第二幕「幻影の仮面」
第二幕「幻影の仮面」
翌朝――引島家。
決まった時間に目を覚まし、カーテンを開ける。窓から差し込んでくる陽光の眩しさに、意味もなく心が弾んだ。
何気なく窓の向こうを見た時――ぴき、と顔がこわばる。
ミドリたちが住んでいるアパートから一本道路を挟んだ先に、小さな公園がある。敷地は小さいが、滑り台、ジャングルジム、鉄棒、そして時計台とひと通りの設備は揃っている。
その公園の片隅に、道化がいた。
白い衣装に、白い仮面。
しかも、ジャグリングの真っ最中だ。
目立たない方がどうかしている。
「ふぁ~あ……あれ、ミドリ? どうしたのよ?」
ミドリはとっさに、後ろ手でカーテンを閉めた。怪訝そうなアカネに、「なんでもない、なんでもないから!」と必死にごまかす。
「ふーん?」
アカネは大して興味もなさそうに、部屋から出た。
ひとまず、ほっとする。
朝食と弁当の用意、そして着替えを手早く済ませ、ミドリはすぐに家を出た。
「もう、どうしてあんなところに……!」
腕時計を着けながら、慌てて階段を下りる。公園までは一分とかからず、入り口に立つ前からあの特徴的な姿が視界に入ってきた。
道化もミドリに気づいたらしく、放り投げていたボールを次々とキャッチする。彼の前に着いた時には、息が切れていた。
「はぁ、はぁ……おはよう、道化さん」
「ああ、おはよう。どうしたんだい、そんなに慌てて」
「道化さんのせいだよ、全くもう……」
「僕かい? 釈然としないね」
道化はボールを手に持ったまま、肩をすくめた。
ミドリも落ち着きを取り戻し、周囲に視線を巡らせる。
「こんなところでジャグリングなんかやってたら、警察を呼ばれちゃうよ。ただでさえ、見た目だけでもかなり怪しいのに」
「まぁ、自覚はなくもない」
「そこは自覚しようよ……」
がくりと肩を落とす。
「それにしても、どうしてここでジャグリングを? というかなんで、わたしの住んでいるところがわかったの?」
「芸を生業とする者は、場所を選ばないものさ。いついかなる状況でもベストなパフォーマンスができるよう、鍛錬を怠ってはいけないからね。それから、君があのアパートに住んでいるということに関しては、全く知らなかった。偶然というものは怖いね」
「…………」
疑るようなミドリの視線に、道化はあからさまに顔を背けた。
「ところでミドリくん、あそこの植え込みなんだが」
「うん?」
道化が指差した先にある植え込み。
枝葉の隙間から、黄色いものがちらちらと動いているのが見えた。それは学帽で、小学生たちがひとつに固まってこちらをうかがっている。
「先ほどからずっと見られていてね。ジャグリングのひとつでもやれば警戒心を解いて来てくれるかと思っていたが、どうやら認識が甘かったようだ。それを証拠に……」
道化が植え込みの方に移動しようとすると、子供たちがわあっとその場から逃げ出した。蜘蛛の子を散らすように、という形容がふさわしい有り様である。
「……ほらね?」
ミドリは苦笑し、「仕方ないよ」
「〈マスカー〉には近づくなって、どこでも言われてるし」
「この国ではよっぽど、〈マスカー〉は疎んじられているみたいだね」
腰に手を当て、嘆息する。
「そういえば君の言うおじさんも、〈マスカー〉が嫌いなんだっけか?」
「うん。昔、色々あったみたいで」
「ふぅん。つかぬことを聞くが、君のご両親は?」
「いないの」
こともなげにミドリは言った。
「交通事故で亡くなったってことになってるけど……実際は行方不明なの。十年前の、〈マスカレイド〉っていう事件がきっかけで」
「〈マスカレイド〉、ねぇ」
「わたしもアカネちゃんも……あ、アカネちゃんっていうのはわたしの妹でね。その時はまだ子供だったから、詳しいことはあんまり知らないの。おじさんだったら知っているかもしれないけれど……」
「ふーむ。君の方にも、色々あるらしいな」
「道化さんもね」
茶化すような言い方に、道化は肩をすくめた。
ふと面を上げ、時計台を見る。
「ミドリくん、時間は大丈夫なのかい?」
「ああ、もうこんな時間。そろそろ行かなくちゃ」
ミドリは振り返り、肩越しに道化に手を振った。
「じゃあ道化さん、またね」
「ああ、また会おう」
「気をつけないと捕まるからね」
「……肝に銘じておくよ」
手を振りつつ、公園から出る。
腕時計を確認し、「急がないと」とミドリは駆け足気味になった。
○
不機嫌が服を着て歩いている――
今のダンは、まさにその状態だった。
新米警官に怯えられ、同僚から遠巻きに避けられる。
上司も例外ではなかった。面倒事はごめんだとでも言うように、ダンと目を合わさず、やすりで爪を磨いている。
台舞警察署三階、刑事課のフロアの端。
ダンは上司の机に両手を叩きつけた。
「だから、何度も言っているでしょうが! あの学校にゃまだ〈マスカー〉がいるんだ! 実際に怪我人も死人も出ている! あいつらを放置していたら、また何をしでかすかわかったもんじゃねえ!」
「……そうは言うがな、引島ぁ」
上司の細谷は爪から目を離さず、ふうと息を吹きつける。
「お前の言う道化とやらも〈ファントム〉とやらも、正直言って眉唾ものだ。明確な証拠があれば、また違うんだろうが……」
「俺と新川が見ている! 生徒も教師もだ! それで不足だっていうんですか!」
「話は最後まで聞け」
どうどう、と手で押さえる。
やすりを机の上に置き、細谷は目をダンの方に動かした。
「というのはな、建前なんだよ」
「はぁ? なんの話です?」
「あの校長がな、直々にクレームを入れてきたんだ。わが校を踏み荒らすのは遠慮願いたい……ってな。大事にしたくないんだろうよ」
「人が死んでいるんですよ! 今さらそんなこと言ってられないでしょうがよ!」
「だから、落ち着けって」
うんざりしたように、耳の穴に指を突っ込む。
「コロシがあった以上、どの道あの学校には探りが入る。だが、それから先――〈マスカー〉を捕まえるとなると、話は別だ。対象が絞れてない。男なのか女なのか、あるいは生徒なのか教師なのかもわからないんだろう?」
「そ、それは……」
「〈マスカー〉の厄介な点は、まさにそういうところだ。〈ファントム〉に殺されたっていう〈マスカー〉はともかく……本気で自分の正体を隠そうとされると、こちらとしては手詰まりになりかねない。おまけに連中は尋常じゃない力を持っているんだ、生半可な装備で挑めば、必ず手痛いしっぺ返しを食らう」
「…………」
「いくらお前に実績があっても、一人で〈マスカー〉を追い詰められると思うか? んん? どうだ?」
ダンは言い返せず、押し黙っている。
幾分か溜飲が下がったらしく、細谷は磨いたばかりの爪を上機嫌で眺めていた。
「まぁ、お前の言い分もわからんでもない。校内にはまだ〈マスカー〉がいて、しかも生徒たちに紛れているとなれば、由々しき事態だ」
「だから……」
身を乗り出しかけたダンを、細谷は押し留めた。
「だが、犯人の目星がつかないんじゃあどうしようもない。逆に、目星さえつければどうとでもなるといえるが……そこのところ、どうだ?」
「…………」
「目星はつかない、と。図星だな? では、もう行っていいぞ。あの学校のことについては、こちらでも考えておく。いつまでも不機嫌な顔されてそこにいられると、他の奴が寄りつかないんだ」
しっしっと手で追い払う。
ダンはしぶしぶ引き下がらざるを得なかった。
「くそっ……」
自分の席に戻ると、タイミング良く新川が近づいてきた。手には湯気の立った紙コップが握られている。
「お疲れ様です、先輩。コーヒー淹れてきましたよ」
「おう、気が利くな。どれ……」
手を伸ばしかけたダンだったが、その手は虚しく空を切った。紙コップを胸元に引き寄せた新川はにっこりと笑顔を浮かべ、「百円です」
「……ツケにしとけ」
「またですか? 仕方ないですねぇ」
はぁと嘆息しつつ、紙コップを手渡す。
コーヒーにひと口つけ、ダンが重々しく吐息をついた。
「どうかしたんですか、先輩?」
「どうもこうもねぇ。ただ、イラついているだけだ」
「だからといって、八つ当たりは止めて下さいよ?」
「わかっている」
一気にコーヒーを胃に流し込み、ダンはおもむろに立ち上がった。きょとんとしている新川を放置して、フロアから出る。
案の定、新川は追いかけてきた。
「ねぇ先輩、どこに行くんですかぁ?」
「決まってんだろ。台舞高校だ」
「え? いや、でも……課長からの許可は取ってますか?」
「知るか。とにかく行くぞ」
「いや、ちょっと待って下さいよ、ねぇ。とりあえず、課長に確認をしてから……」
新川の襟首をむんずと掴み、問答無用で引きずる。「先輩、ねぇ先輩!?」と叫ぶ後輩の声も、行き交う人々からの奇異の視線も、ダンは全て無視した。
○
『鐘つき棟』の愛称を持つ多目的総合教育棟――そのホールにおいて現在、重々しい空気が漂っていた。講壇に立つ校長は目の下に濃いクマができており、いつもの偉ぶった口調もなりを潜めている。
校長の話は要約すると、以下のようなものだった。
まず、この学校の生徒が〈カオナシ〉となり、命を落としたということ。
校内に〈マスカー〉が出現し、男子二名に暴行を加えたこと。二人は現在病院にて安静中らしく、命に別状はないとのことだ。
そして学園祭を行うかどうかについては検討中とのこと。早ければ、来週の月曜には発表するそうだ。
「誠に遺憾な出来事ではありますが、皆さんには不惑の精神を持ってこれからも勉学に励んで欲しいと考えています。もちろん私たちも……」
その後は延々と、取り留めのない話が続いた。
あの巨大な『手』を持つ〈マスカー〉のこと――正体も含めて、彼について語られることはなかった。
そのまま集会は終わり、生徒たちがぞろぞろとホールから出て行く中、ミドリはその場に留まった。講壇の近くに立つエリをじっと見ていると、彼女の方から歩み寄ってきた。
「どうしたの、引島さん。教室に戻らないの?」
「聞きたいことがあるんです」
その言葉でエリは察したらしく、小声で「わかったわ」
「一緒にこのまま教室に行きましょうか」
「はい」
二人でホールを出、渡り廊下を通り、教育棟へ。
生徒のほとんどは教室に戻っているらしく、周囲に人気はなかった。
「それで、聞きたいことって何かしら?」
「昨日の〈マスカー〉……梅木くんのことです」
「…………」
「なんでさっき、彼の話が出なかったんでしょうか?」
「……梅木くんと友達なの?」
「いいえ。顔見知り程度です。でも前に、いじめられているところを見かけたことがあって。先生に相談すれば良かったんでしょうけど……」
「けど?」
「その時の彼の目が怖かったんです。それで、誰にも言い出せませんでした。誰かに言ったりしたら、彼のプライドを傷つけてしまうんじゃないかって」
「……なるほど」
階段を上がり、踊り場のところで立ち止まる。
「梅木くんのことを話さなかったのは、校長の判断よ。この学校の生徒が〈マスカー〉となって暴力を振るったことが広まれば、評判は悪くなる。さらに言えば、被害者の生徒のご両親たちの意向も関係しているわ。この件はできるだけ、大事にしないで欲しい、とね」
「そんな。そんなのって……」
「嫌な現実だと思うでしょう? 私もよ」
ミドリの位置からでは、エリの顔は見えない。しかし、あの時――梅木の死を看取った道化と同じような声音だった。
「引島さんは、あの現場に立ち合っていたみたいね」
「はい。梅木くんが目の前で死ぬのも見ました」
「そう、大変だったわね」
「いえ。本当に大変なのは、わたしではないと思いますから」
「…………」
エリは肩越しに振り返った。
「種子島さんのことも知っているかしら?」
「あ、はい」
「そう。それなら話が早いわ。あなたにやってもらいたいことがあるの」
「? それって……」
エリは正面を向き、ミドリの目をじっと見据えた。さながら鷹に狙われた獲物のような心境である。
「な、なんでしょうか?」
「引島さん。あなた、今度の劇でクリスティーヌをやるつもりないかしら?」
ミドリは目をぱちくりと開いた。
エリの言葉が理解できるまで、数秒かかった。
「……え?」
「もちろん、私が指導するから。後はあなたのやる気次第。どう?」
「い、いやあの、ちょっと待って下さい」
こめかみを押さえ、ミドリは強く目をつぶった。
「クリスティーヌって、今度の劇のですか?」
「ええ。『オペラ座の怪人』の」
「わたしが演じる?」
「ええ、そうよ。あなたならぴったりだと思うけれど」
「む、無理です!」
ミドリは首と手をぶんぶんと振った。
「わ、わたし、まともに舞台に立ったことなんかないド素人ですよ!? それなのに……」
「あら、気のせいかしら。あのホールで練習しているところを、たまたま見かけたことがあるのだけど」
「うっ」
「少なくとも、舞台に立ったことはあるわよね?」
「ひ、人前で演じるのは……」
「全くのゼロ?」
「い、いえ。小学校の時の学芸会とか。でも、数に含まれるかどうかは……それに、わたし、あがり症ですし」
「初めての人はみんな、そう言うわ」
「ううっ」
「安心して。私が責任を持って指導するから。そこまで青い顔をすることはないわ」
「ううう……」
「では、考えておいて。時間はあまり残されていないから、できるだけ早めにね」
そう言い残し、エリは教室に向かってしまった。
残されたミドリはがくりと肩を落とし、「どうしよう」とつぶやいた。
口にしたところで、どうにかなるはずもない。
教室に戻る足取りは重かった。
〇
昼休み――教室にて。
ミドリとミチ、そして別クラスからやって来たアカネは机同士をくっつけて、昼食を堪能していた。
ミドリの顔は暗く、ミチが事情を問い質したところ――
「えっ、主役に!?」
「うん……」
「まさかあんたがねぇ。しかも、久良木に見初められるって相当じゃない?」
他人事のようにアカネが言った。
ミチは興奮して手を振っている。
「すごいじゃん、すごいじゃん! スターになれるチャンスだよ! 普通だったら、マキ先輩だよね?」
「うん……」
「ミチね、マキ先輩の舞台を観たことがあるんだけど、本当にきれいだった! 衣装とか化粧もばっちりだったし、ミドリがあんな風になるんなら、ミチ応援するから!」
「うん……いや、まだ決まったわけじゃないし……」
もそもそと弁当に箸をつける。
「でも、一生に一度のチャンスかもしれないんだよ? ミチだったら、生まれ変わらないと無理かもしんないなぁ」
「そのぐらいにしときなって」
アカネが諌める。
ミチはあっと口に手を当て、「ごめん」と肩を落とした。
「ちょっと調子に乗りすぎた。よくよく考えたら目立ちまくるのなんて、ミドリのキャラじゃないもんね」
「うん……」
「断っちゃうの?」
ミチの問いに、ミドリは首を横に振った。
「わかんない。どうしたらいいのか」
「わかんないってことは、舞台に立ちたい気持ちはあるの?」
「どうなんだろう……」
「煮え切らないねぇ。学園祭までもう時間ないでしょ?」
「アカネの言う通りだよ。やるならやる、やらないならやらないっていう風に決めないと、後で困るのって自分だよ?」
やいのやいのと言われ、ミドリは自分が責められている気分になった。ますます気持ちが落ち込み、「ごめん」とうつむく。
「いや、あたしらに謝られても困るんだけど」
「うんうん。ミドリのことだしねぇ。ミチたちがあれこれ言ってもしょうがないよね」
「何それ、あたしも含まれてんの?」
「あれ、違った?」
「あれこれ言ってるのって、あんただけでしょーが」
うりゃ、と拳を突き出す。
二人がわざとじゃれ合っていることはミドリにもわかったが、だからといって気分が晴れるわけではない。
二人もそれを察したらしく、微妙に気まずい空気が流れた。
「……ん?」
「どした、アカネ?」
「いや、妙に外が騒がしいなって」
「うん? あー、ホントだ」
三人はそれぞれ、扉の方を見た。廊下の方から歓声じみた声が聞こえてくる。その騒ぎの原因は、すぐにわかった。
ミドリたちの教室に、一人の女生徒が姿を現す。艶やかな長い黒髪に、透き通るような白い肌。鈴を転がすような声色で「こんにちは」と言い、中條マキはにっこりと微笑んだ。それだけで教室はざわつき、一部は男女の区別なく、恋に落ちた者の目をしていた。
ミドリは箸を取りこぼし、ミチはぽかんと口を開けている。
「なっ、なっ、なかっ……」
「マキ先輩!?」
「あーらら、意外な方向から意外なのが来たねぇ」
マキは優雅な足取りで、ミドリたちの席まで歩いた。
「少し、いいかしら?」
「あ、どーぞ。ミドリに用事?」
「ええ、そんなところ。……引島さん、ちょっとついて来てもらえるかしら?」
「え、え、え?」
「できるだけ時間は取らせないようにするから。ねぇ、お願い?」
両手を合わせ、片目をつぶる。
その所作の愛おしさ、愛くるしさの前に、「はう」とミチは胸を手で押さえた。よろよろとミドリにもたれかかり、荒い息をついている。
「ミドリ、ヤバい。恋に落ちそう」
「な、何を言ってんの?」
「ミドリ、ここで行かなかったら別の意味でヤバいよ。それぐらいヤバい。ミチだったら行くね、両親を質に売ってでも行くよ。そして後悔しないよ」
「いや、しようよそこは。というかずいぶんと、古風な言い回しだね……」
ミドリはやんわりとミチを押し戻し、弁当箱に蓋をしてから立ち上がった。
「ええと、どこに行けばいいんでしょうか?」
「それはナイショ。ついてくればわかるわ」
柔らかそうな唇に、人差し指を当てる。
再び「はう」とミチが声を上げ、ミドリは苦笑しながら席を離れた。
マキへの注目度は男女問わず、すさまじいものだった。
廊下を出るなり、軽く十を超える視線が突き刺さってくる。マキはその視線を意に介することなく、悠然と歩くが――ミドリはさながら新米の従者のように、背中を丸めながらついていくことしかできなかった。
「すごい、人気ですね」
「どうってことないわ。舞台の上に立てば、今とは比べものにならない数の目で見られることもあるし」
「はぁ……」
「何事も、結局は慣れよ。いずれわかるわ」
わかる時が来るのだろうか。
疑問に思ったが、口に出さなかった。
マキに連れて行かれた先は、教育棟の裏庭だった。校長室で立ち聞きしていた場所とは反対方向の、グラウンドにつながる小道である。
くるりと向き直ったマキは、真顔だった。先ほどとはまるで様子が違う。
ミドリは体がこわばるのをはっきりと自覚した。
「それで、どういうことなのかしら?」
「ど、どういうことと言われましても。なんの話やら……」
「今度の劇の話よ。久良木先生から聞いたわ。なんでもあなた、クリスティーヌ役として抜擢されたそうじゃない?」
「う、ううっ」
「その辺りのところを詳しく聞かせて欲しいと思ってね……迷惑だったかしら?」
「い、いえ、そんな! 迷惑だなんて!」
ぶんぶんと首を横に振る。手のひらが嫌な汗でにじんでいく。
なんと答えればよいのか、まるで見当がつかなかった。
「わ、わたしも朝、久良木先生からその話をされたばかりで。今も混乱してまして。だから、だからその……主役になるかどうかっていうのはまた別の話でして。決してそんな、中條先輩から主役の座を奪うとかってそういうことは……」
早口でまくしたてる。
「ふぅん?」とマキは小首を傾げた。
「奪うかもって自覚はあったんだ?」
「うぐっ」
「まぁ別にそのことは気にしていないわ。実力のある人が主役を務めるのは当然のことだと思うし。ただ……」
「ただ?」
「あなた、裏方よね? 久良木先生に抜擢されるほどの実力があるのなら、どうして今までそれを隠していたの?」
探るような目つきのマキ。
ミドリは青ざめ、両手の指をつんつんと合わせた。
「か、隠していたわけではなく……」
「どんな理由かしら?」
「あ、あの、その。目立つことはあまり好きじゃないので……」
「……?」
腑に落ちないという表情だった。
ミドリは息を吸い込み、いったん自分を落ち着かせた。
「その。わたし、昔から漫画とかのキャラクターの台詞や動きを真似たりするのが好きで。台本の確認のためにクリスティーヌの台詞を読んで演じていたところを、久良木先生に見られたらしくて」
「それで抜擢された、と。なんだかうまい話ね」
「わ、わたしもそう思います……」
亀のように首をすくめる。
マキは眉を指でなぞった。どことなく物憂げな表情だ。
「……種子島さんのことは、聞いた?」
唐突な問いに、ミドリはあいまいにうなずいた。
「彼女、〈カオナシ〉になって亡くなったんですって。普段の生活態度はあまり褒められたものじゃないけれど、演技は本物だった。久良木先生としても、彼女を失ったのは痛手と考えたのかもね」
「あ。もしかして、それで?」
「ええ。そこであなたに白羽の矢が立ったというわけ。言葉は悪いけれど、種子島さんの代役といったところね」
「代役……まぁ、そうですよね……」
「でも、それでも先生に抜擢されるというのは十分凄いことだわ。自信を持ってもいいんじゃないかしら?」
マキの言葉とは裏腹に、ミドリは更に体を縮こませていた。
「あ、あのう。あり得ない話だとは自分でも思うんですけど。まさか、久良木先生の冗談ってことは……」
「ないわね」
即答である。
ミドリは「ですよね」と肩を落とした。
「そもそもあの人が、冗談を言うようなタイプに見えて?」
「いえ、全然」
「あの人はいつだって本気よ。冗談も気休めも口にしない。できると思ったらやらせるし、できないと思ったらやらせない。ゼロか百かの人よ」
「…………」
「そういう人があなたを選んだのだから、自信を持ってもらわないと。そうでなくちゃ私、あなたに嫉妬するわ」
「し、嫉妬?」
おおよそ、マキに似つかわしくない言葉だった。彼女が自分に嫉妬する――それは、天地がひっくり返ってもあり得ない事態に等しい。
くすくす、とマキは小さく喉を鳴らした。
「そんな本気の顔をしないで。言ってみただけよ」
「は、はぁ……えっと」
「ん、どうしたのかしら?」
「いえ、久良木先生のこと、よく知っているんだなぁって」
マキは虚を突かれたように、目を丸くした。「え、ええ……」と口ごもるのも、彼女にしては珍しい。
「まぁ、一年生の時からお世話になっているからね」
「最初から演劇部なんですよね。わたし、中條先輩が舞台に立っているのを観たことがあります」
「え? それって、いつ?」
「わたしが中学三年生の時です。その時にやっていたのは『アラジン』で、中條先輩はジャスミンでした。衣装と相まってすごくセクシーで、それなのに全然下品じゃなくて。その時の先輩、まだ一年生だったんですよね?」
「え、ええ」
「わたし、それを聞いてすごいなぁって思ったんです。どうやったらあんな風に舞台の上で輝けるんだろうって。ドキドキして、興奮して、その時この学校の演劇部に入りたいって思ったんです」
「でも、実際は裏方よね? 脚本とか」
「あう」
「舞台の上で輝きたいと思わないのかしら? それこそ、私みたいに」
「あー、えーっと……」
ミドリは両手の指をこすり合わせ、気まずそうに目をそらした。
「その、演劇部に入って、それで満足しちゃったといいますか。中條先輩と同じところで息を吸えるだけでも十分といいますか……」
「あ、ああ、そうなの……」
得体の知れないものを見るような目で、マキは後じさりした。
ドン引きされたことにショックを受けたミドリは、「うう」と指を突き合わせる。
マキは眉を指でなぞり、「と、とりあえず」
「舞台に立つ気があるにせよないにせよ、早めに決断した方がいいわ。学園祭までもう間もないんだし」
「そうですよね……あ」
「? どうかした?」
「わたし、まだちゃんとお礼を言ってませんでした。あの時、ミッちゃんを連れて逃がしてくれたこと」
「ああ……」
思い出したようにマキはうなずき、「気にしなくていいわよ」
「それよりもむしろ、あなたの方が心配だったわ。怪我とかしなかった?」
「いえ。助けてくれた人がいましたので」
「そう。それならいいんだけど……怖くなかったの?」
ミドリの脳裏に、昨日の光景が蘇る。
長い腕を持った〈マスカー〉。
ダンの叫びに、発砲の音。
突如として現れた道化、正体不明の〈ファントム〉。
そして、生々しい血の色――
ミドリは自分の体を抱き、顔を伏せた。
「怖かったですよ、もちろん。思い出すだけで体が震えそうになります。それに、なんでわたし、あんなことをしちゃったんだろうって。でもあの時は、友達を逃がすことだけしか考えられなくって」
「…………」
「後になって言えることなんですけど、無謀だったと、自分でも思ってます。巻き込まれて怪我をしたかもしれないし、もしかしたら死ぬことだって。そうなったら友達やアカネちゃんやおじさんが悲しむかもしれないし……やっぱり、うん。あれは、本当はやっちゃいけないことだったんじゃないかなって」
「……そうかも、しれないわね」
でも、とつけ加える。
「あなたの勇気ある行動がなかったら、あなたのお友達も巻き込まれていたかもしれない。私もね。後から言うのは簡単だけど、実際にその場に直面しないと、わからないことってあるから」
「……はい」
「勇気のある人よ、あなたは。親に似たのかしら?」
「親……わたしにとってはおじさんですけど……」
うーんと眉をしかめる。遠まわしにダンと似ていると言われたような気がして、複雑な心境だった。
チャイムが鳴り、二人は顔を上げた。
「いけない、もうこんな時間。ごめんなさい、時間は取らせないって言ったのに」
「いえ、大丈夫です。それよりも色々な話ができて、すごく有意義でした! だからその、ありがとうございます!」
深々と頭を下げる。
マキは面食らっていた様子だったが、やがてふっと微笑んだ。
「変な人」
「は、はぁ……」
「でも、嫌いじゃないわ。そういう人。気をつけて、教室に戻るのね」
身を翻しかけ――「ああ、そうそう」
「私のことはマキって呼んでいいわ。近しい人には、そう呼ばせているの」
「は、はい」
「それじゃあね」
肩越しにウィンクし、颯爽と歩いていく。
その後ろ姿に見とれていると、不意に、木の葉が目の前で滑り落ちた。二階ぐらいの高さにある木を見上げ、あっと声を上げる。
太い幹の上に道化が立ち、腕を組んでいる。
「なかなかの役者じゃないか。まだ若いのに、たいしたもんだ」
ためらいなく飛び降り、軽やかに着地。足元の埃を払い、身を起こした。
「道化さん、どうしてここに?」
「まぁ、調査だね。〈ファントム〉につながるものがないかどうか、調べていたんだ」
「へぇ」
「それよりも、先ほどの彼女だが」
「ああ、なか……えっと、マキ先輩のこと?」
「彼女、どうも引っかかるね」
「え?」
「具体的にどうとは説明しにくいのだが……」
「……道化さん。まさか、マキ先輩を疑ってるの?」
じーっと睨みつける。
道化は肩をすくめ、「そういう可能性もあるってことさ」
「『オペラ座の怪人』の〈ファントム〉は男だったけど、僕たちが見たあの〈ファントム〉の正体が男だとは限らない。もしかしたら女性かもしれないし、生徒ということも考えられる。可能性を頭から排除してはいけないよ」
「…………」
ミドリは唇を尖らせた。
マキが疑われていること、疑っているのが道化であること。それに加えて、何も言い返せない自分への不満。
ミドリの内心をよそに、道化はマキの消えた方向を見ている。
「君と僕とでは立っている位置も、そこから見えているものも違う。どうやら、君は彼女が仮面をかぶっていることに気づいていないようだ」
「仮面を?」
「どんな人間でも、多かれ少なかれその傾向はあるのさ」
「マキ先輩も? そんなの、信じられないよ」
「おや。君は今、彼女が見せた顔と言葉が彼女の真実であると?」
「だって。そうと思わなくちゃ、そんなの……」
そこから先の言葉は出てこなかった。
「まぁ」と道化が肩をすくめる。
「誰を、何を信じるかどうかは、自分で決めることだ。僕はそこに警告――水を差したにすぎない。それでもこれだけは、忘れないでいて欲しい」
「……なに?」
「自分の見ているものが、全て真実であるとは限らないということだ」
「…………」
「時間を取らせたね。では、僕はそろそろ行くとするよ」
道化はフェンスに飛びつき、そこから更に無駄のない動きで木を上っていく。
木から木へと飛び移り、彼の姿が見えなくなった後もミドリは、ただ立ち尽くしていた。チャイムが鳴り止んでいることに気づき、慌てて教室に戻る。
マキと道化の言葉が頭にこびりついて、離れなかった。
〇
台舞高校――校門の手前には、マスコミがたむろしている。
その光景をダンは不愉快そうに眺めていた。その隣、運転席の新川はのんきにスマートフォンをいじっている。
「……なぁ」
「はい、なんですか?」
「お前はどう思う?」
「さっきの生徒たちですか? まぁ、あんなもんだと思いますけどね」
ピローン、と場違いに明るい音が鳴る。勤務時間中にゲームとはいい度胸だ、と普通なら殴りつけるところだが、どうにもそういう気分になれない。
ダン、そして新川は台舞高校に向かう前に、区内の病院に寄っていた。昨日の〈マスカー〉に襲われた男子二名から話を聞くためだ。
擦り傷、打ち身、打撲に加えて骨にも少々ヒビが入っており、全治一か月とのことだった。その割には元気そうで、ダンたちが病室に入った時にもゲームに興じていた。ベッドの隣にはそれぞれ、彼らの保護者が腰掛けている。
警察であることを伝えると、彼らは一様に嫌そうな顔をした。
「怪我をしたせいで、ろくに遊べやしねえ」
「外出もできないしな。ホント、退屈」
ぶちぶちと文句を垂れる彼らに、昨日の〈マスカー〉……梅木のことを切り出した。
すると彼らは忌々しそうに顔を歪めた。
「あの野郎、調子に乗りやがって」
「何様のつもりだ。チビのくせに」
彼が殺されたと知っても、「ああ、死んだの?」とそっけない。
「まぁ、いい気味だよな。〈マスク〉なんかに手を伸ばすからだ」
「そうそう。何をイキがってたんだか」
好き勝手なことを言い合う二人を前に、ダンはやりきれない気持ちになった。なぜ梅木が〈マスク〉に手を伸ばしたのか、少しも頭を働かせようとしない。
そのせいなのか、自分でも予想だにしない言葉が口から出た。
「お前たちが梅木をいじめていたから、その仕返しを受けたんじゃないのか?」
「刑事さん!」
ヒステリックに叫んだのは、保護者の一人だ。
「この子が人をいじめるなど、あり得ませんわ。おおかたその梅木という子が、逆恨みでこの子を襲っただけでしょう」
「そうそう、そうそう」
ダンはこいつらに何を言っても無駄だと判断した。
不愉快な気分で病院を出て、現在に至る。
あまり期待していなかったとはいえ、結局〈ファントム〉に関わるような有力な情報を引き出すことはできなかった。
「ゲーム感覚で人をいじめるなんて、昔からあることじゃないですか。我が子をかばったりする親というのもありがちですし」
「よくある話として、片づけろとでも?」
「そうは言いませんよ。刑事になって思ったことなんですけど、理不尽なことを謙虚に受け止められる人って、本当にまれなんだなぁって。例え、自分に非がある場合でも」
「…………」
「それを考えるとぼく、あの梅木って子が〈マスク〉に手を伸ばした気持ちもわかる気がするんですよ。ああいう人たちは痛い目に遭わないとわからないって、ぼくでも思います」
ダンは歯噛みし、拳を握り込んだ。
「……それでもだ」
「先輩?」
「どんな理由があったとしても、〈マスク〉なんぞに手を伸ばしちゃあならねぇんだ」
ダンは助手席の扉を開け、外に出た。新川もそれに続く。マスコミたちをことごとく無視して、校内に足を踏み入れた。
スポーツ大会や学園祭などで、ダンは何度か台舞高校に足を運んだことがある。設備についてもそれなりに知っている。校内の見取り図は元より、『顔認証ゲート』のことも当然把握していた。
ミドリとアカネを入学させる前は、〈マスカー〉と不審者を阻むための設備という謳い文句が魅力的に聞こえていた。しかし、現実に〈マスカー〉による事件が起こった以上、今となってはこの設備がどことなく空々しいものに映って見える。
そのゲートの前で、一人の女性が立っていた。鷹を思わせる鋭い目つきで、さながら門番のようでもある。久良木エリだ。
「ああ、あんたか」
「お待ちしておりました」
頭を下げ、ダンも軽く一礼を返す。「どーも、すみません」と締まりのない顔で頭を下げる新川を、二人はやんわり無視した。
「校長より、話をうかがっております。さっそくご案内します」
「ああ、頼む」
「その前に、こちら……ゲートを通過するためのカードです。なくさないようにお気をつけ下さい」
ストラップ付きのカードを手渡される。
二人がそれを受け取った後、エリはゲートの方へ促した。
「では、こちらに……」
機械にカードをかざし、カメラで顔をスキャン。
それから数秒でゲートが開く。
実際にゲートを使ってみて、ダンはなんともいえない感覚を持った。果たしてこれで〈マスカー〉をはじめとした不審者を防げるのだろうかという不安に加えて、機械に顔を読み取られるという違和感。
しかしエリと新川は、特に抵抗ないようだった。
「しかしまぁ、すごい設備ですね。空港にもこういうのありますけれど、ほとんど遜色ないじゃないですか」
「校長のこだわりなのです。どうせ買うならば、一番いいものをと。十年単位で使っていくことを考えるならば、設備は優れているものを選ぶに越したことはありませんから」
ゲートを通過し、校内を歩いていく。
先を歩くエリに、ダンは尋ねた。
「ところで、久良木先生」
「はい。なんでしょう」
「昨日の事件についてだが、生徒たちにはどう説明を?」
「……そうですね。生徒が〈カオナシ〉になってしまったこと、生徒が〈マスカー〉に襲われたこと、この二つは伝えました」
「その〈マスカー〉……梅木については?」
「彼については伏せられることになりました。事情を知るのはごく一部です」
「そうか……」
エリは肩越しに、ダンをうかがう素振りを見せた。
「気の毒に感じているので?」
「まぁ、少なからずな。なんとしてでも梅木を殺した〈マスカー〉だけは、逮捕しなくちゃならねぇ」
「事件はまだ、終わっていないと?」
「ああ」
「そうですか」
それきり、会話は止まった。
新川がこっそりと耳打ちする。
「昨日から思っていましたけど、なんだかとっつきにくい人ですね」
「しっかりしてるってことだろ。いいことだ」
「はぁ、そんなもんですか」
二人のやり取りが聞こえていたのか、エリが立ち止まった。
グラウンドでサッカーに励んでいる生徒たちに気を向けている。つられてダンもそちらを見たが、特にどうということはない光景だった。
「事件が起こったとしても、ほとんどの生徒には関係のないことです」
「んん?」
「できるならばあまり、巻き込まないで頂きたいと考えています」
「……あんたの気持ちもわかるがな。だからといって、はいそうですかと引っ込められる状況じゃあない」
「…………」
「大事にしたくないってのはもっともだ。生徒を巻き込みたくないのもわかる。だが、現実に〈カオナシ〉になった生徒がいる。〈マスカー〉になって、その結果亡くなった生徒もいる。大事にするなっていう方が無理だ」
「……そうでしょうね」
どことなく諦めたような言い方だった。
あの校長はともかくとして、この先生には話が通じるかもしれない――そう思い、ダンは問いをぶつけてみることにする。
「ところで先生、〈ファントム〉って名前に心当たりは?」
「〈ファントム〉、ですか?」
怪訝そうに振り返る。どうしてその名をと言いたげだった。
「〈ファントム〉といえば、私にとっては『オペラ座の怪人』のことですが……」
「『オペラ座の怪人』? なんだそりゃ?」
エリのまぶたがぴくりと跳ねた。「知らないんですか?」と問いかける声は低く、冷たい。
何かまずいことを言っただろうか――
助け舟を出したのは意外なことに、新川だった。
「ああ、ぼく知っていますよ。『オペラ座の怪人』。すごく有名ですよね!」
「うん? 知っているのか?」
「先輩が知らなさすぎなんですよ。そういえば『オペラ座の怪人』の〈ファントム〉も、仮面をつけていましたよね」
「何、そうなのか?」
「醜い容姿を隠すためにつけているんです。で、舞台女優のクリスティーヌに恋をして、あの手この手でたぶらかしたりするんですよ」
「なかなか詳しいですね」
「いやぁ」と新川は得意げに背中をそらした。
「ところで……その〈ファントム〉が一体? 今回の件と関係あるのですか?」
「大ありだ。梅木を殺した〈マスカー〉だからな」
エリはわずかに目を見開き――「そうですか」
「なんのために、そんなことを?」
心なしか、どこか声が震えている。
ダンは頭を掻き、ため息をついた。
「それがわかれば苦労はしねぇ」
「男なのか女なのか、教師なのか生徒なのか、それすらもわかっていない状態なんですよ。その辺りはさすが〈マスカー〉といったところですよね」
「ぺらぺら喋るんじゃねぇ!」
新川を殴りつける。
涙目で頭を押さえる後輩を尻目に、ダンは鼻を鳴らした。
「まぁそういうことだ。もしも〈ファントム〉について何かわかったことがあれば、是非とも教えて欲しい」
「……私にできる範囲でならば」
教育棟に立ち入り、ダンたちは来客用のスリッパに履き替えた。廊下を歩き、角に差しかかったところで、エリが足を止めた。
「刑事さんにお尋ねしたいことがあります」
「なんだ?」
「仮にもし〈ファントム〉を見つけたとして、その後どうするおつもりですか?」
「どうもしねぇ。逮捕する。俺の仕事はそれだからな」
「……何らかの事情があったとしても?」
「関係ねぇ」と首を振る。
「どんな事情があろうとも、罪は罪だ。中途半端な感情移入は禁物だし、俺自身そんな柄じゃねえ。何より、〈マスカー〉なんぞに同情は無用だ」
「なぜですか?」
「あいつらは顔を隠してこそこそ罪を犯す、卑怯な連中だからだ。それ以上でも以下でもねぇ」
「……なるほど、わかりました」
振り返り、エリはダンと向かい合った。
「どうも私は、あなたのことが好きになれないようです」
「なんだと?」
「校長室はこの先です。では、私はこれで失礼致します」
ダンの横を通り、振り返らずに歩いていく。
エリの後ろ姿を見送りながら、ダンは鼻から息を吐き出した。
「気の強い女だ」
「なんか、怖い人ですね」
新川の率直な感想に、ダンはかぶりを振る。
「これだから女は苦手なんだ」
○
「全くもう、こういうのって男子の仕事じゃないの?」
「ぼやかないぼやかない。ジャンケンで負けたから、仕方ないでしょ」
ミチはため息をつき、ミドリは苦笑した。
台舞高校研究棟から、教育棟へ移動する途中である。二人は軍手を両手にはめ、大きめの木の板を運んでいた。
「それにしたってさ。こんな時なのに、学園祭なんてやってる場合なのかな?」
「こんな時だからこそ、やるんじゃない? ほら、いつまでも暗い顔をしているわけにもいかないし」
「それは、わかるけど……」
「ミッちゃん?」
ミチはやや間を置いてから、口を開いた。
「種子島先輩とか、あの〈マスカー〉もたぶん、うちの生徒だよね? ミチはさ、あの二人がどうしてそうなったのか、すごい気になるの」
「…………」
「なのにこのまま学園祭の準備をしてて、それでいいのかなって。気持ちを切り替えるためにも必要なのかもしれないけど、それってなんだか、事件のことを忘れようとして必死になってるって気がするの」
「……そっか」
ミドリにも、ミチの言いたいことは把握できた。
昨日の事件はすでに終わったものとなっている。後のことは警察や校長たちがなんとかするはずだろう。話を聞かれることはあるかもしれないが、結局はそこまでだ。
自分たちに出る幕はない。
できることといったら普段どおりの勉学と、それから学園祭に向けての準備。
そのことを不満に思い、やきもきする気持ち。
ミドリにも思い当たるからこそ、ミチの心情が理解できた。
「ミッちゃんは、ただ噂話が好きなだけじゃないもんね」
「えっ、いきなり何の話?」
「いいと思うよ、ミッちゃんのそういうところ。このままずっと、大事にしてあげた方がいいと思う。ミッちゃんがそのままでいてくれれば、忘れちゃいけないことを覚えていられる気がするな」
「な、何を言ってんのさ。もう、そんなクサいこと言っちゃって」
言いつつ、ミチの顔は真っ赤になっていた。
「あーっ、もう! くっちゃべってないでさっさと運んじゃおうよ! ミドリだってこれから練習あるんでしょ!」
「あ、そうだった!」
「そうと決まればダッシュ、ダッシュ!」
「ま、待ってミッちゃん! いきなり走ったら危ないって!」
ミチに引っ張られるようにして、木の板を運んでいく。
教室に辿り着いた頃には、二人はすっかり息が上がっていた。
「とう、ちゃーく……くそう、疲れたぞー」
「はぁ、はぁ……」
「おーう、お疲れ!」
クラスメイトからねぎらいの言葉をもらいつつ、適当なところに木の板を立てかけた。
ミドリのクラスではクレープ屋をやることになっており、屋台や看板、チラシなどをグループに分けて製作している。ミドリ、ミチのグループは看板を担当しており、今運んだ木の板はそのためのものだった。
ミドリは腕時計を見、「あ、もうこんな時間」
「ミドリ、そろそろ行ったら? 後はこっちでやっとくから」
「えーっと……じゃあ、お願いね」
「うん、行ってらー」
鞄を手に、ミドリは教室から出た。
窓の外を見ると、陽が傾きかけている。練習が終わる頃には真っ暗だろうなと思いつつ、階段を下りていく。
部室棟に向かう途中で、ばったりエリと出会った。
「あ……」
「あら、引島さん。これから部室へ?」
「は、はい」
「ちょうどいいから、一緒に行きましょう」
なし崩し的に、エリと肩を並べる。微妙に気まずい。
内心で汗をかきつつ、ミドリは話題を探した。
「さ、最近寒くなってきましたよね?」
「そうね」
「…………」
「…………」
(うう、話が続かない……)
元々エリは、とっつきやすいタイプではない。ビジネスライクな対応が多く、日常を感じさせるような言動が全くといっていいほどない。ストイックに勉学や部活に励んでいる生徒とは無駄のないやり取りができるので、そういう意味では人気はあるのだが。
「時に、引島さん」
「は、はい?」
「台本の方、できているのかしら?」
「あ、それはもう。後でお渡ししますか?」
「お願いね。それから、今度の劇のことなんだけど」
来た、とミドリは無自覚に背筋を伸ばした。
切れ長の瞳が向けられる。
「考えておいてくれたかしら?」
「はい……それは、もう」
「その顔。まだ決めかねているといった具合かしら?」
「うっ」
「何度も言うようだけど、自信を持ちなさい。荒削りな演技ではあるけれど、今からみっちりやれば大丈夫だから」
「は、はぁ」
「それでも不安?」
「……はい。わたしなんかが、果たして舞台に立てるんだろうかって。というか、立っていいんだろうかって」
「どうしてそう思うのかしら? 人前で演技をしたことがないから?」
「それもあります。でも、他のみんながなんと思うか」
「周りが気になるのね?」
「はい……」
「何事も慣れと言いたいところだけど、最初は怖気づくものね。何かしらきっかけがあれば、あなたも舞台に立てるわ」
「そうなんですか?」
「そうよ。最初の一歩さえ踏み出せれば、後はなんとかなるものだから」
口の端をわずかにつり上げる。
今のは笑ったのだろうか?
その判断がつかない内に、部室に着いてしまった。教室と同じぐらいの広さで、二十を超える部員たちがそれぞれストレッチや発声練習をしている。エリが入ってきたことに気づくとすぐさま中止し、一斉にエリの方を向いた。
「皆さん、おはよう」
『おはようございます』
時刻は夕方だが、演劇部の活動が始まる際の挨拶は『おはよう』となっている。演技の世界でもそのようなならわしがあるということで、この演劇部もそれに倣っている。ちなみに最初に提唱したのはエリだ。
「楽にしていていいわ。これから少し、話をします」
言いつつ、エリはホワイトボードの脇にパイプ椅子を立てかけた。ミドリも自分の椅子を用意し、部室の隅に収まる。
「さて」とエリが軽く手を叩く。
「実は、校長とお話をしました。公式な発表は来週の月曜となりますが、学園祭と公演は予定通りに行います」
部員たちがざわつく気配を見せると、「静かに」
「つきましては、これからについて話し合いたいのですが……」
「すみません、先生」
男子の手が挙がる。副部長の仮谷だ。『オペラ座の怪人』で、クリスティーヌの幼馴染であるラウルを演じることになっている。
「あの……学園祭はともかく公演もってことは、『オペラ座の怪人』をやるんですか?」
「その通りです」
「しかし、〈マスカー〉騒ぎがあったばかりなのに……」
「そのことについてならば問題はありません。校長と話し合いましたから」
淡々と告げるエリ。
「それに今から別の劇をやるとしても、時間がありません。すでにセットや小道具は作った後だし、台本だって出来上がっている。そうでしょう、引島さん?」
部員たちの視線がエリから、ミドリへと移行する。
ミドリはこくこくと、うなずくことしかできなかった。
「結構。そういうことなので、劇は予定通りに行います」
「……しかし」
仮谷はまだ納得がいってないようだった。
「しかし、種子島さんがいない状況で……」
「それについても心配いりません。私に考えがあります」
「……そう、ですか」
観念したように椅子に座る。『オペラ座の怪人』を演じることが不満であるのが、ありありと見て取れた。
エリも察したのだろう。立ち上がり、部員たちを見回した。
「皆さんにはこのまま『オペラ座の怪人』を演じてもらいます。今から別の劇に差し替えるだけの余裕がないというのがひとつの理由ですが……」
エリの視線が、ミドリに注がれる。
どくんと心臓が跳ね、息が詰まりそうになった。
「見てみたいと思ったのです。彼女が演じるクリスティーヌを」
部員たちのざわつきが一段と大きくなる。
『彼女』とは誰のことなのか――その疑問に、エリはすぐ答えた。
「引島さん。こちらに来てくれるかしら?」
エリが名を呼んだ時、どよめきが起こった。
「なんであの子が?」
「嘘だろ?」
「中条先輩を差し置いて?」
それらの声はダイレクトに、ミドリの耳に届いた。
強く目をつぶり、観念したように立ち上がる。
死刑宣告を受けた罪人の気持ちとは、こういうものなのかもしれない。
目を開け、力ない足取りで、エリの元に向かう。途中でマキと目が合ったが、彼女はただ口を真横に結ぶだけだった。
「引島さん、こちらに」
「は、はい」
エリに促され、隣に並ぶ。この場からだと、困惑している一同の顔がよく見えた。人から注目を浴びることなど滅多にないので、立ちすくみそうになる。
「引島さんには『オペラ座の怪人』のヒロイン、クリスティーヌを演じてもらおうと考えています。彼女なりのやり方で」
エリはミドリの肩に手を置いた。
「ですが、引島さんは今までまともに舞台に立った経験がほとんどありません。私がみっちり指導をするつもりですが……それでも皆さんにとっては不服かと思います。だから、皆さんにテストして欲しいのです。引島さんがクリスティーヌを演じるに足る器かどうかを」
部員たちは無言だった。
しかし、視線に様々な感情を込めている。困惑、動揺、不満……それを真っ向から受け止めているエリは実に堂々としたものだったが、ミドリはそうではない。今すぐこの場から逃げ出してしまいたいほどのプレッシャーを、肌で感じていた。
また一人、手が挙がる。今度はマキだ。
「久良木先生、よろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
マキは立ち上がり、腹部の前で手を組む。
「私個人としては、このまま『オペラ座の怪人』を続けることに異論はありません。しかし、今まで裏方を担当していた引島さんをいきなり抜擢するというのは、いささか過程というものを軽視しているように思われます」
そうだそうだ、と同意の声が相次いで上がった。
「テストをして欲しいと先生は仰いました。それはどのような形で行うのですか? 今、この場で引島さんに演じてもらうのですか?」
「ええ、そのつもりです」
「え、ええっ!?」
ミドリが困惑するのをよそに、エリはつかつかと戸棚の方に移動した。そこには小物などが保管されていて、エリはその中から何かを取り出した。それは安っぽい質感の、顔の片側のみを覆い隠す白い仮面だった。
エリはそれをかぶり、ゴムで固定する。首から下はいつものタートルネックと黒のパンツなので、ミスマッチ感がある。しかしそれでも様になると思わせるのは、エリのスタイルの良さからだろう。
「引島さん、心の準備はできている?」
「え、はい……?」
「結構」
振り返るやすぐに、エリはミドリに掴みかかった。顔と顔がぶつからんばかりの距離で、「ああ!」と声を上げる。
『お前は見たいと言っていたじゃないか! この私の素顔を! よく見ろ、よく見るんだ! 私の忌々しい醜さを、心ゆくまで眺めるがいい! これで、〈天使の声〉がどんな顔をしているか、ようくわかっただろう! 私の声を聞くだけでは満足できなかったのかね!?』
ほとんど怒鳴りつけるような、エリの演技。
クリスティーヌに仮面を剥がされた、〈ファントム〉の怒りを表したシーンだ。一言一句狂いなく、エリは演じ上げている。気を抜けばそのまましりもちをついてしまいそうで、ミドリの膝は震えていた。
眼前から迫るこの恐怖は、エリのものではない。『オペラ座の怪人』――〈ファントム〉のものだ。
ならば今の自分はミドリではなく、クリスティーヌだ。
『そんな……そんなつもりじゃなかったの』
声が震えているのは演技なのか、自分でもわからない。
『わたし、わたしは……ただ、あなたのことが知りたくて。あなたがどういう顔をしているのか知りたかっただけなの。ほんのちょっと、好奇心がうずいてしまったのよ!』
『好奇心、好奇心か! そう言えばなんでも許されると思っている! お前たち女はいつもそうだ! やたら好奇心が強いくせして、いざ知りたい気持ちが満たされれば、それは恐怖と嫌悪に切り替わる! 汚らしいもの、醜いものには蓋をするんだ!』
『ああ、そんなに責めないで! わたしが悪かったわ。そんなつもりじゃなかったと、何度言えばわかってもらえるの?』
膝をつき、許しを請うように見上げる。
見下ろしてくる二つの目は、強烈な光を放っていた。
『お願いだから、もう許して。仮面は返したでしょう? それなのにどうして、あなたはわたしに見せつけようとするの? 自分の醜さを嫌っておきながら、どうして見せびらかすような真似をするの?』
『見せびらかす、はん! お前からはそう見えるのか。私が好きでこんなことをしているとでも思っているのか!? いいかね、私にそうさせたのは他の誰でもない、お前なんだよ……クリスティーヌ。お前が私の中の化け物を刺激したんだ。それは泣いて謝っても、許されることではない』
『どうすればいい、どうすればいいの? 何をすればあなたに許してもらえるの?』
エリはゆっくりと片膝を地につけ、ミドリのあごを指先で持ち上げた。
『わかるだろう? どんなことがあっても、私を決して裏切らないことだ。好奇心とやらのナイフで、私を後ろから刺さないことだ。何も難しいことじゃあない。これまで通り、お前は私の言葉に導かれていればいいのだ。前にも言ったろう、〈天使の声〉はお前を祝福しているのだと……』
『そう、そうね。わたしが馬鹿だった。危うくあなたを欺くところだったわ。本当にごめんなさい。もう二度と、決して、興味半分であなたを知ろうとは思わないわ』
『そうだ、それでいい。クリスティーヌ……』
二人は抱き合い、そのまま固まった。
やがて訪れる沈黙。
誰も、何も発しようとはしなかった。
そこから更に数秒ほどで、ようやく拍手の音がした。
手を叩いていたのは、マキだった。
他の部員たちはそれに驚き――やがて、マキに続いた。
部室中に拍手の音が満ち、ミドリはそれを呆然と聞いていた。
エリが立ち上がり、仮面を外す。
「どうやら、異論はないようね」
○
「あー、う~……」
ふらふらとアパートの前に辿り着き、ミドリは大きなため息をついた。階段を上る足取りも重い。
「疲れた……」
エリとの一幕を演じた後、ミドリは本格的な練習に身を投じることとなった。一からの発声練習は当然として、舞台での立ち回りも覚えなくてはならない。台本を担当していたから台詞は頭に入っているが、動きながらとなると難しい。
エリに徹底的にしごかれ、部員たちからのプレッシャーもある。これで疲れない方がどうかしている。
「ただいま~……」
ドアを開け、無造作に靴を脱ぐ。
香ばしい香りがミドリの鼻先をくすぐり、ぱっと顔を輝かせる。ぱたぱたとリビングに入ると、食事をしているアカネの姿があった。
「おー、お帰り」
「アカネちゃん、ただいま。ドライカレー?」
「いんや、キーマカレー。まぁ、どっちでもいいか」
「わぁ。もうすっごい、おなかペコペコ。ところでお風呂は……」
「もう沸かしてある」
「アカネちゃん、大好き!」
がばっと抱きつくと、アカネはうっとうしそうに顔をしかめた。
「はいはい、わかったからさっさと食べな」
「うん!」
ミドリはさっそく自分の分を皿によそい、テーブルに着いた。「いただきます!」と手を合わせ、ぱくぱくと口に運んでいく。
「ところであんた、今日遅かったね。部活?」
「うん。えーっと、本格的に劇の練習をすることになって」
「あら、そうなんだ。てっきり辞退するもんだと思っていたよ」
「うん、そうだね……わたしもそう思っていたよ」
「どういう風の吹き回し? なんかあった?」
「それは……」
「おーう、今帰ったぞー」
玄関から響く、野太い声。
ダンがネクタイを解きつつ、リビングに顔を出した。「おっ、ドライカレーか!」と顔をほころばせる彼に、「キーマだよ」とアカネがそっけなく返す。
「どっちでもいいだろ。要するに野菜のみじん切りカレーみたいなもんだ。なぁ?」
「うーん、どうかな」
「まぁ、いい。とりあえず俺ももらうぜ」
いそいそとキッチンに入るダンに、ミドリはうかがうような視線を送った。
「おじさん」
「ああ?」
「お仕事の方はどう?」
ダンは渋い顔をしつつ、皿にカレーをよそう。
椅子に着いた後で、「どうも、だな」
「空振りだ。手がかりらしい手がかりはまるでねぇ。関係者に話を聞いても、掴みどころがねぇ。……っと、お前らに話すことじゃなかった」
「ううん。わたしたちにも関係あるよ。だって、うちの学校で起こったことでしょ? ねぇ、アカネちゃん?」
「あん? あー、そうかもしれないねぇ」
アカネはどうでもよさそうに答えた。
ダンは渋い顔のままで、カレーを口に運ぶ。ひとしきり咀嚼した後で、ミドリをじろりと横目で見た。
「ミドリ。この件には関わるな」
「でも……」
「興味半分で首を突っ込めば、今度こそ痛い目に遭うぞ。今のお前に怪我ひとつないのは、たまたま運が良かっただけだ。〈マスカー〉に襲われて無事で済むなんて、奇跡に等しいんだぞ。そこのところ、わかってるのか?」
「わ、わかってるよ」
「どうだかな。あの道化野郎と親しくしているのを見た限りでは、とてもそうは思えねぇぞ」
「……っ」
ミドリはかっと顔が赤くなった。
怪訝そうなアカネから見られないよう、顔をうつむける。
「普段から俺は何度も言ってるよな? 〈マスカー〉と関わるな、会ったら逃げろって。なのにお前は……」
「道化さんは、別だもん」
「ああ?」
「道化さんは、おじさんが思ってるような人じゃないよ。わたしを助けてくれたし」
「それがどうした」
ダンは腕を組み、ふんぞり返った。
「お前を信用させるために、わざと助けたって線もあるだろうが。あの野郎が〈ファントム〉とやらとグルじゃねぇって、言い切れるのか?」
すぐさまミドリは立ち上がり、その勢いで椅子が後ろに倒れた。
眉を上げるダンの手前で、手を握り込んでいる。
「どうしておじさんは、いつもそうなの?」
「…………」
「……もういい。ごちそうさま」
ミドリは食べかけのカレーをキッチンに持っていき、その後で自室に閉じこもった。
扉にもたれかけ、ずるずるとへたり込む。
立てた膝の上に顔を埋め、「おじさんのバカ」とつぶやいた。
〇
月曜の朝、ミドリは小さな公園にいた。
ベンチに座り、ジャグリングをする道化を見ている。
色つきのボールを宙に放り投げては、的確に受け止める。一瞬たりとも手を休ませない。ボールが連続で孤を描いたり、あるいは噴水のように上下したり。
これでBGMがあれば、もっと盛り上がるかもしれない。
そのようなことをぼんやりと、頭の隅で考えていた。
道化がボールをキャッチし始める。指と指で挟むようにして、最後のボールは頭上で受け止めてみせた。
わぁ、と拍手をする。
道化は手を腹部に添え、うやうやしくお辞儀をした。
「どうかな、僕のジャグリングは?」
「すごいよ、道化さん。まるでボールが生きているみたい!」
「おいおい、それは褒めすぎだぜ。言っておくが、僕のジャグリングの腕はそれほどじゃあない。世界を見れば数多の天才ジャグラーがごろごろとしている。彼らに比べれば僕など、路傍の石ころにすぎないのさ」
「ええっと、謙遜と受け止めていいのかな?」
困り顔で言うと、道化は肩をすくめた。
銀の縁取りが施された黒いケースに、道化はボールを収めていく。
「普段から持ち歩いているの?」
「必要な時だけさ」
道化は体を起こし、ケースをベンチの脇に置いた。
それからミドリの隣に腰かけ、「それで、どうかしたかな?」
「え?」
「今の君の顔。とても楽しいことがあったようには見えないぜ」
「……あはは、まぁ、色々あってね」
「そうか、色々か。まぁ、多感な時期だろうしね」
「それ、関係あるのかなぁ?」
「どうかな」
道化はベンチの背にもたれ、面を上げた。
ミドリはうつむいていて、指をつつき合わせている。
「わたしね、今度の劇の主役に選ばれたんだ」
「ほう、すごいことじゃないか」
「でも、全然自信なんてなくて。先生がつきっきりで指導してくれてるけど、全然ダメ。真剣にやってるつもりなのに、なんだか空回っちゃう。今日も練習あるんだけど、これでダメダメだったらと思うと怖くてね……」
「ふーむ」
「色んなところからプレッシャー感じるし。今さらだし、やると決めたからにはどうしようもないけど……正直言って、押し潰されそう」
はぁーと大きく息を吐く。
「ごめんね、グチっちゃって。迷惑だよね?」
「いいや、そんなことはないさ」
道化はすっと手を上げ、握り込んだ。ぐるぐると手首を回し、「ぽん」というかけ声と共に、手の隙間から一輪の花が飛び出てきた。
「うわっ」
「ふふふ」
ミドリは目を丸くしつつ、花を受け取る。
道化は何も持ってない手をまじまじと眺めた。
「不安も、プレッシャーも感じて当然のものだよ。人生という大がかりな舞台の上ではね。そこでどんな風に演じるかは結局のところ、自分次第だ。だが、恐れることはない」
「どうして?」
「君は一人ではないからだ。共演者……君との人生を共にしてくれる人がいる。思い当たる節はあるだろう?」
ミドリの脳裏に、ダンとアカネの顔が思い浮かんだ。
すぐに頭を振ってダンを追い払い、空いたスペースにミチを放り込む。
「アカネちゃんとミッちゃんはともかく、おじさんはね……」
どことなくやさぐれた言い方である。
道化は肩をすくめ、「まぁ、それはともかく」
「近しい人がいるのなら、その人たちに協力してもらうのがいい。今のように話を聞いてもらえるだけでも、気持ちが楽になるはずさ」
「で、でも。楽にならなかったら?」
「どうにも君は、物事をネガティブな方向に考える傾向があるようだなぁ。もう少し、楽にしていいんだぜ?」
「う、うん……」
「まぁ言うは易し、行うは難しってね。そこまで不安に考えるのなら、どうして降りるってことを選択しなかったんだい?」
「それは、そうだよね。そう思うのが当然だもんね」
「ミドリくん?」
「わたしが演劇部に入ったきっかけは、マキ先輩なの」
ミドリは胸の前で手を組み、遠い目をした。
「今でもはっきり思い出せる。中学三年生の時、台舞高の学園祭に行ったことがあるの。そこでたまたま劇をやってて、その時のヒロインがマキ先輩だった」
艶やかな衣装を身に着け、ホール中に清らかな声を響かせる。
彼女の一挙手一投足に観客は目を奪われ、ひと時の夢に引き込まれていく。ミドリの目にはマキが、天上の存在に映って見えた。
「この学校に入ったのも、演劇部に入ったのも、マキ先輩に近づきたくて。わたしの書いた台本を読んでもらったりして、その時はドキドキしたなぁ。マキ先輩は爪も指も綺麗で、思わず見とれちゃった」
感嘆の吐息を漏らす。
「そんな人と、同じ舞台に立てる。それがちょっと信じられなくて。でも、やるからにはちゃんとやらなくちゃって。確かに、不安は大きいけれど……それと同じぐらい、ううん、嬉しさの方が上回っているの」
「嬉しい、か」
「そう。勢いでそうなってしまったってのもあるけど、時間が経つにつれてだんだん、マキ先輩と一緒に演じられることを実感できて。でも、不安もプレッシャーも同時に感じていて。ああ、どうしようって」
組んだ手を解いて、ぐっと頭上を見上げる。
視界いっぱいに街路樹の葉が広がり、木漏れ日に目がくらみそうになった。
「なんだかごめんね、長々と話しちゃって」
「いいや、興味深い話だった」
「そう? じゃあ……お詫びとお礼ってことで、これ」
そう言って、中身の入った巾着袋を差し出す。
道化はそれをつまみ上げ、怪訝そうに首を傾げた。
「なんだい、これは?」
「お弁当。良かったらどうぞ」
「わざわざ作ってくれたのかい? 大変だったろうに」
ふるふる、とミドリは首を振った。
「たいしたことないよ。一人分増えるだけだしね。作る手間はおんなじだから」
「そうかい。では、ありがたく受け取っておくよ」
「うん、じゃあわたし、そろそろ行かないと」
「ああ、気をつけて行きたまえ」
「道化さんもね」
ベンチから離れ、道化に手を振りつつ、公園から出て行く。
不安な気持ちはいつしか薄れていた。
○
薄暗い部屋の中で、一人の男がびくびくとしている。
細身で、頭は禿げ上がっており、暑くもないのにハンカチで額を拭っていた。
「な、なんだね。私をこんなところに呼び出して……ひぃっ!?」
暗闇の中から、ぼうっと白い仮面が浮かび上がる。しりもちをついた男を見下ろす目は、黒々とした闇に染まっていた。
「な、なんだお前……!」
男の足元に、数枚の写真が散らばる。
おそるおそるその写真を手にすると、驚愕に目をわななかせた。
「な、なんで、どうして、これを?」
「…………」
「わ、私を脅迫するつもりか!?」
「どう受け止めるかは、お前次第だ」
赤い封筒が男の眼前に滑り込む。
男はがたがたと震える手で、それを拾い上げた。
「その封筒の中にある、手紙の指示通りに動け」
「そ、そうすればどうなる? 写真を処分して……い、いや。データも消してもらえるんだろうな?」
「それはお前次第だ」
「うう……」
「読んだら燃やせ。必ずだ」
白い仮面は闇に溶け、男はがっくりとうなだれた。
それから彼がその場を立ち去るまで、五分ほどかかった。
再び闇の中に白い仮面が浮かぶ。片腕にはマキを抱き寄せており、彼女は満足そうに微笑んでいた。
「上出来よ、〈ファントム〉。これで後はあの道化が、罠にかかるのを待つだけ」
「…………」
マキは〈ファントム〉の手を引っ張り、革張りの椅子へと座らせた。そして自身は慣れた動きで、〈ファントム〉の膝の上に乗る。〈ファントム〉の胸を指で突き、なぞりながら、マキは恍惚の吐息を漏らした。
「それにしても、ふふ……あなたって、本当に魅力的。でもね、それだけに納得いかないことがあるのよ」
〈ファントム〉を見上げる。応じる様子はない。
「わかってるくせに。あの子のことよ。どうして、私じゃダメだったの? 私の方があの子よりも、立派なクリスティーヌを演じてみせるわ」
〈ファントム〉は答えない。
マキはわかっていたというように、ため息をついた。
「まぁ、答えてくれるわけなんか、ないわよね」
体を起こし、〈ファントム〉の顔を両手で挟み込む。マキの髪が、〈ファントム〉の体にかかった。
「私だけを見て。私だけを愛して。そうじゃないと許さない。あんな子に心を許すなんて、そんなの絶対、許さないんだから……」
〈ファントム〉はなおも答えなかった。
○
全校集会が開かれ、学園祭は平常通り行われることが発表された。
生徒たちは困惑しつつも、おおむね好意的に受け止めているようだった。放課後、各クラスで準備に励んでいる光景を見ていると、そうとしか思えない。勉学に集中するよりも、日頃の憂さを晴らせる学園祭の方がよっぽど身が入るというのも、理解できる話だった。
「でもねぇあの校長が生徒の心情を慮って……とか、想像できる? だってあの校長、長いものには巻かれろってタイプじゃない。教育委員会だとかPTAだとか、そういうところで圧力をかけられたんじゃないかって思うのよ。聞いてる、ミドリ?」
「うん、聞いてる」
「もしくはこの学園祭を、なんらかの形でアピールするとかね。『こんなトラブルがあってもめげずに頑張って、この学園祭を実行しました!』ってな具合に」
「でも、それでわたしたちが困ることはないよね?」
「むっ。まぁそうなんだけど……なーんか、スッキリしないっていうかね」
「考えすぎだよ、ミッちゃん……あ、そこ乾いてないから気をつけて」
「おっと」と言いつつ、ミチは肘を上げた。
現在、ミドリとミチのグループは看板の作製をしているところである。絵の具を使うため、二人は作業用のエプロンを着用していた。
「ところでミドリ、結局やるんだ? あんだけ迷ってたのに」
「うん……」
「プレッシャーとかすごい? やっぱ」
「うん、そうだね」
困り顔で答える。
ミチは「うむむ」と腕を組んだ。
「主役だもんねぇ。でも、ミドリがマキ先輩みたいになれるかもって思うと、今からすっごいワックワク。最高画質で撮るから、期待してて!」
力強く親指を立てる。
ミドリは苦笑し、「ありがとう」と応えた。そして腕時計を見、練習の時間が迫っていることを確認する。
「わたし、そろそろ行くから。後はお願いしていい?」
「うん、任しとけ!」
エプロンを脱ぎ、鞄を持つ。
ミチに見送られながら、ミドリは教室を出た。
部室には寄らず、直接『鐘つき棟』へ。
階段を下りかけたところで、視界の端を黒い布切れのようなものがかすめた。「うん?」と頭を上げると、その布切れは階段の陰に隠れて見えなくなってしまった。
「……?」
一段ずつ上がり、黒い布切れを追ってみる。踊り場に着いたところで首をあちこちに向けたが、どこにもそれらしきものは見当たらない。
「気のせいかな?」
階段を下りようとしたところで、またも黒い布切れが視界に入った。
思わず顔を上げる。
布きれだと思っていたものは実はマントで――それを羽織る人物は、顔に白い仮面をつけていた。
「え!?」
とっさに後じさりする。
黒いマントの人物は振り返ることなく、上へと上っていってしまった。
「ど、どうしよう?」
その場でうろうろと悩んだ挙げ句――ミドリは追うことにした。
念のため、いつでもダンにつながれるようにスマートフォンの通話アプリを開いておく。すぐに連絡しなかったのは、単なるいたずらの可能性も捨て切れなかったためだ。
階段を上がる度、マントがちらちらと見え隠れする。わざとおびき寄せているようで、不安が膨らんでいく。このまま追いかけるべきかどうか、それを考えている間に屋上に続く階に着いてしまった。
「…………」
鍵は開いているようだった。しかし、そこから先を確認するのが恐ろしい。
いたずらであってくれればいい――そう願って、扉を開け放つ。
「――ッ!?」
目の前の光景に、危うく息が詰まりそうになった。
現実のものであるとにわかには信じられなかった。
灰色の〈マスク〉。
それを着けた〈マスカー〉が、規則正しく横に縦に並んでいる。
二十人近くはいるだろう。全員が同じように背中を丸め、両腕をぶら下げていた。制服や体つきからかろうじて男女の区別はつくが、それだけである。
「な、なんで……」
その時、開け放った扉の死角から腕が伸びてきた。手を掴まれ、強引に引きずられる。バランスを崩して転倒し、とっさに面を上げた。
黒いマントにシルクハット、そして口元だけが露出した白い仮面。
その異様な外見を前に、ミドリは声を震わせた。
「ふ、〈ファントム〉?」
「くくく」
口をマントで覆い隠し、肩を揺らす。
「私に何か用かな、お嬢さん?」
「あなた……」
「ちょうど良い。私の方も君に用事があったんだ。良ければつき合ってくれまいか? 私が満足するまでな……おい!」
〈ファントム〉が手を軽く振る。
後ろから腕を引っ張られ、立たされる。灰色の〈マスカー〉が二人、ミドリの両腕を拘束していた。思いの外力が強く、振り解くこともできない。
「無駄な抵抗はやめたまえ。二十人もいるんだ。君のようなか弱い女の子が、どうにかできるものじゃない」
かつかつと〈ファントム〉が近づいてくる。
ミドリはなおも抵抗を試みようとしたが、あごを掴まれ、無理やり面を上げさせられた。〈ファントム〉の息遣いが間近に感じられ、肌がぞわりと粟立つ。
「うっ……」
「いいものだな、若いというのは。吸いつくような肌をしている」
「う~ッ……」
首を振ろうとしたが、頭も掴まれた。しかしそこであることに気づく。〈ファントム〉の角ばったあごに、ひげの剃り跡があるのだ。
ミドリは不可解そうに眉を寄せた。
「あなた……誰?」
「誰だと? さっき、君が呼んだではないか。私は〈ファントム〉……」
「違うよ。あなたは違う。あなたは一体、誰なの?」
「だから、何度も言っているだろう! 私はだな――」
「〈ファントム〉ではない。君の推察通りだよ、ミドリくん」
背後からの声に、〈ファントム〉は振り返った。
屋上へつながる扉の上部――ボイラーの近くに、道化が立っている。白い〈マスク〉は夕日によって照らされ、ミドリと〈ファントム〉の姿を映し出していた。
狼狽をあらわに、〈ファントム〉が叫ぶ。
「な、なんだお前は!」
「おや、本物から聞いていないのかい? 僕はただのしがない道化だよ」
「道化だと!? そ、そうか、お前が……」
〈ファントム〉に構わず、道化は扉の手前へと着地した。
「ひい、ふう、みい……ふむ、ぴったり二十人か。これだけの数を相手となると、少々骨が折れるだろうな」
「そ、その通りだ!」
〈ファントム〉は手を振り、ミドリと二人の〈マスカー〉を移動させた。残る〈マスカー〉は道化にじりじりと寄っていく。
「これだけの数を相手に、どうすることもできまい!」
「言ってることが三流だね」
「ほざけ! 行け、行くんだ!」
「やれやれ……」
呆れたように肩をすくめる道化。
そこに、十を超える〈マスカー〉が一斉に襲いかかった。
「よっ、と」
道化はまず、飛びついてきた〈マスカー〉を軽くいなした。その場で跳躍し、他の〈マスカー〉の肩や頭を踏みつけながら、ぴょんぴょんと跳ねていく。あっという間に十人以上の〈マスカー〉の背後を取り、ちらりとミドリの方を見た。
「あ……」
「すぐに終わる。もう少しだけ、我慢していたまえ」
後ろから襲い来る、二人の〈マスカー〉。
道化は振り返り、一歩踏み出す。交錯する一瞬の間際に、彼らの〈マスク〉を剥がした。両手には二枚の〈マスク〉があり、ぐしゃりと握り潰す。その音と共に、〈マスカー〉だった生徒たちは地面に倒れ込んだ。
「ええい、何をしている! さっさとやってしまわんか!」
〈ファントム〉が乱暴に手を振って、〈マスカー〉たちを促す。
しかし、初動において道化の方が速かった。
〈マスカー〉の一人に素早く近づき、〈マスク〉を剥がす。身を低くし、地を這う蛇のごとく〈マスカー〉の間をすり抜け、反応しきれていない二人を、更に無力化。
三人の〈マスカー〉が道化に挑む。ただ掴みかかろうとするだけの単調な動きだ――道化は限界まで身を低くし、その体勢から器用に体を回転、巧みな足捌きで三人を転ばせ、その内二人の〈マスク〉を剥がす。
「ああっ! くそっ、お前たちも行け! みんなでやってしまえ!」
ミドリを拘束していた〈マスカー〉までもが、攻撃の輪に加わる。
「やれやれ、だな」
既に七人が〈マスク〉を剥がされ、残るは十三人。
十三人が一斉に、さほど広くはない屋上で動けば一体どうなるか。互いが互いの動きに干渉し合い、おまけに転倒する者も出てくる。
「何をしているんだ!」
「指示が悪い」
手短に道化が言い、次々と〈マスカー〉をいなしていく。転んだ者から一人ずつ、確実に減らしていった。残りは八人。
「ミドリくん、パス」
「え、えっ?」
いきなり投げ渡されたのは、なんの変哲もない白いロープ。手品などで使うタイプのものらしく、あまり丈夫そうには見えない。
そのロープの先は、道化が持っていた。
「しっかり握っていてくれたまえ」
それだけ言い、道化は〈マスカー〉たちの輪に入っていく。するすると器用にすり抜け、十秒と経たずに〈マスカー〉たちの輪から出て行ってしまった。
「いち、にの、さん」
道化がロープを引っ張ると、まるで示し合わせたかのように、〈マスカー〉たちが一斉に転んだ。ロープに足を取られたのだろう――頭を打った者もいるらしく、悶絶している。
「さーてと……」
一人、また一人と〈マスク〉を剥がしていく。
その光景を〈ファントム〉は、ただ愕然と見つめていた。
「――む?」
残る最後の一人が、足に絡まったロープを乱暴に引き千切る。なんとか身を起こし、道化と向かい合った。
「なるほど。他のよりは使えそうだな、筋肉くん」
道化に指差された〈マスカー〉は、明らかに他のよりも体が大きかった。
おまけに格闘技の心得があるらしく、一撃の動作に重みがある。道化を狙おうとして空ぶった一撃は、タイルを砕いてしまった。
「なかなかの威力だ。だが……」
〈マスカー〉の繰り出す技のひとつひとつを、道化は平手で受け流す。鋭い突きを繰り出すも、簡単に見切られてしまう。腕を取られ、合気道よろしく地面に転ばされた〈マスカー〉は、そのまま〈マスク〉を剥がされた。
「な、な、な……」
〈ファントム〉はよろよろと後退し、背中からフェンスにぶつかった。
「に、二十人。二十人もいたんだぞ。それが、どうして……」
「簡単なことさ。彼らには意思がない、ただの操り人形だ。これだけの数を同時に操るとなると、単調な動きしかできないだろう。要するに、バランスの問題だ」
「う、ううう……ッ」
道化は両手を払い、ためらいなく〈ファントム〉に歩み寄る。
「あまり期待はできなそうだが、君には聞きたいことがある。本物の〈ファントム〉はどうして、こんな回りくどいことをした?」
「そ、それは……」
「そこまでだ!」
空気を震わす、一声。
次に無数の足音が立て続けに響く。
屋上の扉の手前ではダンが、その背後には十数人の警官たちが控えていた。
「お、おじさん!? なんで!?」
ミドリは慌てて、ポケットからスマートフォンを取り出した。
通話はしていない。
警官たちを連れているということは、誰かが意図的に通報したということだろうか?
「全員、そこから動くな! 下手な真似をすれば、容赦はしない!」
言いつつ、拳銃を構える。
照準は道化に定まっていた。
「ま、待ってよおじさん!」
「動くなと言ったはずだ! ……おい」
警官たちの隙間から、ひょっこりと新川が顔を出した。ミドリに駆け寄り、「さぁこちらへ」と促す。
「ねぇ、話を聞いてよ! これには訳があって……」
「新川ぁ! 連れて行け!」
「おじさん!」
ミドリがいくら声を張り上げても、ダンは聞こうともしなかった。
そのまま建物内へと連れ込まれ、道化の姿も見えなくなる。
扉が閉まる直前になっても、ダンは振り返らなかった。
〇
道化と〈ファントム〉は連行された。
台舞高校の校門前では、パトカーと救急車がそれぞれサイレンを鳴らしている。その周辺では生徒を含む野次馬が、何事かと騒いでいた。
〈ファントム〉の正体は教頭だった。
完全に意気消沈しており、手首にかけられた手錠を恨めしげに見つめている。背中を丸めてとぼとぼ歩く様は、見ているこちらが気の毒になるほどだった。
対照的に道化は、平然としていた。
ミドリと一瞬だけ顔を合わせた時も、ただ肩をすくめてみせた。
「道化、さん……」
パトカーは二人を乗せ、走り去っていく。
それで終わったわけではなく、〈マスカー〉となっていた生徒たちもタンカで運ばれていく。
その指示を飛ばしているのはダンだった。
ミドリは生徒たちをかきわけ、なんとかダンに近づこうとする。
「ねぇ、おじさん!」
「まだいたのか。お前はもう帰れ」
「違うの! 道化さんはただ、わたしを助けてくれたんだよ!」
「おい、新川! 野次馬たちを下がらせろ! 邪魔だ!」
「お願い、おじさん! こっちを見てよ!」
ぐっと肩を掴まれ、ミドリは涙目で振り返った。
そこにはアカネがいて――首を横に振っている。
「ミドリ、ダメ。おっさんの邪魔になる」
「アカネちゃん……」
「おっさんはあんたのことを心配してんだよ。だから……」
「心配なんてして欲しくない!」
思わず叫び、弾かれるようにミドリはその場から離れた。
教育棟に入り、一番近いトイレに駆け込む。
洗面所で肩を上下しながら、「おじさんのバカ!」
「おじさんのバカ、おじさんのバカ、おじさんの……バカぁッ!」
怒りのまま、握り込んだ手で洗面台を叩く。ただ痛いだけだったが、それでもそうせずにはいられなかった。
「うう、うう……」
涙がこぼれ、手の上に落ちる。
かすかに開いた窓からは、今もサイレンの音が聞こえてくる。
そのせいで、すぐ近くからの足音に気づかなかった。
「引島さん、大丈夫?」
そっと耳元でささやかれ、ミドリははっと振り返った。目と鼻の先にエリの顔があって、その時も彼女は淡々とした様子だった。
「せ、先生?」
「あまり良くないとは思ったけれど、一部始終を見ていたわ。あの刑事さんと何かあったみたいね?」
「……おじさんが」
涙が頬を伝わっていく。
ダンが道化に銃を突きつけたこと。
有無を言わさず、連行していったこと。
ミドリの言葉に耳を傾けてくれなかったこと。
それら全部がミドリを心配するがゆえの行動だとは、どうしても思えなかった。
「おじさんはわたしの言葉より、〈マスカー〉を憎むことばかり優先するんです。道化さんは違うって、何度も言ってるのに……」
「事情はよくわからないけれど……」
エリが近づき、ミドリの頭を抱いた。
あまりの事態に、わけもわからず目を見張る。
「あなたのおじさんは、決してあなたをないがしろにしているとは思わないわ。ただ、気を回すということが得意ではないんだと思う」
「……どうして、そう言えるんですか?」
「私もそうだから。集中していると周りが見えなくなるところとか、ちょっとね」
「…………」
「落ち着いた?」
「……はい」
エリはそっとミドリを解放した。
その後で自分のハンカチを取り出し、ミドリの目元を拭おうとする。
「だ、大丈夫です。自分でできますから」
「そう?」
ハンカチを引っ込める。
どことなく残念そうに見えたのは、気のせいだろうか。
二人でトイレから薄暗い廊下に出る。すると、足音が聞こえてきた。
「いた! いたよ、アカネ!」
「全くもう、あんたそんなところにいたわけ!?」
アカネとミチが息を切らして、駆け寄ってくる。どうやらミドリを探していたらしい。
そこで初めてエリに気づき、二人とも「うっ」とのけぞった。
しかしエリは、それを意に介することはなかった。
「どうやら、お迎えが来たみたいね」
「先生?」
「気をつけて帰るのよ。今日はもう、練習ができる状態じゃないから」
「あ、あの……すみませんでした」
頭を下げると、エリは「いいのよ」と言った。
「早く帰って休むこと。温かいお風呂につかるなりね。そうすれば大抵の悪いことは、小さく収まっていることが多いから」
「はぁ……」
「あなたたちも。もう暗いから、気をつけて帰るように」
「はーい」
「うーす」
「結構」と言い、エリはつかつかと廊下を歩いていった。
先ほどまでとは雰囲気が一変していた。
「なんか今日の先生、変だね」
「確かにね。いつもならあんなお喋りしないのに」
「アカネが『うーす』って言った時も、注意されると思ってた」
「そういやぁ、そうだね。なんか悪いものでも食ったのかしら?」
「どうかなぁ。どう思う、ミドリ?」
話を振られたが、ミドリは無反応だった。
ぼうっとした表情で、エリの後ろ姿を見つめている。
「ミドリ?」
「あんた、どうかした?」
「え、あ、ううん!」
気を取り直すように、首を振る。二人は怪訝そうな顔をしつつも、ひとまずエリとは反対の方向に足を向けた。
「とりあえず、帰ろう。まだまだ混乱続きそうだし」
「そうだねぇ。明日どうなるかねぇ」
お喋りをしながら歩いていく二人。
ミドリはもう一度だけ、エリの方を振り返ってみたが――すでに彼女の姿はない。
どことなく違和感があった。
昔、母親やダンに抱き上げられた時と、エリに抱きしめられた時とは感触が違うように感じられたのだ。
もちろん母親やダン、そしてエリとでは立場から何までもが違う。感触が違うことはある意味、当然のことなのかもしれない。
だが、ミドリの中で疑念が生まれた。
あれは果たして、本当にミドリを落ち着かせるためだけにやったのだろうか。
「まさか、久良木先生……」