第3話 黒霧の報せ
第3話です。
夜明けの水は、まだ冷たい。
白い石壁に反響する水音だけが、静寂を揺らしていた。微かな振動が胸に伝わる。水面に映る銀の髪を濡らしながら、王子は目を閉じる。指先を額へ、胸へと滑らせ、静かに祈りの印を結ぶ。
今日もまた、祈る日だ。
民は跪き、救いを求める。
――聖女様、と。
(……俺は、聖女じゃない)
胸の奥でだけ、吐き捨てる。祈るたび、民は期待を寄せ、そして私はその象徴であり続けなければならない。
水を止める。雫が細い身体を伝い落ちる。白を基調とした祈り装束に袖を通し、濡れた銀髪を軽く払った。
鏡に映る自分は、今日も“清らか”だ。少し鋭い目元さえ伏せれば、民が望む聖女像に近づける――それが、役目。
遠くで鐘が鳴った。一度。二度。三度。規則的ではない、乱れた音。王子は顔を上げる。嫌な予感は、だいたい当たる。
扉の向こうで慌ただしい足音が止まった。
「リュシアン殿下! 南方領に、また新たに黒霧が発生いたしました!」
朝の静寂が、裂ける。黒霧――人々の悪意が淀み、形を成したもの。聖なる力で祓えど、消えはしない。霧はまた、どこかで生まれる。
「被害は?」
「すでに村が一つ、半壊と……」
王子は短く息を吐いた。胸の奥がひりつく。被害にあった民の顔が、頭をよぎる。彼らは祈る力を信じている。だが、私の力だけでは、すべてを救えない。
「……すぐに兄上たちへ」
廊下へ出ると、ちょうど長兄と鉢合わせる。大きな体躯が廊下の半分を占めるようだ。
「聞いたぞ!」
豪快な声が石壁を震わせる。
「行くんだろ、四男!」
「私が向かいます」
自然と外向きの声音になる。にこやかに微笑むと、長兄は満足げに頷いた。
「無茶はするなよ!」
「兄上こそ」
その背後で、細身の影がくすりと笑う。次兄だ。
「黒霧、ねぇ」
「少し面白い噂がある」
「噂?」
「例の、雷に打たれたように覚醒した少女が、黒霧を“斬った”らしい」
王子の足が止まる。
「……斬った?」
「浄化ではなく、だそうだ」
次兄は口元を歪める。
「名乗りは“剣聖”」
剣聖――その言葉は、どこか物騒で、けれど力強い。浄化ではなく、斬る。聖なる光で包み、溶かすのではなく、断つ。王子の胸の奥で、何かが小さく揺れた。
「随分と勇ましいですね」
外向きの声音は穏やかだ。だが内側では、別の声が落ちる。
(……いいな)
思ってしまった自分に、わずかに眉を寄せる。祈るだけではなく、誰かの悪意を断ち切る力――。
「興味ある?」
次兄の目が細められる。
「ありませんよ」
即答する。すると、無言だった三兄がじっとこちらを見た。何も言わない。だが、すべて見透かしている目だ。王子は視線を逸らす。
「いずれにせよ、私が向かいます。黒霧は放置できません」
長兄が肩を叩く。
「頼んだぞ、聖女殿」
茶化すように次兄が続ける。
「浄化の光で、きれいにしてきてね」
王子は微笑む。
「ええ、もちろん」
廊下を歩き出す。背後で兄たちの視線を感じながら。
(……斬る、か)
なぜか、気になる。会うことはないだろう。名も知らぬ少女。雷に打たれたように覚醒したという、剣の天才。それでも、胸の奥に、わずかな火種が落ちている。
黒霧は消えない。悪意は尽きない。だからこそ、祈る――それが自分の役目だ。
それでも。もし。悪意を断つ刃があるのなら。
白い祈り装束を翻し、王子は歩みを速めた。朝の光は、まだ清らかだ。だが南方の空は、黒く濁っているという。その向こうで。銀ではない、別の光が、初めて刃を振るっていることを――彼は、まだ知らない。
そして、胸の奥で芽生えた小さな好奇心が、これからの運命をほんのわずかに揺さぶる予感を、王子は感じていた
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