第7話 金槌が振れないドワーフ―①
チュン、チュン……。
屋敷の窓から差し込む朝日と小鳥のさえずり。爽やかな異世界の朝だが今の私にとっては地獄のファンファーレでしかない。
「……うぅ……無理ぃ。重力、強すぎ……」
恐らくこれは単なる寝不足じゃない。異世界に来てから、時折、心臓が「血液ではない何か」を送り出しているような違和感がある。……あるいは、吸い出されているのか。
ゼノスの言葉が正しければ、今の私は「魂」だけの存在。そして日本にある肉体《器》を維持するために、この心臓がエネルギーを変換して送り続けている。この異世界で過ごした数日で出した私の仮説。
「……20年。お母さんもこうして、この世界から肉体を維持している……?」
しかし眠たいものは眠い。難しいことを考えるのは後だ。私は頭から毛布を被り直し、ダンゴムシのように丸まった。
ここはこの屋敷の三階。かつては客室だった部屋を掃除して、私の寝泊まりする自室にしている。ギルバートにも認められ、異世界での住居も万全なものになった。だが私の生体リズムは最悪だ。
「リツさーん! 朝ですよー! 今日もいい天気です!」
元気よく扉が開かれ朝の暴力的な光と共にアリアが入ってくる。彼女の手には洗濯された私の制服と温かいタオル。
「……アリア、静かに。交感神経が……まだスイッチ入ってない……」
「ダメですよ、もう八時です! ゼノス様もリハビリ室でお待ちですってば!」
「八時からリハビリやってる病院なんてないよ……」
アリアは慣れた手つきで私をベッドから引き剥がす。抵抗する私の顔に蒸しタオルを押し当てた。顔を拭かれ、ボサボサの髪を櫛でとかされ、白の制服に袖を通される。
「ア、アリア。優しくしてえ……」
私はされるがままだ。今の私は日常生活動作自立度ランクC。全介助レベルである。
「血圧……たぶん上が60くらいしかない……。起立性調節障害……」
「はいはい、難しい言葉はあとで! ほら、行ってらっしゃい!」
背中をバンと叩かれ、私はよろめきながら廊下へと押し出された。
***
ズリ……ズリ……。
ゾンビのような足取りで階段を降り、リハビリ室の扉を開ける。
「……おはよう……ございます……」
私が怨念の籠もった低い声で入室する。髪の毛はまとめられず、垂れ流したまま。
すでに枕を高くしてベッドアップされた状態で待機していたゼノスが、ギョッとした顔をした。
「……おい。なんだその魔人のような顔色は」
「うるさいですね……。角なんかないですよ。レオンさん……コーヒー、濃いめで」
椅子に崩れ落ちると、レオンが「なんで俺が……」とブツブツ言いながらもカップを差し出してきた。さすがは良い助手だ。
カフェインという名の劇薬を流し込み、深呼吸を三回。ようやく視界の霧が晴れてくる。
「……ふぅ。起動しました」
自分の頬をパンパンと叩き、淀んだ瞳に理性の光を宿して立ち上がった。カーディガンを上腕部まで捲ると、麻紐で髪を結う。そしてベッドにいる魔人を見下ろした。
「お待たせしました。では今日も始めましょうか」
「……肉師、その切り替えの早さは何なんだ。情緒不安定か」
「なんですかその呼び方。私はリツ、理学療法士です」
「ふん。お前は俺の命より筋肉しか見ていないだろう。ならば肉師で十分だ」
私は「好きにしてください」と吐き捨てて、彼の手を取った。朝が弱かろうが、変なあだ名で呼ばれようが、生活能力がゼロだろうが、制服を着て患者の前に立てば私はプロだ。
「はい、右人差し指に意識を集中して! 脳からの指令を指先に送るイメージです!」
「ぐ、ぬぅ……ッ! ……動け、動けぇ……!」
ゼノスが額に玉のような脂汗を浮かべ歯を食いしばる。
今の彼に行っているのは「促通反復療法」に近いアプローチだ。麻痺して動かない筋肉に対し、私が皮膚を摩擦したり、軽く叩いたりして刺激を与え、脳に「ここは動く場所だ」と誤認させる。
「雑念を捨てて。世界なんかどうでもいい。今はただ、この第一関節を数ミリ曲げることだけを考えてください」
「だ、黙れ……! 命令する、な……ッ!」
ゼノスの呼吸が荒くなる。顔中に力みを感じる。効率は悪いが、それだけ熱意がある証拠だ。悪くない。
その時だった。
バチッ。
静電気のような小さな音が鳴り、ゼノスの指先から黒い火花が散った。
同時に――ピクリ。
彼の右人差し指が痙攣するように、ほんの数ミリだけ外側に動いた。
「――ッ!?」
「今、動いた! ストップ、休憩!」
私は即座にゼノスの手首を掴み、動きを止めさせた。ゼノスはハァハァと荒い息をつきながら、信じられないものを見る目で自分の手を見つめている。
「今……動いたか? 俺の指が……?」
「はい。MP関節の伸展、約5度。……ゼノス氏の意思による動きを確認しました」
しかし興味深いのは指が動いた瞬間に発生した火花だ。
「(運動神経の興奮と魔力回路の起動がリンクしている……? ということは、彼にとって身体を動かすことはもしかして……)」
「ク、クク……見たか、肉師よ。火花が出たぞ。俺の力はまだ死んでいない……!」
ゼノスが口元を歪めて笑う。その顔には久しぶりに覇気が戻っていた。
「上出来です。でも調子に乗らないでくださいね。今の動きを確実にするには、あと数千回は反復が必要です」
「……鬼か貴様は」
「プロと言ってください。……しかし、それにしても……」
「な、なんだ?何なんだその目は……」
私が無意識に身を乗り出すと、ゼノスが頬を強張らせ見たこともないような引きつった目を向けた。
「ゼノス氏の前腕の皮膚の下、示指伸筋の膨隆が……。まるで眠れる龍が目覚めたかのように、かすかに、けれど力強く拍動しました。ああ、なんという効率的な筋走行……」
私は我慢できずその腕に指を這わせた。魔人特有の筋密度のせいだろうか。収縮のキレが私が今まで担当してきた人間とは比較にならないほど美しい。
「ちょっと、今ここをもう一度触らせてください。あ、ここです、この総指伸筋との境界線……! ここが収縮する瞬間の隆起を、もっと、もっと詳細に……」
「お、おい! 貴様、どこを触っている! 筋肉など見てどうする! 離せと言っているだろう!」
ゼノスが顔を真っ赤にして叫ぶ。しかし律の耳には届かない。彼女の瞳には、もはや魔人としての威厳など映っていない。
「……はっ。いけないいけない。仕事中でした」
私は汗まみれになったゼノスを見下ろし、次のステップへ進むための課題を切り出した。
「取り乱し、失礼しました。……筋肉の動きはもちろん今後もやりますが、そろそろ座る訓練に入りたいんですよね」
「またお前は……それになんだ? 座る? 起き上がるということか?」
「ええ。いつまでも寝たきりだと起立性低血圧、いわゆる立ちくらみを起こします。いきなり身体を起こすと、血液が下に下がって脳の血流が保てなくなり失神するんですよ。……白目剥いて倒れるなんて、笑えないでしょう?」
「ぐ……そ、それは困る」
「それに、体幹機能を高めるには、座ってバランスを取るのが一番です。……ただ」
私は腕組みをして部屋の中を見回した。改装によって窓は開き、カビ臭さは消えたが設備はまだ不十分だ。
「機材が足りない」
「機材?」
「ゼノス氏を安全に座らせるための椅子ですよ。今のあなたの筋力じゃ、普通の椅子には座れない。体幹が崩れて床に転がり落ちるのがオチです」
背もたれの角度を変えられるリクライニング機能。姿勢を保持するためのベルトやクッション。そして何より、今のゼノスを乗せて移動できるだけの耐久性。
「(この世界の木工家具じゃ限界がある。もっと精度の高い、金属加工ができる職人がいないと……)」
私が思案していると、部屋の扉がノックもなしに開いた。
「やあドクター・リツ。今後の経営方針を持ってきたんだが」
入ってきたのは、今やこのクリニックのオーナー兼スポンサーとなった魔人、ギルバートだ。彼は教えられた通り、腰を丸めた姿勢を維持しながら器用に歩いてくる。
「ギルバート氏。良いところに」
「ん? なんだその肉食獣が獲物を見つけたような目は。……金の話なら、これ以上の出資は渋いぞ」
「いいえ、技術的な相談です。……この国に、精巧な金属加工ができる職人はいませんか? それも、私の細かいオーダーに完璧に応えられるような、偏屈な職人が」
私の問いに、ギルバートは少し考え込み、やがてニヤリと笑った。
「……いるにはいるが、厄介だぞ。腕は超一流だが、性格は最悪。ここ十年は『呪いで腕が上がらねぇ』と言って、ハンマーを握ろうとしない引き籠もりのドワーフだ」
「ドワーフ……」
「名はガンツ。かつては王都の武具を一手に引き受けていた伝説の鍛冶師さ」
呪いで腕が上がらない、引き籠もりの鍛冶師。
そのキーワードを聞いた瞬間、私の脳内でパズルがカチリとハマった。
「(腕が上がらない呪い、ね)」
私は口の端を吊り上げる。
「ご案内いただけますか? その呪い、私が解けるかもしれません」




