第6話 旅立ちの朝
第6話です。
王都アルストリアの朝は、いつも静かだ。
四男のリュシアン・アストリアは、城の広間で朝の祈りを捧げていた。
光が大理石の床に反射し、聖堂の窓を通して淡い金色に揺れる。民たちのさざめきはまだ届かず、城下の市場からかすかに漂うパンの匂いだけが、朝の静寂を破る。
「……本当に旅立つのか、俺」
胸の奥にわずかな緊張が走る。王子としての自覚はもちろんある。だが、今回は、初めて自分の意思で同行者を選び、行動する旅だ。
これまで誰かの手に導かれるだけだった自分が、今度は自分の足で歩く。そう考えると、心がざわつく。
侍従に促され、リュシアンは広間を後にした。城門の前には、すでに馬車が待っている。朝の光を浴びて、金属の装飾が眩しく輝く。そこに立つのは――フィアナ・カルディア。
黒霧討伐のために王から派遣された、天才剣士として知られる少女だ。
「リュシアン王子、準備はいい?」
自然体で微笑む彼女の姿に、リュシアンは思わず目を逸らす。普段なら礼儀正しく、微笑を返すところだが、心臓が妙に高鳴り、声が詰まった。
「……ああ」
短く答え、馬車に乗り込む。騎士団の護衛が周囲を固めるが、リュシアンの意識は、隣に座るフィアナに向いていた。黒霧を斬った英雄としての噂とは裏腹に、彼女は普通の少女のように笑い、話しかけてくる。
その笑顔は眩しく、どこか軽やかで、王族としての自分が抱える重圧を一瞬忘れさせる。
旅が始まる。
馬車は石畳を揺らしながら、城下町を抜け、郊外の道へ向かう。
途中、リュシアンは外の景色を眺めた。朝露に光る草原、遠くにそびえる山々、そして、どこかで黒霧が潜んでいるかもしれない森――。胸の奥で緊張と期待が交錯する。
「わあ、雲の形がね、ライオンみたい!」
フィアナが突然叫ぶ。窓の外を指さすその手には、子供のような無邪気さがある。
「……雲?」
リュシアンは思わず苦笑した。王子として威厳を保つべきなのに、彼女の観察眼の純粋さに、心をくすぐられる。
「王子さま、雲ってさ、毎日形が変わるんだよ。見てると面白くて飽きないの」
「……そうか」
言葉に窮しながらも、リュシアンは窓の外を見つめる。確かに、雲は悠々と形を変え、まるで旅の先に待つ世界の不確かさを映しているかのようだ。
馬車が森の中の小道に差し掛かると、風の音と木々のざわめきが二人を包む。リュシアンは思わず背筋を伸ばした。黒霧はこのあたりから発生すると言われている。
だが、フィアナは動じる様子もなく、軽く剣を指で弾きながら笑う。
「わくわくするね、王子さま」
その言葉に、リュシアンは戸惑う。普段は王族としての威厳を意識して行動してきたが、彼女の前では、自分の心の内が少しずつ漏れ出してしまう。無理に取り繕う必要はない――そう思えるのだ。
昼食の休憩で、馬車を停めた村の広場には、地元の人々が集まっている。フィアナは子供たちに囲まれ、剣の軽い演武を披露した。
軽やかな動作で黒霧の残滓を斬る様子に、民たちは目を丸くする。王子としての自分も、その光景を見て、自然と胸が高鳴った。
英雄の隣に立つ王族としての誇りと、ただ一人の少年としての喜びが混ざる瞬間だ。
「王子さま、見て! この村の子、剣に興味津々だよ」
「……そうだな、楽しそうだ」
リュシアンは微笑む自分に驚いた。普段なら見せない、素の笑顔だった。彼女と共にいることで、威厳や責任から少し解放されている。
夕暮れ、馬車は森を抜け、広い谷に差し掛かった。夕日に照らされる山々は、金と赤の光で染まり、まるで旅路を祝福するかのようだ。フィアナは窓の外を見つめ、静かに呟く。
「こんな景色、初めて見るな」
「俺もだ」
リュシアンは隣で同じ景色を見つめ、初めて誰かと心を通わせる感覚を覚える。旅はまだ始まったばかり。だが、隣にいるこの少女となら、黒霧の悪意にも立ち向かえる――そう、心の奥底で確信していた。
夜、宿で寝る前。星空が広がる空の下、リュシアンは静かに目を閉じる。朝の祈りとは異なる、心からの静寂だ。フィアナの天真爛漫さと、黒霧に立ち向かう剣聖としての凛々しさ――その両方が隣にあることで、彼は初めて、自分の素の気持ちを少しだけ解放できたのだった。
明日からの旅は、未知の困難と試練に満ちている。それでも、誰と共に歩くかは自分で選べる。今はただ、この瞬間の安心感に身を委ね、深い眠りに落ちるリュシアンであった。
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