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8章


 卒業式が終わった体育館の外は、春の光が眩しかった。

 空は澄み切っていて、風がまだ冷たく、花壇の花が小さく揺れている。


 体育館から出てくる人の群れに混じって、俺は制服のポケットに手を入れた。

 握りしめているのは、あの日彼女からもらった小さな鍵のチャーム。

 その感触が、落ち着かない心を少しだけ支えてくれる。


 ──この鍵で開けるべき扉は、きっと今日、目の前に現れる。


 人混みの中で、彼女を探した。

 白いリボンを直しながら、友達に囲まれている姿が見えた。

 笑いながら写真を撮られ、寄せ書きを手にしている。


 その姿を見ていると、胸が詰まる。

 この2年間、彼女はいつもああして、みんなの中心にいた。

 それでも時々見せる、小さな背中と涙ぐんだ瞳。

 そのすべてを知ってしまったから、もう戻れない。


 ──あの歌声に、囚われてしまったんだ。


 彼女の視線が、偶然こちらに重なった。

 ほんの一瞬、目を見開いて、それから笑う。

 その笑顔は、今までのどの笑顔よりも、俺に向けられたものだとわかった。


 彼女が、友達に小さく手を振り、こっちへ歩いてくる。

 白いリボンが、春の風に揺れていた。


 「……待っててくれたんだ。」


 彼女が、俺の前で立ち止まる。


 「……はい。」


 彼女は小さく笑う。

 「じゃあ、行こうか。」


 そのまま、裏庭へと歩き出した。

 俺もその後を追う。

 人混みの声が遠ざかり、二人きりの空気に変わっていく。


 裏庭のベンチ。

 あの日、彼女と向き合った場所。

 あの時よりも強い日差しの下で、彼女がベンチに座る。


 俺も、その隣に座った。

 沈黙が、しばらく続いた。


 やがて、彼女が小さく息を吐いて、口を開く。


 「……私、あなたがいてくれてよかった。」


 俺は顔を上げる。


 「……全部言わなきゃって思ってたの。強がりも、ずるさも、怖さも。」


 彼女の手が、膝の上で小さく震えている。


 「私、みんなに優しいふりをして、強いふりをして……でも、本当は、ずっと怖かった。」


 声が少し掠れる。

 「誰にも見せられなくて、一人になって、泣いて、立ち上がって……そうやって、ずっとここまで来た。」


 俺は、彼女のその手をそっと握った。


 「……もう、強がらなくていいです。」


 彼女が、驚いたように俺を見つめる。


 「……ずっと見てきました。あなたの歌声に惹かれて、あなたの優しさに救われて……だから、強がりも、ずるさも、全部受け止めたい。」


 その言葉に、彼女の目に涙が浮かぶ。


 「……本当に、変な人。」


 「……よく言われます。」


 彼女は笑いながら、涙をこぼした。


 風が吹き、制服の裾と髪が揺れる。

 その横顔が、眩しいほど綺麗だった。


 「……私、あなたに出会えてよかった。」


 「……俺もです。」


 ベンチの上で、二人の影が重なり合う。

 その影が、春の光の中でひとつになっていくようだった。


 彼女が、ポケットから何かを取り出した。

 薄い封筒だった。

 「これ、ずっと渡そうと思ってたの。」


 封筒を受け取ると、そこには細い字で「ありがとう」と書かれていた。


 「……ありがとう、じゃ足りないくらいなんだけど。」


 俺は、封筒を胸にしまい、彼女に向き直った。


 「……じゃあ、これから返してもらいます。」


 彼女が、目を丸くしたあと、少し笑う。

 「……そうだね。」


 静かに、彼女の手を握りしめた。


 風の中で、人魚の歌声が胸の奥で鳴る。

 あの日、カラオケで聴いたあの声が、ずっと消えずに残っている。


 ──この人が歌ってくれたから、俺はここにいられる。


 鳥の声が、春の空に響いた。

 残されたのは、あとひとつの言葉だけだ。

 その言葉を、この場所で伝えるために、俺は今日まで来た。


 人魚の歌声が、遠くで、でも確かに鳴っている。

 胸の奥に、強く、優しく。


 最終章の鐘が、もう鳴ろうとしていた。


 春の風が、やわらかく吹く。

 花壇の花が揺れ、舞い上がった花びらが、二人の足元に散っていく。


 彼女は、俺の目の前に立ったまま、ゆっくりと深呼吸した。

 制服のリボンが、春の光を受けてほのかに輝いている。


 俺は、その姿を見つめながら、最後の言葉を選んでいた。


 ──人魚の歌声を、初めて聴いた夜から、ずっと。

 俺の胸の奥では、その声が止まったことはなかった。

 今日、この瞬間、そのすべてを、伝えなければならない。


 彼女が、そっと視線を上げる。

 その瞳の奥には、強がりも、弱さも、すべてが混ざり合って、俺を見つめていた。


 「……伝えて。」


 その一言で、背中を押された。


 俺は、一歩だけ彼女に近づく。


 「……文化祭の夜。」


 声が震えるのがわかった。

 でも、止められなかった。


 「あなたの歌を聴いて、俺の世界は、全部壊れてしまった。」


 彼女が、小さく目を見開く。

 俺は続ける。


 「合理的に、計算して、先回りして……そんなふうに生きてきたのに、全部、意味がなくなった。」


 握りしめていた鍵のチャームが、ポケットの中で強く当たる。


 「あなたの歌は、俺にとって人魚の歌声でした。理屈も、損得も、全部関係なくなるくらい、美しくて、俺を引きずり込む声でした。」


 言葉を吐き出すたびに、胸が熱くなる。

 彼女が、ほんのわずかに唇を震わせる。


 「……あなたを、好きになってしまったんです。」


 言った瞬間、強い風が吹き抜けた。

 花びらが二人の間を舞い、光の粒のように降り注いだ。


 彼女が、ゆっくりと手を伸ばす。

 制服の袖が揺れ、その指先が、俺の頬に触れる。


 「……ありがとう。」


 その声が、まるであの日の歌声みたいに、胸に響いた。


 「ずっと怖かった。誰かに見つけてもらうのが、怖くて……でも、あなたが、全部見つけてくれた。」


 その瞳から、涙がこぼれる。

 それを隠そうともしないで、彼女は微笑んだ。


 「……私も、ずっと、あなたに見つけてもらいたかったのかもしれない。」


 心臓が、大きな音を立てた。

 胸の奥の歌声が、強く、大きくなる。


 「……もう、強がらなくていいです。」


 俺の言葉に、彼女が小さく頷いた。

 その瞳が、確かに俺を映していた。


 「……私の歌、もう一度、聴く?」


 彼女が、少しだけいたずらっぽく笑う。

 俺は迷わず答えた。


 「……ずっと、聴いていたいです。」


 彼女は、制服のリボンを指先で直し、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 そして、春の光の中で歌い出した。


 ──人魚の歌声。


 透き通っていて、儚くて、それでいて、力強い。

 あの日、文化祭の夜に聴いた歌よりもずっと近くて、ずっと胸に届いてくる。


 俺は、涙が出そうになるのをこらえながら、ただその声を聴いていた。

 彼女のすべてが、その声に詰まっていた。


 歌い終わると、彼女が少し恥ずかしそうに笑う。

 「……変な声だったでしょ。」


 俺は、首を横に振った。

 「……綺麗でした。」


 彼女が、また涙をこぼしながら笑った。


 「……ずっと、そばにいてくれる?」


 その言葉に、俺は迷わず言った。

 「……ずっとそばにいます。」


 彼女の手を取り、強く握る。


 風が吹き、花びらが二人を包む。

 世界の色が、変わった気がした。

 人魚の歌声が、もう止まることなく胸に響いている。


 ──この歌が終わるその時まで、俺は彼女の隣にいよう。


 そう、決めた。


 春の空の下、俺たちは笑い合った。

 その笑顔の先に、これからの季節が、ゆっくりと広がっていた。

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