第2話 面影
第2話です。
謁見の間を出ると、ようやく息ができた。
白い祈り装束の裾を整えながら、私は微笑みをゆっくりと解いた。
「聖女様、本日も麗しく――」
背後からまだ声が飛ぶ。礼儀正しさの中に、興奮と尊敬が入り混じった声音。
(聖女じゃねーよ)
心の中で舌を出しつつ、私は廊下を進む。石畳の冷たさが足の裏に伝わり、壁際の燭台の灯がゆらゆらと揺れる。その光に白銀の髪が反射し、まるで小さな光の粒を纏っているかのようだ。
角を曲がったところで、巨大な影にぶつかる。
「おう、我らが聖女殿!」
「兄上、声が大きいです」
長兄は豪快に笑い、鍛え上げられた腕を私の肩に回した。その手の温もりは、子供の頃と変わらず、守られているという安心感と、同時に少しの窮屈さも伴う。
「今日も民に拝まれていたな! ありがたいことだ!」
「ありがたいのは国であって、私ではありません」
「そういうところだぞ」
ぽん、と頭を軽く叩かれる。力加減は絶妙で、痛みはない。大きな手は、昔から変わらない――夜中にこっそり起きて廊下を歩く私を見つけて、優しく腕を回して戻してくれたあの手のままだ。
「……無理はするなよ、リュシアン」
一瞬だけ、声が低くなる。兄の視線が、私の心の奥まで覗き込むようで、少しだけ息を呑む。私は微笑みを深くして応じる。
「しておりません」
「嘘つけ」
そこへ、柔らかな足音。
「嘘は下手だよね、お前は」
次兄だ。細身で、いつも愉快そうに目を細めている。その瞳の奥には、ふざけた光だけでなく、兄としての観察眼が光る。
「最近、目の下が薄いよ。睡眠不足?」
「気のせいでしょう」
「僕は気のせいを見逃さない主義でね」
くす、と笑う。軽やかな音に、廊下の静寂がほんの少し和らぐ。
その後ろに、無言の影。
三兄が立っている。軍人としての冷徹さと、兄弟としての深い思いの入り混じった視線。鋭い目が私をまっすぐ見た。
「……疲れているな」
「平気です」
「平気な顔ではない」
短い言葉。だが重い。三兄は、私が“聖女様”であることを望まない心を理解している。そして同時に、止められない運命も知っている。
「父上がまた呼んでいたぞ」
長兄が言う。
「……そうですか」
次兄が肩をすくめる。
「懐かしい面影だからね」
三兄が、ぽつりと落とす。
「……似すぎている」
空気が、わずかに変わった。私の胸がきゅう、と小さく締め付けられる。初代聖女――母上。王族であり、民に慕われたその存在の記憶が、ここに生き続けている。
私は笑う。
「恐れ多いことです」
それ以上は、誰も言わなかった。兄たちは私を囲むように立っている。
王位を継ぐ長兄。
政を担う次兄。
軍を率いる三兄。
そして私――“象徴”。
初代聖女に似ていたと伝えられる、亡き王妃。その面影を最も色濃く継いだ第四王子。それが、私。
「……行ってくる」
「行ってこい」
「泣かされるなよ、聖女殿」
「……無理をするな」
三者三様の背中押し。私は小さく頷き、長い廊下を歩きながら心を整える。
扉の前で、一度息を整える。手に触れる冷たい木の感触に、微かに緊張が走る。中から、低い声。
「入れ」
扉を開ける。王は机の向こうに座っていた。年を重ねた瞳がこちらを見つめ、ほんの一瞬、揺れる。
「……よく似ている」
独り言のような声。私の膝は自然に床につき、頭を垂れる。王の瞳には、母の面影が映っているのかもしれない。
「恐れ多いお言葉です、陛下」
王は何か言いかけ、そしてやめた。ただ静かに命じる。
「明日の祈りも頼む」
「承知いたしました」
短い会話。それだけ。
部屋を出る。扉が閉まる音が静寂を裂き、長い廊下を歩く。誰もいない。
白い窓辺に自分の姿が映る。銀の髪。柔らかな輪郭。母の面影。
私は小さく息を吐いた。
「……私は、母上ではありません」
呟きは誰にも届かない。けれど、それでも。私は微笑む。第四王子として、偶像として。
外の光が差し込む廊下の中で、影と自分の心が揺れ動く。王都の静かな午後、私の小さな決意もまた、静かに確かに芽吹いていた。
――私は、王子であり、偶像であり、そして――ただの人間でもある。
その自覚と共に、私は再び歩き出す。白い装束の裾が揺れるたび、心の奥で小さな炎が灯る。偶像ではなく、自分の意思で、世界と向き合うための炎。
だが、心の片隅には、淡い不安が残っていた。黒霧の噂、剣聖の覚醒、辺境で起こる不可解な事件――すべてはまだ、私の目の届かぬ遠くで蠢いている。
王の視線もまた、私に期待以上の重さを投げかけていた。「明日も頼む」という言葉の奥には、単なる祈りの任務だけではなく、王国の未来を託す暗示が含まれている。母の面影を継いだ私は、偶像としての役割を超え、未知なる試練に立たされるのだろう――そんな予感が、胸の奥で静かに波打っていた。
私が歩き出すたび、白い装束は微かに揺れる。光と影が交錯する廊下の中で、未来の足音が遠くから響く。偶像としての私ではなく、人としての私――その意思が、今、初めて世界へ向かって伸びていく。
――すべては、この王国の未来のために。
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