ちょいと地理とかこまっとしたのを
東方世界は中央世界の最東方に位置する文明国家から更に地球2週分進んだ距離が最西辺とされている。
また、現在の中央世界における座標の原点である、日本は帝と皇居の御座所から東に延ばした座標線からこのトレーラー鎮守府相当泊地は数千キロ北にある。
だが、気候は熱帯。
そのトレーラー諸島から西回りで結構急な弧を描き扶桑本土最南端の丘湾島に至る。ここから今度は東回りの緩やかな弧を描いて、瑠弓諸島を挟み本土4島に至る。
またトレーラー諸島の南は多島海になっており、ここも扶桑の神代から続く固有の領土だった。扶桑皇国において最も大きな島は本土4島の中の本州であり、この本州にある本州最大の湖の西に山を一つはさんで位置する都市が扶桑の帝都であった。
その扶桑帝都に最も近い港は商都と呼ばれ扶桑地中海と呼ばれる九州、四国都の間に挟まれた、丁の字を左に90度倒した形の海に面していた。またこの扶桑地中海に面したとある都市には扶桑海軍の一大根拠地が置かれていた。
扶桑皇国は建国から2600年。隣国央領よりも歴史は浅いが、単一王朝としては東方世界最長とされる。
因みに日本はムーに残されていた資料や、彼の国の持つ記録からムー帝国が地球にあった頃にはすでに統一王朝が存在しており、幾度かの戦乱を歴て、諸邦乱立に至るも再統一し現在に至るとされその王朝の歴史はムー帝国と並び15000年にわたるとされる。
扶桑と隣国央領の今回の戦闘は、央領の前王朝と扶桑との戦いで、講和条約に盛り込まれた央領大陸の割譲領土を扶桑がいい加減受領しないことにしびれを切らした東方世界のまとめ役たる組織が、扶桑政府に、当該地域を強制的に統治させようとしたことが原因だった。
古代から大陸アレルギーの重症患者だった扶桑は盟主となりつつあった、大洋対岸の大国や、更にその大国と海を挟んで扶桑と反対側に位置する同盟国の帝国に大陸に領土を持つことだけは勘弁をと頼み込んだ。
同盟国は扶桑と同じく島国であり、大陸に領土を持った際の統治の大変さや面倒をわかっていたので元から扶桑の味方だった。東西の大洋を挟んだ対岸からの説得に盟主も納得し、扶桑の好きにすれば良いという意味の言質を取ったが、央領からしてみれば、ぶんどっておいて(言いがかりも甚だしいが)自国領なり植民地にしないというなめたまねをした上に、元から下に見ていた扶桑が自分よりも上の地位にいたことが我慢ならなかったことで、扶桑本土最南端の丘湾島に古代からの央領領土という飛んでも主張を振りかざして進行し、戦端が切って落とされた。
一時的に引きこもっていたとはいえ、昔から扶桑は、例え口約束でも約束、契約のたぐいはしっかりと守るという、絶大な信頼と信用があった。そのため、本戦争以外には、例え軍備を増強しても、他国から襲撃を受けない限りは、この武力を他国に振るうことは無いという宣言と、各国と結んだ契約を各国はまあ扶桑だし一発だけなら許そうという気持ちで観戦していたが、本当に対央領戦以外にはどこの国にも国土防衛以外で戦闘を行わないのを見てある意味で律儀すぎると呆れていた。
話が大幅にずれている気がするが、気にしない。
扶桑皇紀2597年7月
大日本及びムー大陸連合帝国海軍東方探査特別艦隊は、扶桑皇国海軍連合艦隊先導の元トレーラー諸島を出航し、一路北上。
扶桑帝都に最も近い海軍根拠地幅島呉鎮守府に到着した。




