第2章_2.1_水辺に生ける者~
ある日。自分の子供の様子がおかしいから見てくれないか? という母親からの相談を美幸は受けた。母親の名前は吉高和美。
美幸はその依頼人からすぐに妖気を感じ取った。
「――先週末の事です。家族みんなで近くの川原に遊びに行ったのですが、そこで秀が、あっ、秀ってうちの子の名前なんですが、昼御飯を食べたあとに魚を捕まえに行くと言いだしまして、一人で遊びに行ってしまいました。そして、しばらくして戻ってくると、もう様子がおかしくなっていたんです」
「……おかしいとは、具体的にどのように?」
人でなければ憑き物でもない。美幸の目の前にいるのは正真正銘の妖怪だった。外見は年相応の婦人だが……。
いい度胸と言うべきか、それとも転換師を罠にハメようとしているのか……。美幸は見極めきれずに、話を聞きながら些細な仕草にも注意を払った。
「絶えず何かを探しているような様子で、どうしたの? と聞いても何も答えませんでした。しかし突然、夜中に夜を家を飛び出してしまったのです。それ以降、昨晩まで三日間も行方がわからなかったんですよ」
しかし秀くんは問い詰められても、何も覚えていないと繰り返すだけだという。
「だったらとりあえず、秀くんに合わせて下さい」
その言葉に真っ先に反応したのはイズナだった。
「おい、美幸。罠だったらどうすんだ?」
その鼻先に手を出し小声で答えた。
「そのときはそのとき」
こうして美幸は、上京後初めての〝出張〟をすることになった。
都心から離れた北関東のある川沿いの小さな町。そこが依頼人の住む町だった。
吉高家の居間では、依頼人の和美が秀と恐縮そうに縮こまっていた。なぜなら訪れたのが美幸だけでなく和人と大もいたからだ。二人は不機嫌なまでの妖気を惜しみなく放出している。
いつまでも二人を部屋に閉じ込めておくわけにもいかず、訓練を兼ねて連れ出してきたのだ。
あの日、新川邸が火災に遭って二人が憑依された日。封印するための人形がなかったから転換の儀式をあきらめたが、今なら結構な数の人形を購入できたし、その気になれば封印は可能だった。
しかし美幸はそれをしなかった。今は封印すべきでないと感じたからだ。古狐狸虚と邪蛇が和人と大に憑依しているにも拘わらず暴走できない理由、それはもう一体づつ憑依した妖怪、烏山天狗と犬神が背後でコントロールしているからだと考えた。
その理由は美幸には分からないが、何故かあの強力な妖怪を押さえつけてくれている。もちろん最悪の事態を想定し、封印に必要な人形を十体ほどスーツケースに詰めている。
秀は十歳の男の子で、縮こまりながらも好奇心があるのか、美幸達を盗み見ていた。
「こんにちは、秀くん。私は新川美幸って言うの。よろしくね」
秀は紛れもなく人の子供だが、憑依されていた。様子が変わったというのは嘘ではないようだ。
それはさておき、吉高和美が何も仕掛けてくる気配がなかったので、美幸の頭の中では幾つもの『?』が並んでしまった。
(妖怪の母親に憑依された人間の子? どうやったらこんな組み合わせになるのよ……)
この状況を観察していたイズナが囁いた。
「あのガキに取り憑いているのは、河童だな。けれど母親は……」
「そうね。河童なら大した妖力は持ってないから簡単なんだけれど……」
美幸も小声で返した。吉高和美は本物の河童なのだ。本物の河童が人に化け、同時に人間の子供に憑依している。それを美幸に封印させようと、自作自演の演技をしているようだ。
全くもって意味不明だった。
「ああっ、もうまどろっこしいわね」
髪を掻きむしるようにイラつき、美幸は吉岡和美を指差した。
「あんた、一体何がしたいの! あんたが自分であの子に憑依してんでしょ?」
吉高和美は黙ってコクッと頷いた。
「へ?」
呆気なく認めたので、美幸は肩透かしを食らった。
「くっくっくっ……」
肩でイズナが笑いを堪えている。
その美幸の肩が震えだした。
「そ、そんなに封印されたきゃ、さっさとやってやるわよっ!」
美幸はポケットから指輪を取り出すとテーブルの上に置き、次に人形を取り出そうと鞄にてを伸ばした。しかしその直後、予想外の出来事が起きた。
それまで大人しかった秀が突然、テーブルの上の指輪を奪い、そのまま玄関から飛び出してしまったのだ。
あまりにも突然の出来事に美幸もイズナも呆気に取られて、すぐに追うことが出来なかった。
新川家に代々伝わる『霊音の指輪』が奏でる音には、憑き物の力を弱らせる働きがある。強力な妖気を持つ妖怪にはとくに有効で、転換の際に暴れて憑かれた人に危害が及ばないようにするために必要なのだ。
「な、な、何にーーーーっ! い、イズナ、追いなさいっ!」
「お、おう」
「あんた達はここでこの女を見張っていなさい」
和人と大にそう言い残して、イズナに続き美幸も出て行った。
「河童のくせに、河童のくせして、なめてんじゃないわよっ!」
このときの美幸は、憑かれたのかと思われるほどの、鬼の形相だった。
**
工事中の堤防。逃げた秀を追ってイズナはやって来た。様々な工事用重機が置かれているが、今はひっそりと眠っている。休工日のようだ。
「隠れても無駄なんだがな……ん? そっちか」
イズナに遅れること数分。ようやく息を切らせた美幸が追い付いた。
「お、ようやく来たか」
「はぁ、はぁ。い……イズ……河童は……ど、どこ……行ったの?」
それを冷ややかな目で見るイズナ。
「なぁ美幸。お前、最近運動不足だろ? 転換師は体力も必要だぞ?」
「い、言われ、なくても……分かって、るわよ。そんなこと」
ようやく息が整ったのか、いつものすました顔でイズナを見下ろした。
「で、あのガキ……じゃなくて、秀くんは? まさか見失ったなんて言わないわよね?」
「俺を誰だと思ってんだ? 場所も特定済みだ」
「どこよ?」
「それがちょっとおもしれえ事になってんだ」
「面白い事?」
「ああ。ガキならあそこの小屋にいるぜ」
立ち入り禁止の工事現場。そこに建てられたプレハブ二階建の建物をイズナは鼻で指した。工事現場の事務所のようだ。
「あそこで間違いないの?」
「ああ、間違いない。しかも他に五人ほどいるぜ」
美幸の眼光が鋭くなった。
「分かりやすく端的に説明しなさい」
「ガキの他にガキがもう一匹と、虫の息の爺さんがいた」
俺が知るかよ。場所は押さえたんだから、あとは踏み込んで連れ出しゃいいんじゃねえの? まあ、そう上手くいくとは思えねえが」
「それもそうね。じゃあ、ちゃっちゃと終わらせようかしら」
「待ちなさい」
背後から声をかけられ驚いた美幸が振り向くと、そこには吉高和美の他、和人と大の三人がいた。