第8話 心の距離
第8話です。
旅は一週間目を迎えた。
馬車は山道を越え、黒霧の発生源に、近づきつつあった。
朝の空気は冷たく、息を吐くと白い霧が漂う。リュシアン・アストリアは馬車の窓から外を見つめ、無意識に手を握りしめた。
王族として、四男として、そして“聖女”と呼ばれることに慣れきった自分が、今、初めて自分の意思で行動している。
胸の奥にわずかに緊張が走る。
「王子さま、疲れてるでしょ? 私、肩揉むの得意だよ」
隣でフィアナが笑いながら言う。
普段なら、王子として威厳を守るために断るところだ。
しかし、自然と口が動いた。
「いや、そこまで……」
フィアナは軽く肩に手を置き、手つきはぎこちないが丁寧だった。
驚くほど近い距離に、リュシアンの胸は小さく跳ねる。
威厳を意識すればするほど、素直な自分の心が露わになるのがわかる。
しかし、彼女の存在は、不思議とその照れや緊張を、心地よく変えていた。
昼下がり、馬車は小川のほとりで休憩を取る。フィアナは、水面に映る自分の顔を覗き込み、ふと笑った。
「王子さま、見て! 影も一緒に笑ってるよ」
「……影まで?」
リュシアンは微笑むしかなかった。
どこか可笑しみを含んだその一言に、旅の疲れも一瞬で消える。
だが、森の奥から黒霧の小さな塊が漂ってきた。
風に揺れ、紫がかった黒色の煙のように蠢く。馬車を囲む緊張感。
リュシアンの手が剣の柄に触れるが、フィアナは即座に抜刀し、躊躇なく黒霧を斬り払う。
「すごい……」
リュシアンは息を呑んだ。
黒霧を目の前にしても、彼女の動作は軽やかで、無駄がない。
天才としての剣聖と、日常では無邪気な少女のギャップ――その存在感に、王子の心は揺れる。
「王子さま、見てたでしょ?」
「……ああ」
視線を合わせる。
火照る頬を誤魔化すように、リュシアンは視線をそらした。
普段なら、王族としての威厳を守るためにこんな素直な感情は隠すはずだ。
しかし、彼女の前では、それが無意味に思える。
夕方、馬車は丘の上に停まる。
遠くに見える町と森、そして夕日に染まる山並み。
リュシアンは馬車の手すりに肘をかけ、視線を遠くに投げる。
フィアナは隣に座り、軽く肩を寄せてきた。
距離は自然だが、互いの心が少しずつ近づいていることをリュシアンは感じる。
「王子さま……私ね、あなたと一緒にいると、なんだか安心するの」
「……そうか」
その一言に、胸の奥が熱くなる。
黒霧や戦いへの緊張感があっても、彼女の存在は恐怖を和らげ、勇気を与えてくれる。
王族としての責任を忘れ、ただ一人の人間として感じる安心感――それが今の自分に必要なものだと、リュシアンは初めて認めた。
夜、宿で焚き火の前に座り、二人は沈黙の時間を過ごす。
火の揺らめきに照らされるフィアナの横顔は、昼間の無邪気さとは異なる凛々しさを帯びている。
リュシアンは少し距離を縮め、そっと彼女の肩に触れる。
彼女は驚く素振りを見せたが、すぐに微笑み、肩を軽く預けてきた。
その自然さに、王子は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「王子さま……明日も、よろしくね」
「……ああ」
短い返事だが、そこには言葉以上の意味があった。
互いを信頼し、共に困難に立ち向かう覚悟。
そして、自然体で互いの心を受け入れられる喜び。
寝床に入る前、リュシアンは窓の外に広がる星空を見上げる。
無数の光が闇に瞬き、まるで二人の旅を祝福しているかのようだ。
黒霧の悪意は、まだ消えない。
だが、誰と共に歩くかは、自分で選べる。
隣にいる少女となら、未知の困難も恐れず進める――そう、王子は静かに心を決めた。
その夜、リュシアン・アストリアは、初めて誰かにだけ心を開き、安らぎの眠りにつく。
旅の距離はまだ長い。
しかし、彼とフィアナの距離もまた、静かに近づいていた。
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