2.偶然か必然か
「それじゃ、気をつけて」
「はい。失礼しますー」
進路指導室の前で挨拶をし、桜井先生の視線を背中に感じながら下駄箱へと向かった。
人気の少なくなった校内。暗くなり始めた空のせいか、少しだけ不気味だった。それでも自習室用に指定されている空き教室の前を通ると、白い蛍光灯の中に沢山の人影が映っていた。
(みんな勉強してるんだ…偉いな)
高校三年になり、周囲は途端に受験勉強一色の空気に変わってしまった。
授業中も、休み時間も、放課後も。
進学校だからということもあるだろうが、気がつけば教師やクラスメイトの口からそんな会話が聞こえてきて、少々ウンザリしてしまう。
仕方のない事なのだけれど…。
毎月週末に行われている模擬試験や、毎日のようにある補習の存在も、更に私を憂鬱にさせた。学校全体で大学受験に力を入れているため、朝や放課後、そして隔週で土曜日にも特別補習が開講されている。予備校に通う生徒もいるが、この学校の生徒の大半は受験勉強を学校の補習で補っていた。
私もその中の一人なのだが、どうも自習室のあのピリピリとした空気に馴染めないのだ。そのせいで私が勉強する場所といえば、専ら図書館か家の自室だった。
あの場所にいると、見えない圧力に押し潰されてしまいそうで。
私自身、自分が精神的に弱い事はよく自覚しているつもりだ。だからこそ…この先の受験勉強に対しても不安が押し寄せて来る。
(今からこんなんじゃ、先が思いやられるよ…)
『気楽にいかないと、ね』
先ほどの、桜井先生の台詞が頭をよぎった。
確かに私は考えすぎなのかもしれない。余計なことに囚われているせいで、勉強のモチベーションだって下がってしまうし、体にも良くない。
(気楽に、気楽に…)
先生に言われた言葉を反芻しながら、一人ウンウンと頷いた。
「大丈夫。だって私には、桜井先生もついてるんだし…」
そう自分を励まして、下駄箱から靴を取り出した時。
「ね、きみ」
「わあっ!!」
突然後ろから肩を叩かれて、心臓が口から飛び出そうなほど驚いた。その拍子に手を離してしまい、持っていた靴がバタバタッ、と床に散乱する。
「…ゴメン。そんなに驚くとは思わなくて…」
振り向くと、そこには私と同じぐらい目を丸くして驚いている男子生徒が立っていた。直接知っているわけではないが、その顔には見覚えがある。
確か、同じ学年の…。
「私こそ、ゴメン、ビックリさせちゃって…!まさか人が居るとは思わなかったから」
そう言いながら、まだ心臓はドキドキと高鳴っていた。こんな風に知らない人から話しかけられることなんてそうそうないから、何だろう?と頭の中をフル稼働させてみたけれど、やっぱり分からない。
「いやいや、俺の方こそ。別に用ってわけじゃないんだけど、さ」
目の前の彼は、そう言って爽やかに笑った。訳が分からなくて首をかしげると、彼はサラサラの髪の毛を揺らして、
「いや、きみさ、数学の補習の時、よく隣に座ってるだろ。だからつい、話しかけちゃって」
とまた爽やかな笑顔で告げるのだった。
そう言われてみて、ああ、と納得する。通りで見た事がある訳だ。数学の補習は海ちゃんも隣にいるからあまり気にしていなかったけれど、他の補習でも見かけた事があるような気がする。
「そうだった。結構、補習被ってるよね?」
「うん。俺もきみのこと良く見かける」
数えてみると、数学・化学・英語・世界史…何気に4つも同じ補習を採っていたことが判明した。
「はは、じゃあ週4回も会ってたんだな」
「凄い偶然だね!」
そう言って私が笑うと、突然彼はジロジロと私の顔を眺めながら、その笑顔のままポツリと呟いた。
「コーヒーの匂い、するけど。飲んでたの?」
鋭い視線は、真っ直ぐに此方へと向かってくる。思わずドキリとして、その視線を受け止めきれずに私は目を逸らした。
「う、うん。そこの自販機で…」
何故か、そんな嘘を吐いた。
ただ肯定しておけば良い事なのに、わざわざ言わなくてもいいことまで付け加えてしまったのは、どこか後ろめたい気持ちがあるからだろうか。
桜井先生とコソコソ会っていることに。
「へえ…。良い匂い」
彼はそう言って少しだけ微笑んだ後、
「じゃあ、またね」
と手を上げて先に下駄箱から出て行ってしまった。
…何だったんだろう。
ボンヤリと立ちすくんだまま、彼の後姿を見送る。結局、名前すら聞けなかったが、何となく独特な雰囲気を持つ人だな…、と感じた。
上履きから正靴に履き替えて下駄箱を出ると、広いグラウンドが目の前に広がっている。野球部がボール拾いをしていたり、陸上部がストレッチしていたり。そこではまだ明るい掛け声が響いていて、静まり返った校内とは大違いだ。
先程の彼は、部活の邪魔にならないようにグラウンドの端をゆっくり歩いている。
(名前はまた、今度聞けばいいか)
どうせ明日の補習でも会うのだろうし…。
そう頭を切り替えて、私はグラウンドを背に正門へと歩き出した。




