに……」

「心当たりはある」

 道化は言い、ダンを見上げた。

「急ごう。時間がない」


     ○


 薄暗い室内で、目を覚ます。

開けた視界の中に飛び込んできたのは、倒れ伏せたエリの姿だった。

「――っ!」

 思わず身を起こし、後ずさりする。背後で何かとぶつかり、派手な音を立ててもエリはまるで反応しなかった。

「……先生?」

 近づき、揺さぶってみる。暗いのでわかりにくいが、顔にはあざがある。

 誰かに殴られたのだろうか――

 その疑問はすぐに解けた。

「あなたのせいよ、引島さん」

 ぞっとするような、冷ややかな声。おそるおそる振り返ると、窓辺にマキが立っていた。黒いタキシードの上にマントを着用している。

 ここは演劇部の部室で、明かりはランプのみ。他には誰もいなかった。

「マキ……先輩?」

「あなたのせいで私、先生に手を上げちゃった。そんなつもりじゃなかったのに」

 手をさすり、マキはミドリを見下ろした。

これまでとは違う、敵意のこもった視線。その目で見られる理由がわからず、ミドリは呆然とマキを見上げていた。

「マキ先輩……どういうことなんですか?」

「わからない? この状況を見て、わからないのかしら?」

 こつ、こつ、とマキはミドリに歩み寄った。

 顔を近づけ、そっとささやく。

「私が〈ファントム〉なのよ」

「なっ」

「驚いた? 驚くわよね、そりゃ。でもね、驚くのはまだ早いの。あなたにはこれから死んでもらうことになってるから」

「え?」

 言われたことの意味が飲み込めず、ミドリは唖然とした。なんでと言おうとしたが、かすれた声しか出ない。

 しかしマキはわかったらしく、「それはね」

「あなたがエリ先生のお気に入りだからよ」

「……え?」

「エリ先生は私のものなのに、最近の先生はあなたにお熱なんだもの。邪魔だと思って当然じゃない?」

「な、なんの話なんですか?」

 マキは不愉快そうに、目尻を引きつらせた。彼女がこんな顔をすることなど、演技の上でもありえない。それだけにショックだった。

 ミドリのあごを掴み、強引に引き寄せられる。

「ここまで言ってもわからないの? どれだけ察しが悪いの?」

 胸を押され、しりもちをつく。

ミドリはただ震えていた。

「あなたなんかにはわからないわよね。心配してくれる人が何人もいるんだもの。でも私には先生だけなの。先生しかいないのよ。その先生があなたなんかに熱を上げていたら、私、どうしたらいいのかわからなくなるじゃない」

「…………」

「寂しかったのよ、ずっと。振り向いてもらうために必死だったんだから。今日あの場であなたを殺して先生の目を覚まさせるつもりだったけど、失敗しちゃった。あの道化といい、どうしてこう失敗続きなのかしら……」

 うんざりしたようにため息をつく。

 ミドリは倒れているエリを見――マキに視線を戻した。

「どうしてですか?」

「うん?」

「どうして、こんなことをしたんですか?」

「……そんなことを聞いてどうするの?」

「それは……」

「そもそも、あなたなんかに話す義理があると思うの? 話したってわかりっこないわ。あなたみたいに、色んな人から愛を受けている人には」

「あ、愛?」

「笑っちゃう? でもね、私は真剣よ。本気で先生のことを愛してる。あなたなんかには渡さない。だから……」

 マントに手を突っ込む。

 取り出したのはナイフで、刃渡りは十五センチほど。ナイフの側面に、怯えているミドリの顔が映った。

「私の前からいなくなって」

「ひっ……」

 その時――派手な音を立てて扉が開いた。

室内に飛び込んできたのは、ダンと道化だった。

「ミドリ、無事か!」

「おじさん!」

 ダンは即座に駆けつけようとして――道化に制される。

「なんだ、おめぇ!」

「周りを見ろ」

そこでダンはようやく、倒れているエリと、マキに気づいた。

「これは……」

「にわかには状況が読めないね。とりあえず……〈ファントム〉の正体は君ということで、いいのかな?」

 マキはナイフを手に持ったまま、関心のない瞳で道化たちを見返していた。くるくるとナイフを手でもてあそぶ。

「あーあ、バレちゃった……」

「お、お前が〈ファントム〉なのか?」

 ダンはにわかに信じられない様子だった。

「そうよ」とマキは背中を向けて言った。

「私が〈ファントム〉。種子島にマスクをつけさせたのも、あの梅木って奴に〈マスク〉を渡したのも、殺したのも、ぜーんぶ私がやったこと」

「なぜ、そんなことをした?」

「……二人して、同じようなことを聞くのね。理由を知ったって事実は変わらないし、変えられないのに」

「何を言っている?」

「説明したって、わかりっこないって言ってるのよ。わかってもらうつもりもないけれど」

 すっ、とマントから白い仮面を取り出した。

口元だけが露出した、光沢のある〈マスク〉。

「私にこの〈マスク〉を与えてくれた人は、私のことをよく理解していた。だから協力してあげた……理由としてはさしずめ、そんなところかしら?」

 恍惚の笑みを浮かべ、白い〈マスク〉を撫でる。

「この〈マスク〉はすごいのよ。人を操る力があって、エリ先生みたいな人でも簡単に操れちゃうんだから」

「人を操る? まさか、そんな……」

 練習の時の光景がよみがえる。

あの時のエリは具合が悪そうで――〈マスク〉の力のせいだとすれば、エリはかなり前から操られていたことになる。

「久良木先生に、一体何を?」

「私の〈ファントム〉になってもらったのよ。私だけを愛する、一途な人。でも、演劇に関してだけはあまり言うことを聞いてもらえなくてね」

「え?」

「あなたみたいな人を勝手に主役にしちゃって。どれだけ腹立たしかったか……先生には私だけを見ていて欲しいのに」

 マキは窓辺へと歩み寄った。

 そこでくるりと振り返り、白い〈マスク〉を顔の前で掲げる。

「誰も、彼も、邪魔ばかり……私のことなんて誰も見てくれない」

「よせ、もう止めろ!」

「マキ先輩!」

 ダンとミドリが呼びかけるも、マキは薄く微笑むのみだった。

「私の愛の邪魔をするというのなら、今ここでみんな消えてしまえばいい。そう、幻影のように……誰も彼も、消えてしまえばいい!」

 掲げた〈マスク〉をそのまま、顔にかぶせる。

 瞬間、突風を浴びたかのようにマントが大きく翻った。手を後ろに回し、そこから取り出したシルクハットを頭に載せる。

〈ファントム〉は窓際に飛び乗り、道化たちを見下ろした。

「『鐘つき棟』の屋上へ来い、道化者。そこで決着をつけてやる」

「いいだろう」

〈ファントム〉は一条の黒い煙を残し、空気に溶け込んでしまった。

 ミドリはへたり込んだまま、その光景をただ見ていた。「おい!」とダンに揺さぶられ、ようやく我に返る。

「大丈夫か、ミドリ! 怪我はないか?」

「う、うん。たぶん」

「はぁ……良かった」

 安堵の表情を見せるダンに、ミドリは胸が痛んだ。

 道化は〈ファントム〉と同じように窓際に飛び移り、外を眺め回している。

ミドリを支えた状態で、ダンが問いかけた。

「おい、道化野郎。〈ファントム〉と戦うつもりか?」

「そのつもりさ。彼――いや、彼女は退くつもりはないだろう。今ここで止めないと、彼女のみならず周囲にも危険が及ぶ」

「道化さん……」

「安心したまえ、ミドリくん」

 道化は窓枠に手をかけ、半身だけ外に出した。

「ここからは僕の舞台だ。〈マスク〉による犠牲者を、これ以上生み出すわけにはいかない。だろう?」

「……うん」

「では、行ってくるよ」

 窓枠から上の階へと飛び移り、道化の姿が見えなくなる。

 ここからだと『鐘つき棟』が見える。あそこで〈ファントム〉が待ち受けているのだろう。

道化と〈ファントム〉――二人の〈マスカー〉がぶつかり合う。

梅木の時と同じように。

 ミドリは顔をこわばらせ、手を握り込んだ。

「おい、ミドリ? どうした?」

「……ねぇおじさん、お願いがあるの」

「なんだ?」

「わたし――マキ先輩を助けたい」


     〇


『鐘つき棟』の屋上には年季の入った鐘があり、鉄製の柵に囲まれている。

〈ファントム〉はその柵に手をかけ、静かにたたずんでいた。

「気分はどうかな、〈ファントム〉?」

 緩やかな傾度の屋根の上、道化が歩いてくる。

「君の目的はあの教師を我が物とし、その邪魔者となるミドリくんを殺すことだった。だが、それでは説明のつかないことがある。君の本当の目的と、君が〈ファントム〉として活動していたこと――〈マスク〉をばらまいていたこととはあまり、接点がないように思える。君には別々の目的があったと考えるが、どうかな?」

「…………」

〈ファントム〉は柵の外側に立ち、無言でナイフをぶら下げた。

「問答無用か。最近の子は物騒だね」

「お前は、私の公演の邪魔をした」

 ナイフを道化に突きつける。

「あの人に見てもらう最大のチャンスだったのだ。あの人に捧げるつもりで演じてきた。それをお前が邪魔した。踏みにじった。そのようなお前の戯れ言など、聞くにも値しない」

「そうかい」

「私に全てを吐かせたいのなら、力ずくでねじ伏せるしかないぞ。道化者」

「力で解決するのは、僕の流儀と合わないのだがね」

「ほざけ!」 

〈ファントム〉の体が、黒い弧を描いて消えた。

 姿は見えないのに、足音が近づいてくる。

「透明人間みたいだな」

 道化はすぐさまポケットから、色とりどりのボールを取り出した。足音の方向にひとつ投げつけてみるが、屋根に塗料をぶちまけただけだった。

「む?」

「後ろだ」

 左後方、死角からのひと突き。

 道化はとっさに腕を振ってかわした。お返しといわんばかりに、ボールを放り投げる。

 しかしその前に〈ファントム〉は姿をくらました。ボールは屋根に当たって破裂、今度は青で染め上げた。

「そんな玩具で対抗できるとでも思っているのか?」

 再び、足音。しかしどこにも姿は見当たらない。風を切るような音と同時、道化は前方に転がった。屋根にはボーガンの矢が突き刺さっている。

〈ファントム〉はいつの間にか、鐘の近くに立っていた。にやりと笑い――すぐにまた、宙にかき消える。

「なるほど……」

 道化は身を起こし、人気のない屋根を見回した。

「ありもしない音を聞かせ、ありもしないものを見せる……それが君の力か」

「それがわかったとて、何になる!」

 複数の方向から、複数の足音が立て続けに響く。

 更に、ところどころに〈ファントム〉の姿が浮かび上がる。ひとつではなく、二つ三つと数を増していく。

「どれが本物か、見抜けるか?」

「見抜けるさ」

 立て続けに現れては消える、〈ファントム〉の幻影――

 道化はそれを意に介することなくポケットに手を突っ込み、ボールを取り出した。指と指の間に挟み、あろうことかその場でジャグリングを始める。

「なんのつもりだ?」

「道化の芸、とくとご覧あれ」

 宙に浮かしたボールを次々と受け止める。その場でくるりと一回転すると同時、全方位にボールを投げた。

 屋根が様々な色彩に染まり、奇怪な模様を作り上げる。しかし、〈ファントム〉の本体には当たっていないようだった。

「こけおどしを!」

 足音が複数の方向から、道化に近づいていく。

 道化はくるっと振り返った。屋根に付着した塗料――そこに足跡が生まれている。〈ファントム〉が姿を現すよりも前、道化は腕を振りかぶっていた。

「うっ!?」

〈ファントム〉のマントにボールが当たり、破裂する。ピンクで染まったマントを、〈ファントム〉は忌々しげに見つめていた。

「貴様……!」

「姿を消せても、実体は消せない。足跡に注目していれば、君の動向を掴むのはたやすい」

「ふざけた真似を!」

「失礼、道化なもんでね」

「もういい、聞き飽きた!」

〈ファントム〉がマントを翻すと、瞬く間に空気に混じって消えた。再び様々な角度から無数の足音が響き渡る。

 ボーガンの矢が飛んできたが、道化は事もなげに受け止めた。

 死角からのナイフ――それを握った手を取り、叩き落とす。

「おのれ!」

〈ファントム〉は次に、スタンガンを繰り出した。姿をくらまし、足音を響かせながら攻撃を仕掛けるが、道化にはかすりもしない。

「……!」

「直情的なんだよ、君の動きは。芸達者だが、戦いにおいては素人だ」

 道化の蹴りで、スタンガンが〈ファントム〉の手からこぼれる。

〈ファントム〉は歯ぎしりし、マントから警棒を取り出した。

「まだやる気か……?」

 呆れたように吐息をつく道化の眼前で、〈ファントム〉は消えた。立て続けに足音が響いてくるが、それに惑わされることなく、道化は屋根を注視している。

 塗料のついた足跡が、鐘へと続いている。そこで〈ファントム〉は姿を現し――黒い、球状の物体を三つ、道化に向けて放り投げた。

 それは手榴弾だった。

「……!」

 道化の眼前で、立て続けに手榴弾が炸裂する。

 轟音と共に『鐘つき棟』の屋根を吹き飛ばし、穴を開けた。

〈ファントム〉は鐘の近くに立ち、勝利を確信するように笑みを浮かべていた。

「くくく……」

 煙が晴れていく。

しかし、道化の姿はどこにもなかった。

「……ん!?」

〈ファントム〉は目を見張り、吹き飛ばした箇所を凝視した。

「穴にでも落ちたのか?」

「あいにくだが、そうではないのだよ」

〈ファントム〉はとっさに振り向く。

道化は『鐘つき棟』の鐘に長い腕を巻きつかせ、両足で貼りついていた。

「なっ――」

「さぁ、道化の奇術のお披露目だ」

 道化は両足を離し、鐘を中心にしてぐるりと宙を舞う。遠心力をつけた勢いで、そのまま〈ファントム〉の腹部に両足蹴りを叩き込んだ。

「ぐふッ!」

 二人はそのまま穴に飛び込み、ホールへと躍り出た。

〈ファントム〉は強引に道化から離れ、客席の上に落下する。

道化は長く伸びた腕で器用に天井の縁を掴み、舞台の上へと着地した。

「……お、おのれ……!」

〈ファントム〉は腹部を押さえ、かろうじて立ち上がる。落ちたシルクハットを拾う余裕もないらしい。

 道化は腕を掃除機のコードのように引き戻した。何事もなかったかのように両手をぱんぱんと払い、「どうかな?」

「僕の奇術、楽しんで頂けたかな?」

「おのれ……!」

 前のめりになった〈ファントム〉の足元を、銃弾がえぐった。

ホールの入り口には、ダンが拳銃を構えていた。その後ろにはミドリもいる。

「ぐ……また、邪魔を!」

「もう観念しろ、〈ファントム〉……いや、中條マキ」

「マキ先輩、もう止めて下さい!」

 撃鉄を鳴らすダンと、叫ぶミドリ。

〈ファントム〉は唇を噛み――そこから血が流れ出た。

「どうして邪魔をする? 私が……何をしたというのだ? 誰も彼も、私の敵なのか? 私を愛してくれる人は、どこにもいないのか?」

「何を言ってやがる……」

「マキ先輩、お願いです! わたしの話を聞いて下さい!」

 なおも叫ぶミドリに、〈ファントム〉の両目が射抜いた。

ミドリの足がすくみ上り、言葉も出せなくなる。両目の焦点が合わなくなり、ふらっと前に出た。

「お、おい、ミドリ?」

 戸惑うダンをよそに、ミドリは〈ファントム〉に近づいていく。〈ファントム〉はミドリの体を抱き寄せると、彼女の首に五指を食い込ませた。

「あなたはいいわよね……引島さん。そこの刑事も、あの忌々しい道化者も、みんなあなたのことを心配している。あなたのことが好きだから……!」

「っ……あ……」

「やめろ!」

 ダンが拳銃を向けるが、〈ファントム〉はミドリを盾にする。次第に顔が青くなるミドリを前に、ダンは怯む気配を見せた。

〈ファントム〉の目は血走っていた。

「私には誰もいないの! 誰も隣にいてくれないのよ! だったら望んで何が悪いの? 他人を利用して何が悪いのよ! 〈マスク〉の力でそれが叶えられるのなら――使わない理由なんてないじゃない!」

 マントに手を突っ込み、サーベルを取り出す。ホールの照明を受けて反射しているそれを、ミドリの首筋に押し当てた。

「どいつもこいつも、私から奪うな! 私だけを愛してくれないのなら――みんな、邪魔なのよッ!」

 叫んだ勢いで、ミドリを突き出す。そのまま背中に斬りかかろうとしたが、〈ファントム〉の腕に道化の手がかかる。

「――ッ!?」

 道化は舞台に立ったまま、腕を長く伸ばしていた。〈ファントム〉は即座に道化の手を振り払うが、足元に転がったボールの存在を見落としていた。

「これは!?」

 ボールが破裂し、中から煙が噴き出す。〈ファントム〉はよろよろと身を引き、苛立たしげにマントで扇いだ。ミドリはすでにダンによって保護されており、ダンの銃口はそのまま〈ファントム〉に向けられている。

「く、くそ……!」

「人質を取ろうとしても無駄だ。君の〈マスク〉による洗脳は確かに強力だろうが、その代わり自分自身がおろそかになるという側面がある。少なくとも敵が目の前にいる時に、使うのはおすすめしないな」

 道化が余裕げに講釈を垂れる。

〈ファントム〉は歯ぎしりし、サーベルを持つ手を振るわせた。

「それに、君はひとつ思い違いをしている」

道化の声は明瞭で、恐れや不安を微塵も感じさせない。

「少なくともここに一人、君のことを『先輩』と慕っている人がいる。その人の思いをないがしろにするつもりかな?」

〈ファントム〉はきっと道化を睨み、「そんなもの偽りよ!」

「私だけを愛してくれないのなら、そんな中途半端な愛なんて全部要らない! 私のうわべだけ見て、私を知ったつもりになって、そのくせ私の本当の思いに気づかない! そんな奴らの愛なんか――」

「愛ではないよ。君の言う愛はそれこそ、うわべだけのものだ」

〈ファントム〉は目を見開き、絶句した。

 道化は両手を広げ、肩をすくめる。

「これは僕からのアドバイスだが……今の自分の気持ちを、過信しすぎるな。どれだけ激しい熱情も、時間が経てば冷めるものだ。一時の感情に身を任せ、自分も他者もその熱情で燃やし尽くせば、後には何も残らない」

「何を、わかったようなことを!」

「そうなる前に僕が、君の舞台の幕を引く」

 道化は頭上に右手を掲げ、そのまま〈マスク〉の方へ下ろした。

「さぁ、全てを――」

 闇を振り払うが如く、勢いよく横へ振り抜く。

「白日の下に晒せ」

「……くっ」

 道化と〈ファントム〉はしばし睨み合っていたが――やがて〈ファントム〉は肩の力を抜き、サーベルを顔の前に掲げた。

「奇術、とか言ったわね。私の方にもそれはあるのよ」

「ほう?」

「後悔しても遅いわよ、道化者。〈ファントム〉の名が伊達ではないことを……教えてやる」

 言うや否、ホールの各所から黒い物体がいくつもせり上がってきた。

瞬時に形を成したそれは、まごうことなき〈ファントム〉そのものだった。影から這い出るように、ホール中を席巻する。

ミドリを介抱していたダンは、唖然としていた。

「これが、〈マスク〉の力かよ……」

 大勢の〈ファントム〉は全く同じ動きでサーベルを構えた。更に、全く同じタイミングで客席を蹴って跳ね、上空に躍り出た。

無数の〈ファントム〉が、道化にサーベルを突き立てんとする。

「なかなかの奇術だ。しかし……」

 舞台の上に〈ファントム〉が殺到する。見た目の派手さに伴い、サーベルの剣戟音がいくつも響き渡る。ただし、実際に舞台に突き刺さったのはひと振りのみだった。

 道化は舞台袖近くまで飛んでかわし、飄々としていた。

「それはあくまで目くらましにすぎない」

「……果たしてそうかな?」

 道化の背後で、もう一体の〈ファントム〉がサーベルを振りかぶった。ついさっき舞台にサーベルを突き立てた〈ファントム〉とは、全く別の動きだった。

「……!」

 間一髪のところで、回避。多少かすったらしく、髪の毛がはらりと舞った。

〈ファントム〉――そしてもう一人の方も、道化に剣先を向けている。違いはサーベルの持ち手だった。無数の分身と共に突っ込んできた〈ファントム〉は右手だが、背後から襲いかかってきた〈ファントム〉は左手となっている。

「……なるほど」

『これが私の、もうひとつの奇術だ』

 声が重なっている。二人の〈ファントム〉が同時に喋っている。

 しかし動きはまるで別々だった。

〈ファントム〉が道化に斬りかかり、もう一人は死角から攻撃を仕掛ける。道化はそのことごとくを飛び跳ねるようにかわしていく。

舞台の上で激しく動き回る三者。

ダンはただ見ていることしかできなかった。

「ちっ、ちょこまかと!」

 動きが大ぶりになった〈ファントム〉はなおも攻撃を仕掛けようとして――一瞬、動きが止まる。「ぐう……」とうめき声を上げ、その場にうずくまった。

 もう一人の〈ファントム〉が真正面から突っ込む。

道化は再び腕を伸ばし、天井の縁を掴んだ。体ごと引っ張り上げ、〈ファントム〉の頭上を通過。着地と同時、振り向いた〈ファントム〉に足払いをかけた。肩から落ちた〈ファントム〉の〈マスク〉に、道化はすばやく手刀を叩き込む。〈ファントム〉の〈マスク〉ごと、全て黒い煙に分解されていった。

「どうやら今のは偽者だったようだね」

 身を起こし、軽く手を払う。

本体である〈ファントム〉はよろよろと体を起こし、息も絶え絶えに道化を睨んだ。

「はぁ、はぁ……!」

「もう止めた方がいい。さっきの蹴りのダメージもあるようだし、〈マスク〉の力を使いすぎればどうなるか、知らない君でもあるまい?」

「それがなんだというの!? 〈マスク〉を剥がすしか……いえ、〈マスク〉の力を吸い取ることしか能のないあなたに、偉そうなことを言われたくないわ!」

「……そうかい」

〈ファントム〉は立っているのもやっとという状態で、なおもサーベルを道化に突きつける。獣のような唸り声を上げ、やみくもに突っ込もうとしたその時――

「もう、止めなさい!」

鋭い声が、ホール中に響き渡る。

全身が硬直し、〈ファントム〉はかろうじて声の方向――エリの姿を見た。ホールの入り口に立つ彼女は、まっすぐな目で〈ファントム〉の姿を捉えていた。

「エリ、先生……」

 手からサーベルが滑り落ちる。

 道化はその隙を見逃さず、舞台上を駆ける。

「……っ!」

〈ファントム〉が気づいた時には、遅かった。

道化は右手を広げ、〈ファントム〉の〈マスク〉に押しつけた。

ぴし、と〈マスク〉に亀裂が走る。

「――あ、あああ……!」

「これで終わりだ」

 道化の腕が振り抜かれた。

 手に握られた〈マスク〉は、急速に色を失っていく。

軽く指に力を込めると、〈マスク〉は簡単に砕け、塵となった。

素顔があらわとなったマキは、呆然とした顔で膝から崩れ落ちる。

「う、ああ……ッ」

 肘で体を支えようとするが、ぶるぶると震えている。瞳は多重にぶれており、今にも気を失いかねんばかりだった。

「う、うう……ッ! そんな、こんなはずでは……」

「…………」

「なんで、なんでなの? どうしてみんな、私の邪魔をするの? 私はただ、愛されたかっただけなのに。どうして、どうして……ッ!」

 道化は何も言わず、ただマキを見下ろしていた。

 ダンと、意識を取り戻したミドリ、そしてエリが舞台に近づく。

 エリはふらふらと舞台に上がり、膝をつき、マキの体を起こそうとした。

「中條さん……」

「エリ、先生……違うんです、こんなはずじゃなかったんです。私は……私はただ、エリ先生を愛していただけ。愛して欲しかっただけ。それだけなんです……」

「ええ、知っているわ」

「先生……」

「でもね、こんなやり方では誰もあなたの心に目を向けない。あなたはあなた自身の心が生み出した幻に惑わされていただけ」

「まぼ……ろし……?」

「ええ。あなたの愛は、ただの幻想だった」

 マキの唇がわなわなと震え――「そんな」

「だから今度は、本当にある愛を探さないとね。〈マスク〉なんかに頼らずに」

「…………」

 マキは何か言おうとして、ぐらりと体が傾いた。そのまま舞台の上に倒れてしまい、それきり目を覚まさなくなる。

「中條さん、中條さん!」

「マキ、先輩……」

 エリがマキの体を揺さぶり、ミドリは唇をわなわなと震わせる。

「大丈夫だ」という声に、二人ははっと面を上げた。

「〈マスク〉の力の使いすぎだろう。気を失っているだけだよ。あれだけ喋れるのなら、〈ヌケガラ〉になることはないんじゃないかな」

「そうなのか、道化野郎?」

 ダンの問いに、「さあね」と肩をすくめた。

 ミドリはエリの横顔を見た。

彼女は悲しげに目を細め、マキの頬を撫でている。

「バカな子だわ。あなたを心配している人は、私だけじゃないのに」

「久良木先生……」

 エリはミドリに顔を向け、「引島さん」

「ごめんなさい。あなたには迷惑をかけてしまったわ」

「そ、そんな」

「操られていたことには気づいていたけれど……自分じゃどうにもならなかった。この子の想いに応えてあげられなかったことで、今日のような事態を引き起こした。私の責任だわ」

「ち、違います!」

 エリはやんわりと首を振り、「違わない」

「もっと早くに気づいてあげるべきだった。そしたらこの子は、〈ファントム〉なんかにならなくても良かったのに」

 その言葉には悔恨がにじみ出ていた。

 ミドリはただうつむくことしかできず、

 ダンも憮然とした表情で腕を組み、

 道化はその光景をただ見つめていた。


     〇


 台舞高校校門前は騒然としていた。

 マキはタンカで運ばれ、救急車に乗せられていく。ミドリとエリは、その光景をずっと見つめていた。

 救急車が走り去った後で、エリがぽつりとつぶやく。

「終わったのかしら?」

「わかりません。道化さんが言ってたんですけど、〈ファントム〉が他の人たちに〈マスク〉をばらまいていたという可能性もあるみたいですから」

「そう。そうよね……」

 額を押さえ、エリの体が傾く。「大丈夫ですか?」と体を支えようとしたが、エリはやんわりと断った。

「大丈夫、歩ける」

「でも……」

「今は私のことよりも、気にかけるべき人がいるんじゃなくて?」

 エリは視線で、ミドリの後方を示した。憮然とした顔つきのダンと、やれやれとでも言いたげなアカネと、不安そうなミチがいる。

「あなたは幸せね、引島さん。あんなに心配してくれる人がいて」

「あ、えと……はい」

「もう少し話したいけれど……さすがにちょっと、限界。続きは今度にしましょう」

 そう言ってエリは自ら、救急隊員のところへと歩いていった。

道化の見立てだと、エリには〈マスク〉による影響があるらしい。間近でマキの洗脳を受けていたのならば、それもやむなしといったところだ。

 エリが救急車に乗り、背部ドアが閉まる。マキと同じように、エリも去っていく。

「…………」

 ミドリは振り返り、ダンたちのところに向かった。彼らはミドリを温かく迎え入れてくれたが――そのことに胸が痛んだ。

 自分にはダンたちがいる。

 けれど、マキにはいなかったという。

 そのことに絶望した上で、あのようなことを犯したのなら――

「ミドリ、何を考えている?」

「え?」

「お前のことだ、どうせあの〈ファントム〉――いや、中條マキのことを考えていたんだろ?」

 ダンの指摘に、ミドリはただうなずいた。

 はぁと吐息をつき、ダンは後頭部を掻いた。

「中條マキについては、現時点ではなんとも言えねぇ。なんせ、犯した罪が罪だからな。たとえ未成年であっても……」

「うん、わかってる」

「……わかってるなら、いい。それよりもだ」

 きょろきょろと首を動かし、「あの道化野郎はどこに行った?」

 ミドリはふるふると首を横に振った。

「ううん、わからない」

「ちっ。そうか……」

「ねぇねぇミドリ、道化野郎って何? なんの話なの? ていうか一体、何が起こってたの? ミチ軽くパニックなんだけど……むぎゅ」

「はいはい、あんたは少し黙ってなさいね」

 早口でまくしたてるミチの口を、アカネが手で塞いだ。

 ミドリは軽く笑みをこぼしたが――どこかぎこちない。

 こうして――〈ファントム〉による事件は、幕を引くこととなった。

終幕



 台舞病院――六人部屋の病室の奥。

エリはベッドで窓の方――空を見上げていた。今は体調が安定しているとのことで、近く退院できるらしい。しかし彼女の顔は晴れやかといえず、どこか寂しげである。

ベッドの傍らでは、ミドリが椅子に腰かけていた。

「マキ先輩のこと、考えてるんですか?」

「……そうね」

 エリの返答に、胸が痛む。

 きゅっと唇を噛み、わずかにうつむいた。

「わたし、マキ先輩のこと、何も知りませんでした」

「…………」

「先輩はわたしの憧れです。演劇部に入ったのも、先輩の演技を見たからです。綺麗で、落ち着いていて、物腰も柔らかくて……そんな人がどうしてあんなことをって、今でも考えています」

「そう」

「久良木先生は、何か知っているんですか?」

 エリはそこでミドリに首を向け、「ここだけの話にして欲しいの」

「はい」

「中條さんはご両親と不仲でね……家ではほとんど顔を合わさないの。それどころか幼少期から、親の愛を受けて育ったという実感が乏しかった。心配した親戚が中條さんにちょくちょく会いに行っていたらしいけど……その人は中條さんの体が目当てだった」

「っ……」

「それで中條さんは、身近な人から受ける愛というものが信じられなくなった。だからこそ自分が望む形の愛を求めるようになった。やり方は完全に間違っていたけれど、彼女の根っこにある思いは純粋だったの」

「純粋……」

「ただ、愛して欲しかっただけ。外では優等生を演じて、家では一人ぼっち。本心を打ち明けられる人がいない。もっとも……中條さん自身が自ら心を閉ざしていたこともあるでしょうけれど」

「…………」

「こんなことになったとしても、中條さんのご両親はあの子に会いに行ったりしないでしょうね。あまり、良い印象を持てる人たちじゃないから」

「そんな。実の親なのに?」

「そういうこともあるの。実の親だからこそ……根が深い」

 ミドリは膝の上で、手を握り込んだ。

 目の前で扉を閉められたような、無慈悲な話だ。

「だからこそ私が、あの子の思いを汲み取ってあげなくてはいけなかったんだけどね……」

「応えて、あげられなかったんですか?」

 ゆっくりと、首を横に振る。「できなかった」

「一回だけ、想いを打ち明けられたことがあったの。でも、その時の私は彼女の抱えているものに気づけていなかった。彼女のご両親を見たはずなのに、わたしは告白されたことに戸惑って、どうしていいかわからなくなって、思わず彼女を突き放してしまっていた」

 エリの髪が前に垂れ、彼女の横顔が遮られる。それでも彼女が悔恨の表情を浮かべているであろうことはわかった。

「彼女は平気そうだった。そんなわけがなかったのに。必死に自分を押し隠していたんでしょう。でも我慢しきれなくなって、心の奥底に溜め込んでいたものが爆発して、その結果……強引にでも私を自分のものにすることを考えた」

「……それで、少しの間でも幸せだったんでしょうか?」

「わからないわ。本人に聞かない限りはね」

 エリは再び、窓の方を見た。特に何かあるというわけではなく、ただ、今の顔を見られたくなかったのかもしれない。

「今、心の底から悔いているわ。応えてあげれば良かったって。でも私は教師で、彼女は生徒だから……」

「そうですよね…………って、え?」

 肯定しかけ、ばっと面を上げる。今のエリの言葉はつまり、どういうことだろうか?

 ふふ、と笑い声が漏れた。

 彼女が笑うなど、滅多にないことだ。

 エリはミドリに微笑みかけ――「冗談よ」


     〇


 病室を出た時、近くでアカネが壁にもたれかかっていた。

「終わったの?」

「うん。アカネちゃんもお見舞いしてあげれば良かったのに」

「パス。あたし、あのセンセーと何を話せばいいのかわからないもの」

 二人並んで歩く。

 ミドリはうつむき加減で――アカネはその様子を横目で見ていた。

「何があったか知らないけどさ」

「うん」

「今回のこと、あんたには何の非もないっておっさんが言ってたじゃん。じゃあいいかってぐらいに思えない?」

「思えないよ。だって……マキ先輩も久良木先生も、なんだかかわいそうで」

「……そう」

 廊下を歩き、階段を下りる。

 病院を出た辺りで、「ところで」

「結局あたしチラッとしか見てないんだけど、あの道化って何者なのさ?」

「さぁ? わたしにもわかんない」

「〈マスカー〉なんでしょ?」

「うん。でも、悪い人じゃないよ」

「あっそう。ま、騙されないように気をつけなよ」

 ミドリは頬を膨らませ、「そんなことないよ」

「アカネちゃんも話してみたら? いい人だってわかるから」

「あー……あたしはパス」

「もったいないなぁ。面白い人なのに」

「はいはい、わかったから。もう帰ろう。晩ごはんどうするの?」

「えーっとね、うん。まぁ今日は普通のカレーでもいいかなって」

「まぁいいか、それで」

 その後二人は他愛ない話を続けながら、帰路についた。


     〇


 小さな公園の片隅で、道化がジャグリングをしている。

 先の膨らんだ棒を数本投げ、次々と受け止める。その手際の良さに、観客――小学生と思しき子たちは「おー」と歓声を上げていた。

 しかし、手元が狂ったのか、放り投げた棒の一本が他の棒にぶつかってしまい、規則正しく弧を描いていたのがバラバラになってしまう。不格好に地面に落ちてしまい、「あーあ」と落胆の声が上がった。

「なんだよ、いいところだったのに」

「つまんなーい」

「別のとこ行こうよー」

 ぞろぞろと、子供たちが公園から出ていく。

 一人残された道化はその場で立ち尽くしていたが――やがて、一本ずつ棒を拾い上げていく。

「やれやれ、失敗したな」

「珍しいこともあるね」

 道化が顔を上げると、そこにはミドリと――その後ろに、やや不機嫌な顔で腕を組んでいるダンがいた。

 ミドリはにこやかに、微笑みかけた。

「道化さん、久しぶり」

「やぁ、しばらくだね。ミドリくん。ところで、そちらはどなたかな?」

「引島ダンだ。わざとだろ、てめぇ」

「そうかい。どうでもいいな。長ったらしいから君のことは『刑事』と呼ぶよ」

「本名より一文字長いじゃねぇか」

 ダンのぼやきに構わず、道化は棒を全て拾い上げ、ケースに収めた。立ち上がると、手には巾着袋がある。ミドリが渡したものだ。

「これ、美味しかったよ。なかなか返せなくて申し訳なかったね」

「ううん、いいの。喜んでもらえたなら、わたしも嬉しいから」

 道化から上機嫌で巾着袋を受け取るミドリ。その光景にまぶたをひくつかせ、ダンはずかずかと二人の間に割り込んだ。

「おい、あんまりミドリに近づくんじゃねぇぞ」

「もう、おじさん」

「君はお呼びでないんだがねぇ」

 道化は腰に手を当て、やれやれと首を振った。くるりと背を向け、ブランコを囲む柵に寄りかかる。

「それで、どうだい? 〈ファントム〉……中條マキの容態は?」

「意識は取り戻しているが、時間は短い。元の状態に戻れるまで、もう少し時間はかかるだろうな」

「そうかい。動機の方はわかったのかな?」

「ああ……てめぇは知らないと思うが、種子島って生徒に〈マスク〉を渡したのは、種子島が久良木をバカにするようなことを言ったかららしい。〈ファントム〉として近づいて、〈カオナシ〉にするように仕向けたってところだ。梅木の方は、口封じらしい」

「……そうか。では、彼女のバックについては?」

「……微妙なところだ」

 中條マキの家を捜索したところ、彼女の部屋から未使用品の〈マスク〉と、本人が使うつもりであったろう武器や爆弾の類いが発見された。

そして両親はこのことに全く気づかなかったという。

「中條マキのバックに何かがいることはわかる。普通の人間には仕入れることも難しいだろうからな。だが、それにつながるものは見つからなかった」

「ふむ」

「〈ファントム〉も操り人形だった。わかったのは、それぐらいだ」

「まぁ、そんなところだろうな」

 道化は柵から離れ、やや長めの吐息をついた。

「結局、なんの手がかりも見つからず、か」

「……おい、道化野郎」

 ダンがずいと前に出る。ミドリもそれに続き、叔父の動向を見守っている。

「その、な。お前には今回、色々と……世話になったな」

「うん?」

「ミドリを助けてくれて……その……」

 あごをさすり、うーとぬーともつかぬ声を出す。

 その状態が十数秒続き、道化は呆れたように肩をすくめた。

「言いたいことがあるのなら、早く言いたまえ。僕だって暇じゃないんだからね」

「わ、わかってる! ええとだ!」

 ダンは口をぱくぱくと動かし――ずい、と道化に指を突きつけた。

「とにかく、アレだ。今度またおかしな真似をしたら、その時は逮捕するからな!」

「結局、それか」

「おじさんたら……」

 二人からため息。「うるせぇ!」とわめき、ダンは顔を赤くした。

 ミドリはダンの脇を通り抜け、道化の前に出る。

「今度のことは、色々とありがとう。道化さんがいなかったら、わたし無事ではいられなかったと思う」

「どういたしまして。君も、なかなか勇気ある行いをしていたと思うよ」

「そうかなぁ?」

 困ったようにはにかむ。

 道化は「ふむ?」と首を傾げた。

「その顔。すっきりしてはいないようだね?」

「……わかっちゃう?」

「中條マキのこともあの先生のことも、背負い込みすぎないことだ。彼女たちには彼女たちなりの問題があって、君の問題ではないのだからね」

「……うん」

「けっ、何を知ったような口を」

 ダンが毒づくが、二人は当然無視した。

 道化はケースを手に持ち、埃を払う仕草をした。

「また、どこかに行くの?」

「ああ。僕の舞台はまだまだ終わりそうにないみたいだ。今は小休憩といったところだが、すぐにまた次の幕は開かれるだろう」

「そっか……また、会えるよね?」

「会えるさ。必ず」

 そう言って道化はミドリの手を取り――仮面越しに口づけをした。

「えっ、えっ?」

「な……!」

 ミドリの顔が赤くなり、ダンは反対に青ざめる。

「人生という舞台から降りない限り、共に演じるチャンスはいくらでもある。その時を楽しみに待つことだ」

 そう言い残し、ケースを片手に公園から出た。

「ま、待ちやがれ!」

 慌てたダンが追いかけるが、すでに道化の姿はどこにも見当たらなかった。

拳を握り、ぶるぶると肩を震わせ――「あの野郎!」

「ミドリに近づくなって言ってんだろ! ふざけたことをしやがって! 何が道化だ、今度会ったら絶対に逮捕してやる! 絶対にだ、わかってんのか!」

 往来で叫ぶダンを、人々が何事かと視線を向けている。

 ミドリは手をそっと持ち上げ、愛おしそうに口元に近づけていた。

 そんな二人を、道化は公園の木の上から見下ろしている。

両手を広げ、

肩をすくめ、

「やれやれ」とため息をついた。

「道化の言うことを真に受けちゃあ、ダメさ」


                                   完


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