(1)三十路男のお目覚めと瑛花さんの『初めて』の想い出
12歳の女のコの心理なんて理解しようとしたってなかなかどうして難しい。
なにぶん多感な思春期なのだし、ましてや相手は女のコ。
それでも女性経験豊富なイケメン男子だったらなら、幼い乙女心の機微ってヤツを少しは読み取ることができるのかも知れない。
しかし残念な───それはもう色んな意味でホントに残念な甲斐性なしの三十路男なんぞに、そんなデリケートなものを理解するのは至難の業だ。
意味不明な難癖つけて怒り狂うクレーマーを柔和な表情で迎え撃ち持てる語彙を駆使して適当に煙に巻いてお帰りいただくミッションや、理不尽な怒りをブチまける上司にペコペコ頭を下げまくりつつおべんちゃらを連発して従順な態度を見せて怒りを鎮めてもらう業務の方がよっぽどカンタン。
だが、理解せねばならない。
読まねばならない。
その乙女心というやつを可能な限り把握せねばならない。
どうすれば笑ってもらえるか。
どうすれば喜んでもらえるか。
どうすれば、
───キスを許してもらえるか。
目下、瀬上時臣32歳の攻略目標は、愛しい幼婚約者───南城瑛花12歳・小学六年生───のセカンドキスにあった。
そう。瑛花さんとちゅーしたい! したいったらしたいんじゃあああああっ!
んァ? ロリコン? うっせー!
ロリコンじゃねーっつの! 惚れた相手がたまたま12歳の小学六年生だっただけやっちゅーに!
なんか文句あるのか畜生めーッ!
あの小振りで可愛らしいぷるぷるの唇にぶちゅーっとしたいんだよ! ぶちゅーっと!
もう一度! いやもっと!
ちゅーしたい! 吸いつきたい! できればベロちゅーまでしたい!
すっっげ気持ちイイっての! いやマジ最高だっちゅーの!
蕩けるんだよ! 蕩けちまうんだよ! イロイロと!
ああああああああああ──────っっ!
瑛花さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!
───とまあそんな訳で、甲斐性なしの冴えない三十路男は、今、虎視眈眈と瑛花の唇を狙っているのである。
◇◇ ◇◇
11月の最終週。クリスマスまで1ヶ月を切った、日曜日の朝。
時臣は頬をペチペチ叩かれる感触と、
「朝ですよ。朝。そろそろ起きてください。まったくもう……。ほらほら、朝です」
という可愛らしさ中に凛とした涼しさを帯びた声で目を覚ました。
まだ重い瞼をなんとか開く。
ぼんやりとした視界は、こちらを上目遣いで見つめている瑛花の整った顔立ちで占拠されている。その表情は呆れと若干の苛立ちに彩られてジト目。だが頬に朱みが差していた。
「ん、ようやくお目覚めですか? そろそろ放して欲しいんですけど」
瑛花は視線をこちらの胸許に落とし、ちょっと恥ずかしそうにモゾモゾと身を揺らす。
───んあ? はなす? なにを?
覚醒直後のまったく頭が回っていない状態で、時臣は手脚に少し力を込めてみる。
途端に身体中にとても心地良いふにふにとした柔らかさと温もりが感じられ、シャンプーと石鹸の香りに若干の寝汗というかフェロモンというか『女のコのニオイ』が混ざったほのかに甘い匂いが鼻孔をくすぐってきた。
───いい。これすっげくいい。
ベッドの上、二枚重ねの掛け布団の重みの下で、瑛花の華奢な身体を抱き枕よろしく両手両脚でしっかりホールドしているのだった。左手は瑛花の両肩に回ってその身をしっかりと抱き寄せ、右手は細い腰に添え、両脚は向こうの両脚を絡めとっている状態。こちらが放してやらなければ、瑛花は抜け出すことが出来ないような有様になっている。
───そっか。
ようやく合点がいった。
同居するようになって半年。
それまではベッドに瑛花、床に敷いた布団に時臣がそれぞれ寝るようにしていた。
しかし一昨日の金曜の夜、抱き枕代わりになれと瑛花に言われてからは、このベッドで自分も寝るようになったのだ。そして就寝時には手脚をピンと伸ばしてされるがままに抱き枕役に徹してはいるものの、起床時には自分もしっかりと幼い婚約者の身体を抱きしめているようになっている。いくら「お触り厳禁」と言われていても、かわいい瑛花に抱きつかれていたら自然と抱きしめ返してしまうのだ。これはもう仕方がない。なにせ寝ている最中のことなんだし。無意識の所業なんだから。
つまり現在の状況は、この世で最も幸せな状態のひとつなのだ。
ベッドの中で愛しい女のコを抱きしめて寝てる。これに勝る幸せなんて、そうそうありはしないだろう。
なるほど。うん。これは最高だ。手放すことなんてとても出来やしない。
「……ふぁ~あ」
欠伸をひとつ。再び瞼を閉じて、
「んにゅ。おやすみ瑛花さん」
甘い匂いを漂わせる小さな身体をぎゅっと抱きしめ直し、その幸せな温もりを互いのパジャマ越しに味わいながら瑛花の頭頂部に頬擦り。絹糸のようなサラサラの髪に鼻を埋めつつ微睡みの中へ戻ろうとする。
えも言われぬ幸福感に胸がいっぱいになりかけたところで、
「起・き・な・さ・い」
「痛…っ?!」
頬を思いっきり抓られた。
「今何時だかわかってますか?」
瑛花の少し不機嫌そうな声。
「もう9時半です。朝ご飯の支度するんで、起きてください」
「やー」
抱きしめる手脚により力を込めて身体と身体を密着させる。時臣は甘えた口調で、
「日曜なんだしいいじゃんん~。も少しこうして寝てようよぉ~」
言って瑛花の頭にちゅっちゅ、とキスしてみせた。
瞼は意地でも開かない。この心地良い極上の温もりを手放すつもりなどサラサラない。男の意地にかけて。
「じゃ…そーゆーことで」
再度頬を抓られた。
「ダメです。起きてください」
「やーやーやっちゅーに」
「ふ~ん……そうですか。そういう反抗的な態度をとるんですか。わたしに。あなたが」
「瑛花さん好き好き~♡」
「……今すぐ起きないと、もう口利いてあげません」
「お、おはよう瑛花さんッ」
男の意地はあっさり放棄。
お目めパッチリ。手脚を弛めて胸許に抱き寄せていた瑛花の顔を見下ろす。叱られた仔犬のような顔つきで、
「も、もう起きたよ? ほらバッチリ。ね? ね?」
両手を挙げて降伏を意を伝える。
情けないと言うなかれ。
瑛花に口を利いてもらえないというのは、時臣にとって地獄も同然なのだから。
「最初からそうすればいいんです。まったくもう……」
解放された瑛花は掛け布団を捲り上げ、キビキビとした所作で身を起こした。
腰下まで届く長い髪を手櫛で梳きつつ、
「おはようございます、時臣さん」
こちらを見下ろしてくる。
その仕草がまたなんともたまらなく愛しく感じ、時臣の頬が自然と緩む。
「瑛花さん…おはよっ」
「……………………」
「…………ん?」
ニヤける頬もそのままにじーっと瑛花の顔を見上げていると、またもジト目で睨まれた。
「まだ起きないんですか?」
「おはようのちゅーしてくれなきゃ起き上がれないなぁ~」
「……………………」
「……にへ♡」
数瞬の間の見つめ合い。
「……まったくもう」
溜め息ひとつ、瑛花は身体を傾けた。
時臣の頭の脇に手をついて覆い被さるように顔を寄せる。長い髪がサラサラと肩口から零れ落ち、二人の視界を周囲から閉ざしていく。
「ホントに仕方のないヒト。───んっ」
ちゅっ、と。
時臣の左頬にその唇が触れる。
じんわりと広がっていく温かみは、まるで天の甘露のようで。脳髄を甘い痺れで満たしていく。
時臣の顔がだらしなくデレデレになった。
ガバッと身を撥ね上げるや、
「瑛花さんっ♡」
瑛花を抱き寄せてその頬やら額やら耳やら瞼やら、とにかく顔中あちこちにちゅっちゅとキスの雨を降らせていく。───唇を除いて。
「瑛花さん♡ 瑛花さん♡ 瑛花さんっ♡」
「ああもう、鬱陶しいっ」
瑛花は顔を真っ赤に染め上げて両手で時臣を突き放そうとする。
「なんでそう、あなたは、わたしが、わたしのことが、んん…っ」
「むちゅっちゅっちゅっちゅ♡ 好きだよ♡ ちゅっちゅ♡ 愛してるよ♡ ちゅちゅっちゅ♡ 瑛花さん♡」
死んでも放さんとばかりに瑛花の頭の後ろを右手で抱え込み、
「んん───っ」
時臣は遂には唇を突き出して瑛花の唇を塞ごうと迫っていく。
パシーンッ
即座に左頬を思いっきり引っ叩かれる。
「ななななっ、何考えてるんですか! ふざけないでくださいッ! わたしまだそんなの許してません!」
拒絶の言葉とともに腹を思いっきり蹴り飛ばされた。
ちなみに瑛花は姉の瑛実と同じく空手を修得しており、少年部2級・茶帯である。文学少女然とした見た目に反し、それなりの武力を有しているのだ。
その本気蹴りを喰らって吹っ飛ばされた時臣は、後頭部を壁に打ちつけてひっくり返る。
「むぎゅうぅぅぅ~」
「───まったくもう。ふんっ」
瑛花はサイドテーブルに置いておいた自分のメガネを手に取り両手で掛けた。左手の薬指には小さなダイヤを戴いた指輪がキラリと輝いている。
ピクリともしなくなった時臣を一瞥すると、髪をバサッと翻してベッドから降り、そのまま足早に寝室を出て行った。
ベッドの上には、締まりない表情を浮かべたままで気絶しかかった時臣の身体が横たわったままである。
「こ、この選択肢は……ダメ…か」
半開きの口からそんな言葉が漏れた。
◆◆ 瑛花のノート ◆◆
まったく、まったく、まったくもう。
なんであのヒトはあんななのよ。
ちょっとはムードとかデリカシーとかないのかしら。
なんだってあんな───ホントにもう!
20歳も年上のクセに、なんで本能丸出しで行動するのよ。
もっとちゃんと考えてほしいのに。
本当になんなの。まったく。
やっぱりわたし……甘やかしすぎなのかしら。あのヒトのことを。
うーん。これはもっとちゃんと教育する必要があるわよね。
はぁ……。ホントに仕方のないヒトなんだから。
わたしの気持ちくらい、ちゃんと考えてほしいのに。ちっともわかってくれないんだから。
まったくもう。
あ~あ。
あの時は、あの時は───ちょっとだけ、ちょっとだけはいいなって思ったのに。よかったのに…ね。
ホントに……ホントにもう!まったくもう!
◆◆ ◆◆
「婚約指輪を買いに行こうね」
時臣がそう言い出したのは、瑛花の両親に婚約を許された日の翌日の夕方のことだった。
奇しくも同じ日曜日。
午前中から二人で実家と『こちら』を何度も行き来して瑛花の荷物をあれこれ移し終え、一息ついてお茶をしていた最中のこと。荷物の移動には時臣のジャガーを使ったため、何往復もかかった結果半日仕事となったのだ。
「わたし、まだまだ成長期ですからそんなの要りません」
そう言ってみたものの、
「いいからいいから。とりあえず見るだけでもさ」
時臣は半ば無理矢理───彼にしてみれば珍しいことに───瑛花を引っ張って、この辺りでは一番大きなターミナル駅に隣接したデパートへと赴いたのだった。
ジュエリーコーナーにはいくつものブランドの店舗が連なり、煌びやかな宝石やら装飾品やらがズラリと陳列されていた。小学六年生とはいえ女の性質か、これには瑛花も目を奪われずにはいられなかった。
あれやこれやと眺めていく内に、とある指輪に心惹かれた。
それはプラチナ製のリングが流麗なウェーブを描いて小振りなダイヤを上下から挟み込んでいるデザインの一品。凝った細工こそ施されてはいないものの、シンプルが故の確固たる美しさがとても印象的だった。
瑛花が食い入るようにそれを見つめていると、後ろから時臣が顔を覗かせてきた。
「いいのあった? ん、それ?」
そう言うや時臣はすぐさま手近の店員に声をかけた。
「すみません。これなんですけど。このコのサイズに合うものってありますか?」
その女性店員───とても美人だったのを瑛花は今でも覚えている───は時臣が肩を抱いてみせた瑛花を目にした瞬間「えっ?」という驚きをほんの少し顔に浮かべはしたものの、そこは歴とした販売員。すぐさま極上の営業スマイルを浮かべて、
「まずはサイズをお計りいたしますね」
と言って計測用のリングの束を取り出してきた。
初めての経験に緊張して胸をドキドキさせる瑛花を置いてきぼりにテキパキと事は進んでいき、程なくピッタリのサイズの指輪が自分の左手薬指に嵌っていた。
「わぁ……っ」
店内照明を受けてキラキラと輝く0.2カラットのダイヤモンドとプラチナのリングは、弱冠12歳の瑛花にとってこれまで感じたことのない類の興奮と恍惚を味わわせてくれる。
左手を掲げて角度を変える度に煌めくその輝きに、目も心も奪われ自然と頬が上気してしまう。
「気にいったみたいだね、瑛花さん?」
声をかけられるまで我を忘れていた。
ハッとして振り返ると真後ろにはニコニコ顔の時臣がいて、顎に右手を当ててうんうんと頷いている。
「ダイヤも付いてて丁度いい…かな。あー、すみません。これ、いただきます。ああ…このまま着けて行きますんで」
数秒後には店員に向かってそう言っていた。
瑛花は慌てて指輪を外すと時臣の手を引っ張った。
「なななっ、なに言ってるんですか! こんな高そうなのいただけませんッ」
「んん~? でもステキじゃない。気にいったんでしょ? 俺もいいと思うよ」
「そ…それは、まあ……」
「じゃあ、そーゆーことで。これ、買おうね」
「……………………はい」
コクンと頷いた次の瞬間、
「15万7,500円でございます。お支払いは───」
「あ、カードで。一括でお願いします」
という店員と時臣のやりとりが聞えて瑛花は蒼然となった。
15万といえば時臣の月給の6割近い。
そんな高価なものを買わせる訳にはいかない、と焦った。
「と、時臣さん! そんなの高いものいただくわけにはいきません! ダメです!」
上目遣いにそう叫ぶと、時臣は瑛花の目の前に屈み込んで肩を抱いてきた。顔を寄せ耳元で、
「───瑛花さん。瑛花さんの前でちょっとは甲斐性あるトコ見せたいんだよ。だからここはカッコつけさせて?」
そう囁いてきたのだ。
ドキッとした。
胸が高鳴った。
思わず顔がポッと熱くなった。
「で、でも……」
「いいから、ね?」
顔を離した時臣は拙いウインクをしてみせた。
その瞬間───
瑛花の中で、カチリ、と何かのスイッチが入った。そんな風に感じられた。
気がついた時には。
瑛花は自ら時臣の頭に両手を回して顔を引き寄せ、唇を重ねていた。
瞳を閉じてさらに強く吸いついた。
タバコのニオイと海を思わせる香水の仄かな香りがした。
お互いのメガネがぶつかり合うカチンという硬質な音が今でも耳に残っている。
会計を済ませ、専用のケースとブランドのロゴ入りの紙袋を受け取った二人は、デパートの立体駐車場にいた。
瑛花は自分の左手薬指に煌めく指輪をポーッとした表情で眺め続けていた。
時臣に右手を握られフワフワとした足取りでジャガーの助手席にエスコートされる。
ドムン、という独特の音とともにドアが閉められ、回り込んだ時臣が運転席に座ってからも瑛花はポワポワしたままだった。
「随分気に入ったみたいだね。よかった、いいのが見つかって」
身を乗り出して瑛花のシートベルトをセットしながら、時臣がそう言ってきた。
その時の瑛花の頭の中は、キラキラと光を反射する指輪と、さっき自分からしてしまったキスのことでいっぱいだった。
ご機嫌な様子で自分のシートベルトを装着している時臣を横目でチラリと見やる。
「───時臣さん。あ、あの……この指輪、ありがとうございます。大事に…大事にします」
「うん。すっごく似合ってるよ」
「それと───」
瑛花は小さく呟いた。右手で自分の唇を撫でながら。
「さ、さっきのアレ。わたしの……わたしの、ファーストキス、なんです。お父さんにもお母さんにもしたことないんです。誰にも……したことなかったんです。……だから、初めての、キス、なんです」
想い出しただけでも顔中が火照る。瑛花は両手を膝の上で組み合わせてモジモジと身じろぎしてしまう。
女のコの大事な大事なファーストキス。
それを自分からしてしまったのだ。しかも唇を重ねるだけではなく、強く吸いつくようなことまでしてしまった。
それもあのような公共の場で。
本当に顔から火が出そうな気分だった。
しばらく車内を沈黙が覆った。
隣に目をやると、もの凄く嬉しそうに目を細めた時臣が、真正面を向いたまま自分も唇を指先でなぞっていた。何度も、何度も。
そしてやおら瑛花に顔を向け、にっこりと微笑む。
「……そっか。瑛花さんのファーストキス、もらっちゃったんだ。俺が、ファーストキスの相手……か。ぬふふ♡ だったら、その指輪くらいじゃ全然足りないね? 瑛花さんのファーストキスには、ね?」
「そそそそっ、そんなの、知りませんっ」
瑛花は気恥ずかしさに俯いてしまう。
「そう? ん~。これからいっぱい、いーっぱい、愛情注ぐから。俺の可愛いかわいい瑛花さん♡」
時臣はそう応えながらエンジンをかけた。
瑛花の心はまだポワポワしたままだった。まるで宙に浮いているような。
───これが、瑛花が時臣に許した最初のキスの想い出である。
その後正気に戻った瑛花が最初に思ったことは、
「せっかくの指輪も学校には着けて行けませんね」
ということだった。
それを聞いた時臣は翌日の月曜日の朝、職場に電話を入れて午前の時間休をもらい、指輪を着けた瑛花と一緒に晴玉学園初等部の校舎に入った。
瑛花の案内で職員室へ赴き、担任の久我亜希子先生と何やら話をしていた。
そして、何がどうなったのかは未だ不明だが、瑛花は指輪を着けたままで学校生活を送ることが認められたのだった。
以来、体育の授業やお風呂に入る時を除いて、瑛花の左手薬指にはお気に入りの婚約指輪が嵌められている。
時臣にもナイショだが、時々誰も見ていないところで、指輪にキスしたりしているのだ。