プロローグ 理学療法士リツ
「あなたがどうなろうと、大して興味はありません。――ですが、田中氏にある筋肉が死滅するのだけは我慢ならない」
「――だから、できないって言ってるじゃない!! 手術は院長先生にやってもらったし、もうあなたは必要ないわよ!」
絶叫に近い罵声がクロード先進医療センターのリハビリ室に鋭く響き渡る。向けられた殺意にも似た視線。それを白い制服と黒のカーディガンを纏った彼女――能登律は無機質な声で受け流した。
「叫んだって無駄ですよ。あなたの疾患は右の大腿骨骨折。早く運動しないと……あなたは二度と歩けなくなります」
律は叫んでいる患者の目をじっと見つめる。
その瞳には同情も怒りもない。
「あなたの心がどうあれ、あなたの大腿四頭筋にはこの負荷が必要です」
「リハビリなんていらないわよ! 理学療法士なんて、お医者様が治療してくれた後の世話焼き程度でしょう?」
患者の言葉は律の瞳孔を急速に拡大させた。
深爪寸前の指先が白くなるほど、手のひらに食い込む。
律が患者に向かって歩を進めようとしたその瞬間。
「――田中さん、ウチのがどうもすみませんね」
鋭く、しかし凛とした声がリハビリ室の空気を割った。振り返ると、回診に来ていた院長の鴉丸が歩み寄ってくるところだった。
「退院した後のことを考えているんですよね。大丈夫ですよ。ゆっくり、田中さんのペースでやりましょう」
鴉丸の柔らかい言葉に、患者の肩がふっと落ちる。
「……ごめんなさいね院長さん。この子が、あんまり心のないことばかり言うもんだから……」
「ははは。この子は不器用なもので。昨日も遅くまで残って調べていたんですよ。田中さん、あなたのためにね」
鴉丸は他のスタッフに目配せし、安堵した表情の患者を病室へと送り出す。
嵐が去ったリハビリ室。ぽつんとその場に残された律は、不機嫌そうにタブレットの画面を指で弾いた。
「――ばあちゃん。甘やかしすぎじゃない? 多くの論文でも早期荷重の重要性はもはや周知の事実だよ」
「ここでは『ばあちゃん』って呼ばないの。あなたの言うことは正しい。……だけれど、それだけでは人間は動かない。人の感情は論文ではわからないのよ」
「ふん。まあでも、リハビリなんて医者に比べたら……さ」
鴉丸はため息をつきながら律の隣に立ち、誰もいなくなった平行棒を見つめた。
「律。医者も、理学療法士も、本当の意味では患者を救うことなんて出来ない。私達に出来るのは、患者の背中を押すことに過ぎないのよ」
律は鴉丸の言葉を聞き逃すかのように、出入り口を見つめた。
「……ばあちゃん。もう定時だし、お母さんの病室に行ってくる」
「院長だってば。……あまり長居はしないようにね」
鴉丸の目が一瞬だけ鋭くなった。律はそれに気づかないフリをして、制服のポケットに突っ込んだ手を握りしめる。そこには特別棟に入るためのこの病院の紋章――絡み合う二重螺旋を模したロゴが刻印されたカードキーがあった。
「……ねえ律。あなた、明日誕生日だよね?」
歩を進めていた律の背中に、鴉丸が声をかける。
「そうだよ。ニ十五の誕生日だけど」
「そっか……。誕生日おめでとう」
「なによ急に。それに明日だってば。じゃあ、もう行くね」
遠ざかっていく足音。鴉丸は小さく唇を動かした。
「……ごめんね、律」
その言葉は誰に届くこともなく、無機質なリハビリ室の床へと吸い込まれていった。
***
二重螺旋の紋章が刻まれた重厚な扉を抜けると空気の質が変わる。
まず襲ってきたのは物理的な重さを伴う静寂だ。救急車のサイレンも、ナースコールの電子音も、ここまでは届かない。私の黒のニューバランスが床を叩く乾いた音だけが耳障りなほど廊下に反跳する。
数度低く設定された空気。過剰なまでに純化された消毒液の匂い。清掃が行き届きすぎているせいで、まるでこの世ではないみたいだ。
ふと視線を走らせると、ナースステーションには人影がまばらだった。一般病棟のような慌ただしさは微塵もない。数少ない看護師たちは、まるで行き止まりの迷宮を守る番人のようだ。無機質なモニターの光に顔を青白く照らされている。
ここはクロード先進医療センター、特別棟。
無機質な自動ドアが閉まる音を背に、私は母の病室へと足を進める。
部屋の前に備え付けられている手洗い場で、私は自分の指先を見つめた。指先は消毒液で荒れ、爪は機能性だけを求めて深爪寸前まで切り揃えられている。今朝、自宅の床に落ちていた賞味期限切れの栄養補助食品を開けたときに傷を作ったが、痛みはもう感じない。
「……あ」
ボトッ。手に持っていたままだったカードキーが床へと落ちる。
「最近指が痺れて力が入りにくいんだよな。感覚も鈍くなっている気もする。……検査したほうがいいか?」
自分の身を案じつつ、黒のカーディガンを上腕二頭筋の筋腹までまくる。丁寧に肘まで手を洗って入室すると、そこには一人の女性がベッドで眠っていた。
「……きたよ、お母さん」
返事はない。純白のシーツに横たわる母は深い眠りについた姫君のように《《二十年も前から静止している》》。
「さて、今日の状態は……と」
【電子カルテ No.12096】
氏名: 能登 澪
年齢: 45歳
診断名:プリンセス・シンドローム
【バイタルサイン】
体温:36.5℃(20年間不変)
心拍:60bpm(ゆらぎ無し)
BMI:19.0(20年間、小数点以下まで変動なし)
備考:経口・経管栄養の摂取なし。排泄なし。
「……今日も変わりなしか」
プリンセス・シンドローム。通称「姫の病」と呼ばれている。ある日突然、意識が消失し一切の外部刺激に反応しなくなる原因不明の奇病。随意運動だけでなく排泄も消失。経管栄養や点滴による栄養摂取すらも必要としなくなる。
私は母の細い手首を取り、橈骨動脈に指を触れた。指先に伝わる拍動は、機械で制御されたかのように一定している。
「おとぎ話じゃあるまいし。……気味が悪い」
人間は寝たきりになれば、わずか数週間で筋肉は痩せ細り関節は固まる。数カ月もすれば骨は脆くなるはずだ。それが私が知る人体の絶対的なルール。
私は母の腕を掴み、その関節を動かしてみる。抵抗感は一切ない。関節は固まっておらず筋肉もふっくらとした張りを保っている。
栄養を摂らずになぜ筋細胞が分解されない?
排泄もせず、なぜ自己中毒を起こさない?
この部屋の空気、あるいは私には見えない何かを食べているとでも言うのか?
「お母さん、早く起きたら? ……私、明日でニ十五になるよ」
私のつぶやきに対し、眼の前で眠る母は当然のことながら何の返事もしない。
「……もうすぐ私も、この人が倒れたときの年齡と同じになるのか……」
私は気持ちを抑えるように、伸び切って弾力を失ったヘアゴムで真っ黒な髪を一つに括り直す。しかしその試みは実らず、プチンという音とともヘアゴムが切れた。
「……私もこのゴムと同じだな……わッ…!」
ガタンッ!
突如、私の両膝が重力に抗うのをやめた。
持っていたタブレットも床に落下する。
力が入らない。
立てない。
「な、なんで急に……? ギランバレー症候群? 上行性の麻痺か? いや、進行が速すぎる。脳になにか起きた? いや、でも症状が出たのは両側の上下肢同時だ……」
自分の身体が自分のものでなくなっていく。末梢からのフィードバックが途絶し、脳だけが暗い宇宙に放り出されたような感覚。意識が遠のいてこうとする。
その時、床に落ちた端末が現実を裂くような音を立てて断ち切った。
不吉な真紅のバックライトが、タブレットの画面を埋め尽くす。
中心に表示されたのは、無機質な一言――『SORRY』。
「な……、何かの……エラー? この……タイミングで……?」
困惑を塗りつぶすように、床のタイルから紫色の光が溢れ出した。幾何学的な紋章が網膜を焼き、リハビリ室の重力バランスが急速に崩壊していく。
――浮遊感。いや、三半規管が機能を停止したのか。深部感覚が低下し、自分の手足がどこにあるのかさえ認識しづらい。
圧倒的な光量に視界がホワイトアウトする寸前、私は無意識に母へと手を伸ばしていた。
次の瞬間、私の視界から『クロード先進医療センター』の風景が、剥落するように消え去った。
***
【本日のカルテ 】
担当: 能登 律
対象者: 能登 律 年齢: 24歳
■ S(Subjective:主訴)
「指先が痺れる」
「力が入らない」
「なんで急に……?」
■ O(Objective:客観的所見・評価)
・運動機能:四肢の急速な弛緩性麻痺(MMT 5 → 1)。起立保持困難。
・感覚機能:深部感覚(位置覚・振動覚)の消失。
・意識レベル:JCS Ⅰ-1(清明)だが、パニック状態。
・環境:重力制御のエラー発生。
■ A(Assessment:分析)
ギランバレー症候群、あるいは脳血管障害の疑い……否。
医学的診断不能。
強制転移のメカニズム不明。
■ P(Plan:計画)
・不明
■ 特記事項
SORRYの文字とは?
プリンセス・シンドロームとは?
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