第29話 届かなくても
第29話です。
城門を抜けた瞬間、背後で鐘が鳴った。
振り返らない。
振り返ったら、足が止まる気がした。
フィアナ・カルディアは、王都の石畳を駆け抜ける。
曇天の空気は重く、胸の奥まで湿っているようだった。
黒霧の気配が、濃い。
北区画――貴族街寄り。
「……やっぱり、こっちか」
鼻の奥を刺す、淀んだ匂い。
嫉妬、猜疑、怒り。言葉にならない感情が溶け合い、渦を巻く。
路地の先、建物の影から黒霧が溢れていた。
人々は避難している。だが完全ではない。
子どもの泣き声。
「下がって!」
剣を抜く。
雷に打たれたあの日から、彼女の刃は迷わない。
黒霧が牙のように伸びる。
斬る。
散る。
だが、いつもより粘る。
「……硬い」
王都の悪意は質が違う。
森の恐怖とは違う、煮詰められた感情。
背後から、別の塊が襲う。
回転し、斬り上げる。
息が荒くなる。
私、帰るって言ったのに
王子様がそう言うなら、従う。
ああ言った。
でも。
「帰れるわけないじゃん」
小さく吐き捨てる。
彼の顔が浮かぶ。
無理に平静を装った目。
自分の手を、そっと離した感触。
守るためだと、分かっている。
でも、あの顔は。
「ずるいよ」
黒霧が波のように押し寄せる。
斬る。
斬る。
それでも消え切らない。
腕に重みが溜まる。
ーー私1人の力じゃ、足りないかもしれない
王都全体に広がる悪意。
剣一本でどうにかなる規模じゃない。
それでも。
それでもーー。
「少しでも」
踏み込む。
刃が閃き、黒霧を裂く。
「少しでも、リュシアンが傷つかないようにしたい」
彼は祈る。
浄化する。
王都の中心で、全てを背負う。
だったら。
自分は外側を削る。
彼に届く前に、少しでも。
黒霧の塊が人の形を成す。
歪んだ顔。
囁き声。
――選ばれなかった。
――奪われた。
――羨ましい。
胸がちくりと痛む。
「関係ない」
斬る。
「それでも選ぶんでしょ」
リュシアンは言った。
自分は王族だ、と。
ここは自分の戦場だ、と。
なら。
「私の戦場は、ここ」
屋根へ跳ぶ。
上から一気に斬り裂く。
黒霧が、悲鳴のように散る。
だが中心がある。
ひときわ濃い核。
貴族邸の庭先。
閉ざされた門の奥。
そこから、溢れている。
「はあ……」
息を整える。
疲労は確実に溜まっている。
ーー足りない
浄化の力があれば。
祈りがあれば。
自分は斬ることしかできない。
それでも。
剣を握る手に力を込める。
「私が選んだ」
隣に立つと。
一緒に戦うと。
あれは嘘じゃない。
離されたけど。
離れたくない。
黒霧の核が蠢く。
巨大な腕のようなものが、振り下ろされる。
受ける。
石畳が砕ける。
衝撃が、腕を痺れさせる。
「……っ」
膝が沈む。
視界が揺れる。
ーーそれでも
立ち上がる。
「私は、あの人の隣にいる」
選ばれたいなんて、言わない。
でも。
自分は選んでいる。
リュシアンを。
彼の戦いを。
彼の弱さも、迷いも。
「だから」
最後の力を振り絞る。
踏み込み、核へと一直線に走る。
「届かなくてもいい!」
刃が、黒霧の中心に触れる。
眩い火花が散る。
砕けきらない。
だが、ひびは入った。
黒霧が一瞬、怯む。
その隙に、周囲の霧が薄まる。
息を切らしながら、剣を支えに立つ。
空はまだ灰色。
だが、さっきより少しだけ軽い。
「……ほら」
笑う。
「ちょっとは削れた」
足元は震えている。
それでも前を見る。
王城の方向。
「早く来なよ、リュシアン」
呟きは、風に溶ける。
黒霧は消えない。
それでも。
誰かの痛みを、少しでも減らせるなら。
彼が傷つく量を、ほんの少しでも減らせるなら。
剣聖は、また刃を構えた。
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