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この異世界にリハビリを。筋肉フェチの理学療法士、追放された寝たきり魔王を鍛え直して世界を救う  作者: 衛士 統


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第1話 四肢が麻痺した元魔王―①

 鼻をつくような、土と獣の臭い。

 それが、私の意識を覚醒させた最初の刺激だった。


「……う、頭が痛い。私、何してたんだっけ……?」


 重い瞼を持ち上げると、そこは母の病室ではなかった。湿った石畳。カビの生えたレンガの壁。そして、視界の端をドブネズミのような何かが走り抜けていく薄暗い路地裏。


 私は反射的に身を起こし、自分の身体を確認する。着衣の乱れなし。バイタル、やや頻脈気味だが安定。髪の毛はばらけたままだ。


「……よし、手と足は元通り動く。何だったんだ?」


 一過性のものだったのだろうか。だが心配すべきはもっと他にある。


「……ていうかここどこ?」


 問いかける声は、誰もいない路地裏に虚しく吸い込まれた。パニックになりそうな思考を、私は深呼吸をして無理やり落ち着かせる。


 状況確認が先だ。ここは一体どこなのか。


 私は埃を払って立ち上がり、光が差す方角へと歩き出す。

 路地を抜けた瞬間、圧倒的な光量と喧騒が私を打った。


「――――ッ!?」


 そこは映画のセットのような中世風の街並みだった。石造りの建物が乱雑に並び、舗装されていない土の道を馬車が行き交っている。真っ先に押し寄せたのは、熱い油で弾けたガーリックとクミンの、焦げるような芳香だ。どこかカレーに似ているが、もっと野性的で重厚な、胃壁を直接掴んでくるようなスパイスの匂い。


 だが、私の視線が釘付けになったのは歩行者たちだ。


 長い耳を持つ人間。

 全身が緑色の鱗に覆われた大男。

 どう見ても骨格構造がおかしい、二足歩行する犬のような生物。


「……うーん。あの犬型の生物の歩行。おそらく股関節外転筋力が足りていない。それ故に膝への負担が大きすぎる。変形性膝関節症が心配だ……」


 職業病全開で歩行分析をしてからハッとする。

 違う。そこじゃない。


 彼らが交わしている言葉が耳に入ってくる。


「@#%&! %!!」

「Gau, gau! #$%&?」


 やっばい。全く聞き取れない。


 英語でもドイツ語でもない。完全に未知の音階。私は近くの商店らしき看板に目を凝らす。しかしそこに書かれていたのは、ミミズがのたうち回ったような奇妙な記号の羅列だった。


 見知らぬ植物。

 私が知っている進化を無視した生物種。

 そして、通用する気も起こらない言語体系。


 私は額に手を当て、数秒間の沈黙のあと乾いた声で呟いた。


「……え? 異世界ってやつ?」


 いやいやまさか。ラノベじゃあるまいし。

 私は夢を見ているのだろうか。過労によるせん妄か、あるいは先ほどの謎の光による脳機能障害か。


 確かめるために、いつも通りポケットのタブレット端末を取り出そうとした。


 スカッ。

 指先が空を切る。


 ない。ポケットに入っていたはずのタブレットがない。代わりに、私の視界の隅にソレは浮かんでいた。


『現在地:不明』

『ネットワーク:圏外』

『電子カルテシステム:オフラインモードで起動します』


 空中に投影された半透明の青いウィンドウ。

 

 私は恐る恐る、そのホログラムのような画面に指を触れる。すると、その画面が切り替わったり、指の動きに合わせてスクロールしたりした。


「全く。不親切にも程がある。説明書はないのか?」


 どうやら幻覚ではないらしい。やはりここはファンタジーの世界のようだ。


 私が呆然と空中に浮くウィンドウを操作していると、通りの向こうにある古びた建物――少し寂れた石造りの3階建ての館から、悲鳴のような怒号が聞こえてきた。


「#%&!!!」

「@#%!!!!!」


 言葉は分からない。だがその声色に含まれる切迫感だけは、嫌というほど聞き覚えがあった。


 急変。


 誰かの命が、今まさに危険にさらされている時の周りの人間のパニック音だ。


「……全く。どの世界でも同じなんだな」


 関わらない。

 今は自分の状況把握が最優先だ。

 行くべきではない。

 私の脳はそう告げている。


『律ー! こっちおいでー!』


 刹那。私を呼ぶ母の姿が脳裏に浮かんだ。「行くべきではない」と理性では判断したはずなのに、私の足は勝手にその建物へと向かっていた。まだ救うことが出来るのに、動かなくなっていく筋肉を無視することは私には許せなかったようだ。



 ***



 ギィッ。


 重厚な木の扉を押し開けると、そこは廃墟と呼ぶにはあまりに荘厳で、けれど死臭に近い澱んだ空気が充満していた。


 かつては謁見えっけんの間だったのだろうか。高い天井、破れたタペストリー。その中央に、不釣り合いに豪奢ごうしゃな天蓋付きのベッドが置かれている。


「@#%&!! %&」


 悲鳴と怒号。視界に入ってきたのは三つの人影だ。


 一人は、全身鎧をまとった巨漢の騎士。顔を赤くして何かを叫んでいる。


 もう一人は、ベッドの脇で膝をつくローブ姿の少女。両手から淡い光――おそらく治癒魔法らしきもの――を出して泣きじゃくっている。


 そして、ベッドの上に横たわる患者。


「――ッ」


 一目見た瞬間、私は息を飲んだ。

 美しい、と不覚にも思ってしまったからだ。


 透けるような蒼白の肌。夜の闇を切り取ったような漆黒の長髪。病的なまでに痩せ細っているが、それゆえに骨格の精緻さが際立っている。


 特に、苦悶に喘ぐことで浮き上がった胸鎖乳突筋きょうさにゅうとつきんから鎖骨にかけてのラインは、ミケランジェロの彫刻すら凌駕する完璧な造形美だった。


 だが、その美しい肉体は今、死の淵にある。


「ゴロゴロ……ヒュー……ッ」


 喉の奥から響く湿った雑音。胸郭が激しく上下しているのに、口元には空気が吸い込まれていない。シーソー呼吸。チアノーゼ。爪先と唇が紫色に変色している。


(……これは呪いでも外傷でもない)


 少女の放つ光は彼の身体を包んでいるだけで、なんの効果も得られいない。騎士がわめき散らす声も、ただの騒音だ。


(おそらく気道閉塞。それも、粘性の高い痰による窒息が原因だ)


 自分で咳をする力が低下した寝たきり患者によくある急変。

 このまま放置すればあと数分で呼吸停止。


 心臓が止まる。


「@#%&!!!」


 「何者だ!」とでも言っているのだろうか?

 

 ズカズカと近づく私に気づき、騎士が剣の柄に手をかけて立ちはだかった。威圧的な大男だ。通常なら悲鳴を上げて逃げ出すところだろう。


 だが、今の私にとっては「治療の邪魔をする障害物」でしかない。


「どいて」


 私は彼を見上げることもせず吐き捨てた。


「*#%...!?」


 騎士が一瞬、気圧されたように後ずさる。言葉は通じなくても、医療従事者が発する絶対的な指示の圧は、種族を超えて伝わるらしい。その隙に私は彼の脇をすり抜けベッドサイドへと滑り込んだ。


 近くで見ると患者の状態はさらに深刻だった。


 眼球上転。意識レベル、JCSで言うところのⅢ-200か。痛み刺激に反応するかどうか怪しい。


「……こんなに痩せて。どれだけ長い間、栄養管理もされずに放置されていたの」


 私はヒーラーと思われる少女の手を払いのけた。少女が「Ah!」と声を上げるが、構っていられない。


「その光じゃ気道は確保できない。酸素が脳に行かなきゃ、いくら傷を塞いでも無意味だよ」


 当然、私の日本語は彼らには理解できない。

 少女は涙目で首を振り、再び魔法を使おうとする。


「……非科学的ね」


 私は少女の手を払うと、そのままズボンの裾を引いて生地にゆとりを持たせて、ベッドに片膝をついて乗り上げた。下を向くと、ほどけた髪が頬にかかる。髪を結びたかったが、代用のゴムは持ち合わせていない。


「邪魔だな……。なんかないか……」


 あたりを見回すと薄汚れてはいるが、丈夫そうな麻紐を見つけた。私はそれを迷わず拾い上げると、髪を乱暴にかき上げ、うなじを露出させて手早く結い上げる。視界から余計な情報が消え、網膜に焼き付くのは青年の美しい鎖骨のラインのみ。


「これで良し。さて……」

 

 吸引機はない。聴診器もない。

 あるのは私の手と知識だけ。


「(やるしかない。徒手での排痰――スクイージング)」


 私はカーディガンを上腕部までまくると、青年の胸に手を当てた。右の肺は膨らみを感じるが、左の肺は膨らまない。


「詰まってるのは左の気管ね。それなら――」


 ギィィィン!


「……@;¥*$# !!!」


 先程の騎士が何やら訴えとともに、その剣先を私の首元へと伸ばす。「それ以上やるならば、お前を殺す」とでも言っているのだろうか。


 私はここで死ぬわけにはいかない。母の謎を解き明かすまでは。それにこの男を、自分の命を賭してまで助ける義理はない。だが――。


「この男には何の興味もない。けれど……この美しい筋肉が目の前で死ぬことだけは、私は絶対に許さない」


 喉元へと突きつけられた剣に、私は怯むこともなく騎士へと言い放つ。


「私は理学療法士だ。救える筋肉があるのなら、私は必ず救ってやる。斬るならば斬ってみろ」


 喉元を焼く冷たい鋼の感触。皮膚がわずかに切れ、血が一筋流れる。だが、私の指先に伝わる患者の「肋骨の震え」に比べれば、そんなものはあまりにも瑣末さまつで無価値だった。


 騎士の喉がゴクリとなる音が、静まり返った室内に響く。


 私は仰向けになっている患者――瀕死の青年の膝を立てると、迷わず、左の肺が上に来るように右側臥位へと移す。その瞬間、私の腕を底なしの重圧が襲う。


「(……ッ、重い……)」


 かなり痩せてはいるが、身長は2メートルは下らない。だが単に体格が良いから重たいのではない。健常な人間であれば、いくら急変下であろうと無意識のうちに姿勢を保とうとする筋緊張や協力動作が働く。だが、この男の身体にはそれがないのだ。指先から伝わるのは、重力に完全に屈服し、ただの「肉の塊」と化した絶望的なまでの沈み込み。


「(この男、もしや……)」


 ある疑念が私の脳を横切る。しかしそのことは後だ。今私がすべきことは、この痰を排出させること。骨と皮ばかりの軽い身体。その背中越しに私は自分の体重を乗せる準備を整える。


「痛いでしょうけど我慢。……死ぬよりはマシ。肺の残気すべてを弾丸に変えて、詰まっている痰をぶち抜く」


 私は青年の耳元でそう囁くと、彼の肋骨の動きに集中した。吸って、吐く。そのわずかな呼吸のリズムを、掌の感覚受容器だけで捉える。0.1秒の遅れも許されない。


(……今ッ!)


 呼気のタイミングに合わせて、私は躊躇なく彼の胸郭を圧迫した。

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