序幕~第一幕「仮面と道化」
長いですが、読んで頂けると嬉しいです。
よろしくお願いします。
マスカ・レイド
序幕
それは、異様な死体だった――
制服を着て、地面に横たわっている。濡れたスカートから覗く足が、泥にまみれていた。同じように汚れた金髪に、いくつか丸い水滴のついた手。しかし今、その手からは生気が失われ、青白い血管がわずかに浮かび上がっている。首筋にもそれはあったが、奇妙なことに、顔へと至る途中で途切れていた。
死体には、顔がなかった。
より正確にいえば、顔を覆う皮膚が消失している。代わりに赤黒い表情筋が額からあごにかけてあらわとなっていた。両の目玉はむき出しで、白く濁っている。唇のない口は半開きで、見る角度を少しだけ変えると簡単に歯が見えた。歯並びはきれいではあるが、ほんのわずかに黄ばんでいる。
「…………」
引島ダンは死体の制服のポケットに、手を突っ込んだ。
取り出したのはタバコの箱と安物のライター。ひと通り眺め回した後で、ポケットに戻しておく。
「ガキの分際でタバコとはな。ったく……」
毒づくように言い、ぐるりと周辺を見回す。
現場は空き地で、雨によって地面がぬかるんでいた。
鑑識や捜査官が所狭しと歩き回り、ここより少し離れたところではパトカーが数台停まっている。スマートフォンを手にしている野次馬に、現場に立ち入らせまいとする警官たち。それ以外にあるものといえば、いくつかの民家や風に揺れる木々のシルエットぐらいのものだ。
特に怪しいところはない。
「ああもう、この靴磨いたばかりなんですよ。お気に入りなのに。防水スプレーまでした意味がないじゃないですか、全くもう……」
ぶつくさと文句を言っているのは、部下の新川だ。まだ二十代で、線が細く、緊張感というものが微塵も感じられない。
彼は死体を見るなり、「うわぁ」と声を上げた。刑事としては不適格といえるほど、身も蓋もない感想だった。
「これはまた、グロいなぁ。ぼく、こういうのを見るのこれで三回目ですよ。なんでしたっけ、ええと……」
「〈カオナシ〉だ。覚えろよ、そのぐらい」
「ああ、そうそう。そうでした。ええっと確か、〈マスク〉の使いすぎでこうなっちゃうんでしたっけ?」
「そうだ。全く……」
がりがりと後頭部を掻き、ため息をつく。
ふと、新川の視線に気づき、「なんだ?」
「いえ、いつもだったら先輩、こういうの見たら『自業自得だ』なんて言ったりするんで。なーんか、らしくないなって」
「……まだガキだからな」
「はい?」
「なんでもない。それより、死体の身元は?」
「ああ……はい」
思い出したようにうなずき、新川は手帳を取り出した。
「名前は種子島ミカ。十八歳。台舞高校の女生徒、だそうです」
「台舞高校、だと……?」
ダンは現場からあらぬ方向に首を向けた。
焦りをあらわに、歯噛みする。
「よりにもよって、あそこでか……」
○
「遅くなっちゃった……帰らないと」
薄暗い廊下。自分の足音のみが響く。
非常灯しか明かりはなく、人の気配もない。
夜の学校というのはどことなく不気味だ。肌寒さすら感じられる。しかし、それが面白いと思ってしまうのもまた確かだ。恐怖半分、好奇心半分でお化け屋敷に乗り込む感覚に近いかもしれない。
少女はふと足を止め、意味もなくくるりと振り返った。
「もし、ここに〈ファントム〉がいたら、後ろからばーっと……」
両手を熊のように持ち上げ、威嚇のポーズ。ふと、窓に映った自分の姿に気づき、無言で手を下ろした。
「なーんて、ね」
再び歩き出し、鞄と、用紙の束――台本を持ち直す。表紙には太字で『オペラ座の怪人』と書いてあり、隅には小さく『引島ミドリ』の名があった。
丸みを帯びた、幼さの残る顔立ち。肩までの黒髪。ブレザーに膝丈までのスカート、黒のソックスにローファー。おおよそ個性とはかけ離れた、校則通りの外見ではある。
ただしひとつだけ、年頃の少女には似つかわしくないものを身に着けていた。
「ああ、もうこんな時間。おじさんに怒られちゃうなぁ……」
軽く手を振り、腕時計を確認する。ケース、バンド共に銀色で、明らかに男物とわかるデザインだ。少女の細腕にはやや不釣り合いな大きさである。
廊下を渡り、階段を下りていく。
その途中の踊り場で、ふと、足を止めた。
窓の向こう、離れたところに『鐘つき棟』が見える。
実際の名称は多目的総合教育棟というのだが、教員も含めてほとんどが、誰もその名で呼んでいない。この学校のシンボルともいえる西洋式の鐘が建物のてっぺんに取りつけられていることから、『鐘つき棟』と呼ばれている。
もっとも、実際に鐘が鳴ることはほとんどない。近隣住民に配慮して、というのがもっぱらの理由だ。緊急時に鳴らされるだけの鐘はただの飾りとなり、少女もあの鐘が鳴ったところを聞いたことがない。ただ、鐘がついている建物は少女にとっては珍しく、鐘が鳴らされない背景を知っていてもなお、幻想的なイメージは崩れない。視界に入る度、あるいはふとした時などに、ついつい目がいってしまう。
ただしこの時ばかりは事情が異なっていた。
『鐘つき棟』に、明かりがついていたのだ。
「……あれ?」
少女は首を傾げた。
『鐘つき棟』もとい、多目的総合教育棟には数百人を収容できるホールがある。しかし、この時間帯に使われていることはまずない。ホールなどの設備を使うには教員の許可が必要であり、使用状況については毎日、職員室の前のホワイトボードで表示される。
少女が記憶している限り、この時間帯に『鐘つき棟』を使う予定はないはずだった。
「……?」
階段を下り、いったん中庭に出た。明かりはまだ点いたままだ。
自然に、足が『鐘つき棟』の方へ向く。誰かいるのだろうか、いるとしたらなぜこんな時間に。そういったささやかな好奇心を胸に、建物内へと踏み入れる。
明かりが点いているのは、ホールのみらしい。
非常灯を目印に、おっかなびっくり歩を進めていく。二、三段しかない階段が途中にあるので、足を引っかけたりしたら、割と大事だ。
両開きの扉を開け、ホールへ。左手側には数百もある布張りの椅子――もっぱら『客席』と呼ばれることが多い――そして右手側には広々とした舞台があり、そこだけがスポットライトで照らされていた。
しかし、人がいる様子はない。
「あれ?」
消し忘れだろうか。
そんなことを思いつつ、そろそろと舞台に近づく。可動式の小さな階段を上がり、きょろきょろと首を動かしてみた。舞台袖の方も確認したが、やはり人は見当たらない。
何気なく客席の方を見る。隅から隅まで見渡したが、やはり無人だ。
そこでふと、あることを思いついた。
「よーし……」
少女は舞台袖の近くに鞄を置いた。
台本を手に持ち、小走りで舞台の中央に立つ。
「ちょっとだけ、ちょっとだけ……確認をするだけ……」
言いつつ、台本をパラパラとめくる。各所には赤文字のコメントや、二重線、吹き出しなどが書き込まれている。
少女は手を止め、比較的書き込みの少ないページを注視した。読んでいる箇所に指をなぞらせ、ぶつぶつとつぶやく。
「……うん」
納得がいったようにうなずく。
台本を閉じ、胸に抱く。すー、はー、と深呼吸を繰り返して、両目で客席――できるだけ全体を捉えるように見据える。
心臓が脈打っている。
得も言われぬ高揚感が、足から体、頭のてっぺんまで駆け上がっていく。
少女はその場から右に三歩動いた。舞台袖の方へ、ばっと手を伸ばす。
『クリスティーヌ、私だけを見ろ! お前は私だけを愛さなくてはいけない!』
尊大で仰々しい、男の口調。
次に少女は元の位置に戻り、怯えたように肩を抱く。
『ああ、どうしてそんなことをおっしゃるの? わたしは、あなたのためだけに歌っているのに! それなのにわたしの愛を、信じられないというの?』
美しく澄んだ、女性の口調。
少女はその場で足の向きを変え、どこか偉そうに胸を張った。
『もちろん、信じているとも。だが、お前の周りには誘惑が多い。悪魔が人情家のふりして、手招き誘っているのだ。お前はそれらに惑わされることなく、ただ私の声だけに耳を傾けなくてはならない』
『もちろん、そうしているわ。わたしがあなたの声を無視したことがあって? 今夜、あなたのために魂を捧げたというのに!』
『ああ、お前の魂はとても美しかった。どこの国の皇帝だろうと、こんな素晴らしい贈り物は受け取ったことがないだろう! 今夜は天使も涙を流している』
再び、体ごと向きを変える。
少女はへたり込むように、その場に膝をついた。
『わたしはあなただけを信じているわ。何をおいても、それだけは誓える。あなたがいなかったらわたしは、祝福のバラを受け取ることはできなかったはず。あなたの声がわたしをここまで導いたのよ』
ひと息に言い切って、深くうなだれる。
数秒ほどそうしていたところに、拍手の音が聞こえた。
「えっ!?」
慌てて立ち上がり、振り向く。
その弾みで、台本が手からずり落ちてしまった。とっさに拾おうとして――舞台袖から現れた人物を前に、体が硬直する。
「なかなかの見世物だったよ。ただ、少し声量が弱いかな」
スポットライトが、その人物を照らし出す。
尖った靴、ひし形の模様が入った衣装、手袋に至るまでほぼ全て、白で統一されている。長い黒髪を左右に均等に分けており、その中央にあるはずの顔は白い仮面で覆われていた。アーモンド形にくりぬかれた二つの目以外に、特徴らしい特徴はない。
「あ、ああ……」
少女は声を震わせ、身を引いた。
仮面の人物は立ち止まり、「ふむ?」と首を傾げる。
「僕のこの格好が気になるのかな? 怯えさせるつもりはなかったのだが」
やがて少女が落とした台本に気づき、ゆっくりと近づいて拾い上げる。手馴れた動作でページをめくり、時折うなずいてみせた。
「『オペラ座の怪人』か。いい趣味だね。これは君が書いたのかい?」
「あ……えっと」
少女はぎこちなくうなずいた。
喉を鳴らし、おそるおそる口を開く。
「あ、あの……」
「うん、なんだい?」
「あなたは、誰なの?」
仮面の人物は台本を閉じて、胸に手を当てた。
「誰というほどでもないさ。僕には名前がないのでね」
うやうやしくお辞儀し――面を上げる。
「僕は道化。幕引き役を担う者さ」
第一幕「仮面と道化」
ある、晴れた日の朝。
小さな公園と隣り合わせになっているアパートの一室。リビングにあるテーブルの上にはいくつかの料理の他、三人分の弁当箱が並んでいた。
キッチンでは弱火にかけた味噌汁が、かすかな湯気を立てている。その傍らでせわしなく動いているのは、少女――引島ミドリ。銀色の腕時計を見、「いけない!」と声を上げた。
ぱたぱたと移動し、扉を開ける。
「アカネちゃん、起きて!」
そして隣の部屋にも声をかける。
「おじさんも起きて!」
それだけ言い、キッチンに戻る。
三人分のお椀を用意し、お玉で味噌汁を注ぐ。盆に載せて運んでいる時に、部屋からパジャマ姿の少女が現れた。薄い茶が入ったショートカット、寝ぼけ眼の上に赤いフレームの眼鏡をかけている。
引島アカネはあくびをしつつ、テーブルに近づいた。
「シャケに味噌汁。朝から景気がいいね」
「特売だったからね! それより、早く顔を洗ってきて!」
「はいはい」
洗面所に向かうアカネと入れ替わりに、大柄な男がのそりと顔を出した。熊と見紛うほどの体格で、いかつい四角顔には無精ひげが生えている。お世辞にも人相が良いとはいえず、子供が見たら逃げ出すか、あるいはその場で泣き出すだろう。
引島ダンはフケを飛ばし、ぼんやりと突っ立っていた。
ミドリは茶碗にご飯をよそいつつ、「おはよう、おじさん」
「おう、ミドリ」
「ひどい顔だよ。昨日も遅かったの?」
「まぁ、ちょっとな」
「顔を洗ってきたら? アカネちゃんが今、使ってるけど」
「おう……」
それから五分ほどで、ミドリ、アカネ、ダンの三人はテーブルを囲んだ。
最初にミドリが両手を合わせて、「いただきます」
「……いただきます」
「……ます」
「おじさん、ちゃんとやってね」
「へいへい」
おざなりに返事をしつつ、箸を取る。
ダンは味噌汁を口に運び、「ほぉ」と感心の吐息を漏らした。
「いつもと違うんじゃないか?」
「わかる? ダシを変えてみたの。アカネちゃん、どう?」
「うん、うまいうまい」
「……むぅ」
アカネの生返事に、ミドリは口を尖らせた。
ダンはテレビのリモコンに手を伸ばし、適当にチャンネルを変えた。芸能人のゴシップに特産品の情報など、取るに足らないものばかりだ。「平和なもんだ」と呟き、リモコンをテーブルに戻す。
「ところでミドリ、アカネ。もうすぐ学園祭があるんじゃないのか?」
「あー、まぁね」
「十一月の頭だよー。土日にやるから」
「そうか。その時は俺も行くぞ。お前たちが普段どんなことをしているのか、ちゃんと見ておかないとな」
「別に、来なくたっていいよ」
「おい、アカネ……」
「まあまあアカネちゃん、一年に一度の機会なんだから……」
ミドリがそう言うと、じろりと横目で睨まれた。
「一年に一度とか言ってるけど、おっさんそれまでも色々来てんじゃん。スポーツ大会とか。なんの関係もない先生つかまえて、『ミドリとアカネをよろしくお願いします!』なんて言ってた時は、ホント、恥ずかしかったっての。声もでかいし、めっちゃ目立ってたし」
「あれは、だから、謝っただろ!」
「おかげであたしらの評判、妙な尾ひれがついてんだからね。『引島姉妹には熊のようなお父さんがいる。あいつらを狙うなら気をつけることだ』とかね」
「それ、どこからの情報?」
「ミチ」
「ミッちゃんかぁ……あまり、真に受けない方がいいんじゃない?」
「あたしもそう思うけどねぇ」
二人のやり取りをよそに、ダンはすごむような目つきになっていた。
「お前らを狙う、だと……?」
「綾、言葉の綾。本気にすんなって」
「そうだよおじさん。ただの噂なんだから」
しかしダンは、納得がいかなさそうだった。
「だいたい、人を熊呼ばわりとはなんだ。それに俺はお父さんでもなんでもねぇ、ただの保護者だ……」
「おっさん、うるさい」
「おっさんは止めろ。俺はまだ三十だ」
「三十なら、もう立派なおっさん」
「てめぇ……」
怒気を滲ませたダンの手前、ミドリが手を叩いた。
「はいはい、お喋りはそこまで。早く食べないと遅刻しちゃうよ」
「だってよミドリ。こいつがなぁ……」
「はいはい、おじさん。お茶どうぞ」
湯飲みに注がれたお茶を、ダンはしぶしぶ受け取った。
ずずずと音を立てて飲み、何気なくテレビに視線を移した――その時だった。
『それでは、次のニュースです。昨夜未明、火ノ川市にて、〈カオナシ〉と見られる死体が発見されました』
画面には被害者と思しき女性の写真が映し出されている。
まだ若く、あどけない笑顔を浮かべていた。
『身元は現在確認中ですが、死体の特徴から二十代前半とみられる模様です。先月にも〈マスク〉研究の第一人者である面川氏が、百を超える〈マスク〉を収集していたことで逮捕されました。二つの事件につながりがあるかどうかは現時点ではまだ不明ですが、面川氏への捜査の目が厳しくなることは確実のようです……』
テレビの音量が上がる。
ダンは食事の手を止め、画面を注視していた。どこか偉ぶった雰囲気のコメンテーターに、カメラが向いている。
『えー、皆さんご存知かと思いますが、近年〈マスカー〉の低年齢化が進みつつありますよね。中高生でも簡単に〈マスク〉が手に入るようになってきているのです。十年前に〈マスク法〉が成立されて、年々規制も強くなってるし、世間における批判の声も高まっています。にも関わらず、〈マスク〉に手を伸ばす人……〈マスカー〉の数は一向に減らない。これでは〈マスク法〉や警察が抑止力として成り立っているのかどうか、疑問に思わざるを得ないですよね』
『警察や政府への批判の声もある模様ですが……』
『対応が後手後手なんですよ。もっと根本的なところに取り組まなくちゃいけないんじゃないですかね。〈マスク〉を扱っている犯罪組織を一掃するとか、そのぐらいやらないといけないと思います』
『なるほど、ありがとうございます。それでは次のニュースです……』
アナウンサーの言葉の途中で、ダンはテレビを切った。
何も映し出されていない画面を、睨みつけている。リモコンを持つ手に力が入り、みしりと軋む音がした。
「くそったれが……」
忌々しそうに歯ぎしりを立てる。
ミドリとアカネは何も言わず、ただ食事を続けていた。
○
「まったく、おっさんの〈マスク〉嫌いにも困ったもんだよ」
ため息をつき、やれやれと首を振る。
辟易している様子のアカネに、ミドリは苦笑した。
「仕方ないよ、おじさんにも色々あるから」
「それにしてもさぁ、朝っぱらからああいう顔をするの止めてほしいよホント。おかげでせっかくのシャケも、味気ないったらありゃしない」
「その割には、完食してたよね」
からかうように言うと、「ふんだ」とそっぽを向かれた。
歩道にはイチョウの葉が散らばっている。乾いた風が吹く度、ひらひらと地面の上を転がっていった。右手側、道路を挟んだ先には民家が立ち並び、左手側はフェンスに囲まれたグラウンド。そこでは朝練に励んでいる生徒たちの姿があった。
「朝からよく頑張るよねぇ、ホント」
「部活動やってないもんね、アカネちゃん」
「まぁねぇ。そんなのやってる時間あったら、バイトの方がね。金もらえるし、人生経験にもなって得だと思わない?」
「まぁ、人それぞれだと思うよ」
「おーい、ミドリー! アカネー!」
後ろから声をかけられ、二人は振り向いた。鞄につけたストラップをじゃらじゃらと鳴らしながら、小柄な少女が駆けつけてくる。
「おはよう、ミッちゃん」
「あー、おはよ」
桜井ミチは二人に追いつくや、どんぐり眼を光らせた。
「ねぇねぇ知ってる? 最近噂の、『オペラ座の怪人』!」
「え?」
「はぁ?」
怪訝そうな二人を前に、ミチは得意げに鼻を高くした。
「その顔は知らないと見た! よろしい、ならば教えてしんぜよう!」
「いや、別にいいんだけど」
「聞いて驚け! 『オペラ座の怪人』とは最近、わが校に住み着いた謎の怪人で、タキシード姿に黒いマント、そして顔にはなんと、〈マスク〉をつけているという! 神出鬼没、詳細不明! 幻のようにどこにでも現れることから、ついたあだ名が〈ファントム〉!」
大仰な手振り身振りを交えて説明したミチだが――
「へぇー」
「ふぅん……」
二人の反応は微妙だった。
小さな肩をぶるぶると震わせ、ミチは二人を鋭く指差した。
「信じてない! 信じてないな、その目は!」
「だって、ねぇ?」
「うん……」
「だいたいなんなのよ、その……オペラ座のなんとかって」
「『オペラ座の怪人』! 最後まで言いなさいや!」
すっかり憤慨しているミチを、ミドリがなだめた。
「まぁまぁミッちゃん。普通の人は、『オペラ座の怪人』を知らなくても仕方ないと思うよ」
「ん? 知ってるの、ミドリ?」
「うん。『オペラ座の怪人』っていうのはね、その昔、ガストン・ルルーって人が書いた戯曲のことだよ。顔に仮面をつけた怪人〈ファントム〉が、オペラ座の歌姫であるクリスティーヌに恋をする物語なの」
「なんだ、ラブストーリー?」
「……とは、あながち言い切れないかも。サスペンスの側面もあるし。〈ファントム〉の、クリスティーヌに対する恋心だって、純粋な愛情からくるものとは思えないところもあるし……」
言いかけ、ミドリははっと口を閉じた。饒舌に語っていた自分を恥じるように、顔をうつむかせる。
「その、ごめん……」
「いやいや。でも、さすが演劇部。めっちゃ詳しいねぇ」
はやすように、ミチが手を叩いた。
「そういえば、台本を担当しているんだったよね? しかも、『オペラ座の怪人』」
「ありゃ、そーなの?」
「そうなんだよね……あはは」
ミチは腕を組み、「度胸あるよねぇ」
「このご時世で、あれをやるなんて。久良木先生がゴリ押ししたとか聞いたけど」
「え、そうなの?」
「あー、久良木ね……」
アカネは納得したようにうなずいた。
「んで、そのオペラ座の……〈ファントム〉とやらがどーかしたわけ? ウチの学校に出たとか言っていたけど」
「そうそう、それそれ! 忘れるとこだった!」
ミチは鞄からスマートフォンを取り出し、素早く操作した。
「ほら、これを見て!」
ぐい、と二人に向けて突き出す。画面には黒の背景に赤い枠線、その内側に白い、おどろおどろしいフォントの文字が埋まっていた。
『台○高校に〈ファントム〉が現れた?』
『〈ファントム〉って何? 都市伝説?』
『黒のタキシードにマント、顔には〈マスク〉をつけているらしい』
『そいつ、〈マスカー〉なの? 能力は何よ?』
『詳細は不明だけど、〈ファントム〉に魅入られた人間は良くて〈ヌケガラ〉、悪くて〈カオナシ〉になっちまうらしい』
『うわっ、こわっ』
『〈ファントム〉は若い娘を好むらしいぞ』
こんな調子で、延々と続く。
しかし、これを見たアカネの反応は冷ややかなものだった。
「ミチ……あんたねぇ」
「な、何さ?」
「いつも言ってるでしょ、こういうの見るの止めろって。無責任なバカ共が面白おかしく、ありもしない話を垂れ流しているだけだって」
「いや、でも、今回はちょっとマジっぽい……」
アカネは有無を言わさず、ミチからスマートフォンを取り上げた。画面を消したのち、ミチに押しつける。
「あたし、こういうのパス」
「……わかったよ。ごめん、アカネ。ミドリも、ごめんね」
「う、ううん。別に謝るようなことじゃないし……」
しおらしくなったミチと、慌てて手を振るミドリ。
二人のやり取りを横目に、アカネはため息をついた。
「まぁ、わからないでもないけどね。実際、〈マスカー〉みたいなのがいるんじゃあ。でもね、そんなわけのわかんない噂にいちいち浮かれていたら……」
「あら、でも。いると信じた方が、夢があると思わない?」
突然割って入った声に三人は驚き、顔を向ける。そこには穏やかな微笑を浮かべた、髪の長い女生徒がいた。
筆で描いたような細い眉に、陶器のような白い肌。唇は薄い朱色。背筋はまっすぐに伸びていて、控えめな外見でありながら、どこか堂々とした雰囲気を漂わせている。
中條マキは「おはよう」と微笑みかけた。
「あ……中條先輩。おはようございます」
ミドリが率先して、頭を下げる。つられてミチとミドリも、軽く会釈した。
マキは小さくうなずき、「さっきの話だけど……」
「〈ファントム〉だって〈マスカー〉の一種みたいなものでしょう? だったらいるかもしれないと思った方が楽しいわ。目的がなんであれ、ね」
「……その目的が、問題だと思うんですけどね」
腕を組み、そっぽを向くアカネ。
マキはくすくすと笑い、「それもそうね」
「『オペラ座の怪人』――〈ファントム〉はヒロインであるクリスティーヌをわが物とするためになんでもしたものね。恐喝、誘拐、殺人など……少なくとも大儀や正義のために戦うようなキャラクターではないことは確かだわ。……ねぇ、引島さん?」
「は、はい!?」
話を振られ、ミドリは上ずった声を上げた。
「あなたもよくご存じよね? 『オペラ座の怪人』の台本を書いていたんだから。もしも、もしもよ。仮に〈ファントム〉がいるとして、その〈ファントム〉は一体なんのために行動するのかしら?」
「なんのために……」
「それを考えてみるのも面白いんじゃない? 台本を書く時の参考になるかもしれないわ」
「こ、心得ておきます」
かしこまった言い方がおかしかったのか、マキは口に軽く握った手を当て、小さく喉を鳴らした。「あくまで参考程度にね」
「これだけは覚えておくといいわ。〈ファントム〉の仮面の下には、おぞましい秘密がある。その秘密を興味半分で覗き込む者には、必ず報いが返ってくる」
「おぞましい秘密、ですか?」
「そうよ。そしてそれは誰にも――もちろん、私にもある。あなたたちにもね」
ミドリたちを次々と指さすと、三人はそれぞれ顔を見合わせた。
その反応に気を良くしたようで、「冗談よ」
「ただの冗談だから、気にしない。ごめんなさいね、呼び止めて」
「あ、いえ……」
「では私、もう行くわ。今日も一日、励みましょう」
優雅に手を振りながら去っていく。
マキの後ろ姿を見送りながら、ミドリははぁと吐息をついた。
「中條先輩と話をしちゃった……」
「相変わらずきれいだよねぇ。何を食ったらあんな風になるんだろ?」
腰の辺りを気にしているミチ。
ミドリは真剣に考え込み、「やっぱりそれは鶏肉とか……コラーゲンとかじゃない?」
「ムダな脂肪とか全然なさそうだよね。肉はあんまり食べなさそう」
「じゃあ、野菜? でも、野菜だって摂りすぎると太っちゃうって聞いたよ」
「うーん……じゃあ直接本人に聞いてみるとか?」
「え、ええっ!? 中條先輩に!?」
「それしかないっしょ。大丈夫、大丈夫。さっき普通に話せていたじゃんねぇ、アカネ?」
「あー、うん。頑張れば?」
アカネは気のない様子で言い、先に歩き始めた。
二人は顔を見合わせ――ひとまず、アカネに追いつく。先ほどの話などなかったとでもいうように、「ところでさ」とアカネが切り出した。
「もうすぐ学園祭でしょ。あんたたちのクラス、何するんだっけ?」
「クレープ屋だけど?」
「アカネんとこ、何するの?」
するとアカネはにやりと笑い――空手でギターを弾くふりをした。
「バンド喫茶」
「えー、何それ?」
「客にロックな音楽を聞かせつつ、お茶を楽しんでもらうのよ。まぁアルコールとかはないけどさ」
「あったら大問題だよ……」
「ていうか、そんな騒がしそうなところでお茶とか楽しめるかねぇ?」
「むっ。まぁ、やってみなきゃわかんないでしょ?」
アカネがむきになって言い返したその時、規則的なチャイムが鳴った。始業開始十五分前を告げる音である。
「げ、やば!」
「急がないと!」
「ちょ、ちょっと待ってぇ。ミチは走るの遅いんだから!」
三人は急いで、校門へ向かった。
○
台舞高校は区内において、最大級の敷地を持つ。
スポーツで輝かしい成績を残せているわけではないが、文科系――特に、演劇部の活躍は目覚ましい。過去に何度か賞を獲得しており、演劇界からも注目されているという。生徒の活動の拠点となる部室棟をはじめとして、教育棟に体育館、格技場に芝生のグラウンド、弓道場に加えて、多目的総合教育棟――通称、『鐘つき棟』などというように、設備は充実している。
その中でも、教育関係者から特に注目されているものがある。
近年導入された、『顔認証ゲート』だ。
教員、学生、用務員などに配布されるIDカードを機械で読み込み、更にカメラで対象の顔を認識することで、ゲートが開くというシステムだ。IDカードのない者が無理に通ろうとすれば、防犯ベルが鳴り響く。学内には警備員が常駐しているため、異常があればすぐに向かうこととなる。
仮面をつけた犯罪者――〈マスカー〉が世間を騒がすようになって十年。彼らをはじめ、不審者からどうやって生徒を守り抜くか、熟考に熟考を重ねた結果がこの『顔認証ゲート』なのである。
実際、この設備を導入してから台舞高校に不審者が立ち入った件数はゼロである。ただし、不審者の侵入件数がゼロであることと、『顔認証ゲート』の効能は必ずしも結びつかないのではという意見もある。
このゲートを主に使っているのは教員、学生、用務員だ。実際にゲートを使ってみての感想といえば、「通過する手順がわずらわしい」「一度に多くの人間をさばくのには無理があるのでは」「未来的でちょっとカッコいいけど、毎日使ってると飽きる」といった、賛同とも批判ともつかぬ意見ばかりである。
中にはこういった意見もあった。
「学園祭のような大がかりなイベントの時でも、ゲートを通らなくてはいけないのか? 入ってくるのは生徒の家族などの一般人が主で、彼らにもIDカードを渡さなくてはいけないのか? 事前登録が必要になるのではないか?」
この指摘に教育関係者は苦々しい顔をせざるを得なかった。結局そういうイベントの時にはゲートの電源を切り、一般開放するというなんとも本末転倒な対応となる。
そういった事情はミドリたち学生も知るところだが、だからといって普段行うことが変わるわけではない。
ミドリたち三人は滞りなく、ゲートを通過した。教育棟につながる道の途中で、腕章をつけた教員たちが数人いる。並んでいる生徒の鞄の中身を確認していることから、持ち物検査を行っているらしい。それも、抜き打ちで。
「げっ、久良木がいる」
「アカネちゃん、何かまずいもの持ってきてるの?」
「いんや、別に」
「だったら……」
「あいつに鞄の中身を見られるのが嫌だって言ってんのよ」
ため息をつき、生徒の列に並ぶ。ミドリとミチも、それに続いた。
他の列と比べると、ミドリたちの並んだ列の進みは速い。チェックを担当している教員の手際がいいからだろう。
その教員は、名を久良木エリといった。
黒のパンツに緑のタートルネック、飾り気のない小ぶりの時計、前髪を半分だけ垂らしており、鋭い目つきとあいまって人を寄せつけない雰囲気を漂わせている。事実、エリにチェックしてもらっている生徒たちは一様にびくびくしていた。「結構」と言われた時には、安堵の吐息をついたりしている。
「次、どうぞ」
エリは手早く鞄の中身を確認し、「結構」と短く告げる。ミドリたちの番になると、薄く引かれた眉がほんの少しだけ上がった。
「おはよう、引島さん。桜井さん」
「おはようございます、先生」
「お、おはよーございます」
「……はよーございます」
気が進まなさそうなアカネに、エリは鋭い目を向けた。
「きちんと挨拶をするように。適当な言葉遣いがクセになっていると、社会に出てから苦労するわ」
「……おはようございます」
「よろしい。では、鞄を開けて」
ミドリたちは言われるまま、鞄を両手で開けた。エリは素早くチェックし、「結構」とうなずく。
「でもね、桜井さん」
「は、はいっ!?」
「ストラップのつけすぎ。ひとつにしておきなさい。それからキャラクターものは幼稚に見られるから、よく考えること」
「あ、いや、でも、好きだから……」
「言い訳無用。行きなさい」
「はい……」
肩を落とすミチ。
だいぶ離れたところまで歩いたところで、「ああもう!」
「挨拶だとか、ストラップぐらいでガタガタ言わなくてもいいじゃない。あたし、あーいうのホント、苦手!」
「前から言ってるもんねぇ、アカネちゃん」
「……幼稚かなぁ」
アカネはミチの背中を叩き、「気にしないの」
「なんと言われようがさ、自分は自分。そのぐらいの気持ちでいないと。ねぇ?」
もう一度背中を叩くと、ミチはへへっと笑みをこぼした。
「アカネは強いよねぇ。ほんとにミドリの妹? って思うぐらい」
「どういう意味よ、それ」
「わたしも、生まれてきた順番間違えたんじゃないかなって思う時あるなぁ」
「あんたもあんたで、何を言ってんのよ」
うりゃー、と拳を突き出す。ミドリは慌てて鞄でブロックし、ミチはそれを笑いながら見ていた。
じゃれあいながら、教育棟に向かう三人。
その後ろ姿をエリが見つめていることに、誰も気づかなかった。
○
「んじゃ、また後で」
「うん」
アカネとは別クラスなので、廊下で別れることとなった。
ミドリはミチと教室に入り、「おはよう」とクラスメイトに声をかけていく。自分の席に鞄を置いてひと息ついた。やや遅れてミチが、前の座席に座る。体を後ろに回して、小声で話しかけてきた。
「ねぇねぇ、ミドリ。なんか、警察が学校に来てるみたい」
「えっ?」
「しかもその人たち、細いのと熊みたいにでかいのなんだって」
「ええ!?」
「細いのはともかく、熊みたいなのって……まさか?」
「ううん、考えたくないなぁ」
ミドリは鞄に顔をうずめ、うーと唸った。
チャイムが鳴るや、クラスメイトがそれぞれの席に急いで戻る。
すっと扉が開き、エリが姿を現した。鷹を思わせる油断のない眼差しは教室にいる全員に注がれ、ミドリも知らず知らずの内に背筋を伸ばしていた。
学級委員が立ち上がり、号令をかける。
「起立、礼!」
『おはようございます!』
「おはよう。皆さん、座っていいわ」
エリに促され、着席する。
教室中をざっと見回し、エリは教壇に手をつけた。
わずかな沈黙の後、「これから皆さんに、大事なことを話します」
「わが校の生徒がある事件に巻き込まれました。そのことで今、警察が来ています」
にわかに、空気がざわついた。
「……どういうこと?」
「……嘘だろ?」
「……事件って、なんのこと?」
エリが手を叩き、「静かに」
「まだ詳しいことは話せませんが、近く、発表があります。不安でしょうが、くれぐれも無責任な噂に惑わされないようにして下さい。私はこれから用事がありますので、一時限目は自習とします。各自、課題のプリントをやっておくように」
黒板に「自習」と書き、つかつかと教室を出る。
教室には困惑と動揺の空気に満ちていた。顔を見合わせ、こそこそとささやき合うことで、不安が更に膨れ上がっていくかのようだった。「静かに!」と学級委員が強めに言っても効果は薄く、何度か手を打つことでようやく注目してもらえた。
「と、とりあえずプリントを配ります。皆さん、いいですか?」
賛同とも反対ともつかない空気の中、学級委員はかまわず配布を始めた。
プリントを配られ、生徒たちはそれぞれ異なる反応を見せた。
ひとまず目の前の課題に取り組む者、仲間内でこそこそとメモ用紙を回している者、あるいは腕を組んだり、宙をぼんやりと見上げている者。ペンを取り出したはいいが、課題に手をつけられていない者もいて、ミドリはそのタイプに当てはまった。
ペンでとんとんと額を叩いていると、不意に、前の座席のミチが動く気配を見せた。面を上げると、ミチが顔を寄せてきて、「ねぇねぇ」
「先生の話、本当だと思う?」
「ううん、わかんない。でも、久良木先生が言うんだから、何か大変なことが起こっているのは確かだと思う」
「だよね、うーん……」
「ミッちゃん?」
ミチは周りを気にしつつ、口に手を添えた。
「……つけてみない?」
「え、なんの話?」
「だから、久良木先生。警察が来てるぐらいだから、多分きっと、校長室にいるんじゃないかって思うのよ」
「それは、さすがにマズいんじゃない?」
「いや、でも。すっごい興味あるし」
ぼそぼそと語りかけるミチの目の奥には、好奇心の光が宿っていた。
「でも、もしバレたら怒られるぐらいじゃ済まないかもしれないよ? だって……久良木先生だし」
「むぅ」
「やめといた方がいいよ、絶対。うん……」
ミチは口をつぐみ、腕を組んだ。
すると何かを思い出したらしく、再び口に手を添える。
「ミドリのおじさん、もしかしたら来てるかもよ?」
「……!」
「見るだけ、確認するだけだから。ちらっと見たら、すぐに戻る。それでどう?」
「う、うーん……」
「そこ、私語は慎んで下さい!」
学級委員の一声に、二人は肩を縮めた。
ミチはミドリの表情をうかがい――いても立ってもいられないというように、いきなり立ち上がった。あまりに唐突だったので、教室中の視線がミチに注がれる。
冷や汗を浮かべ、「え、えーっと」
「……お、おトイレ、行ってきます!」
ぎくしゃくと席から離れ、そのまま扉に向かう。
反射的にミドリも、立ち上がっていた。
「わ、わたしも……!」
すぐにミチの後を追いかける。クラスメイトからの不可解そうな視線を背中に浴び、ミドリの顔は赤くなっていた。
○
校長室にいる全員が、等しく押し黙っている。
視線は一人の人物に注がれていた。組んだ手に額を押しつけ、何度目かもわからないため息をついた後で、校長はようやく言葉を絞り出した。
「どうして、こんなことに……」
ダンとしても、その言葉には同意せざるを得なかった。よりにもよってこの学校の生徒が、死体――〈カオナシ〉となって発見されたのだから。
「心中、お察しします」
「……はぁ」
「ですが、いつまでもこうしているわけにはいかないはずです。この手の事件は初期の対応を見誤ると、のちのち禍根を残しかねない」
「言われなくてもわかっています」
ややヒステリックな反応に、ダンは鼻白んだ。
「まぁまぁ、校長……」
頭の薄い教頭がなだめる。ダンの隣の新川よりも線が細く、丈夫そうには見えない。
校長室の扉が開き、細身の女性教師が頭を下げた。
「申し訳ありません、遅くなりました」
「ああ、久良木先生……」
感極まったように、校長が立ち上がった。
「ちょうどよかった。今この刑事さんたちから、事件の説明を受けていたところです。久良木先生にもぜひ聞いてほしくて」
「そうですか、わかりました」
うなずき、ダンたちに向き直る。
「現代国語担当の、久良木エリと申します。よろしくお願いします」
「引島だ。そしてこっちは、新川だ」
「どうも~」
ぺこぺこと頭を下げる新川に、エリは眉をひそめた。
ダンは咳払いし、「とりあえず」
「被害者の種子島ミカさんとは、どのような関係で?」
「彼女は演劇部で、顧問として指導をしていました」
「なるほど。えー、久良木先生から見て、どういう生徒でしたかね?」
少し考えた後で、エリはダンを見返した。
「あまり、素行の良くない生徒ではありました。気まぐれな性格で、無断で練習を欠席することもあるので、そういう意味では手を焼いていたかもしれません」
「ふむ。部活動にはあまり身を入れていなかった?」
「……とは言いがたいですね。演劇自体は好きだったみたいですし、実力も確かでした。本腰入れて練習に取り組めば更に伸びると思っていたので、そういう意味では惜しい人を亡くしたといえます」
ダンはうなずきながら、あごを撫でた。
「周囲から恨みを買うようなタイプでしたか?」
「どうでしょう。自分の容貌や演技力を鼻にかけていましたから、やっかまれることはあったと思います。ただ、恨まれるほどのことをしていた人だとは……」
伏し目がちになり、腕を組む。彼女なりに被害者の死を悼んでいるのだろう。この校長や教頭よりもましな教員がいることに、心の隅で安堵する。
それだけに、次の問いをぶつけることにややためらいがあった。。
「……これは、他の人たちにも聞いたんですがね」
「なんでしょうか?」
「種子島さんは顔のない死体……〈カオナシ〉となって発見された。〈カオナシ〉は〈マスカー〉のみに起こる症状だ。ということはつまり、種子島さんは〈マスカー〉であった可能性が高いということになる」
「……そうなりますね」
「〈マスク〉に手を伸ばした理由とか、きっかけとか、なんでもいい。種子島さんと〈マスク〉との接点が知りたい。何か、心当たりはありませんか?」
「……そう言われましても」
エリには本当に、心当たりがないようだった。
このままではらちが明かないと判断し、質問を変えようとしたが――「それよりも」という声に遮られた。
校長が机に両手を置いて、ぶるぶると震えている。
「まず、これからのことを考えるのが最優先ではありませんか。生徒や保護者への対応、それに、教育委員会にだって今回のことを伝えないといけません」
言い分はもっともらしかったが、ダンにとっては鼻につく類いの文句だった。被害者のことよりも、取り繕うことに関心が向いている。
「それもそうだが、目下の問題は別にあると思うぞ」
「問題ですって?」
「おい、新川。説明してやれ」
後輩の尻を叩いて促す。
新川は不満そうにしつつも、えへんと咳払いした。
「えー、警察としては種子島さん以外にも、〈マスク〉を手にしている生徒がいるのではと睨んでいます。というのも〈マスク〉の入手経路は知人・友人からというケースが多いんです。種子島さんの交友関係を調べて、もしもそこに〈マスク〉につながるようなものが出てくれば、警察としては願ったり叶ったりなんです」
「一言多いぞ」
「あ、すみません」
「そ、それはつまり、わが校に〈マスカー〉がいると?」
震えた声は教頭のものだ。暑くもないのに、額にハンカチを当てている。「そうなんですよ」と新川が答えると、ごくりとつばを呑んだ。
「い、いかがいたしましょう、校長?」
「い、いかがと聞かれても……私にはどうしたら……」
二人とも青ざめ、互いの顔色をうかがっていた。
エリの方はといえば、腕を組み、何か考え事をしている様子だった。
「どうかしたか?」
「いえ、なんでもありません。それにしても、〈マスカー〉が学校に……あまり考えたくないことですね」
「だが、可能性はある」
「その可能性にかけて、わが校を調べたいと、そういうことでしょうか?」
「話が早くて助かる。それで、これからのことだが――」
○
校長室の窓はほんの少しだけ開けていた。
そこから漏れる話し声に、ミドリとミチは言葉を失っている。教育棟に面した裏庭で、二人は窓の下で固まっていた。
「なんか、すごいことになってる」
「うん」
「さっきの話だけど、種子島ってまさか?」
「うん。きっと、種子島先輩のことだと思う。演劇部の……」
「〈マスカー〉だったの?」
「わかんない。でも、〈カオナシ〉になってたってことは、つまり……」
「つ、つまり、その?」
「……し、死んで……」
そこから先は言えず、ミドリの顔から血の気が失せた。
「まさか、種子島先輩が、そんな……」
「ヤバいね。こりゃ、ヤバいよ。学校に〈マスカー〉がいるかもって話だし、思ってた以上にとんでもないことになってる」
「と、とりあえず。教室に戻らない?」
「うん、そうした方が良さそうだよね」
姿勢を低くしたまま、そろりそろりと窓から離れる。視線が足元に向いていたせいか、すぐ目の前に立つ人物にミドリもミチも気づかなかった。
「あなたたち、何をしているの?」
「――え?」
顔を上げると、マキと目が合った。不審なものを見るように、ミドリたちを見下ろしている。
二人はがばっと体を起こし、上ずった声を出した。
「な、中條先輩……!」
「あ、いえ、その、あたしたちはその、散歩をですね……」
マキは校長室の方を見、「盗み聞き、していたのかしら?」
「そ、それは、その……」
「す、すみません!」
ほとんど反射的に頭を下げる。慌ててミチもそれに続いた。
マキは呆れたようにため息をつき、「私に謝られても困るんだけど……」
「どうしたものかしら。久良木先生に言いつけるのは、ちょっとやりすぎな気もするし」
「そ、それだけは勘弁して下さい!」
両手を合わせ、ミチは必死の形相で頭を下げた。
「うーん……」
困ったようにマキが苦笑した――その時、何の前触れもなく激しい物音がした。マキの背後からで、続けて悲鳴のような声も聞こえてきた。
「な、何?」
「なんの音?」
「これは……?」
ミドリの視線の先には、グラウンドに続く小道があるだけだった。音は教育棟からなので、そう遠くはないはずだ。
『なんだ、なんの騒ぎだ!』
校長室からダンの怒鳴り声が聞こえ、ミドリはびくっとした。
「あ、あの、先輩……」
「とにかく、ここから離れましょう」
「は、はい!」
三人とも固まって、裏庭を一気に駆け抜ける。
教育棟一階は吹き抜けとなっており、数本の円柱が均等に立っている。
開けた空間に差しかかった時、轟音が三人の体を震わせた。
右手側にある、研究棟につながる扉が内側から爆発したように粉々に吹き飛んだ。それとほぼ同時、二人の男子がごろごろと転がり出る。二人とも気を失っているらしく、まるで動く気配がなかった。
「な、なんなの?」
「ミドリ、あれ!」
ミチが指差した先――扉の内側から、ぬっと何かが出てきた。
最初、それは人の手のように見えた。しかし、スケールがまるで違う。人一人包み込めそうなほどの大きさで、五指は巨岩のごとく、ごつごつとしている。
腕の長さも尋常ではない。大蛇を連想する太さに加えて、関節が二つある。ごきごきと不気味な音を立てる様は、『蠢いている』といってもいいぐらいだった。更にその腕は肩からではなく、あろうことか、背中から伸びていたのである。
巨大な『手』――それに伴う長い腕を背中から生やしたその人物は、額からあごまでを仮面で覆っていた。
手でわしづかみされたような意匠。
ただの被り物ではない。異能の力を持つ仮面――〈マスク〉。
そしてそれを使う人間を、〈マスカー〉と呼ぶ。
「な、何あれ!? 〈マスカー〉!?」
「そんな……嘘でしょ?」
ミドリたちは怯え、立ちすくんだ。
〈マスカー〉は倒れている男子のところまで、余裕げに歩いた。
足で蹴飛ばし、「つまんねぇの」
「せっかく〈マスク〉を手にしたってのに、これじゃ面白くもなんともない。簡単にやられちまいやがって……もう少し楽しませろってんだよ」
もう一発、蹴りを浴びせる。それでは飽き足らないらしく、何度も執拗に繰り返す。笑い声と共に、どんどんエスカレートしていく。
「ざまあみろってんだ……! いつも、馬鹿にしやがって!」
思い切り蹴飛ばし、もう一人も同様に踏みつける。その間にも『手』は獲物を捜し求めるかのように、ゆらゆらと動いていた。
ミチががたがたと震えている。
「み、ミドリぃ。あいつヤバいよ……絶対、ヤバいって」
「う、うん……」
ぎこちなくうなずきかけた時、突如として『手』がこちらを向いた。〈マスカー〉も気づいたらしく、怪訝そうに首を傾げている。
「まずいわ、こっちを見てる」
「に、逃げないと……」
「あうっ」
その声に振り返ると、ミチが地面にへたり込んでいた。腰が抜けてしまったらしく、顔面は蒼白になっている。
「ご、ごめん、ミドリ……た、立て、立てな……」
「ミッちゃん!」
思わず駆け寄り、肩を貸す。マキも手伝い、なんとか立たせた。
〈マスカー〉はただこちらを見ていた。頭上で不気味に蠢く『手』は動きながら、ミドリたちの動向を観察しているようだった。
見つかってしまった以上、逃げるのは難しい――
ミドリはミチの腕を、肩からそっと外した。
「み、ミドリ?」
「引島さん?」
「中條先輩。ミッちゃんのこと、お願いします」
ミドリの声は震えていた。足も肩も同様で、息も荒い。
それでも一歩ずつ進む。
マキが血相を変え、叫んだ。
「待って、引島さん! 一体何をするつもり!?」
「わ、わたしが引きつけます! その間に逃げて下さい!」
「なっ、何を言ってんのよミドリ! そんな……ガチガチになってんのに!」
「いいから早くッ!」
自分でも驚くほどの声量だった。
マキが意を決したように喉を鳴らし、「……わかったわ」
「え、ちょっと、マキ先輩?」
「行きましょう」
「ま、待って……!」
マキはミチの腕を肩に回し、〈マスカー〉から遠ざかろうとする。
〈マスカー〉が『手』を二人に向けたが、ミドリが横から割り込んだ。すると〈マスカー〉はくっくっと、嘲るような笑い声を漏らす。
「あのさぁ、なんのつもり?」
「…………」
「お前なんてこの『手』があれば、こいつらみたいに簡単に吹っ飛ぶよ? 骨が折れるぐらいじゃ済まないかもよ?」
ごき、と『手』を鳴らす。
「友達を逃がすなんて立派だけど。そんな決意とかさ、なんの意味もないわけ。自分より大きな奴に理不尽に叩きのめされるだけ。まぁ、お前みたいにひょろっちいのをぶっ飛ばしても、なんの面白みもないだろうけどさ……」
「なんで、こんなことをするの?」
「……あ?」
倒れている男子たちを見、ミドリは真剣な声音で問いかけた。
「こんなことをして楽しい? 少なくともわたしには、そうは思えないよ」
「…………」
〈マスカー〉は面倒そうに頭を掻いた。長いため息をつき、いらついた様子で「どうでもいいだろ、そんなこと」
「どうでもよくないよ。あなた……梅木くんだよね?」
「……!」
〈マスカー〉の首から下は制服だ。『手』に目がつきやすいせいで気づきにくいが、よく見れば小柄である。服装と口調からも、男子であることに疑いない。
「〈マスク〉をかぶって、人を傷つけて、どうなるかわかってるの?」
「…………」
「もう、止めた方がいいと思うよ。今ならまだ、取り返しがつくかもしれないし……」
消え入りそうな声で、ミドリは語りかける。
〈マスカー〉はその場に突っ立ったまま、身じろぎしない。心なしか『手』の方も、動きが緩慢なものになっていた。
「もういいよ」
「え?」
「もういいんだよ、どうでも。何もかも壊してやらないと気が済まないんだ。目につくもの全部、目障りなもの全部、ぼくを見下す奴――全部!」
〈マスク〉の下の目をむき出しにし、叫ぶ。
「お前、さっきからうるさいんだよ! どっか行けよ!」
蚊でも追い払うかのように、『手』を振りかぶってきた。あまりに一瞬のことで、ミドリはまともに反応できず、ただ目を閉じるしかできなかった。
「――――」
不意に、自分の足が地面から離れた。何者かに強引に抱きかかえられて、地面を転がる。
目まぐるしく変わる視界に戸惑っていると、耳元で怒鳴られた。
「バカ野郎! 何をぼけっとしてやがる!」
「え、え……?」
正面にはダンの顔があり――ミドリは間一髪で助かったことを理解した。
手を引っ張られ、ダンの後ろにつく形になる。背中越しでもほとばしるような彼の感情が伝わってきて、ミドリは思わず気圧された。
「〈マスカー〉に会ったら逃げろって、いつも言ってんだろうが!」
「ご、ごめんなさい……」
「……だが、無事で良かった。お前になんかあったら、アカネにも姉さんたちにも顔向けできねぇところだ」
肩越しにミドリを見やる。ほんのわずか、目元が優しくなっていた。
「あのー、先輩。この状況、一体どうしますか?」
やや緊張感に欠けた声。振り返れば円柱の陰に隠れるようにして、ダンの部下――新川が顔だけを覗かせている。
「ったく!」と舌打ちし、ダンはミドリを指差した。
「とりあえずお前はミドリを連れていけ! 安全なところまでな!」
「はいはーい、了解しましたー」
新川はおっかなびっくりといった足取りで、ミドリに近づく。
ダンは片方の手でミドリをかばうようにし、もう一方の手では拳銃を握っていた。
ミドリははっと息を呑む。
「お、おじさん……」
「下がってろ、ミドリ。新川と一緒に……」
「でも、おじさん!」
「下がってろって言ったぞ!」
ダンは両手で拳銃を構えた。狙いは〈マスカー〉に定めている。
以前、ダンから聞いたことがある。十年前の大事件により制定された〈マスク法〉により、〈マスカー〉が人を傷つける恐れのある場合、許可を待たずに発砲することができるという。
身体的特徴から未成年と察せられる場合でも。
「おじさん待って! あの〈マスカー〉は……」
「わかってるよ! ガキだって言いたいんだろ!」
「だったら……」
「だが、あの〈マスカー〉は人を傷つけた! 殺そうとした! 俺はそういう奴から、お前たちを守らなきゃいけねぇ! わかったら、下がっていろ!」
有無を言わさぬ迫力に、ミドリは言葉を呑み込んだ。
新川がこれまた締まりのない笑顔を浮かべ、ミドリを促そうとする。
「すみません、お嬢さん。さぁさぁ、こちらに……」
「一体、何事ですか!?」
建物から校長、教頭、エリがぞろぞろと出てきた。〈マスカー〉を見るなり校長は青ざめ、ぐらりと倒れた。かろうじて教頭が支えるが、想定外の事態にどうすればよいのか呆然としている。エリもさすがにこの状況に戸惑っているらしく、緊張した顔つきで立ち尽くしていた。
「戻れ! 建物の中に戻るんだ!」
ダンが手を振った矢先、〈マスカー〉の『手』が動いた。
上から叩きつける動作だ――ダンはとっさに後方に飛び退る。
「あ、危ねえ!」
「おじさん!」
「先輩!」
思わず駆けつけようとした二人を、ダンは手で制する。
「来るんじゃねぇぞ! こいつは俺が引きつける!」
「でもぉ、先輩……」
「新川ぁ! ミドリを連れて逃げろって言ったぞ!」
ダンは立ち上がり、拳銃を構える。
〈マスカー〉は平然と、その銃口を見返している。
「おじさん、ダメ!」
「あ、危ない! 危ないですって!」
新川がミドリを押さえ、校長たちもその場から退避していくのを横目に、ダンは拳銃の撃鉄を鳴らした。
すると〈マスカー〉は、「あれれ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「いいの? ぼく、こう見えても未成年だよ? 銃を向けていいわけ?」
「今さら何を言ってやがる。〈マスク〉を使って人を傷つけた以上、てめぇはただの犯罪者だ」
「……犯罪者?」
「そうだ。もう取り返しつかねぇぞ。それともなんだ、このまま〈マスク〉を使い続けて、〈カオナシ〉になってもいいのか?」
「…………」
〈マスカー〉は地面に転がっている男子たちを見た。
「犯罪者、ねぇ。言っておくけど、先に手を出したのはそいつらだよ? やられたからやり返しただけなのに、犯罪者呼ばわりされるって心外だ」
「程度ってものがあるだろうが」
「このぐらいやらないとこいつらは、いつまで経っても理解しないよ」
そう言って『手』を動かし、男子の一人を頭から掴み上げる。
「よせ!」
「〈マスク〉の力はすごいよ。こんな風に、人一人ぐらいなら簡単に持ち上げられる。このままぷちっと頭を潰してやることだってできるんだ。今までぼくをバカにしていた連中が、〈マスク〉を着けた途端ビビっちゃってさ。滑稽だよね」
ぱっと離し、男子が地面に崩れ落ちる。
〈マスカー〉は『手』と共に、ダンの方を向いた。
「あんたはいいよな、そんなに体が大きくてさ。顔もいかついから、きっと人からバカにされることなんてないんだろうな。ぼくだってできるならあんたみたいな、大きな体が欲しかったよ。誰にも見下されることのない、大きな体がさ」
「…………」
「犯罪者? 別にいいよ。結局誰も、ぼくのことなんか理解しようとしないんだ。だったら好きにやるさ。好きなだけ暴れて……」
『手』がゆらりと上昇する。
「好きなだけ、壊してやる。何もかも……」
ごきごきと五指を鳴らし――
「あんたみたいな気に入らない奴、何もかも!」
『手』が勢いよく突っ込んできた。
ダンは横に飛び、ほぼ同時に『手』目がけて引き金を引いた。二発命中したが、うっすらと跡が残るだけで、銃弾は虚しく地に落ちた。
「くそっ!」
〈マスカー〉――〈マスク〉に狙いを定め、引き金を絞る。
しかし、『手』によって阻まれる。
見た目とは違い、俊敏な動きだった。
「……!」
「効くわけないじゃん、そんなの」
大きく開いた『手』の影が、ダンを覆い尽くす。
次の瞬間、彼の体は棒切れのように吹き飛んだ。
「先輩!」
「おじさぁん!」
ミドリの悲鳴が響き渡る。
地面の上を転がったダンは、そのまま動かなくなった。
『手』を引き戻した〈マスカー〉は、次にミドリと新川を見た。
「おじさん、とか言ってたっけ。あんた、あのいかついのと関係あるの?」
「……!」
「あんたを痛めつけてやったら、あいつはどんな顔をするのかなぁ?」
「う、うう……」
ミドリは助けを求めるように、新川を見た。
しかし彼は引きつった笑みを浮かべたまま、すっかり腰が引けている。それどころか微妙にミドリを盾にするような位置に、じりじりと移動している。
「あ、あの……ぼくのことは、お気になさらず……」
「…………」
半ば唖然としていたのもつかの間、急に空気の流れが変わった。顔を上げると同時、『手』が頭上にまで迫ってきていた。
「あ――」
視界が『手』で覆い尽くされる。
体は動かない。
まるで時間が停止したように、その一瞬は永遠に感じられた。
刹那、ダンの叫びが聞こえた。
「ミドリッ!」
視界が明滅する。
すさまじい衝撃と轟音が身を震わす。
土埃が舞い上がり、自分がどこにいるかもわからなくなった。
それから数秒ほどして――ミドリはおそるおそる、目を開けた。いつの間にか自分の体は抱き抱えられていた。
目の前には、あの白い仮面。
「え……?」
「大丈夫かい? 怪我はないかな?」
柔らかく、澄んだ声。
理解が追いつかず、ただぽかんとする外なかった。
「立てるかい?」
「う、うん……」
地面に下ろしてもらったが、足元がおぼつかない。手を取ってもらうことで、身の回りの状況が実感できた。
自分は夢でも見ているのだろうか。
しかし、そうではないことは手の感触から伝わってくる。おとぎ話に出てくるお姫様をエスコートする王子のようで、ミドリはわけもわからず赤面した。
全身を包む白い衣装。
顔の両脇に黒髪を垂らし、
額からあごまでを白い仮面――〈マスク〉が覆っている。
あの夜に会った時と同じ姿だ。
目の前にいることがまだ信じられなくて、寝言のようにつぶやいた。
「道化、さん……?」
「やぁ。また会ったね」
○
十数秒ほどで、ダンは意識を取り戻した。
しかし、体の自由がきかない。鈍い痛みが全身に広がっていく。かろうじて頭を上げると、ミドリが〈マスカー〉に襲われようとしていた。
「逃げろ、ミドリッ!」
思わず叫んだが、間に合わない。
〈マスカー〉の『手』が、ミドリを上から押し潰そうとした――その時、教育棟の陰から何者かが飛び出した。
その何者かはそのまま、横からミドリをかっさらっていった。
更に驚くことに――その人物は顔に仮面をつけていたのである。アーモンド形の目が二つ空いてあるだけの、シンプルで飾り気のない、白い〈マスク〉。
しかし、それが逆に不気味だった。
人間の持つ感情の要ともいえる顔を覆い隠し、外部からの感情を遮断する。鼻も、口も、瞳もない〈マスク〉は、見る者に恐怖と困惑をもたらす。
今のダンがまさに、それに近い状態だった。もっとも、この場合の困惑には二つの意味がある。この場にもう一人の〈マスカー〉が現れたことと、その〈マスカー〉が自分の姪を――ミドリを助けたことである。
「なんなんだ、あいつは?」
ミドリの様子から察するに、どうやら顔見知りのようだ。
道化というらしいが、本名であるとは思えない。
「……なんなんだよ、あいつ?」
その声はもう一人の〈マスカー〉のもので、困惑と苛立ちの混じった声音だった。
どうやら仲間というわけではないらしい。
だが、それで安心できるわけではない。
なんといっても距離が――ミドリとの距離が近すぎる。それだけでなく、手を握ったりしている。
知らず知らずのうちに立ち上がり、ダンは拳を震わせた。
「なんだあの野郎、なれなれしくしやがって……!」
道化はミドリの手を引き、自分の背後に回らせた。
「ひとまず、下がっていたまえ。巻き込まれるといけないからね」
「でも、道化さん……」
「安心するといい。僕にはこれがある」
こつこつ、と自分の〈マスク〉を指で叩く。
「君には特別に、道化の芝居をご覧に入れよう。さぁ」
「う、うん……」
ミドリを促し、その場から離れさせる。
道化はもう一人の〈マスカー〉と向かい合い、軽く手を合わせた。
「さて、どうしたものかな?」
「なんなんだよ、お前?」
道化は肩をすくめてみせる。
「なんなんだと聞かれてもね。僕はただの、しがない道化だよ」
「意味わかんないよ。要するにあんたも、〈マスカー〉なんだろ?」
「まぁ、そうだね」
「さっき、なんで邪魔をした?」
「目の前で人が傷つくようなことがあれば、放っておけない性質でね」
「……正義の味方気取りかよ。うざいな」
ゆらり、と『手』が持ち上がる。不測の事態から目を覚ました虎のように、不機嫌さがあらわとなっていた。
「心外だなぁ」と道化は両手を広げる。
「まぁ気持ちはわからなくもないけれどね。君ぐらいの年頃の少年だと、絵に描いたような品行方正さや清廉潔白さというものが、うさんくさく感じられるだろうし。かつての僕にも……おっと」
いきなり『手』が、道化の足元をえぐった。
わざと外したのではなく、その前に道化が後ろに飛んでいたのである。「危ない危ない」と言いつつ、軽やかに着地する。
「人の話を途中で遮るのは、スマートとは言えないぜ?」
「さっきからうるさいんだよ!」
腕を更に伸ばし、『手』を愚直に突っ込ませる。
道化は飛んでは跳ね、あるいは屈み、俊敏な動きで『手』をやり過ごす。死角からでも、まるで後ろに目があるかのように、いともたやすくかわした。
「な、なんで!?」
「腕の動きを見ていればわかるさ。難しいことじゃない。そして……」
その場で跳躍し、空中で一回転。伸びきった腕の上に着地してみせる。
ちちち、と道化は指を振る。
「君はまだ〈マスク〉を扱いきれていないようだ。それでは僕にかすり傷ひとつ、負わせることなどできやしない」
「馬鹿にしやがって、えらそうに!」
「そんなつもりはないのだが。まぁ、そうと聞こえたなら謝るよ。人をおちょくるのが道化の本分なものでね」
「そういうのが! 馬鹿にしてるって言ってんだよッ!」
『手』を振り回す――しかし、道化は暴れる腕からふるい落とされることなく、器用にその上を疾走する。
〈マスカー〉はぎょっとしたようにのけぞった。
「うわ、く、来るな!」
でたらめに腕を動かしたが、道化はその前に宙に躍り出た。そのまま〈マスカー〉の頭上を飛び越え、着地と同時に身を低くして、すばやく足払いをかける。
「うわっ!?」
まともに受身を取れず、肩をしたたかに打った。コントロールを失ったように『手』が縦横無尽に暴れ、教育棟の壁や天井をでたらめに破壊していく。道化はその巻き添えを避けるように、すでに〈マスカー〉や『手』からも離れていた。
やっとのことで〈マスカー〉は起き上がり、大きく肩を上下する。
「なめやがって……!」
「……そろそろかな?」
「どいつもこいつも、馬鹿にしやがって! ぼくが何をしたっていうんだ!」
叫びに応えるように『手』が、道化に掴みかかろうとする。
しかし、虚しく空を切る。
半歩、体をずらしただけの道化は、伸びた腕に手刀を叩き込んだ。ひと抱えほどもある腕はたやすく断ち切られ、断面から灰色の粒子が飛び散る。
「な――」
『手』が地面に落ちていく。
それと同時、道化が〈マスカー〉との距離を瞬時に詰める。右手を大きく広げ、半ば呆然としている〈マスカー〉の顔面――〈マスク〉に押し当てる。
「さぁ、全てを――」
〈マスク〉を掴み、
道化の手が引き抜かれ、
〈マスカー〉の素顔が今、あらわとなる。
「白日の下に晒せ」
〈マスク〉を剥がされた、〈マスカー〉。
その正体はどこにでもいるような、幼い顔つきの少年だった。
少年は両目を限界まで見開き、膝から崩れ、地面に倒れ込んだ。背中から伸びた腕や、道化に断ち切られた『手』は色を失い、ひび割れていく。
道化の手にある〈マスク〉と同じように。
「…………」
道化の指が〈マスク〉に食い込む。ほんのわずか力を込めただけで、それはいともあっけなく、砕けてしまった。
大蛇のような腕も、巨岩のごとき『手』も、同じタイミングで瓦解する。
「なんてこった……」
半ば呆然と、ダンがつぶやく。
「〈マスク〉を剥がす〈マスカー〉だと? そんなの、聞いたことがねぇぞ」
「まぁ、それはそうだろうね」
道化の手の中にある〈マスク〉の残骸が、風に混じって消えていく。それを見届けたのち、軽く手を払った。
そして少年の近くで屈んで、顔色をじっとうかがっている。
「お、おい! 何をしている!」
「彼には色々と聞きたいことがあるのでね。さて、何から聞くとしようか」
「勝手なことをするな! そいつが〈ヌケガラ〉になっていたらどうするんだ!」
怒鳴りながらずかずかと近づいていく。
道化はやれやれと言いたげに立ち上がり、ダンを見上げた。
「さっきからなんだい、君は? 〈マスカー〉相手に拳銃で挑む無謀さといい、粗野な口ぶりといい、あまりお近づきになりたくないタイプに見えるのだが」
「そいつは結構だ! 俺も別に、〈マスカー〉なんぞとお近づきにはなりたくねぇ!」
次にダンは、少年を指差した。
「お前、こいつに一体何をした?」
「見てなかったのかい? 彼の〈マスク〉を剥がしたんだよ。強制的に〈マスク〉とのつながりを絶ったもんだから、立ち直るのに時間はかかるだろうがね」
「……そんな力が?」
信じられないとでも言いたげに、道化を――白い〈マスク〉をまじまじと眺める。〈マスク〉の下に瞳はなく、代わりにアーモンド形の二つの闇が、ぽっかりと浮かぶだけだった。
ダンは空恐ろしさを覚え、ごくりと唾を呑む。
「お前は、一体……」
「道化さーん! おじさーん!」
ミドリの声に、はっと顔を上げる。小走りで寄ってくるミドリ(と新川)の肩を、強く揺さぶった。
「大丈夫だったか、怪我はないか!?」
「う、うん。痛いよおじさん……」
「良かった、本当に良かったぞ!」
そのまま抱きしめようとしたが――手を離した隙に、するりとかわされた。ダンの脇を通り抜け、ミドリはそのまま道化の前に立った。
「道化さん、大丈夫だった!?」
「おかげさまでね。で、どうだったかな? 僕の芝居は?」
「う、うん。見ていてとてもハラハラしちゃった」
「それなら重畳。ところであの熊みたいなのはなんだい? 君と親しいようだが」
「ああ、あれはおじさん。えーっと親代わりみたいなもので……」
ちらりと肩越しにダンを見、困ったように眉を下げた。
「その、うん……〈マスク〉が嫌いなの」
「まぁ、見ていればわかるよ」
打ち解けている様子の二人を前に、ダンは呆然と突っ立っていた。
新川が控えめな声を出す。
「どうやら優先順位が変わっちゃったらしいですね」
「うるせぇ!」
強めに殴りつけ、ダンは大股で二人の間に割って入った。
「おい、道化野郎!」
「それって、僕のことかい?」
「他に誰がいる!? いいからさっさと離れろ! ミドリ、お前も〈マスカー〉なんぞと喋ってるんじゃない!」
「えー、でも……」
「でも、じゃない! 何度も口を酸っぱくして言ってんだろうが! 〈マスカー〉には近づくなって――おい、お前は何をしているんだ!」
道化は少年の頬をぺちぺちと叩いているところだった。
「そろそろ気絶から立ち直る頃かと思ってね」
「勝手なマネをするな! とにかく救急車……」
言いかけ、口を閉じる。
少年は薄く目を開けていた。道化の手によって身を起こすも、ぼんやりとしている。
道化が低い、澄んだ声でささやきかける。
「大丈夫かい? 話せるかな?」
「…………」
「まだ難しいか。では、僕の言うことがわかるなら、首を縦に振る。それでどうだい?」
少年は空ろな目で道化を見上げ――こくり、とうなずいた。
「よし。では聞きたいことがあるので、協力してくれないかな」
「おい、何を勝手に――」
「おじさん、ちょっと静かにしてて」
やや咎めるような言い方にダンは唖然とし――不満そうに押し黙った。
道化は少年に問いかける。
「まず、君は〈マスカー〉となり、そこで転がっている男子たちを痛めつけた。それは覚えているかい?」
少年は男子たちを見た後、うなずいた。
「よし、では――君に〈マスク〉を与えた人間は、男性だったかい?」
少年は首を振らなかった。
「では、女性?」
この問いも同様だった。
道化は「ふむ」とあごに手をやった。
「ならば、その人物は〈マスク〉をつけていた。どうかな?」
少年はうなずいた。
「もしかしてそいつは、〈ファントム〉と名乗ったのでは?」
びく、と少年の肩がこわばる。
ミドリとダンも、怪訝そうな顔をしていた。
「〈ファントム〉って……」
「ああ? なんだそりゃ?」
少年はがたがたと震え、両腕で体を抱いている。
「あ、あいつ……」
「そいつが、どうかしたんだい?」
「誰にも言うなって。言ったりしたら、ぼく……」
突如、突風が吹き抜けた。
目も開けられない程の勢いだったが、その風はすぐに止んだ。
「――う」
少年の体が前のめりに倒れる。
背中には矢が突き刺さっており、シャツに血が広がっていく。
「――ひっ」
「見るんじゃねぇ!」
とっさにダンが、ミドリの視界を遮った。
「おい、道化野郎! そいつは……」
「即死だ。ぬかったよ」
脈を調べ、首を横に振る。心底残念そうな声音だった。
ダンは歯噛みし、「誰だ!」
「どこのどいつがやった! 出て来い!」
「そうわめくなよ、よく見るんだ。……そこにいる」
道化の指差した先を、ダンは注視した。
教育棟の壁の手前――何もない空間にて、空気が揺らめいている。その揺らぎは段々と、人の形を成していった。
全身を覆い隠す、靴までの長さのあるマント。ボーガンを手に握っている。頭部には黒のシルクハットを乗せ、顔には口だけが露出した白い〈マスク〉をつけていた。
「なんなんだ、あいつ?」
「なるほど。彼が〈ファントム〉か」
ふっ、とかすかな笑い声が漏れた。
その人物はマント越しに腕を持ち上げ、口元を覆い隠す。
「これは警告だ、道化者」
男性とも女性とも判断のつかない低い声音。それでいて芯のある声。道化とダンに聞かせているというよりは、彼らの背後――いるはずのない大勢の観客たちに言い聞かせているかのような仰々しさがあった。
「今すぐ手を引け。さもないと……」
「さもないと?」
「死をも超える苦痛が、お前を苛むだろう」
「へぇ。具体的には何をするのか、お聞かせ願いたいものだね」
茶化すような言い方だったが、〈ファントム〉は乗ってこなかった。
くるりと背中を向け、その姿が空気に混じって消える。手に持っているボーガンも、マントも、シルクハットも、ひとつ残らずその場から消えてしまった。
「消えた。どういうカラクリだ、ありゃ……」
ダンは額を手で覆った。
「立て続けに〈マスカー〉が三人もだと? 一体、何がどうなってやがる?」
困惑するダンをよそに、道化は屈み――少年の体を見下ろしていた。見開かれた目をそっと閉じてやり、立ち上がる。
「この学校には〈マスカー〉が潜んでいる。ただ、それだけの話だよ」
「そういうてめぇはどうなんだ? まさかただの風来坊ってわけじゃないだろうな?」
「それも悪くないね。さて……」
すたすたと歩き出す。あまりにも自然な動作だったので、ダンは一瞬反応が遅れた。
急ぎ、道化の前に回り込む。
「ちょっと待て。どこに行くつもりだ?」
「決まっているだろう。あの〈ファントム〉を追うのさ。目下、僕がやるべきことといったらそれぐらいだ」
「なら、俺も俺のやるべきことを優先させてもらうぜ」
そう言って、手錠を取り出す。
道化は「うん?」と首を傾げた。
「刑事だったのか? 道理で……」
「署まで来てもらうぜ、道化野郎。お前には色々と聞きたいことがある」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「ま、待ってお嬢さん! ダメですってばぁ!」
道化とダンとの間に割り込んできたのは、ミドリである。新川の制止を振り切って、ダンに詰め寄る。
「おじさん、色々言いたいことはあるだろうけど、ちょっと待って! 少なくともこの人は、おじさんが考えているような悪い人じゃないよ!」
「引っ込んでろ、ミドリ! 何を根拠にそんなことを言うんだ!」
「えっ、根拠……」
突如として口ごもり、ぽっと赤面する。
その様子が不自然で、ダンは思わずしかめ面になっていた。
「えーと、そのう。わ、わたしの演技を褒めてくれたからっていうか……」
「はぁ?」
「そ、そんなこといいじゃない! とにかくおじさん、まずはわたしの話を聞いて!」
「いや、そんなことを言ってもだな。とにかくお前はちょっとどいて……」
「あのー、お二人とも。ちょっといいですかね?」
新川の声に二人はばっと振り向いた。
締まりのない笑顔を浮かべて、へらへらと言う。
「さっきのあの白い〈マスカー〉さん、どこにもいませんよ?」
新川の言葉通り、道化の姿はどこにも見当たらなかった。
ダンもミドリも呆気に取られ、周囲を見回す。
「……あの野郎!」
ダンは息巻き、拳を握り込んだ。苛立ち紛れに小石を蹴り、ぐしゃぐしゃと髪をかき回す。
その隣ではミドリが安堵したような顔を浮かべている。
そのことも合わせて、ダンには何もかもが気に入らなかった。
「くそったれが。何が道化だ……」
○
〈マスカー〉騒ぎはすぐに生徒たちの知るところとなった。怪我人、そして死人も出たことから救急車やパトカーが押し寄せ、一向に混乱が収まる気配を見せないことから、臨時休校の措置が取られた。
「本日は休校です。部活動もありません。明日以降については、追って連絡をします」
エリは一方的にそう告げて、すぐに教室から出た。
クラスメイトたちは呆気に取られていたが、やがてぽつぽつと帰宅の準備を始めた。〈マスカー〉騒ぎのことで盛り上がっている者もいれば、下校後に何をするかで話し合っている者もいる。
ミドリは半ばぼんやりと、鞄に教科書などを詰めていた。そのせいで、何度も呼ばれていることに気づくのが遅くなった。
「ねぇ、ミドリってば!」
肩を叩かれ、ミドリははっと顔を上げた。すぐ隣にミチが立っている。
「ああ、ごめんねミッちゃん」
「や、いいよ。それよりミチの方こそ謝らないと、さ」
ミドリは怪訝そうに首を傾げた。
「謝る? 何を?」
「さっきのこと。ミチだけ、先に逃げちゃって。マキ先輩に教室まで送ってもらった後のことなんだけど、ミチ、何もできなくて……ただ震えてた。どうにかしたかったけれど、どうにもできなくて」
「ミッちゃん……」
その時ミドリは、ミチの目の下がうっすら赤くなっていることに気づいた。不安でたまらなかったのだろう。
ミチはおずおずと、小声で尋ねてきた。
「さっきの〈マスカー〉、どうなったの?」
「……ごめん、それは言えない。久良木先生から固く口止めされているから」
あの後、ミドリはエリから事情を聞かれた。
しかし、どこからどこまで説明していいものか判断がつかず、『他の〈マスカー〉が現れて、腕が伸びる〈マスカー〉をやっつけてしまった』という風にしか答えられなかった。しかしエリはそんな不十分な説明でも何かを察したらしく、それどころか事件に巻き込まれる形となったミドリを案じたのである。腕が伸びる〈マスカー〉の正体が生徒だったこと、その生徒が殺されたことについては緘口令が敷かれることとなった。
「近くに正式な発表をするから、それまでは誰にも喋るなって」
「そっか、うーん……久良木先生じゃあ、約束破れないか」
ミチは心底残念そうだった。
ふと、ミドリはあることを思い出した。
「ところで、中條先輩のことなんだけど」
「マキ先輩?」
「ミッちゃんを教室まで送った後、先輩はどうしたの?」
ミチは「うーん」と考え込み、首を横に振った。
「わかんない。たぶん、自分の教室に戻ったんだと思うけど」
「そう……」
「気になるなら行ってみる?」
「え?」
「マキ先輩のとこ。三年生の教室にいるはずでしょ。ミチ、お礼もちゃんと言えてなかったと思うし」
「……うん、確かに。わたしもちゃんとお礼を言いたいな」
「んじゃ、行こっか。二人で」
「うん」
ミドリとミチは教室を出て階段を上がり、三年生のフロアに出た。
マキがいるはずの教室では、生徒の数がまばらだった。たまたま近くにいた生徒に聞いてみたところ、マキはもう帰ってしまったという。
二人はひとまず、教室から離れた。
「いないんじゃあ、しょうがないよねぇ」
「うん。でも、後でいくらでもチャンスはあると思うし」
「だよね。じゃあ、仕方ないけど今日はもう帰ろっか?」
「うん」とうなずく。
階段を下りかけたところで、バイブ音が鳴る。鞄からスマートフォンを取り出すと、新着のメッセージがあった。アカネのものだ。
『バイトまでヒマだから、適当に時間をつぶす』
返信のメッセージを打っていると、ミチが振り返ってきた。
「誰からー?」
「アカネちゃん。バイトだって」
「ああ、そっか。バリバリ働いているよねぇ、アカネ。その割にあんまし、人にオゴってくれないけど」
「アカネちゃん、ちょっとケチんぼだから……」
何気なく窓の外を見ると、不意に、足が止まった。
ミドリのいる位置からは、L字になっている教育棟の屋上が見える。周囲に設けられているフェンスの内側に人影があり、しかもあのシルエットには見覚えがあった。
「ん? あれ、どうしたミドリ?」
数段先を下りたところで、ミチがまた振り返る。ミドリはぎこちなく首を動かし、「えーっと……」と言葉を濁した。
「ちょ、ちょっと忘れ物しちゃって」
「そうなの? 一緒に行こうか?」
「う、ううん。大丈夫。大丈夫だから、ミッちゃんは先に行ってて」
「ん? んー……わかった。早く来てよね」
「うん、わかった。じゃ、後でね」
ミチの姿が見えなくなった後で――ミドリはすぐ階段を上った。最初は自分でもびっくりするほどの速度だったが、長続きせず、屋上に着く頃には完全にバテていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
屋上へと続く扉の前で、呼吸を整える。
普段は立ち入り禁止で、教員の許可がない限り、足を踏み入れることはできない。そのことはミドリも承知だった。
扉のノブに手をかけてみる。鍵はかかっていない。
扉の先には一面緑色のタイルがあり、フェンスがあり、そして教室の窓から見る時よりも、はるかに広い空があった。
「…………」
高鳴る胸を押さえ、おそるおそる歩を進める。ざっと見回してみたが、先ほどのような人影はどこにもなかった。
気のせいだったのだろうか。
「うーん……」
「誰かお探しかな?」
背後からの声にばっと振り向く。
いつの間にいたのか、扉の手前で道化が立っていた。
「やぁ、驚かせたかね?」
「うん、すっごく。……もう、心臓に悪いよ」
はぁーと息をつき、改めて道化をまじまじと見る。
手袋も靴も白、衣装も白。そして、くり抜かれた二つの目だけの、白い仮面――〈マスク〉。やはり異様な外見だと再認識する。
「何を考えてるのかな?」
「え、あ、いや、何も!」
「そうかな? てっきり、『なんでそんな格好をしてるんだろう』って考えてるんじゃないかって思ったぜ」
「や、やだなぁ。そんなことないよ」
あはは、と笑ってごまかした。
ひと息つき、「それよりも」と顔を引き締める。
「おじさんも言ってたけど、この学校で一体何が起こってるの?」
「それは僕の方が知りたいぐらいだね」
腕を組み、困ったように首を傾げる。
「君も見ただろう、さっきの〈マスカー〉……〈ファントム〉のことを」
「うん。あれって、もしかしなくても……」
「そう、『オペラ座の怪人』だ。物語の中だけの存在と思われていたものが、実体を伴って現代に蘇った。この学校を舞台としてね」
「舞台……」
「何が目的か、今のところはまだわからない。ただ、先ほどの少年を殺害した理由については、自ずと見当がつくがね」
「それは、何?」
「口封じと警告だよ。あの少年は〈ファントム〉の正体につながる何かを知っていたのかもしれないね」
「〈ファントム〉の正体……」
「誰だと思う? 良ければ、君の意見を聞きたいな」
ミドリは考え込み――首を横に振った。
「さっぱり思いつかないよ。人を殺せるような人が、この学校にいるなんて考えたくもない。しかも〈マスク〉で顔を隠して」
「……まぁ、そうだろうな」
道化はさほど落胆してはいないようだった。
ミドリはやや遠慮がちに、「ねぇ、道化さん」
「なんだい?」
「今度はわたしから聞いてもいい?」
「なんなりと」
「道化さんはどうして、ここに来たの?」
「ん? まぁ、〈ファントム〉の噂を聞きつけたからだよ。〈マスク〉をばらまいている怪人がいるらしい、ってね」
「そうなんだ。それじゃあ……〈ファントム〉と戦うつもりなの?」
「そうなるだろう。先ほどの様子だと、僕に敵意を燃やしているようだからね。一筋縄ではいかないかもな」
「…………」
ミドリは釈然としない顔つきで、道化を見ていた。
視線を察した道化は、「どうかしたかな?」
「うん。どうして、〈ファントム〉と戦うのかなって。何か因縁とか、そういうのあるの?」
「因縁、か」
どことなく含んだような言い方だった。
横を向き、空を見上げる。
「そう呼ぶほどのことでもないかもしれない。この世には〈マスク〉をばらまいている連中がいて、僕はそれを阻止する。ただそれだけのことさ」
「…………」
「納得していなさそうだね」
「……うん」
「だが、納得してもらうしかない。残念だが、舞台裏は見せないことにしているんだ」
「舞台裏?」
「過去と言い換えてもいいかもしれない。役者がどんな思いで舞台に立ち、そのために何を得て何を失ってきたのか……そんなことは、舞台の上では二の次なんだ」
僕は道化だからね、とうそぶく。
「道化に過去はないし、名前もない。僕は舞台の上で、課せられた役割を演じる。〈マスク〉を狩る者としてね」
「〈マスク〉を狩る……」
なぜ、とは聞けなかった。聞いたところで、はぐらかされるだけだろう。
それでもミドリには、確かめたいことがあった。
「道化さん」
「なんだい?」
「わたしを助けたのは、なんで?」
「なんで、と聞かれてもね。気づいたら助けていた……この答えでは不満かな?」
「でも、おじさんはそう思わないかもしれない」
「君自身はどうだい?」
「…………」
「僕の言葉を信用できるのかな? 僕は〈マスカー〉で、まぁご覧の通り、得体の知れない外見をしている。そんな僕を、君は信用できるかい?」
「できるよ」
即答だった。
仮面に浮かぶ二つの闇に、揺らぎが生じたように見える。
「……なぜだい?」
「わかんない。さっきの〈マスカー〉……梅木くんを助けようとしたから、かな?」
「だが、彼は死んでしまったんだぜ」
「でも、助けようとしたんだよね?」
「…………」
「ねぇ、道化さん」
「なんだい?」
「〈ファントム〉を追うつもりならわたし……協力できるかもしれないよ?」
「ほう?」
道化は腕を組み、小首を傾げた。
「噂話が好きな友達がいて。その子に聞けば、〈ファントム〉のこと何かわかるかもしれない。この学校にいるのなら、正体につながる何かを残してるかもだし」
「……ふーむ」
「ダメ、かな?」
道化は腕を解き、首筋に手をやった。
どことなく困っているように見える。
「ダメというわけではない。むしろ、助かるよ。しかし、君のような子供を巻き込むのには、抵抗があるんだ」
「子供って」
かすかな反感を覚え、身を乗り出しかけたが――
「先程の少年――梅木くんのこともそうだ。僕が甘かったせいで、彼は命を落とすこととなった。〈マスク〉を手にし、人を傷つけたとはいえ、彼はただ利用されていただけだ。君には……彼のようにはなって欲しくない」
真剣――いや、深刻な口調だった。
道化は自分のことを案じてくれている。ダンと同じように。
二人ともミドリを子供扱いして、危険なことには巻き込むまいとしている。心配してくれているのだとわかっていても、やはり反感を覚えざるを得なかった。
だから、決心した。
「……決めた」
「ん? 何をだい?」
「道化さんが何を言おうとわたし、道化さんに協力する。〈ファントム〉を止めるためなら、なんだってするよ」
「いや、しかしだな……」
「巻き込みたくないって気持ちはわかるよ。わたしもそうだもん。でもね、もしも〈ファントム〉がわたしの友達に手を出したりしたらって考えると、いてもたってもいられなくなるの」
「…………」
「あの人は怖いよ。だから、止めなくちゃ」
「……やれやれ」
道化は観念したように肩をすくめた。
「最初に会った時には気弱そうだなと思っていたが……なかなかどうして。君のいうあのおじさんと、関係しているのかな?」
「かっ、関係ないよ! おじさんとは!」
思わずむきになり、赤面する。
道化はくっくっと肩を揺らし――ミドリに歩み寄った。
手袋に包まれた手を差し出す。
「僕としても、〈ファントム〉は何としてでも止めたい。〈マスク〉をばらまき、ためらいなく人を殺せるような奴が相手だが――覚悟はできているかい?」
「うん」
ミドリも手を差し出し、握手を交わす。手袋越しに体温が伝わってきて、思いの外温かいことに内心で驚いた。
「ならば、改めてお願いしよう。〈ファントム〉を止めるため、協力して欲しい」
「うん、わかったよ。よろしくね、道化さん」
〇
一切を覆い隠そうとする闇の中―-
年代物のランプに火が灯り、ぼんやりと照らされた壁には二人分の影がある。
一人は革張りの椅子に腰かけていた。
その人物の膝の上にもう一人、少女が乗っている。恍惚とした表情を浮かべ、椅子の人物にべったりとしなだれかかっていた。
「ふふ、順調みたいね」
うっとりするような声音。
手を伸ばし、椅子の人物のあごを撫でる。指がゆっくりと動き、唇を柔らかく押す。椅子の人物はされるまま、どこか遠くを見ているようだった。
「なぁに? どこを見てるのかしら?」
「…………」
「私だけを見てくれなきゃ嫌よ? こっちを向いて、ねぇ……」
椅子の人物は言われた通りに首を動かし――少女はぐっと体を伸ばして、長い、口づけをする。
唇を放した後、少女はほうっと熱い吐息を漏らした。
「あなたって、本当に素敵」
「…………」
少女は椅子の人物の胸に顔を押しつけ、指で柔らかく突いた。
「それにしてもあの道化とかいうの、目障りね」
「…………」
「何か手を考えなくちゃ。〈マスク〉を剥がす〈マスカー〉なんて聞いたことないけれど……放っておけば面倒なことになりかねないわ。そう思わない?」
椅子の人物は答えなかった。
少女は椅子の人物の手を取り、自分の顔に当てさせた。夢を見ている赤ん坊のように無邪気な微笑みを浮かべている。
「つれないわね。あなたっていっつもそう。でも、そこが素敵なんだけれど」
少女は顔から手を放し、椅子の人物の膝から降りた。数歩先のところで、器用につま先で立つ。細い腕で大きく弧を描き、その優雅な動作は白鳥を思わせた。
その場で腕や足を振り、あるいはターンをし。少女は踊る。
よどみなく、滑らかに、椅子の人物に見せつけるように。
「ああ、いいこと思いついちゃった」
言うなり少女は踊るのを止め、椅子の人物の膝に飛びついた。
「とても楽しそうで、面白そうなこと。もちろん協力してくれるわよね? 私の〈ファントム〉……」
ランプの明かりが、中條マキの顔を照らし出す。面を上げた彼女の視線の先には、口元だけが露出した白い仮面があった。