砂漠の民と影の使者
辺りは一面砂に覆われた土地が続く。昼夜の気温差は激しく、大地からの恵みは決して豊かではない。そんな土地でも人々は住み、一つの王国が存在した。「月をあおぐ砂の国」そんな意味を持つ名の国だった。
王国は、この地に住む砂漠の民に支えられていた。民は月交代で王家の世話をすることが定められており、王家はその民たちからの献上品によって賄われていた。王はその見返りに、献上品の一部を民に均等に分配したり、水路を整備する工事を指導したりして、厳しいながらも民が豊かに暮らせるように心をかけた。
しかし、いつしか民の中に、王家への不満を持つ者たちが現れた。その波は徐々に広がっていき、気づけば百人ほどを数える集団になっていた。
砂漠の寒い夜、国王暗殺の企てが起こされた。
王家の住む城は、護衛によって守られていた。しかしこの護衛も民が月交替で行っている。その中に紛れた王の反対勢力が、いともたやすく門を開く。民たちの裏切りにより、王の首は呆気なくとられてしまった。
王制、崩壊。
翌朝、そこには悲惨な光景が広がっていた。王と共に寝室で寝ていた王妃は一緒に殺され、まだ幼いため同じ部屋で寝ていた第二王女も喉を突かれて息絶えていた。生きていれば次の王になっていたであろう第一王子も、抵抗むなしく倒れ伏した。他にも、王家を守ろうとした民が数名、この惨事に巻き込まれた。ただひとり、高い塔の上に自室を構えた第一王女、アンリだけがこの難を逃れ、生き残った。
アンリは、部屋から階下へと降りてきた。その時にはまだ、反逆者たちがこれからどうするか話し合っていた。
「これは・・・どういう事なの」
惨状と反逆者たちの姿を見たアンリは、顔をしかめて言った。反対に彼らもアンリの姿を見て驚いた。
「お前も、王家の人間か」
「そうよ」
アンリは答えた。その年恰好には見合わないほど、威厳に満ちた声で。民たちはどうしたものかと思案していたが、中の一人が口を開いた。
「この国の王、つまりお前の父親は、我々の手によって倒れたのだ。この国の王朝は滅びたんだよ」
「お前もすぐ家族のところに送ってやろう」
反逆者たちはアンリにも手をかけようとした。アンリは、変わらず厳しい表情で民を見返す。
「ちょっと待て」
民の一人が、アンリに襲いかかろうとする民たちを制した。
「こいつは、使えるかも知れん。今はひとまず生かしておこう」
その提案は、反逆者たちに受け入れられた。彼らの中でも、実はまだこれからの執政についてどうするか決めかねていた。民たちの中から新しい王をたてると言う者、王はたてずに直接政治を行うと言う者・・・。意見は割れていた。それで民たちは、アンリを飾りだけの王に据え、民の心をひきつけた上で自分たちの意のままに政治を行うことを思いついたのである。アンリは反逆者たちによって、城の一室に幽閉された。
アンリは、恐怖よりも怒りを強く感じていた。まだ十二歳のアンリだが、父の執政を子供なりに見てきた。何が不満だというのか。父は王として、最上の方法で民を治めてきたとアンリは思っていた。確かに砂漠での生活は楽ではない。しかしそれは、王家とて同じこと。献上品は、家族が食べていくのに困らない程度王家に入れ、そのほかは民全体を考えて還元していた。また、外交にも力を入れていた。他の国から優れた技術などを取り入れようと、積極的に他国に働きかけた。そして他国から見くびられないように、国内の整備も取り急ぎ着手した。その甲斐もあって、国は少しずつではあるが豊かになってきたところだった。それなのに、どうして謀反など起こされなければならないのか。
王家の中でも、アンリは特に優れた才女だった。その才を認めた父は、アンリに特別な英才教育を施した。それは将来、第一王子が王となったとき、その彼を手助けするために他ならなかった。アンリには塔の中の一室があてがわれ、王直々に他国から仕入れてきた書物もたくさん与えられた。それでアンリは他国の文化から最新の技術まで、様々な知識を身につけた。それらの知識から父の執政に助言することも、少なくなかった。
そんなアンリであるから、王家としての自負は他の誰よりも強かった。王家の者は気高く、民から敬愛される存在でなければならないと考えていた。アンリは周りから、ませた子供だと思われることも多かった。しかしその発言は的を射ていることが多く、誰もアンリが言うことに異を唱えることはなかった。
幽閉されて二日が経った。アンリは反逆者の一人に連れ出され、城の外へと出た。今日がアンリの王位即位式だというのだ。
城の前には、多くの民が集まっていた。そこには玉座のようなものがしつらえられ、アンリはそこに座るよう言われた。促されて、アンリはしぶしぶその席に座った。
「これより、我が国の王には、ここにあらせられるアンリ=クロウフォード様が即位されることになった。しかし、見ての通りアンリ様はまだ幼いゆえ、執政には私ラルフと、ここにいるクリス、ガイア、セシルらが側近として補佐を行うものとする。ここに、アンリ王の誕生を宣言する!」
高らかに、声明が読み上げられた。民からは拍手が沸き起こったが、その中には反逆に加わらなかった民も多数いた。中には、明らかにこの即位式に疑念のまなざしを送る者や、不安そうな表情を浮かべる者もいた。アンリはそれを静かに見つめ返していた。儀式が終わると、アンリは再び民の一人に連れられ、城の中へと戻った。
アンリは反逆者たちと共に、広間に連れてこられた。そこには、先ほど声明を読み上げたラルフという男と、その周りにいた男たち数名が待機していた。
「これから会議を行う。この国の今後についてだ。方針は我々が決定する。お前はそれを承認し、みなに命を下すんだ」
ラルフは、アンリに一方的に言い渡した。このラルフという男は、先にアンリを生かしておこうと提案した人物だった。どうやら今回の反逆者たちの中でも、リーダー格の人間のようだ。
「クリス、城の国庫にはどれくらいの食料があったか報告してくれ」
「民のおよそ三千戸分だ。搾取されてからそう経っていないから、十分に残っている」
「よし、じゃあそれを六千戸に分配することにしよう。飢えている民から順に渡るようにな」
搾取?飢え?アンリには考えられない言葉だった。献上品はきちんと分配していたし、必要以上に余剰分を催促することもなかった。なのに民は飢えていたというのか。
「ラルフ、隣国から来訪を知らせる書簡が届いているが、どうする」
「そうだな、その返信はお前がしておいてくれ、ガイア。しばらく来訪は断っておいてくれ」
「国庫の食料以外のものは」
「使えそうなものは民に与えてやれ。そうでないものは、金に換えよう。どこかの貿易商が買うさ。セシル、お前に任せる」
義賊だ、とアンリは思った。こんなやり方が正しいわけがない。国は非常時のために備蓄を持っていなければならないし、国庫の品物には、他国との外交で進呈されたものや、この国からの交易の手段として献上品から選んで保管してあるものだった。それを今民に分配したり、換金したりしても、一時的に豊かになったように見えるだけで、後には続かない。こんな義賊のやり方で、国が成り立つわけがない。
「だいたい決まったか。ではお前さんから何か言うことはないか、アンリ王」
ラルフは、口の端に歪んだ笑みを浮かべ、アンリに聞いた。アンリは反逆者たち全員を睨みつけ、言った。
「民を傷つけるようなことだけはしないで。もしもそんなことをしたら、私はあなたたち全員を殺して、民を守るわ」
それからアンリは、本当に命を下すためだけの、人形のような王を演じさせられることになった。その命は、アンリにとってはどれも不本意なことばかりだった。しかし、今のような状況で反意を唱えても、ラルフたちの感情を逆なでするだけだと思い留まった。それに、アンリには気になっていることがあった。ラルフたちが言った、民が飢えているという言葉だ。本当に、民は飢えているのだろうか。城の外の世界など、父が語ることか書物でしか知らなかった。そう、考えてみれば、アンリはこの国の現状をほとんど知らない。本当は民の生活は豊かになどなっていないのかもしれない。ラルフが言うように、今すぐに支援が必要な民が大勢いるのかもしれない。だとしたら、彼らのやっていることを一概に間違っていると断罪してしまうこともできない。そんな気持ちが、アンリに沈黙を強いていた。
しかし、それはラルフたちの陰謀に過ぎなかった。彼らはやはり、義賊にしかなり得なかったのである。そのことを決定づける事件が起きた。
ラルフのもとに、外交関係を任せられていたガイアが飛び込んできたのは、アンリ即位式から一週間ほど過ぎた頃だった。
「大変だ、隣国がこちらへ攻め入ってくるようだ」
それは、宣戦布告を知らせるものだった。ラルフは慌てた。この国の備蓄はほとんど民への分配と、金に換えてしまった。その中には、刀や槍などの戦争に使うものも含まれていた。
ラルフは、換えた金を何に使っていたのか。それは、反逆者たちへの報酬だった。百人ほどを数えた反逆者たちの中には、ラルフに雇われた者も混じっていたのである。半額ほどは公共事業などに還元されていたため、民にはばれていなかった。しかし、戦争となると莫大な資金が必要となる。今は武器もない。ラルフたちは窮地に追い込まれた。
「何でだ。何でいきなり戦争を吹っかけてくるんだ!」
「もしかしたら、王政が倒れたことがばれてつけ込まれたんじゃないか」
ガイアは言った。ラルフは頭を抱え込んだ。
アンリが心配していたことが、現実になってしまった。もともと、砂漠にある貧しい国である。父である前王は、なんとか他国と対等に外交を進めようと、必死でこの国のすべてを注ぎ込んできたのだ。そうした努力が実を結び、今までは隣国ともうまくやってこられた。それが、前王が弑され、今のラルフたちの政治が始まり、これまで積み上げてきたものが崩壊してしまった。特に隣国は、豊饒な土地と高度な文明を持ち、財力もこの国とは比にならないほどの強国だった。そんな国に、ラルフたちのやり方が通用するはずもなかった。実際、隣国からは偵察が入っており、ラルフたちによる架空の王政のこともすべて筒抜けだった。
アンリの部屋の戸が叩かれた。見ると、そこにはガイアの姿があった。
「我が国が宣戦布告された。これより、徴兵を実施する」
ガイアはアンリを連れ、広間へと向かった。
広間には、神妙な顔をした反逆者たちが対峙していた。特にラルフは厳しい表情で、アンリが部屋に着くのを待っていた。
「ガイアから聞いただろう。徴兵の命を出すんだ」
ラルフはできるだけ、動揺を抑えて言った。徴兵さえうまくいけば、後はなんとかなると自分に言い聞かせているようだった。
「できないわ」
「・・・なんだと」
「できない」
アンリは毅然と、きっぱりと言った。反逆者たちの間に冷ややかな空気が流れる。アンリがラルフたちの執政をはっきりと拒んだのは、この時が初めてだった。
「言ったはずよ。民を傷つけることはしないでって。どうしても戦争をすると言うのなら、あなたたちだけでやりなさい」
「断る。相手は大国だ。総力戦でなければ勝ち目はない」
ラルフは苛立ちを隠さない様子で言った。するとアンリは懐から短剣を抜き、ガイアに斬りかかった。剣はガイアの腕をかすり、血を飛ばした。そのままアンリはラルフの懐へ飛び込んだ。しかし短剣は押さえられ、アンリの手を離れて床を弾んだ。アンリはラルフに腕をひねられるように押さえられ、そのまま突き飛ばされた。
「民を守るとは聞いて呆れるな。お前ごときの力で何ができる?何が守れる!守るには力が必要なんだよ!」
ラルフはアンリをまくし立てた。地に手を着いたアンリは、恨めしくラルフを睨み返す。アンリはガイアによって、城外へと連れ出されていった。
「とにかく徴兵だ!今から俺が指揮を執る」
ラルフは他の反逆者たちをあおり、アンリ達の後に続いた。
徴兵が宣言されてから三日が経ち、民が随所から集まってきた。この数十年、戦争などしてこなかった国である。民は皆一様に不安で暗い顔をしている。宣戦布告の期日は、もう明日に迫っていた。兵の指揮は、すべてラルフが執っていた。武器については、反逆者に払っていた報酬をいったん返上させ、貿易商から買い戻した。負けるわけにはいかない。この戦争には、この国の存亡が掛かっている。
アンリは、徴兵の宣言をさせられてから部屋にずっと監禁されていた。もちろん、外の状況などまったく把握できない。アンリはただ、民の無事を祈った。どうしてこんなことになってしまったのか。前王のときは、隣国との戦争など考えられなかった。それなりに友好関係を築いてきたはずである。やはり、執政など経験のない義賊の外交など通用しなかったのだ。アンリは、ただ悔いた。もっと早くラルフたちを止めるべきだった。それが出来なかったゆえに、民は戦争に巻き込まれることになってしまった。悔しくて仕方がなかった。
――守るには力が必要なんだよ!――
ラルフが言った言葉が、胸を刺した。大口だけ叩いておいて、実際自分では民を守れなかった。しかしそれは、ラルフたちとて同じことではないか。いや、彼らは民を守る気など、毛頭なかったのである。自分たちが国を意のままにできればそれで良かった。ラルフたちの目的は、とんでもない独裁国家を作るという野望でしかなかった。
布告当日、朝にアンリは呼び起こされた。いよいよ、戦争が始まるらしい。アンリは王として、民を鼓舞し、隣国への攻撃開始の合図を送る役目が課せられた。
アンリは民を見渡した。誰も彼も、家に妻や子を残して集まってきた者達だ。中には、少年もちらほら見受けられた。アンリは涙が出そうになるのを堪え、ラルフに渡された原稿通りに言葉を発した。
「我々は、隣国から宣戦布告を受けた。今、我々はこの国を守るため、立ち上がるときである。さぁ、同士よ!敵に我らの力を見せつけようぞ」
民の中から、雄叫びが上がった。しかしその声の多くは、そうしなければならないという義務感からだった。
戦争の始まりの合図である旗を立て、アンリは壇を下りた。いよいよ、戦争が始まってしまった。
「少しでも劣勢だと見たら、すぐに降伏するわ」
「まだそんなことを言っているのか。勝たなきゃ意味がないんだ」
ラルフは城のほうから、戦いの動向を見ていた。隣国の戦力を見ると、勝ち目は薄い。しかし、負けることはそのまま、隣国の支配を受けることを意味する。それでは自分たちの思い通りの執政はできなくなってしまう。ラルフたちが王を倒した意味もなくなってしまう。
アンリは、胸が詰まる思いがした。こんなに多くの民が戦いに駆り出されている。自分には何もできない。できることなら、今すぐラルフを倒してでも、降伏を宣言してこの戦いを止めたい気持ちだった。アンリは何度も、ラルフの様子と戦場を代わる代わる見た。
「私も戦場へ下りるわ」
アンリが言った。ここでじっと民が戦っているのを見ているより、自分も戦場へ行って戦ったほうがましだ。自分だけ高みの見物のような真似をしているのは、とても耐えられそうになかった。
「駄目だ。お前は仮にも、この国の王だ。そんなのこのこと戦場に出て、お前が殺されたらそれは隣国の勝利を意味するんだぞ」
ラルフはあくまで、勝つことにこだわっていた。アンリの考えとは平行線のままだ。
「なら、王権を返上するわ。だったら文句ないでしょう」
民を守れない、自分では何もできないような王権に、何の意味があるのか。アンリは、これ以上ラルフたちの人形でいる必要はないと思った。ラルフは厳しい表情でアンリを睨むが、手出しはしなかった。アンリはどうしてもここから出て行く覚悟だった。沈黙の後、ラルフは口端に歪んだ笑みを浮かべた。
「いいだろう。今をもってお前は、王でもなんでもない、ただの小娘になったわけだ。これからは、我々だけでこの国の執政を行う。もうお前の力を要することは、大方決まったしな」
ラルフは愉快そうに言う。アンリは少し不安になった。民のことを思えば、こんな者たちに政治など任せたくはない。結局すべてはあの夜から、王が弑されたあの夜から狂ってしまっていたのだ。
「せいぜい自分の無力さを知るがいい、第一王女」
城に背を向けたアンリに向かって、ラルフはどこまでも嫌味な言葉を吐いた。
戦況は、明らかに自国の不利だった。この刹那にも、民には多くの負傷者が出ているようだ。アンリは、誰が落としたともつかぬ槍を拾い上げ、前線のほうへ向かった。槍は、十二歳の少女が持つにはあまりにも重い。
「何故お前がここにいる!アンリ王」
背後から声が聞こえた。ガイアだった。ガイアは戦場で民と共に戦っていた。
「私はもう王ではないわ。高みの見物なんて御免だもの」
アンリは槍を振りかざし、いよいよ前線へ出て行こうというところだった。その一足先をガイアが行く。
「お前のような子供が戦場で何ができるというんだ。悪いことは言わないから逃げろ」
「嫌よ。私は民と一緒に戦うの。そのためならこの命など惜しくはないわ」
その間にも、いよいよ敵軍との攻防が始まる。ガイアは剣を振り、相手と鋼を交わす。アンリは足元から槍で敵軍を払う。ガイアはどんどん前進していくが、アンリは槍の重みもあって、素早い身動きがとれない。敵も見方も、アンリを覆い隠してしまうほどの人の群れだ。アンリはよろめきながら進むが、どちらを向いて進んでいるのかもわからない。とうとうガイアのことも見失ってしまった。
ふいに、アンリは後ろから強い衝撃を受けた。そのまま、前のめりに倒れる。一瞬、何が起こったのかわからなかったが、背後から何者かに殴られたのだと、倒れながら理解した。立ち上がろうとするが、相当強く殴られたらしく、体に力が入らない。無理に力を入れようとすると、頭部に強い痛みが走る。だんだんと、目の前も暗くなっていくような気がした。駄目だ、立たなきゃ・・・。そう思ってみても、やはり力が入らない。少しずつ意識が遠のいていく。アンリは足掻いたが、どうしても立ち上がることはできなかった。ついにアンリは意識を失った。
ゆらゆらと、揺られている感覚がして、アンリは目覚めた。開いた目に最初に映りこんだのは、茶色の毛並み。そして、砂の地面に映る、動く影だった。アンリは体を起こそうとした。
「不用意に動くと落ちるぞ」
背後から声が降ってきた。聞き覚えのある声だ。声の主はアンリを抱え、起こして前向きに座らせた。そこは駱駝の背の上だった。砂漠が続く平らな土地。周りには何もなさそうだ。駱駝はただひたすら方角も分からないその地を進む。ゆらゆらと揺られながら、まだ起きかけの頭でアンリは今の状況を飲み込もうとした。確かさっきまで、戦場にいて。そう、その後、何者かに襲われて・・・。その後の記憶はなく、今ここにいる状況につながる。どういうことなのか考えようとするが、頭が働いていないせいか、もやが掛かっているようにはっきりしない。仕方なく、アンリはそのまましばらく揺れていた。
広大な砂漠を眺めて、アンリはこの国のことを思った。いつまでも続く、砂の大地。他国へ渡るのにも、逆にやって来るのにも、長い砂漠の旅を要する。こんなところに人が住んでいるなど、誰が想像しよう。そんな土地に王国を築いたのは、アンリの遠い先祖だ。昔、父から聞いたことがある。先祖はその昔、戦争でもとの国を追われた移民の一人だった。移民たちは、手付かずのこの地に住むようになった。人々は、もとの国と同じような王政を、そこでも作ろうとした。そうして、先祖はこの国の王となったのだ。しかし、長年に渡る王政もここへ来て、ついに途絶えることになってしまった。
ふいに、駱駝の足が止まった。砂漠の真ん中である。アンリは男の手で、駱駝から降ろされた。男もそれに続く。
「悪いが、俺ができるのはここまでだ。ここまで来れば誰も追っては来ないだろう」
「・・・どういうことよ、クリス」
アンリは反逆者であるはずのクリスを見返した。あの時、クリスは戦場にいるアンリを見つけた。おぼつかない様子で槍を持ち、敵国の兵に向かっていこうとしていた。戦場にいるのは、大柄な男たちばかり。十二歳の少女は、あまりにも儚かった。
「俺はお前の親父に借りがあるからな。このまま西へ向かえば隣国へ出られる」
アンリはようやく、状況を理解した。クリスは戦場からアンリを助け出し、追っ手の来ないこんなところまで連れてきたのだ。
「勝手なこと言わないで」
「勝手じゃない。お前が死んだら、この国の王政は本当に消滅してしまう。そうしたら、この国は終わりだ」
クリスには、分かっていたのだ。ラルフたちのこんなやり方では、この国は長続きしないと。クリスはアンリにこの国の希望を託していた。アンリはクリスの意外な発言に、何も言えなくなってしまった。
「ラルフには、お前は死んだと言っておく。お前は隣国へ出て、とにかく生き延びろ。そしてこの国を救ってくれ」
「・・・本当に、勝手な人たちね」
クリスは初めて、アンリに頭を下げた。そして自分が持っていた水筒をアンリに渡し、黙って駱駝の背に乗り、今まで来た道を戻っていった。長い長い砂漠の道を、ただひたすら進んでいく。アンリは、クリスの姿がそれとわからなくなるまで、その場でただ見送っていた。砂漠はどこまでも広大で、燦々と照る太陽は、果てしない空を青く輝かせていた。
✻ ✻ ✻
広大な砂漠の中に、アンリはいた。とりあえず、西と教えられた方角に歩き出す。照りつける日は、刺すように暑い。体中から汗が噴き出してくる。砂の地面は、アンリの小さな足をも呑み込んで、歩くだけでも重くのしかかる。アンリはそれでも、ただひたすら前に進む。
これから、一体どうなってしまうのだろうとアンリは思った。クリスは生き延びろと言ったが、そもそもこの状況で、生き延びることなどできるだろうか。砂漠は、どこまでも続く。もしかしたら、この道中で干からびてしまうかもしれない。王家に育ったアンリは、このような長い旅路を歩いたことがなかった。
太陽は少しずつ、西へと傾いているようだ。その方角を目指すが、まだ街の一端さえも見えてこない。アンリはクリスから受け取った水筒を開け、中の水を口に含んだ。もう随分減ってしまった水を飲むことさえも苦痛なほどに、アンリの体力は奪われていた。さらに、どこまで歩いても先が見えないという事実に、アンリの心は何度も折れそうになった。
それでも、たどり着かなければならない。
今やこの国の命運は、アンリに掛かっているようなものだ。王政を倒したラルフたちは、結局のところ国を運営していく能力を持ち合わせてはいなかった。王亡き今、隣国と交渉のできる唯一の可能性はアンリが握っていた。なんとしても隣国にたどり着き、この国を存続させなければならない。しかし、とアンリは思う。この国の支配権を欲するがゆえに、戦争を起こした隣国である。いまさらアンリが何かを訴えたところで、果たして聞き入れてくれるだろうか。今の自国に隣国との交渉に切れるようなカードは残っていない。しかもラルフたちは、宣戦を受けてしまっている。アンリは絶望的な気がした。それでも、歩みを止めるわけには行かなかった。これは王家に生まれたさだめなのだと、自分を奮い立たせた。
ふと、遠く前方、アンリが向かうその先に、黒い点のようなものが現れた。アンリは、この暑さで何か幻覚でも見ているのだと思ったが、それは次第に大きくなっていくようだった。しばらくして、それは何か黒い物体が自分のほうに近づいてきているのだということが分かった。決してアンリの方から近づいているわけではない。それとは比にならない速さで、アンリのほうへ向かってくる。アンリも、不思議に思いながら歩を進めた。だんだんと、そのものの輪郭が明らかになってきた。体は黒い布のようなもので包んでいるようだ。頭の先には黒い鳥の羽のようなものがついている。人間で言う顔の辺りには、ほとんど黒く塗られた、木彫りの仮面のようなものをつけている。足も手もなく、布をずるようにして砂漠を進んでくる。それはまるで、アンリを目指して進んでくるようだった。そしてついに、それはアンリの目の前にたどり着き、止まった。
それは、近くで見るとアンリよりも背が高く、何か不気味な格好をしていた。仮面には穴がなく、こちらをのぞいている様子もない。白く描かれた目はおどろおどろしく開いていて、アンリを見つめているようだった。それはアンリに降り注ぐ太陽の光をさえぎるようにして立ち、ただ沈黙している。背に太陽を浴びるそれはいよいよ黒く、アンリの前を退く気配もない。ここまで立ち止まるまいと歩いてきたアンリは、その得体の知れないものに行く手を遮られ、もうそれをよける気にもなれなかった。今まで保ってきた緊張の糸が、立ち止まることで切れてしまったようだ。
「あなたは何者なの?」
やっとの思いで、それだけ聞いた。しかし、それはやはり沈黙したままだった。アンリは体力の限界を感じていた。次第に、目の前の光景が霞み、遠のいていく。目の前の黒い仮面もぼやけていく。ついにアンリは気を失ってその場へ倒れた。
それは、黒い深い闇に包まれるような感覚だった。まるで、ちょうど目の前の黒ずくめのものに覆われてしまうような感覚。そうだ、あれは使者だったのだと、アンリは思った。自分を死の世界へ導く、漆黒の使者であったのだと。アンリは、砂漠の真ん中で力尽きた。その体を、魂を死者の世界へいざなうのだと、アンリは理解した。不思議と絶望は襲ってこなかった。それは、ある程度予想していた結末だったからかもしれない。やはり、クリスの言うようには生き延びられなかった。仕方がない。奇しくも、ラルフにクリスが告げたのと同じ結果となってしまった。もう諦めるしかない。そこまで考えて、アンリはさらに深い闇へと呑まれていった。
しかし、アンリは目覚めた。自分では死んだと思い込んでいたが、それはただ気を失っていたに過ぎないようだ。体を起こし、辺りを見渡した。そこは寝室のようだった。ベッドにはきちんと天蓋が張ってあり、調度品も揃えられている。一見、アンリの自室のようにも見えるが、違和感があった。アンリはベッドを出て、窓の外を見た。そこは街だった。アンリには見覚えのない、繁栄を極めた街。建物はどれも大きく、道路も整備されている。
「お目覚めになりましたか、お嬢様」
女の人の声がして、アンリは部屋の入り口のほうを見た。そこには給仕の格好をした、育ちのよさそうな女性がいた。女性は持っていたトレイを机の上に置いた。
「お嬢様って、私のこと?」
アンリは訝しげに問うた。女性は少し驚いたように、そうでございますと答えた。女性はアンリの横へ来て窓を開け、ベッドのシーツを手際よく替える。アンリはぼんやりとその様子を眺めていた。
「お水を、飲まれたほうがよろしいかと。何も口にされていらっしゃらないので」
女性は思い出したように言った。言われてみれば、アンリは喉が渇いていた。気を失う前から既に、水分は不足していたはずだ。女性はトレイの蓋を開けて、中から水を取り、アンリに注いでくれた。
「・・・ありがとう」
アンリはやはり戸惑いながら、その水を受け取った。水を飲むと、今までいかに喉が渇いていたかを実感した。一杯すべてを飲み干しても、すべてどこかに吸い取られてしまったようで、とても満たされない。女性はアンリの様子を見て、空のカップに再び水を注いでくれた。アンリはその水もすべて飲んだ。
「お腹も空いていらっしゃるでしょうから、どうぞ召し上がってください。ここに置いておきます」
女性はそういって、部屋を出て行った。見ると、女性が置いたトレイには、パンとチーズやハムが載せられていた。
アンリはさらに戸惑った。こんなにも尽くされたのは初めてのことだった。王家とはいえ、貧しい国であるから、給仕などは使っていなかった。食事は家族一緒に城の食堂で食べた。その他のことも、基本的には自分でしていた。お嬢様などと呼ばれたのも初めてだった。この慣れない待遇に、アンリは少し不安になった。ここは、一体どこなのだろう。
それでもアンリは机の前に座り、出されたものを食べた。食べるとやはり、お腹が空いていたのだと気づく。とりあえず、空腹が満たされれば少し落ち着けるかもしれない。アンリは一人、沈黙の中でパンとチーズとハムを食べた。
食事を終えると、アンリは再び窓の外を見やった。見たことのない、豊かな街。自国ではないことだけが明らかだ。これだけの発展を遂げるには、相当の技術が必要なはずである。このような街は書物の中でしか知らない。開け放たれた窓からは、心地よく風が吹き込んでくる。
「お食事は済まれましたか、お嬢様」
先ほどの女性が、トレイを下げにやって来た。アンリが食事の礼を言うと、女性はにこやかに微笑んだ。女性が部屋を出ると、今度は入れ替わりに執事風の男性が顔を見せた。
「アンリ様、お目覚めになりましたか。大変喜ばしい。王があなたをお待ちです」
その男性は、アンリを部屋の外へ誘導した。王?アンリはようやく状況が飲み込めてきたようだった。ここは、隣国の城内なのだ。男性はたいそうにこやかに、アンリを階下、王の待つ応接室へと案内した。
部屋はたいそう豪華だった。きらびやかな内装、赤と木目で統一された椅子、大きなテーブル。自国とは比べ物にならない。そしてその部屋の奥に、隣国の王、フェリスⅢ世がいた。
「よくお目覚めになられた、アンリ殿!さあこちらへ」
案内されるままに、アンリはフェリスの前に座った。今戦争をしているのだということを、忘れてしまいそうになる待遇だ。
「一刻も早く、アンリ殿とお話せねばと思っておりましたよ。何度も書簡をお送りしたのですが、お耳には届いておりませんでしたか」
書簡など、もちろんアンリには届いていなかった。外部との連絡は一切、ラルフの指示のもとガイアが行っていた。アンリの耳に届くのは、形ばかりの報告と承認の要求ばかりだった。そんなことが続くので、フェリスは痺れを切らし、偵察隊を出した。そこで知ったのが、第一王女であるはずのアンリが王に任ぜられ、周りで見知らぬ人間が政治を司っているという、驚きの実情だったのだ。
「一体、あなたの国はどうなってしまったのですか」
「王が・・・私の父が弑されたのです」
フェリスはアンリに同情するように、苦渋の表情を浮かべた。アンリの父である前王のことは、フェリスもよく知っていた。外交への力の入れようも、フェリスが一目おくものがあった。だからこそ今まで、対等な外交関係を築いてきたのである。アンリは、今までの顛末を事細かに説明した。
「それはそれは。辛い思いをされましたな。できることなら、救って差し上げたかった」
フェリスは大げさに嘆いて見せた。しかしアンリは冷静だった。
「では何故、私の国と戦争を」
「アンリ殿。あなたほどの才と知識をお持ちの方なら、わかるはずです。アンリ殿やあなたの国を救いたい気持ちはある。しかし私だって、この国を守り、発展させる義務がある。外交は慈善活動ではないのですよ。私にできることは、あなたの国の政権をその反逆者たちから奪い、その上で支援をすることだけです。仕方がないことなのです」
外交が慈善活動ではないことくらい、重々知っている。そのために父が重ねてきた苦労を、アンリは父のすぐそばで見てきた。だが、少しでも自国を助けようという気があったなら、戦争などではなく別の方法で救って欲しかった。民が傷つくことのない、何か別の方法を探して欲しかった。そうでなければ、こんな方法では、
「偽善だとお思いですか」
アンリはどきりとした。考えを見透かされているようだった。
「・・・まあ、幼いあなたに理解しろというのは、無理かもしれませんな。今におわかりになりますよ」
そうだろうか、とアンリは思った。民を犠牲にする方法など、いつまでも使いたくないと思った。
それからは、今後のことについて話し合いが持たれた。とりあえず戦争は一時停戦とするということで、戦場に通達を送った。隣国とは協定を結ぶ予定が決まった。その協定の条件として、アンリを再び、今度は正式な王に据え、政治的な補佐には隣国の経験者をつけるということで話がまとまった。
応接室に案内してくれた男性に再び付き添われ、アンリは先ほどの部屋へと向かっていた。目覚めたときは日が高く上っていたのに、今はもう暗がりが外を支配していた。
「私は、どうしてここにたどり着いたのかしら」
ふと、アンリは言った。アンリは確か、隣国に来る途中の砂漠で倒れたはずである。何か、得体の知れない黒いものに行く手を阻まれて。
「おや、ご存知ではなかったのですか。我が国の使者があなたをお連れしたのです」
「使者?」
その男性が言うには、この国からアンリを迎えるための使者を送ったそうである。それは隣国で影の使者と呼ばれる、黒の衣をまとった、影のような存在なのだという。アンリは、道中に出会った謎の黒い影を思い返した。あれは、隣国の使者だったのか。とても不気味な、あの仮面の顔。一度見たら忘れられない。アンリはそれきり、何も言わずに廊下を進んだ。あちらこちらの窓からは、穏やかな夜の街が見えていた。
朝になった。晴れ渡った空からは、燦々と日が降り注いでくる。城内は、にわかに騒がしくなった。アンリを正式な王に据えるべく、隣国から多くの賢人を引き連れて、義賊・ラルフたちの支配する「月をあおぐ砂の国」へと出発するのだ。
フェリスの率いる部隊は大所帯となった。その中に混じって、アンリもいた。異国の、それも幼い少女は、部隊の中でも特異な存在だった。アンリの傍らには、こちらで目覚めて初めに給仕をしてくれた女性が付き添った。
長い、長い道のりを、アンリは不安な思いで過ごした。フェリスたちは、アンリが当初思っていたのとは随分良い待遇で迎えてくれた。自国のことも、とても親身に考えてくれているようだ。しかしアンリには、まだ疑いの念があった。フェリスは本当に自国を助けてくれる気でいるのだろうか。アンリにはフェリスが本当は何を考えているのか、理解できなかった。一度戦争を吹っかけた国である。本当に、信じていいのだろうか。アンリが浮かない顔をしているのを察してか、給仕の女性はいろんなことをアンリに話してくれた。隣国の発展の歴史、各地で開かれるユニークな祭り、街に住みついている、たくさんの猫のこと。女性はいつも、笑顔で話した。アンリも少しずつ元気が出てくるような気がした。
国境を越え、自国へと入った。それでも、城のある街へ出るには、砂漠の道が途方もなく続く。そう、この道。クリスによって街からこの砂漠まで連れてこられた。水が乾ききるほどに歩いて、影の使者に出会った。そしてまた、知らないうちに隣国へと運ばれ、王であるフェリスに会った。この道がすべてをつないでいる。これからのこの国の運命さえも。
途方もない距離を進んで、部隊はついにラルフたちの占拠する城へたどり着いた。その頃には、もう日が傾きかけていた。
ラルフたちは、城の中に立てこもっているようだった。辺りは静かで、民の姿も見えない。部隊は、到着を知らせる笛の音を鳴らした。
しばらくの静寂の後、ラルフたちが城から出てきた。先頭に立ったラルフは部隊を見て、何が起きたのかわからない様子だった。部隊の中から、フェリスがラルフたちの前へ歩み出た。
「私は、あなた方の隣国の王、フェリスと申します。我々はあなた方と、一つの交渉をするためにやって参りました」
フェリスはラルフに握手を求めた。ラルフもそれに応じる。双方、厳しい表情のままだ。
「交渉の内容は」
ラルフが尋ねた。どちらも一歩も引かぬという空気が、その場一体を支配していた。
「それはもちろん、この戦争のことです。私はできれば、この無益な戦争に早く終止符を打ちたいと考えています」
「それで」
「戦況は、あなたもご存知でしょう。このまま戦争を続ければ、あなたの国は確実に敗北する」
ラルフはいかにも不機嫌そうにフェリスの話を聞いていた。確かに、戦況は不利だった。それを知った上で戦ってきたのだ。フェリスの口ぶりは、ラルフたちに降伏を促すようにしか聞こえない。しかし降伏してしまっては、ここまでラルフたちがやってきたことが、すべて無意味になってしまう。ラルフは黙ったまま、フェリスを睨んでいた。フェリスも相変わらず厳しい表情で、しかし少しの余裕を感じさせる態度で続けた。
「我々も、ただで戦争を終わらせることはできません。そのための条件は、たったひとつです」
「ひとつ?」
ラルフは訝しげに聞いた。それは降伏せよということではないのか。
「我々との国交を以前と同じように続けたいと、もしあなた方がお望みならば、この国の第一王女、アンリ殿を王に据えていただきたい」
ラルフは眉間にしわを寄せた。アンリは自ら戦場へ赴き、そこで死んだとクリスから聞かされていた。
「その第一王女は、亡くなられたはずだが」
「いや、生きてるんだ」
そう告げたのは、クリスだった。ラルフは疑いの目でクリスを見る。
「もう、わかっただろう。俺たちではこの国は保てないんだ」
諭すように、クリスは言った。もしかしたら、逆上するかもしれない。はじめから熱意を持って国に反旗を翻し、逆賊の指揮を取ってきたのがラルフだった。クリスも傍らで、そんなラルフの姿を見てきた。自分たちで、理想の国家を作る。そのためには手段を選ばなかった。ラルフの語る国家像を、クリスは何度も聞いた。それに共感したからこそ、仲間としてラルフを助けてきた。しかし、理想だけでは国はままならなかった。隣国からの停戦告知がなければ、今頃はこの国の敗戦が決まっていたことだろう。だからこそ、クリスはアンリを助け、今ラルフを説得しているのだった。ラルフはしばらく表情を崩さなかったが、やがてため息をつき、フェリスに向き直った。
「わかりました。あなた方の条件を呑みます。それでこの戦争が終わるなら」
終戦が決まった瞬間だった。隣国の部隊の人々も、再び平和が訪れたことを喜び合った。ラルフは観念したというように肩を落としたが、少しだけ、その表情には安堵が見て取れた。クリスもようやく一安心という気持ちだった。部隊の中から、一人の幼い少女、アンリが姿を現した。歓喜やざわめきが、一瞬静まった。アンリはラルフの目の前に進み、しばし対峙した。最初に口を開いたのは、ラルフのほうだった。
「俺の負けだ、アンリ王。いい国にしてくれよ」
アンリは何も言わず、ただ勝気な笑みを浮かべた。それを見たラルフも、口元を歪ませて少し笑った。その場に、再び歓喜の渦が巻き起こった。
アンリを正式な王に据えた、新しい王朝が今、始まった。
✻ ✻ ✻
城内の執務室の机で、アンリは多忙を極めていた。一度傾いてしまった国を立て直すには相当のエネルギーが必要だった。隣国の助けがなければとても元のようには行かないほど、国の状況は逼迫していた。フェリスは、幼い王アンリを快く支援してくれた。物資だけではない。隣国から政治補佐としてやってきた人々も皆優秀で、アンリを力強くバックアップしてくれた。
「フェリスって、実はいい人だったのね」
ぽつりと、アンリがこぼした。補佐の一人であるジルが、その言葉を聞いていた。
「素晴らしいお方ですよ。だからこそ、我が国はあれほどまでに発展できたのです。今頃お気付きになったのですか」
ジルはアンリを揶揄したが、気にならなかった。ジルは大変陽気で、その上頭もよかった。補佐の中でも、アンリが一番信頼している相手である。昔は、フェリスの一番の側近として、王の周りの事務をすべてこなしていたそうである。その仕事ぶりは、他のものが口を挟むこともはばかられるほど完璧だったという。しかもジルは、それが楽しいことでもあるかのように、その多忙極まる仕事をこなすのである。今回補佐でやって来た中にも、ジルと共に仕事できることを誇りに思っているものが少なくなく、そういった者たちをまとめるのにも一役買っている。
アンリが王位に就いてから、城には来客も増えた。アンリが苦労して国を立て直そうとしていることを知り、雑務を手伝いに来てくれる者、国の整備のために雇った人たち、そして、様々に意見を言ってくれる者。民から幅広く意見を聞くことが、より良い国を作るためには必要不可欠であると、アンリは学んでいた。そうして城を訪れる者の中に、ラルフたちの姿もあった。はじめ、アンリはラルフたちを処罰するつもりでいた。アンリにすれば、愛する家族を奪った上、国を傾けた憎むべき者たちだ。しかし、ジルはそれを制した。ジルはアンリの心を察しながらも、それは国のためにならないと諭した。ラルフたちが、どうして反逆など起こそうとしたのか。もしかしたら、国政の中に誤りがあったかもしれない。それは民の中に不満として蓄積し、いつか今回のような惨事を引き起こしてしまう。だから、ラルフたちのような者にこそ意見を聞くべきであり、それを真摯に受け止める心の広さが必要なのだと、ジルは訴えた。アンリは、渋々彼らを放免した。しかし、ジルの言葉は正しかったとアンリは思い知る。ラルフたちは実に協力的に、国政について意見を述べた。
広大な砂漠に抱かれ、厳しくも人々が生活する「月をあおぐ砂の国」。再興は、まだ始まったばかりである。アンリが、民が描く理想の国。目指したその先に、希望に満ちた国の姿があるように。人々の願いは、今日も明るい月の光に照らされている。
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