第9話 野営
第9話です。
森の中に夜が訪れ、焚き火の灯がゆらめく野営地は、静寂と緊張感が入り混じる空間だった。馬車は林の陰に停められ、騎士たちは交代で周囲を警戒している。
リュシアン・アストリアは、火の近くに腰を下ろし、膝の上に剣を置いたまま、無言で炎を見つめていた。
昼間の黒霧の小規模な襲撃は、一応の収束を見せたものの、戦闘の余韻が体に残る。
肩や腕の筋肉がゆるむと同時に、胸の奥の高鳴りも静かに響いた。
「王子さま、髪、結んであげるね」
突然の声に、リュシアンは思わず顔を上げた。視線の先にいるのは、フィアナ・カルディアだ。
焚き火の光に照らされた彼女の顔は、昼間の無邪気さとは少し違う、柔らかく落ち着いた表情をしている。
王子は一瞬、言葉を失った。
「……は?」
「ほら、戦いで乱れちゃうから、少しまとめた方がいいと思って」
自然体で言う彼女に、リュシアンは頬を僅かに赤らめる。
王族として、威厳を保たねばならない自分が、こうして少女の手元を無防備に見つめていることに、内心戸惑いを覚える。
フィアナは静かに近づき、王子の髪に指を触れた。
手つきは軽く、しかし慎重で、乱れた黒髪を丁寧に整えていく。
その温かさと柔らかさに、リュシアンは胸の奥で小さな動揺を感じた。
心臓の音が耳の奥で響く。自分でも驚くほど、動けない。
「綺麗だね」
その一言は、まるで火のように彼の胸を焼いた。
王族として、日常的に称賛されることはあっても、それは形式的なものだった。
しかし、彼女は自然に、飾らずに褒めたのだ。王子は唇をわずかに噛み、顔が赤くなる。
固まったまま、思わず視線を逸らした。
フィアナは笑いながら髪を結び、後ろでまとめる。王子の首筋に触れる距離もあり、彼は少し息を詰める。
「はい、これで少しは楽になるでしょ?」
「……あ、ああ」
やっとの返事に、彼女はにっこりと微笑む。
自然な笑顔に、王子の胸はじんわりと温かくなった。
普段は抑えていた心の奥が、今だけは彼女の存在によって、柔らかく溶けていく。
焚き火の周囲では、騎士たちが警戒のために、小声で話す音が聞こえる。
森の影は濃く、月明かりが葉の間からこぼれ落ちる。
リュシアンは視線を上げ、フィアナの横顔を見る。
昼間の無邪気な表情とは違い、微かに集中と決意が混ざった表情が、彼の胸に深く響いた。
「王子さま……明日も、一緒に戦うね」
彼女の声は柔らかく、しかしどこか揺るがない決意を含んでいた。
リュシアンは、小さく頷く。
短い返事だが、その中には、言葉以上の信頼が込められている。
些細な行為――髪を結んでもらったこと――が、二人の距離を確実に縮めていた。
焚き火の炎が揺れるたび、二人の影が、互いに近づくように見える。
夜の静寂が、自然と心の距離を縮める。
王子としての責任、威厳、過去の喪失――そうした重みの一部を、フィアナの存在が、そっと支えてくれるように感じる。
夜更け、リュシアンは、焚き火の傍で、深呼吸する。
星空は広がり、無数の光が瞬く。
黒霧の影はまだ消えていない。
だが、誰と共に歩くかは自分で選べる。
隣にいる少女となら、恐怖も不安も、二人で乗り越えられる――心の奥で、初めてその確信が芽生えた。
リュシアンは、初めて心を誰かに開き、安らかな眠りに落ちる。
夜の森の静寂は、二人の距離が少しずつ縮まったことを、優しく見守っていた。
お読みいただき、ありがとうございました。




