7章
卒業まで、残り1日。
教室の窓から見える空は、薄い春の色をしていた。
今日の授業はほとんど形だけのもので、クラスメイトたちはみんな浮き足立っていた。
写真を撮ったり、寄せ書きを書きあったり。
誰もが、笑っていた。
俺も笑い返しながら、気づくと視線を向けてしまう。
廊下の向こう、クラスの扉の前に立つ彼女。
制服のリボンを直しながら、クラスメイトに声をかけられて笑っている。
──その笑顔が、少しだけ遠くに感じた。
卒業まで、あと1日。
俺は、まだ何も伝えられていない。
授業が終わると、彼女の親友が俺の机にメモを置いていった。
──《昼休み、屋上で》
その文字を見て、胸の奥がざわめく。
昼休み、屋上。
ドアを開けると、強い風が吹き抜ける。
柵に寄りかかる彼女の親友が、髪を押さえながらこちらを見た。
「……来たわね。」
「……はい。」
彼女は、俺に向き直り、まっすぐに言った。
「……もう迷わないで。」
「……はい。」
それしか言えなかった。
「……彼女は、明日全部言う。あなたの名前じゃないかもしれないけど、きっと……答えを決めてる。」
俺はその言葉を受け止める。
胸が痛んだ。でも、同時に、決意が固まった。
「……だから、今夜、最後の作戦を実行するの。」
彼女は小さな紙袋を差し出してきた。
「……これは?」
「お守り。神社の近くで手に入れたの。くだらないと思うなら、それでもいい。でも……持っておきなさい。」
俺は紙袋を受け取る。
中に入っていたのは、小さな紺色の布のお守りだった。
彼女は風に揺れる髪を押さえながら続ける。
「……あの子、あなたの気持ちに気づいてる。でも、怖いのよ。あなたのせいじゃない。あの子自身の問題。」
俺は、拳を握る。
「……それでも、伝えます。」
彼女は、ほんの少しだけ笑った。
「……ならいい。」
その言葉の後、屋上をあとにした。
残された俺は、お守りをポケットに入れ、空を見上げる。
薄い雲の向こうに、白い月が見えた。
まだ昼間なのに、そこにあった。
──卒業まで、あと1日。
もう、後戻りはしない。
放課後、校舎の裏庭。
待っていた彼女は、制服のまま、ベンチに座っていた。
俺の姿に気づくと、柔らかく笑う。
「……来てくれたんだ。」
「……はい。」
俺が座ると、彼女は少しだけ息を吐いた。
「明日が、最後だね。」
「……そうですね。」
しばらくの沈黙。
ベンチの木目に、彼女の指先がそっと触れる。
「……私ね、ちゃんと決めたんだ。」
俺は、ゆっくりと彼女の方を見る。
「明日、全部話す。全部、伝える。」
その目は、いつもより強かった。
「……俺も、伝えます。」
彼女が少し驚いたようにこちらを見て、微笑む。
「……ありがとう。」
ベンチの上で、二人の影が重なっている。
鳥の声が遠くで響く。
「……怖いけどね。」
「……俺も、怖いです。」
それを聞いた彼女は、小さく笑った。
「変な人。」
「……よく言われます。」
いつものやり取り。
でも、それが今夜は、特別に思えた。
彼女は、ポケットから何かを取り出した。
小さな鍵のチャームだった。
「これ、あげる。」
俺は、思わず受け取る。
「……なんですか?」
「お守りみたいなもの。別に意味はないけど……持ってて。」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……はい。」
彼女が立ち上がり、制服の裾を払った。
「……明日、楽しみにしてる。」
俺も立ち上がる。
「……はい。」
彼女が、背を向けて歩き出す。
ベンチの上に残された二人の影が、少しずつ離れていく。
──卒業まで、あと1日。
この気持ちは、もう誰にも止められない。
人魚の歌声が、胸の奥で響いている。
あの日からずっと、変わらずに。
明日、俺は全部伝える。
彼女に出会って、変わってしまった世界のすべてを。
夜の部屋で、机に向かいながらも、全く手元のノートは進まなかった。
視線は、ベンチの上で受け取った小さな鍵のチャームに落ちている。
金色の表面が、部屋の照明を受けてかすかに光っていた。
──明日が来れば、すべてが決まる。
頭の中では何度もわかっているつもりなのに、胸の奥がざわざわと騒ぎ続ける。
それでも、覚悟はもうできている。
ベッドに横になり、目を閉じると、あの歌声がよみがえった。
文化祭の夜、カラオケで聴いたあの歌。
あの日から、俺の世界は塗り替えられてしまったのだ。
あれが、すべての始まりだった。
──明日、伝えよう。
小さく呟き、静かに目を閉じる。
翌朝。
教室に入ると、空気はいつもと違っていた。
クラスメイトたちは浮かれた顔でカメラを向け合い、教卓の上に寄せ書きを並べ、次々と写真を撮っている。
窓際に座りながら、彼女を探すと、すぐに見つかった。
制服のリボンを整え、友達と笑いながら話していた。
その笑顔は、やっぱりどこか遠くに見えた。
目が合う。
彼女は、ほんの一瞬、笑みを深くして頷いた。
──あと、少しだ。
卒業式は、ゆっくりと進んだ。
名前が呼ばれ、証書が渡される。
体育館の中に響く拍手の音が、やけに遠くに感じられた。
彼女が証書を受け取る瞬間、俺の胸が強く鳴った。
その姿が、ひどく眩しく見えた。
全員が壇上から降りると、式は淡々と終わりを迎えた。
校歌が流れ、拍手が鳴り、次々と生徒たちが体育館を出ていく。
俺も、彼女の姿を目で追いながら、校舎の裏庭へと向かう。
そこは、約束の場所だった。
裏庭には、まだ彼女の姿はなかった。
ベンチに座り、ポケットの中の鍵のチャームを握る。
風が冷たく、制服の裾が揺れた。
やがて、足音がした。
振り返ると、彼女がゆっくりとこちらへ歩いてきた。
制服のリボンは整えられ、手には何も持っていなかった。
そして、まっすぐに俺の前まで来ると、静かに笑った。
「……待たせちゃった?」
「……いえ。」
俺が立ち上がると、彼女が深呼吸をする。
「……今日で、全部終わりだね。」
「……はい。」
彼女は少し視線を落とし、続ける。
「……私、ずっと強がってた。本当は、怖くて仕方なかった。誰かに本当の自分を見せるのも、期待して傷つくのも。」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「……でも、あなたがいたから、少しずつ変われたの。」
彼女が顔を上げる。
その目に、涙が溜まっていた。
「……ありがとう。」
俺は、もう迷わなかった。
「……俺も、伝えさせてください。」
彼女が、小さく頷く。
「……文化祭の夜、あなたの歌を聴いたとき、俺の世界は変わったんです。」
声が震えていた。
「あなたの歌は、俺にとって、人魚の歌声でした。理屈も計算も吹き飛ぶほど、胸を貫かれたんです。」
彼女の目が、大きく開く。
「……だから、ずっとあなたが好きでした。」
その言葉に、彼女は涙を流しながら笑った。
「……やっぱり、変な人。」
「……よく言われます。」
彼女は涙を拭き、少しだけ背伸びして俺の顔を覗き込んだ。
「……ありがとう。あなたのおかげで、私はちゃんと本当の自分を見つけられた。」
風が吹き、制服の裾が揺れる。
二人の影が、長く伸びて重なった。
「……これからも、そばにいてくれる?」
俺は迷わず頷いた。
「もちろんです。」
彼女が、小さく微笑む。
胸の奥で、人魚の歌声が鳴った。
あの日からずっと、俺をここまで導いてくれた声が。
卒業の鐘が、遠くで鳴っていた。
俺たちは、ゆっくりと手を重ねた。
──もう、迷わない。
この声が鳴り止むその時まで、彼女の隣にいる。
そう、心に誓った。