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精神疾患

微かな希望と「やはりか」という現実

作者: 酒井順

 この歳(五十数歳)になって読書感想文を書こうとは思いもしなかった。昨日に図書館から借りてきた本を100ページほど読み進めると、なるほどと思う部分が多々存在した。しかし、読みすすめた本の内容が片っ端から忘れ去られていく。そういうわけで、最初から読み直し記録しておくことにした。最終ページを捲ってみると、400ページ近い番号がふってある。興味深く読み終えることを期待しているが、いつものように途中で放り投げるかもしれない。書籍の名は「脳を変える心」著者:シャロン・ベグリー/訳者:茂木健一郎である。


 僕の本の読み方は娯楽本でないかぎり、素直な気持ちと懐疑的な気持ちの両面で読み進める。そうでないと新しい知識は身につかないし、思い込みが発生すると思っている。いくつか、あるいは多くの書籍が一方的な持論の展開であったり、本質的な部分が少なかったりする。これは僕の読書力の低さが原因なのかもしれないが、それを誰も肯定も否定もできないだろうと思う。読んでいるのは自己であり、他者ではないのだから当然のことであろう。そうやって読み散らかした本が僕の通う図書館に多数ある。そして、最後まで読破し新しい知識を身に付けたとしても、それが役に立ったことはほとんどない。無駄な読書であるのかもしれない。


 さて、読書感想文であるが、これは本の概要と僕の私見や思うことなどを交えて記録したいと思う。

 この書籍はダライラマ14世と科学者のディスカッションの記録が主軸となっているとされている。最初の方に結論めいたことが書かれている。それは「脳には可塑性がある」ということだ。可塑性を独断と偏見で説明すると「変化を維持できる」となるであろうか。つまり「変わり維持して変わり」と進化していくということである。これを人の成長と照らし合わせると至極当然のことのように思える。しかし、20世紀末頃まで、脳神経科学者はこれを否定し、成体脳(大人になった脳)は「変化することができない」ということを定説としていたようだ。ところが、脳に可塑性があるということが、科学で証明されたようである。ダライラマも著書の中で「脳は柔軟である」と説いているそうである。

本の内容を忘れ去ったと思って読み直してみたが、不思議なことにあまり重要なことは書いていないようだ。上述のようなことが書いてあるだけだった。


 半分近くまで読み進めると、筆者のなんとしても可塑性の根拠を伝えたいという思いが伝わってくる。僕にとっては、可塑性の存在は当然のことなのであまり重要な文章ではないようだ。僕が医者や研究者であれば興味をひかれる文章なのであろうが、僕はそういう者ではない。

 その中で興味をひくことは「ニューロン(神経細胞)は新生され、脳の在り方(配線)が変わる」と主張されていることだ。脳の在り方とは、考え方を示すようである。

 可塑性を促す原動力は「豊かな環境や経験である」とされている。「豊かな」とは何とも曖昧な表現である。「経験は自発的な行動でなければならない」とされているが、これも釈然としないものを感じる。しかし、この可塑性をいい方向に促せば精神疾患(うつ病など)に効果があるかもしれないと主張している。また、思い遣りや利他的な考え方も育つようである。

 1昨年に「脳内革命」という書籍を読んだ記憶がある。同じような主張をしていたと思うが、その本は途中で放り投げた。文章力の違いであるのか、結論へのアプローチの仕方の違いであるのか分からないが、現在読んでいる本は放り投げずに興味深く読んでいる。

 尚「脳内革命」の作者は10冊くらいのシリーズ本を出版し、ベストセラーとなったらしいが、ある理由で当局に逮捕されたようでもある。


 「脳内革命」に触れてから2、3ヶ月後にニューロン(神経細胞)について調べた。その時に理解し難いニューラルネットワークの存在に疑問を持った。脳には約1000億個のニューロンが存在するとされている。そして1つのニューロンは平均して2000本以上のシナプスを持つようでもある。しかし、そのシナプスのほとんどがニューロンへの入力である樹状突起であり、側枝の存在は確認されているものの出力である軸索は基本的に1個のニューロンに対し1本のようである。

 この情報だけから導きだされる結論は、期待感溢れるニューラルネットワークではなく、酷く脆弱なニューラルネットワークとなってしまう。何故なら入力が多く出力が少なければネットワークは尻すぼみとなり、やがて数個のニューロンにたどり着いて終末となってしまうからだ。ネットワークのループを構成することは可能であろうが、それでも脆弱さは残ると思う。そこで思いついたのが、ネットワークはシナプスによるものだけではなく受容体も寄与しているのではないかということだった。

 情報伝達という意味ではシナプスも受容体も同じ機能を持つ。緻密さには欠けるかもしれないが、より広範囲のニューロン群に対しての情報伝達は受容体を用いた方が便利であると思われる。

 それでも脳内に1000億個ものニューロンが存在することに疑問を感じる。痛点などに代表される五感だけでは、やはり入力と出力の数の違いが説明できないような気がするのだ。脳内に痛点に類する第6感的な入力ニューロンの存在を思ったりもする。僕の脳内でニューラルネットワークが何かを思い違いしているのだろうか。それともやはり情報が足りないのであろうか。


 新しい知識も得た。それは神経幹細胞の存在である。この幹細胞は多分化細胞であり、細胞分裂を起こし、1方は神経幹細胞として残り、1方は新生ニューロンとなるようである。この新生ニューロンが人の脳を進歩させるようである。残った神経幹細胞はテロメラーゼ酵素により、テロメアの短縮を防ぎ、延々と神経幹細胞たるようである。まるで夢の永久機関のようである。通常、細胞分裂が起こるとテロメアが短くなって行き、やがて正常な細胞とはならなくなるようである。老化の原因の1つはこれではないかとされているようである。


 ここまでは全10章の中の第5章までの感想と私見である。さすがに読むことにうんざりしてきた。何故ならば、科学と仏教の接点がもっとあるのではないかとの期待が裏切られたことを感じたためである。または、科学で心の究明がもっと為されていると期待したためである。

 第6章に入り、ダライラマが脳外科医たちに尋ねる場面が描かれていた。このとき「来た!」と思った。脳外科医はダライラマに説明する。心的状態とは、脳に流れる電気信号や化学反応による結果であると。ダライラマは反論しなかったようだ。反論しても無駄であることを悟っていたからのようである。

 そこからまた科学的視点にたった文章が最後まで続く。当然のことながら淡い期待と共に読み飛ばしてしまった。


 その途中で、別な経路で掴んだ内容が記述してあった。「説明のギャップ」である。それは、科学は客観的な視点にたって脳や心を説明しようとするが、心や意識は主観的なものであり、その間を補う方法はないとする立場の論のようである。またはギャップそのものの議論がされることもあるようである。僕は客観性と主観性を補うことは難しいのではないかと思っている。

 意識のハードプロブレムやクオリア問題も同じように主観性を扱うが、おそらく暫くは結論がでないであろう。

「創発的唯心論」というものも記述されていたが、これを自分なりに解釈すると「全ての脳のパーツが解明されたとしても心は浮き上がってこない」となる。結局のところ単なる主張である。


 修行を積んだ高僧が被験者となり、瞑想状態と非瞑想状態の脳波の測定を行ったようである。また非修行者との違いも測定されたようである。その結果ガンマ波に顕著な違いが見られたようである。これは精神が脳波という物理現象に影響を与えたという微かな証拠であると思う。


追記

 ダライラマに尊称を用いるべきか考えたが、用いないことにした。理由はダライラマが尊称に対して特別な不快感を持たないであろうという推測と尊称は僕の心の中にあればいいと思ったからだ。これも主観の為せるところである。


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