第25話 帰還命令
第25話です。
朝靄の中、馬蹄の音が森に響いた。
黒霧の残滓がまだ地面に沈んでいる。
静まり返った野営地へ、王都の紋章を掲げた騎士が駆け込んできた。
銀と青――アストリア王家の旗。
リュシアン・アストリアは、焚き火の前で立ち上がる。
「……王都からか」
騎士は馬から降り、膝をついた。
「殿下。国王陛下――アルベルト・アストリアより、急ぎの帰還命令にございます」
空気が、わずかに張りつめる。
フィアナ・カルディアが、首を傾げた。
「え、もう? まだ北側の調査、終わってないよ?」
騎士は続ける。
「王都周辺にて、黒霧の発生頻度が急増。加えて……」
ほんの一瞬、言い淀む。
「ガレス・アストリア様が、負傷されました」
リュシアンの呼吸が止まる。
「兄上が?」
「命に別状はありません。しかし黒霧の性質が、これまでと異なるとの報告が」
悪意の増幅。
王都で。
それは偶然ではない。
(……私の、嫉妬)
一瞬、胸の奥に影がよぎる。
だがすぐに打ち消す。
違う。
自惚れるな。
王都全体の悪意が動いている。
「分かった。直ちに戻る」
短く告げると、騎士は深く頭を下げた。
去っていく背を見送りながら、フィアナが隣に立つ。
「大丈夫?」
「……兄は強い」
それは事実だ。
無口で、滅多に感情を表に出さない三番目の兄上。
だが剣も魔術も、国防の柱。
その兄が負傷。
王都で。
「リュシアン」
フィアナが、そっと彼の袖を掴む。
「急ごう。全力で帰ろう。私、走れるよ?」
「君は馬より速いな」
「でしょ!」
いつもの調子だ。
だが、瞳は真剣だった。
「王都、怖い顔してる気がする」
「……?」
「昨日の夜、空が重かった。あれ、森のせいじゃない」
剣聖の勘。
雷に打たれたように、覚醒した天才。
理屈ではなく、肌で感じる。
リュシアンは、空を見上げる。
薄曇りの向こう、王都の方向。
(悪意は、消えない)
王宮にもある。
貴族の嫉妬、権力争い、民の不満。
聖女と呼ばれる自分がいる限り、期待と失望もまた渦巻く。
王妃リリアーナ亡き後、王都は常にどこか歪んでいた。
「フィアナ」
「うん?」
「王都へ戻れば、君も無関係ではいられない」
「うん」
「危険だ」
少しの沈黙。
だが彼女は、迷わなかった。
「私は、リュシアンと行くよ」
またその言葉。
当たり前のように。
「だって今、一緒に戦ってるのは君でしょ?」
選ぶという自覚すらない。
ただ自然に、隣にいる。
胸の奥が、静かに強くなる。
「……ありがとう」
「え、なに急に」
「いや」
彼は微笑む。
遠くで雷が鳴った。
だが雲は光らない。
黒霧の兆し。
「準備を。昼前には出る」
「了解、殿下!」
茶化すように敬礼してから、フィアナは荷をまとめに走る。
その背を見ながら、リュシアンは静かに祈った。
兄の無事を。
王都の安寧を。
そして。
(私は、選ぶ)
悪意に飲まれないことを。
嫉妬に沈まないことを。
誰を信じるかを。
王都が呼んでいる。
聖女と呼ばれる王子ではなく、
アルベルトの息子として。
リュシアン・アストリアとして。
やがて二頭の馬が、森を駆け出す。
王都アストリアへ。
黒霧の中心へ。
嵐の前触れの空の下、二人は並んで進んだ。
距離は、近いまま。
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