第01話
夏。
目の前にはゆらゆらと海色に揺れる水面を見つめる。
私はその間近に立っている。
それも憧れた、あの全国大会の舞台に私は立ってるんだ!
「位置について!」
パァンと乾いた銃声と沸き上がる歓声。
私たちの夏が始まる。
* *
私、水樹一はいつものように朝に目覚める。
あ、一ってはじめって読むんだよ! ちょっと変だよね。
で、とても寝起きが悪くて、ついに三度寝をはじめてしまって朝も七時五十分!
目覚ましはとうに鳴り終えて、ゆっくりと体内時計が覚醒に向かう中で私はやっと目覚めた。
「ん……あっ!」
ふらりと体を起こし、振り返った先にあるデジタル時計を視認し、意味を理解したところで私は声をあげた!
「あー! また遅刻しちゃう!」
パジャマを脱いで制服の袖に腕を通すのはもう慣れて、指定の白のポロシャツに、紺色のプリーツスカート。
持っていくものを手に提げて、自室を出た。
二階建て一軒家、二階の私の部屋からすぐ目の前にある階段を降りるとそこはリビングダイニング。
「はじめー、水着持ったかー」
「持ってるよっ!」
新聞を広げてダイリングテーブルに座るお父さんから声をかけられる。
普通のサラリーマンだけれど、生活が不自由ないのはお父さんのおかげだ。
いつもいつも毎日言われることなので、少し飽き飽きしてくるんだよね。
私の手には薄い茶色のカバンのほかに、水泳バッグが提げられている。
青と白のツートンカラーに、上の絞りのあるデザイン。
ちょっと男の子みたいだけど、私はあまり気にしない。
時間がないので、冷蔵庫でひんやりとしたあらかじめ作っておいたおにぎりを巾着に入れて、カバンに投げ込んだ。
「それと車と人に気を付けてな。あと『池』に落ちるなよ」
「もう何度繰り返すのよ! もう忘れてよねっ」
私は『池』に落ちたことがある。
実際死にかけて、少しの間水が怖かったけれど、今は克服した。
お父さんが私を心配してからの言葉なのを知っている、けれど毎朝言われるので少しシャクな感じもしてしまう。
「いってらっしゃい」
「ご飯炊いておいたから、テキトーによそってふりかけっ!」
「はいはい、はじめもちゃんと学校についてからでもいいけど食べなよ」
「はーい! いってきます!」
お父さんにそう言って私は家を飛び出した。
走るので手にあるカバンがブンブン揺れて、水泳バッグが暴れている。
そんなこと気にしてられない! 遅刻だけはイヤ!
中学生を迎えた入学式から一か月も経たないうちに新鮮さは失われて、小学校同様の遅刻寸前の毎日っ。
出席を呼び始めた頃に滑り込み多数で、担任から何度か説教を受けたっけ!
横目にはキラキラと光る水面があるけど、目もくれず走り続けてようやく中学校の校舎が見えてくる。
地上三階建ての鉄筋コンクリート打ちっぱなしのその外見は、女子中とは思えない無骨さで、私もきらい!
水橋女子中学校、私たちの通う中学校!
昇降口で靴を履きかえて時間ロス、階段を駆け上がって三階へと向かう。
一年生の教室は三階にあるから大変!
『1-2』の教室札が見えてきて、ようやく一安心。
ラストスパートに駆け抜けて、
「セーフ!」
始業チャイムの鳴る二分前、私は滑り込みセーフを決めた!
「アウトですよ、ハジメさん」
教室に入って、すぐにある席に私の親友は座っている。
二階堂海乃ちゃん、通称うみちゃん!
幼稚園の頃から一緒の子で、お嬢様、お金持ち。
でもそんなことよりも! おしとやかで、とっても可愛くて、私にすることにたくさん付き合ってくれる大親友なんだ!
「まだ先生も来てないからセーフだよ!
「水樹さん、私がどうかしたの?」
「ええっ!?」
後ろには怖い顔をした担任教師の篠ノ井先生が立っていた。
薄水色のスーツをビシっと決めた、上側がフレームレスの灰色のメガネと、ポニーテールがチャームポイントの篠ノ井先生。
「あの……そのですねえ!」
わたわたと手を動かして弁明を図ろうとするけども、言葉が焦って出てこない!
「はぁ、まあいいわ……席に着きなさい、出席をとるわ」
「あいてっ」
名簿帳で軽く私の頭を叩いて、篠ノ井先生は教卓に向かい、私は自分の席に着いた。
「起立、おはようございます」
『おはようございます』
教室十五名の声が一斉に重なった。
皆席を立ち、教師と共に頭を下げた。
「着席……ええ、と。出席を取ります。愛川」
「はい!」
「今池――」
名前順に呼ばれていき、私が呼ばれる番がやってくる。
「二階堂」
「はい」
「水樹」
「はい!」
「女川――」
呼ばれて初めて、私の一日が始まった気がする。
今日は水曜日。
一時間目から数学でちょっと眠い、男性教師の軽井沢先生が数式を黒板に書きだしている。
それを板書しながら、時折軽井沢先生のチョークが止まる頃。
「…………むー」
ノートの切れ端をちぎって、そこに授業とは関係のないことを書き始める。
旧第一……誘うのはうみちゃんと、顧問の先生はどうしようかな――
それは私の野望!
「……とっと」
黒板にカツカツとチョークが走り始める。
私は板書に戻った、勉強もちゃんとやらなきゃだよね!
お昼ご飯、いつも私はうみちゃんと一緒にお昼ご飯!
二人机をくっつけて向かい合って、お弁当を広げる。
と、いっても私の昼ごはんはあらかじめ作っておいた冷えおにぎりと、さっき購買で買った菓子パンなんだよね……。
冷えおにぎりは二つ作って巾着に入れておいたものの一つ、一つは朝ごはん、もう一つはお昼。
うみちゃんのお弁当は手作りらしくて、とっても色鮮やかで美味しそう!
いつものように他愛ない会話の一つ。
「そういえばうみちゃんは部活入らないの?」
入学式から一か月、うみちゃんと私は部活に入っていなかった。
この学校は部活に入るのを強く推奨していて、篠ノ井先生にはちょくちょく「水樹さんは部活に――」と聞かれる。
校長の方針だそうで「学業に部活どっちも両立! 乙女なら当たり前っ!」とのこと。
「そうですね……ハジメさんが部活入ったら考えようと思います」
「なにそれ! 変なのー」
時折聞くと、毎回そう返ってくるのがちょっと可笑しかった。
「それこそハジメさんは部活に入らないのですか?」
この、流れまでがいつものこと。
その度に私は、考え中と返していたけれど、今日は、
「なーんかピンと来ないんだよねー」
「ふふ、入学前は水泳部に入る入る言ってましたのに」
「だ、だってー」
そう、私は小学校に通っている頃から水橋女子中学校の水泳部を目指していた。
でも、なんか、これじゃなかったのだ。
「確か水泳部は……第一と第二がありましたね」
「う~ん」
水橋女子中学、この中学校では同じ種類の部活が三つ存在できる。
生徒の自由を尊重し、学校内でも競争を経験し、自主性を高める。
……というのが表向きの理由であるが、一まとめにすると水泳部個体が定員を大きく超えてしまうためでもある。
大きくなりすぎて制御が効かなくなりつつあった時に、第一・第二・第三と分割された。
三つに分かれたことで小回りこそ効くようになったものの、時が経つにつれて格差のようなものが出来上がってしまった。
生徒会(談合があったとされる)への申請で第一・第二・第三の間での部員の入れ替えが容易となり、第一は「一軍」、第二は「二軍」、第三は「三軍」と揶揄されるようになってしまっていた。
実際に第一が力を付け始めると、近隣の大会はまだしも全国でも優秀な成績を残し、そして優勝、十四連覇。
一方第二は二軍であり、一軍について行けなかった部員の受け口となっている、こちらも地区準優勝・全国でもいいところまで行く。
問題は第三で、もともとは初心者向きの娯楽的意味を持っていたのだが、二軍からも離脱した者も合流し、方向性の違いで一部が対立。
結果、部活内の人間関係が悪化、部室やプールなどは荒廃が進み、一部では負傷事件にも発展。
最終的にはたばこ・酒が更衣室ロッカーより発見されたことで第三は強制解散、廃部とされてしまった。
ということから今は第三水泳部が欠番となっていた。
「第二は見に行ったけど……うーん、どういえばいいんだろう」
私は一度それぞれの部室? というよりプールを見学しに行ったことがある。
第二水泳部は、長方形で高さは五メートル以上、かまぼこ型の冷暖房完備の屋内プールを有する。
そこに二十五メートルプールが五レーン×二ずつ並び、五十メートルプールが三レーン。
二十五メートルプールは、五十メートルプールのちょうど半分で薄い板によって分割したような構造。
遠目に見れば、五十メートルプールが八レーン、ずらりと並んでいるように見えて壮観だった。
この第二水泳部プール場は、授業プールとしても使用されており、私の場合は週三回ある水泳授業でよく使っている。
第二水泳部、一部では二軍と称される。
第一水泳部でついていけなかったもの、力量などが足りずに二軍落ちしたもの、一軍は身の丈に合わないと最初から思ったもの……などが第二水泳部には属している。
一度二軍落ちしてしまうと、一軍に上がれる可能性は極端に減少し、一軍昇格を果たしたものは僅かしかいない。
ということから、どちらかというと第二水泳部の中で競いあう形となっており、一軍への昇格を最初からあきらめているものも多い。
そんな第二水泳部の水泳部員を三階展望室から眺めていると――野心が足りない?
根拠はないが、そこにはあきらめのムードが流れつつあり、それがどうにも私にとってピンと来ないものだった。
「第一はどうでした?」
「第一もそういえば見に行ったけれど……うーん?」
第一水泳部は、これでもか! というほどに豪華な環境を整えられていた。
プール形状は丸いドーム、いつかテレビで見た東京ドーム? みたいでとにかく大きい。
高さは十メートルも余裕であり、もちろん冷暖房完備、第一水泳部専用のプールだ。
まるでホテルの展望レストランのような展望室から眺める、五十メートル×二十のレーン。
頭上にはシャンデリアが輝き、レッドカーペットは汚れひとつ無く、テーブルクロスはこの世のものとは思えないほどにシルクっ!
見学者用に軽食の無料提供もあり、何十種類ものジュースと紅茶とコーヒーを揃えたドリンクバーも無料!?
至れり尽くせりすぎて頭が回った。
特に何も口に付けないまま、展望室のガラス越しに観察してみると、五十メートルプール以外にも豪華設備が点在していた。
潜水用のプールだろうか、五メートル四方しかないプールはとても深く見える。
畳の上に寝ることで身体を乾かすらしい、乾燥ベッドがずらりと二十個並んでいた。
ドームの東西南北には、幅二十メートルはあろう巨大な液晶画面が設置されている……などなど。
そしてなにより驚いたのは、五十メートルプールで泳ぐ人達の実力。
液晶画面に表示されているのは部員の名前なのか、そこの横にタイムが表れる――二五秒三四。
いつかどこかで見た学生記録を上回るのが、液晶画面にはごまんといた。
それもそのはず、この水橋女子は水泳の強豪校なことから、遥か県をまたいでここを志願し、入学する者も少なくないという
水泳部、それも第一水泳部に通うためにここで勉強している、というのも過言でないらしい。
ということから、全国でもトップレベルの選手がここに集結している。
元々第一水泳部の地の力もあったものの、それが一度・二度優勝すると大きく注目が集まり、入部希望者が殺到、そうして第一水泳部は肥大化した。
今では後進の育成も手を抜いておらず、全国十四連覇を更新中の第一水泳部は、有力選手がより取り見取りの現状となっている。
「(うーん?)」
それを見ても私が感動することはなかった。
たしかに第二に比べると野心に満ちているが、それもどこか無機質さを感じさせるものだった。
なんというか自動的というか、個性が潰れているというか。
『すごい』けど『面白く』は感じない。
すごいと思って面白かった、あのテレビの中の第一水泳部ではなかった。
それは幼少の頃に見た、中継に映るのは水中で優美に踊るように優雅で、それでいて水泳帽とゴーグル越しにその人の『楽しい』という感情が伝わってきた。
たまたま点けたテレビに私は食い入った、その時の私の瞳は太陽の光を浴びた水面のように輝いていたと思う。
その人がいる学校が、まさか家から近いなんて、優勝校の名前が出たときに気付いて感動した。
私はあの水泳部で泳ぎたい!
当時はそう思ったけれど、実際に見てみたときのこれじゃない感じ。
説明できないけれど、憧れたそれと同じとは信じられないものだった。
だから私は展望室を去ったんだ、少し寂しいと思う気持ちで。
「要するに、どっちもピンと来なかったんですね」
「うん」
「それでも水泳は諦めないんですか?」
「もちろん!」
待ってましたとばかりに、私は声をあげる。
「うみちゃん! 私ねっ」
「はい」
うみちゃんは、やさしい面持ちで私を見てくれていた。
私とうみちゃんとで水泳がしたいっ!
「私! 第三水泳部を復活させるっ!」
腕をあげて、決意するように。
「あらまあ」
うみちゃんはさすがに予想外だったのか、目を見開いて口に手をあてた。
さすがにちょっと気が早かったかな……と、思っている中で。
「それは……とっても面白そうですわ!」
瞳はキラッキラと輝き、見るからに嬉しそうなうみちゃんを見て私は安堵と、そして嬉しかった。
「その野望、私も混ぜてくださる?」
「もちろん! というより今誘うところだったんだ!」
「まあまあ! 私とハジメさんは以心伝心でしたのねっ」
これほどにうれしそうなうみちゃんを見るのは久しぶりだった。
最初にそのうれしそうなうみちゃんを見たのは、友達になって夏に親に連れられてきた市民プールで二人泳いだ時だった。
あの時は幼い頃で、人の目も気にせず笑いあったんだ。
「私は――背泳ぎが強いですわ」
「うみちゃんの泳ぎ方すっごい綺麗なんだよね!」
「そんなことありませんわ! ハジメさんのクロールこそ、とっても楽しそうで……見ているこちらも楽しくなってきますわ!」
うみちゃんは元々泳ぐのが好きだったそうで、そして私も泳ぐのが好きだった。
暇を見つけて市民プールや、スポーツセンターに泳ぎに行く、私たちは水泳大好きっ子だったんだ。
……少しの間私は、水に触れるのも怖かったけど、今は全然大丈夫だけどね!
「それじゃ、うみちゃんは部員になってくれる?」
「もちろんですわ! よろしくお願いしますっ!」
こうし水泳部、第三水泳部設立に一歩近づいた――
「先生っ、部活入りたいんです!」
「そうですか。水樹さん部活に入ることを決めたのですね」
「いえ違いました! 作りたいんですっ!」
「……作りたい?」
放課後。
職員室の担任教師、篠ノ井先生の前で私とうみちゃんは立っていた。
作りたいと言った時に、先生は一瞬怪訝な顔を作ったけども、少しため息をするように目を閉じて。
「はいっ」
「……まあ部活に自由な学校ですから、条件を揃えて、よっぽど教育から乖離した部活でなければ受け付けますけれど」
「本当ですか!」
「それで、何の部活を作ろうとしているの?」
「それは――」
ここでぐいっと言っちゃえ!
まず一歩を踏み出すためにっ!
「第三水泳部を――」
言いかけたその時に、篠ノ井先生の顔つきが大きく変わった。
そう、それは嫌な方向の――
「ダメよ」
一刀両断だった。
こうして私たちの野望は潰えたのだった。