9.変わらないこと
季節は何事もなく移り変わっていく。私と先生の間にも、特別大きな出来事なんかはなく、穏やかに日々が過ぎていくだけ。
あの女子生徒が先生に何を伝えたのか…、私には知る由もない。先生は何も言わないし、何も変わらないから、私が介入することなどできないのだ。
別に私が気にすることじゃない。
私は先生のことを信頼しているから。今は決して付き合っている『恋人同士』ではないけれど、お互いの気持ちは同じはずだから…。だから私が不安になる必要なんてないのだ。
それなのに…。どうしてこんなにモヤモヤした気持ちになるのだろう。
(もし先生が、私から離れて行ってしまったら?)
そして他の誰かのもとへ行ってしまったら。
(正直に言えば、私は怖いのだ)
信頼するための拠り所が、私にはお互いの気持ちを伝えあったあの時の出来事でしかない。今の私たちの関係を簡単に言えば、結局のところは『教師と生徒』でしかないから。
こんなことを言って先生を困らせるのは嫌だから、ずっと胸の奥にしまっていた気持ち。あの光景を見てしまった日から、私は何も変わらない、私と先生の関係に少しだけ不安を覚えていた。
「もうすぐ、夏休みですね」
進路指導室で、ジリジリと聞こえてきた夏の風物詩の音を聞きながら、桜井先生はそう微笑んだ。
「そうですね、だけど毎日学校です」
はあっとため息を吐いた私に、先生はニコニコしながら、「僕もです」と笑う。
「でも先生は楽しそうですね…」
不思議に思ってそう呟くと、先生は俄然張り切った様子で大きく頷いた。
「夏休みは受験生にとって大事な時期ですからね。僕も出来る限りのことはサポートしないと!」
先生を見ていると、時々、先生は本当に『教師』という仕事が好きなんだろうなぁと感じることがある。生徒一人一人の対応を面倒臭がったり、避けたりしない。いつも真剣・丁寧に接してくれる。
「夏期講習、僕も古文の授業担当していますから、いつでも質問受け付けますよ」
「やったー、勿論先生の授業も取りますからね」
「そうですか!それじゃ更に頑張らないと!」
アハハ、と先生が軽く笑って、私も同じようにアハハ、と笑ったつもり、なのだけれど…。
(さり気なくそういうこと言われるの、ビックリする)
頬が熱くなるのを感じながら、私は小さく深呼吸をして心臓を落ち着かせた。
ハァ…。
「ねえ、日高さん」
コトリ、とコーヒーカップを置いて、先生が私を見つめた。
「はい?」
「来週の土曜日、どこかに行きませんか?」
コーヒーを飲もうとしていた手が、固まった。
へ?
「どこでも、いいんですけど。ホラ、勉強の息抜きになるかもしれないし」
心臓がドキドキと高鳴って五月蠅い。今の状況を理解しようとすることに精一杯で、返事をすることまで頭が回らなかった。
「…どう?」
こんなことを言われたのは初めてだ。
何これ?
…デート?
「日高さん?」
「わっ!」
目の前に先生の顔がやってきて、ついビクッと肩が震える。
「あ、ごめん」
「いっいえっ、こちらこそすみません!なんか、驚いてしまって」
そう言うと、先生はクスクスと笑って「そうですよね」と告げた。
「無理しなくていいですからね」
「違うんです、そんなこと全然なくて…。凄く嬉しいです」
「本当?じゃあオッケーてこと?」
「おっけーですっ」
勢いよく返事をすると、先生は安心したように微笑んで、再びコーヒーに口づけた。
「良かった」
あくまで私は普段通りの態度を装っていたけれど、先生からの突然の誘いに、胸の中は喜びと驚きがごちゃ混ぜになって、先程よりも騒がしくなっている。
休日に、先生に会えるなんて。
今までは学校で会うことばかりだったから、こんなことがあるとは思ってもみなかった。
(どうしてだろう)
コッソリと先生の表情を覗き見たけれど、その様子からは何も汲み取ることはできなくて。
「どうかした?」
「いえっ、何でも!」
先生は相変わらずの表情で、私に微笑みかけるだけだった。




