第7話 素顔のはじまり
第7話です。
旅に出て三日目。
馬車は緩やかな丘陵地帯を抜け、森と川に挟まれた小さな町に差し掛かっていた。
朝の空気はひんやりと澄んでいて、鳥たちのさえずりが遠くの木々の間から響く。
リュシアン・アストリアは、馬車の中で背筋を伸ばし、窓から景色を眺める。
王子としての務めはもちろん意識していたが、心はどこか軽やかだった。
隣で、フィアナ・カルディアが窓の外を眺め、声を上げる。
「わあ、川の色がこんなに青いの、初めて見たかも! 王子さま、見て!」
「……ああ、澄んでるな」
短く返事をするリュシアン。
彼女の無邪気な感嘆に、思わず頬が緩む。
普段は誰も褒めてくれない、いや、褒めるのも違和感がある王族としての威厳が、彼女の前では無効化されるかのようだ。
馬車が町の入口に差し掛かると、地元の子供たちが興味深そうに馬車を覗き込む。
フィアナは軽く手を振り、にこりと笑った。
「こんにちは! 剣聖のフィアナだよ。王子さまと一緒に旅してるんだ」
子供たちは驚きと憧れの入り混じった目で彼女を見る。
その様子に、リュシアンは思わず背筋を伸ばす。
王族としての威厳を見せねばという思いもありつつ、どこか心地よい緊張感もある。
町に着くと、食料と補給品を手に入れるため、二人は馬車から降りた。
リュシアンは公務的な振る舞いを意識しつつ、周囲を観察する。
だが、フィアナは周囲をキョロキョロと見回し、子供たちに声をかけ、気になる草花を摘んで見せる。
「王子さま、見て! この花、名前知らないけど、香りがすごくいいんだよ!」
「……そうか」
笑みを浮かべながら答えるリュシアン。
普段なら抑えていた感情が、自然に表情に出てしまう。
王族としての威厳を保とうとすればするほど、彼女の天真爛漫さは心地よく胸をくすぐった。
昼食の休憩時、町の広場に腰を下ろす二人。
フィアナは地元の子供たちに剣の基本動作を見せ、軽く斬る練習をさせる。
「ほら、こうやって手首を使うんだよ」
「わあ、すごい!」
子供たちの歓声と彼女の笑顔を見て、リュシアンは心が和らぐのを感じた。戦いに備えて鍛錬する姿も、子供と接する姿も、どちらも彼女の魅力だった。
その後、馬車に戻ると、フィアナがふとリュシアンに視線を向ける。
「ねえ、王子さま。寝顔、すごく穏やかなんだね」
「……そ、それは、見せるものじゃない」
「でも、見ちゃったもん。ふふ、可愛い」
その一言に、リュシアンは頬が熱くなる。
王子として威厳を保つべき自分が、彼女の前では素のまま晒されてしまうのだ。
だが、同時に心地よい。初めて自分の“素”を誰かに見せられる安心感があった。
午後、馬車は町を抜け、森に向かう道へ入る。黒霧の発生地域はもうすぐだ。
リュシアンは警戒を強めるが、フィアナは変わらず軽やかに景色を観察する。
「ねえ王子さま、この木、なんだか笑ってるみたいじゃない?」
「……木が笑う、か」
心の中で微笑みながらも、リュシアンはふと彼女の純粋な視点に引き込まれる。
危険な旅の緊張感があるからこそ、彼女の天然さはより鮮やかに心に映るのだ。
夕方、森の小道で馬車を停め、二人は休憩する。
風に揺れる木々の葉音、鳥のさえずり、遠くに流れる川の音――自然の息吹に包まれながら、リュシアンは初めて旅路の楽しさを感じる。
フィアナは無邪気に小石を蹴り、馬車の周囲を走り回る。
その姿を見て、王子としての重圧が少しずつ溶けていく。
夜、星空の下、二人は焚き火の前に座る。
火の揺らめきに照らされるフィアナの顔は、昼間の無邪気さとは異なる、少し大人びた表情を見せる。
「ねえ、王子さま。私、なんでも聞きたいんだ。あなたのこと」
その一言が、リュシアンの胸に響いた。
これまで誰にも話せなかった思いが、彼女の前なら少しだけ出せそうな気がする。
威厳と責任の狭間で、初めて心が解放される瞬間だった。
馬車の中で眠りにつく前、リュシアンは静かに思った。
黒霧という悪意の残滓があっても、誰と共に戦うかは自分で決められる。
そして、目の前の少女の存在が、旅の困難さを乗り越える力になる――と。
星空を見上げ、初めて胸の奥でほのかな安心感を抱きながら、王子は眠りについた。
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