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4.名前の呼び方

 夏服がヒラヒラと舞い始める、この時期。

 教室内は白黒が乱れあって、統一感がない。まだ冬の装いだったり、涼しげだったり。

 私は後者の方で、早速夏服に袖を通している。

「日高さん」

 ザワザワと騒がしい校舎内で、珍しく声を掛けられた。嬉しさよりも驚きの方が大きくて、途端に心臓が高鳴りだす。

 ドクン、ドクン。

「さ、桜井先生」

 ニコニコと微笑んでいる桜井先生は、丁度職員室から出てくるところだった。あまりにも先生が自然に呼び止めるから、周囲は誰も、何も怪しんだりはしない。私一人が、いつも挙動不審になってしまうだけ。

「今日からは、もうすっかり夏ですねぇ」

 私の制服を指して、先生がしみじみと呟いた。

「はい!ちょっと早いけど、涼しいです」

 真っ白な衣装は明るく、気分まで晴れやかにしてくれる。服装が変わるだけで、学校内の雰囲気も何だか開放的なものに見えた。

「夏は良いね」

「先生は夏が好きなんですか?」

「うん、好きだよ。空気も青空も気持ちいいからね」

 先生は廊下の窓を開けて、深呼吸しながら視線を上空へと向けた。その動きにつられて私も同様に目をやると、雲一つない澄み切った青色が空いっぱいに広がっている。思わず外に出て、走り出したくなるような。

「私も、夏は好きです」

 サラリと髪を揺らした風は、既に初夏の装い。夏本番はまだ先だけれど、一足先にやってきた季節は、暑くて、けれど爽やかな空気を纏っていた。

「今から補習?」

「そうです。先生は?」

「僕は、もう少ししたら進路指導の先生方と会議です。きみたちの将来にかかわる、重要な話し合いに参加してきますよ」

 エヘンと腕を組んで、少し威張った態度の先生が可愛らしくて。私はついクスクスと笑ってしまった。

「あ、馬鹿にしてるでしょ」

「ふふ…いえいえ、してません」

 ほんとかなぁ、と尚訝しがる先生にばれないよう、私は何とか緩み出しそうな口元に力を入れた。

「日高さん」

「はい?」

 先生の瞳に映る、私の姿。不思議そうな表情をしているが、特別特徴があるわけでもない、どこにでもいる普通の生徒。

 そんな私を真っ直ぐ見つめながら、目の前の人は穏やかに口を開く。

「最近、進路の相談を受けることが凄く多いです。どこの大学に行こうか、どうやって勉強したらいいのか、とか。考えすぎて、体調悪くしちゃう人もいるくらいです。だから…」

「…?」

「だから、何か悩みがあったら、ちゃんと僕に言ってくださいね。勉強のこと、進路のことは勿論ですけど、そのほかのことも。きみは何も言わないから、心配になるんです」

「先生」

 普段はあまり気に止めないけれど。

 桜井先生は、本当に真面目に私の事を考えてくれているのだと思う。時折、その口調や表情などで、それを強く感じさせてくれる。そんな時私の胸は、嬉しい、なんて言葉じゃ足りないぐらい、ぽかぽかと暖かくなるのだ。私と先生はいつでも会って話せるわけじゃないから、尚更。

 こんなに幸せでいいのかと不安になってしまうぐらい。

「…ありがとうございます。でも、私のことなら本当に、大丈夫です!」

 だからこそ、あまり先生に心配をかけさせたくないと感じてしまう。今は確かに受験に対する不安はあるけれど、それも漠然としたものだし、受験生なら当然のこと。自分でどうにかできることは自分で解決できるようにならなければ…。

「そう…。でも」

 と、先生が何かを言いかけた途端。

「友ー紀っ!」

「!!」

 背後から、滅多に呼ばれることのない呼び方で誰かが私の名前を呼んだ。

 咄嗟に振り返ると、渡り廊下の手前で立ち止まって、右手を挙げている人物がいる。彼はそのまま屈託のない笑顔で、

「今日、補習だろ?早く行こう」

と告げた。

「の…野島くん!?」

 突然で、色んなことに驚いて…収まっていた心臓が再びドクドクと高鳴りだす。

『友紀って呼んでいい?』

 先日、野島くんに言われたこと。結局冗談のようになってしまって、曖昧なままでその会話は終わってしまった。だから改めてそう呼ばれると、驚きやら照れやらで開いた口が塞がらない。

「ほら、早く!」

「ちょ。ちょっと待って…」

 手招きする野島くんに、後で行くから、と告げようとした時、背中にトンッと圧力が加わった。

「行っておいで。僕の事は、気にしなくていいから」

 背後から耳元で、桜井先生がそう告げる。

「で、でも…」

「また今度、話しましょう。彼、待たせるの悪いし」

 先生は相変わらず優しく微笑んで、私を後押しする。私としては正直先生ともっと話をしていたいのだが、そんな風に言われてしまうと何も言えなくなってしまった。

「…はい。すみません」

「何で謝るの?」

 …確かに。

 といっても、私が謝ったことに特に深い意味は無かったのだけれど。

 だけど、先生にはもう少しぐらい残念がってくれてもいいのになぁ…なんて、内心密かに思ってしまったのだ。自分勝手なことだと分かっているけれど、心の中ではどこかそんな期待をしていた。そんな自分が恥ずかしくて、ついつい頬が熱くなる。

 クス。

 先生が私を見つめながら、小さく微笑んだ。不思議に思い、顔を上げると。

「彼はいいですね。君を名前で呼ぶことができて」

 ポツリと囁くように、先生は私にそう告げた。

「…へっ」

「何でもないです。それじゃ、補習頑張ってくださいね」

 そのまま背を向けて、先生は職員室の中へと姿を消した。一方私はというと、ぼんやりその場に突っ立ったまま、頭の中では先生の言葉がぐるぐると回転し続けていた。

(何それっ!?)

 先生にとって、私の心臓を早くさせることなど本当に容易いことなのだろう。ジットリと体が熱くなって、頬の火照りが冷めてくれない。それでも何とか足を動かして、廊下の突き当たりの壁にもたれていた野島くんの所まで行くと、野島くんは私をチラリと見てフンッと笑った。

「顔、真っ赤」

「っ!!」

 ズバリ指摘され、更に頬が熱くなる。

 何も言い返せずに口をパクパクさせている私を一瞥して、野島くんは笑いながらも呆れたような表情でさっさと歩き出した。

「ほんっと。友紀って分かり易いね」

「な!何が!?」

「何が、って…。そんなこと、言わなくても分かるじゃん」

 ギクリ。

 フと嫌な予感がして、思わず立ち止りそうになった。けれど野島くんは私のことなどお構いなしで、どんどん進んでいってしまう。これ以上彼に問うと何か嫌な事を聞かれそうで、私は心の中でもう黙っておこうと決心した。

「友紀ー、遅い」

「あ、ゴメンー…っていうか!そ、それ!」

「え?」

「友紀って!」

 突如思い出して声を荒げると、野島くんはハァッ、と大きくため息をついてチラリとこちらを振り返った。

「今更?もーいいよ、驚かせようと思ってたんだけど、たいした反応じゃなかったし」

「じゅーぶんびっくりしたよっ、突然呼ぶし、大声だし!」

 必死になって主張する私を見て、野島くんはようやく面白そうに、ニヤリと口の端を上げた。

「ふーん、ならよかった」

 満足したようなニンマリ笑顔。それに対して私はただ、ハハ…と引き攣り笑いをするしかない。

(野島くんって…絶対Sだ…)

「何考えてるの?」

「べ。べつに」

 私がそうはぐらかすと、それでも野島くんは「ふうん」と面白そうに笑っていた。

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