8.一方通行
補習の授業が始まっても、私はただぼんやりと先生の話を右から左へ聞き流していた。
何も頭に入ってこない…。
先程遠回りして補習の教室にやってきたとき、丁度携帯のバイブが震えた。
『今日、10分ほど遅れます。待たせてごめんなさい。用事が終わったらすぐ進路指導室に向かいますね』
桜井先生からのメール。
きちんと私のことを考えてくれている。先生だって大変なのに、そんな素振りを見せようともしない。
前に先生は、私が何も言わないから心配だと言ったけれど、先生だって私に何も言わない。私を不安にさせないように、優しい態度を保ってくれている。
きっとこの後先生に会っても、先程あったことなんて何も言わないのだろう。何もなかったかのようにいつも通りの笑顔で、私を迎えてくれるはずだ。
けれど…。
私はあの場面を見てしまったから、きっとぎこちない態度をとってしまう。変なことを言ってしまったらどうしよう。せっかく先生が気を遣ってくれているのに。
もし、あの子が先生に告白していたら…。
その後に先生と会うのが怖い。私は一体、どんな表情をしたらいいのだろう…。
『突然すみません。今日は体調が悪いので、真っ直ぐ帰ります。ごめんなさい』
気が付けば、そんなメールを打っていた。
会いたいけど、会えない。
送信ボタンを押す。
こんな風に桜井先生から逃げるのは、初めてだ。
補習の授業が終わって、教室を出ようとしたとき、ポンと背中を叩かれた。
「どうした、友紀」
「え?」
野島くんが怪訝な表情で立っている。
「いや、授業中ボーっとしてたからさ、何かあったのかと思って」
「あれ、見られてた?」
「ああ。一時間中ずっと―…って、いや…」
「え?」
「いや、何でもない」
何故か野島くんが眉を寄せて変な顔をした。そんなにおかしな様子だったのかと思い、私は焦って手を振る。
「大丈夫、ちょっと、具合悪かっただけだから」
「大丈夫じゃないだろう。早く帰った方がいいよ、何なら送るけど」
「ほ、ほんとに大したことないから!」
何だか余計な心配をさせてしまったことが申し訳なくて、無理矢理笑顔を作って野島くんに向き直った。それでも野島くんは私に付き添いながら、教室から下駄箱までゆっくり歩いてくれた。
「ありがとう」
「俺は別にいいけどさ。体調には気を付けないと」
いつものようにふざけたりしない返事に、本気で悪い気がしてしまった。今日はきちんと家で大人しくしていようかな…という気にさせられてしまう。
「うん、そうだね。このところ忙しいから」
「勉強ばっかりだしな。友紀も息抜きしたほうがいいよ」
「息抜きかあ…」
私にとっては、桜井先生に会うことが良いリフレッシュになるのだけれど。自分自身で、それをなしにしてしまった。今日はこれで、良かったのだろうか。
少しだけ野島くんと話をして、そろそろ帰ろうと靴を履いて立ち上がった時。すぐ側の階段から降りてくる人物と目が合った。
「あっ」
思わず私が発した声に、野島くんもつられて視線をやる。
「桜井先生」
「日高さん」
なぜここに先生が、と私は驚きながらも、そんな動揺に気づかれぬようごく自然に微笑んでみた。
「補習終わって、今から帰るところなんです」
「そうですか、二人とも遅くまでお疲れさま」
桜井先生もいつも通りの笑顔で、私たち二人の顔を見比べている。そうして私の方に向き直り、笑みを潜めて静かに問いかけた。
「体調、大丈夫ですか?」
「あ…、はい。大丈夫です、大したことないので」
「そう、それなら良かった。じゃあ、気を付けて帰って下さいね」
先生はそう言って軽く会釈をし、下駄箱の前を通り過ぎていった。小さくなる足音を聞きながら、先生にもまた余計な心配をかけさせてしまったな、と罪悪感を覚える。
「じゃあ、私帰るね」
そう言って野島くんを振り返ると、彼は目を見開いたまま不思議そうに、先程先生が通り過ぎていった廊下の奥を見つめていた。
「野島くん?」
「先生、なんで友紀が具合悪いこと知ってるんだ?」
ドキリとした。
そんな私の心境を見透かそうとするかのように、野島くんは私の目をじっと見つめてくる。
彼にそんな気持ちにさせられるのは、もう何度目なのだろう。
「さあ…、私の顔色、悪かったからじゃない?」
「ふーん…?」
納得していない返事。
それ以上追及されたくなくて、私は「またね」と言い捨ててその場を後にした。上手い言い訳なんて、今は何も思いつきそうにない。ただでさえ野島くんには言い訳など通用しそうにないのに。
背後からの視線を振り払うように、私は足早に校門を出た。




