エピローグ
春の午後、校舎の裏庭は、すっかり人の気配が消えていた。
卒業式の喧騒も、写真を撮るシャッターの音も、もう遠い。
俺たちは、まだベンチに座っていた。
手の中にあるのは、彼女がくれた鍵のチャーム。
光が当たって、金色に小さく輝く。
風が吹くたびに、花壇の花びらが、まだ舞い続けている。
「……行かなきゃ、だね。」
彼女が小さく呟いた。
制服のリボンを指先で触れながら、空を見上げる。
「……はい。」
俺も同じように答える。
けれど、不思議と不安はなかった。
たぶん、それは隣にいる彼女が、俺の手を握っていてくれたからだ。
人魚の歌声は、もう胸の奥で優しい音楽に変わっていた。
あの日、俺を引きずり込んだ声は、今は、俺を支えてくれる声に変わった。
彼女がこちらを向いて、笑う。
「……強くなったね。」
「……そう見えますか?」
「うん。」
その一言で、胸がいっぱいになった。
「……会長も、変わりましたよ。」
彼女が、少し驚いた顔をする。
「……そうかな。」
「はい。少し……弱くなったと思います。」
彼女は、きょとんとしたあと、ふっと笑った。
「……そっか。それ、悪くないかも。」
風が吹いて、制服の裾とリボンが揺れる。
その姿は、やっぱり綺麗だった。
俺は、ポケットから小さな紙袋を取り出した。
中には、数日前、彼女の親友から受け取ったお守りが入っている。
彼女の手のひらに、それを置いた。
「……これ、預かってくれませんか。」
彼女は不思議そうにそれを見つめた。
「……なんで?」
「俺にとっては、もう必要ないんです。」
彼女が、少し首をかしげて笑う。
「……ずるい人。」
「……よく言われます。」
そのやり取りに、二人で小さく笑った。
遠くで、校門の方から声がする。
友達の名前を呼ぶ声や、車のエンジン音。
それが、二人の時間の終わりを告げる合図のようだった。
彼女が立ち上がる。
制服の裾を払って、空を見上げる。
俺も立ち、隣に並ぶ。
「……これから、どうなるんでしょうね。」
俺が呟くと、彼女は迷わず答えた。
「……きっと、大丈夫。」
その言葉に、何の根拠もないのに、胸が軽くなる。
「……じゃあ、信じます。」
彼女が笑う。
「……変な人。」
俺も笑う。
「……よく言われます。」
その言葉で、二人はまた少し近づけた気がした。
ベンチの上に残ったのは、彼女が受け取ったお守りと、二人の重なった影。
それが、少しだけ、ひとつに見えた。
「……行きましょうか。」
彼女が一歩前に出る。
俺も、その後を追う。
春の風の中、花びらがまだ舞い続けていた。
あの日、彼女の歌に出会ったときの胸の高鳴りが、もう一度蘇る。
──人魚の歌声は、これからも胸の奥で鳴り続ける。
今度は、俺の隣で。
そう思うと、少しだけ未来が楽しみになった。
彼女が、制服のリボンを整えて振り返る。
「……これからも、よろしくね。」
俺は、真っ直ぐに頷いた。
「……はい。よろしくお願いします。」
春の光が二人を照らし、長く伸びた影が、ひとつに重なった。
人魚の歌声の続きを、これから二人で奏でるように、俺たちは歩き出した。