第5話 腰痛で歩けない商人―①
この世界に来て数日。いくつかわかったことがある。
まず、この世界の食事は日本とは全く違う。肉類を食す文化がないのだ。
食材は野菜や果実、豆類、乳製品、そして卵が主。死ねば即座に光となって消えるこの世界では、「精肉」という概念が存在しない。その代わり、香りをつけるためのスパイスが異常に発達している。街を歩けば肉の脂の甘みの代わりに、鼻腔を麻痺させるほどの濃厚な香辛料。発酵した豆の重厚なコクが混ざり合った「生の臭気」に包まれることになる。
「……脳が無意識に肉を求めて暴走しているのを、この強烈な香りで鎮めてるのだろうか。血管への負担が凄まじそうだな」
そんな悲しき職業柄全開の異世界分析も今や日課。
そしてもう一つ、板についてきたことがある。魔人ゼノスのリハビリだ。
今日もまた、屋敷に作った簡易的なリハビリ室は奇妙な熱気に包まれている。
「……はい、吸ってー。止めて。ゆっくり吐いてー」
「ぐ、ぬ……ッ、貴様……私を、赤子のように……!」
私がかける掛け声に合わせて、ベッド上のゼノスが顔を真っ赤にして呼吸を繰り返す。
彼が行っているのは呼吸筋のストレッチだ。まだ四肢は動かないが、横隔膜と肋間筋を意識的に動かすことで、肺活量を維持し肺炎を予防する。地味だが寝たきりの患者にとっては命綱とも言える訓練だ。
「文句を言わない。肺が潰れたら、その声で部下に命令もできなくなりますよ」
「フン……。覚えておけ。身体が動くようになった暁には、貴様を一番に処刑してやる」
「はいはい。処刑するには腹筋が必要ですからね。頑張って吐きましょう」
私が涼しい顔で受け流すと、ベッドの脇で控えていたレオンが「さすがはレオン様……処刑宣告すら美しい……」と感涙し、反対側ではアリアがオロオロと水差しを抱えて立っていた。
「あの、リツさん。私にも何か手伝えることは……」
「アリアはそこで待機。ゼノス氏が疲れたら、すぐに水分補給をお願い」
「は、はい……」
アリアが力なく俯き、自身の白い手のひらを見つめる。その指先がわずかに震えているようだった。
(悪いけど、こればかりは仕方がない。治癒とリハビリでは、そもそもの畑が全く違うしな)
私が次のリハビリプログラムに移ろうとした、その時。
バンッ!!
屋敷の重厚な扉が、大砲でも撃ち込まれたような勢いで開け放たれた。
「おい、いるんだろう! 家賃の滞納が三ヶ月だぞ!」
静謐だったリハビリ室の空気が一変する。
現れたのは、仕立ての良い中世風の外套をはち切れんばかりに膨らませた恰幅のいい男だ。短く切り揃えられた髭と、せわしなく動くぷにぷにとした肉厚な手。頭には少し曲がった角。彼もまた、魔族の一種らしい。
「ギ、ギルバート様……。実は今患者さんがめっきりへってしまっていて……。もう少し待っていただけませんか?」
「いいや待てない。それこそ経営難だというのならば、お前のようなC級ヒーラーには用はないわ。土地を更地にして別の商売に回したほうが金になる。さあ、今すぐ出て行け!」
唾を飛ばしてまくしたてる男の、その立位姿勢に私の目は釘付けになっていた。無理に胸を張ろうとするせいで反り腰が悪化し、脊柱起立筋から悲鳴が聞こえてくる。
「あの立位姿勢、最悪だな」
ボソリと漏らした私の独り言が男の耳に届いたらしい。ギルバートと名指しされた男の視線がアリアの背後にいる私を捉えた。値踏みするような粘りつく視線が足元から這い上がる。
「……なんだあの珍妙な格好の女は。客も取れていないのに助手なんぞ雇ったのか?」
「リ、リツさんは理学療法士という職業の方です。ヒーラーでも見たことのないような治療が出来るんです」
「ヒーラー免許も無いようなやつに治療させているのか! 協会にバレたら業務停止になるぞ!?」
男が唾を飛ばして怒鳴るたび、そのタプタプした首の脂肪が悲鳴を上げているのが手に取るように分かった。アリアは必死に食い下がっているが、論理の通じない相手に言葉を尽くすのは摩耗した関節に油を注さずに動かし続けるようなものだ。時間の無駄である。
「もういい。お前には懲り懲りだ。さあ、延滞分の金貨を払って、さっさとこの屋敷から出ていってもら……ッ、ぐうっ!?」
男は怒鳴り散らしながら部屋に入ってきたが、数歩進んだところで、突然何かに撃たれたように動きを止めた。
「あ、足が……! 腰が……ッ、ぎぃぃぃ!!」
男はその場に崩れ落ち、脂汗を流してのたうち回り始めた。尋常ではない痛がり方だ。まるで、見えない拷問器具で身体を締め上げられているかのような。
「ギルバート様!?」
アリアが血相を変えてギルバートの元へと走っていく。
「――電子カルテ展開」
『ピロン♪』
脳内に電子音が響き、半透明のウィンドウが男の横にポップアップする。
【電子カルテ No.004】
氏名: ギルバート・フォン・レイブン
年齢: 45歳
種族: 魔人
主訴: 激しい腰痛、下肢の脱力感
既往歴: 慢性的な腰痛(数年来)
「(45歳……。見た目は20代後半くらいだが、けっこう中年か。魔人の寿命ってどのくらいなんだろうか。軟部組織の老化スピードだけ人間と同じなら、外見詐欺もいいところだけど)」
「ア、アリア……! 金なら払う! 助けろぉ!」
ギルバートが床を爪で引っ掻きながら助けを求める。私も反射的に駆け寄ろうとしたが、それよりも速くアリアが回復呪文を唱え始めた。
「す、すぐに治療します! 神よ、迷える子羊に癒やしを……!」
アリアの表情には焦燥とともに、ある種の「安堵」が浮かんでいた。
――ようやく、私の出番が来た。
――リツさんにはできない、私だけの「魔法」で助けるんだ。
そんな功名心が彼女の判断を鈍らせたのかもしれない。
私はギルバートの姿勢を見て、ハッとした。極度の反り腰。商売道具なのか、左肩にだけ異常に重そうな鞄を下げているせいで身体が傾いている。
そして、歩行後のこの激痛の訴え方。
「(まずい。その症状で安易な回復魔法は――)」
「アリア! やめたほうが良い!」
私の静止は間に合わなかった。
「――ハイ・ヒール!」
カッと眩い光が、ギルバートの腰を包み込む。骨のひび、筋肉の断裂、組織の損傷を強制的に「元通り」にする奇跡の光。本来ならこれで痛みは消え、彼は感謝の涙を流すはずだった。
だが。
「ギャアアアアアアアアアアッ!!!!」
光が収まった直後。ギルバートの口から迸ったのは、先ほどとは比較にならない、魂を削り取るような絶叫だった。
「あ、があああッ! 足が、足が千切れるぅぅぅッ!!」
ギルバートが白目を剥き、魚のように床の上で跳ねる。回復したのではない。悪化している。それも致命的に。
「な、なんで……? 傷はすべて塞いだはず。 骨だって強くなったはずなのに……」
アリアが顔面蒼白で呟く。彼女の目には何が起きているのか理解できない恐怖が浮かんでいた。さらに光を強めようと、震える手で再び杖を構える。
「も、もう一度……もっと魔力を込めて……!」
ガシッ。その杖を持つ手を私は横から強く握りしめて止めた。
「やめなさい。彼を殺す気?」
「リ、リツさん! でも、まだ痛がって……!」
私はアリアの手を払いのけると、のたうち回るギルバートの前に膝をつき、その背中に手を当てた。
指先に伝わるカチカチに固まった筋肉の感触。そして魔法によって無慈悲なまでに頑丈に修復されてしまった骨の硬度。
最悪だ。私の予想通りだ。
「アリア、よく聞いて」
私は冷ややかな声で、パニックになっている少女に告げた。
「あんたがやったのは治療じゃない。生き埋めだよ」




