6章
卒業まで、残り2日。
教室の窓際でノートを開いていても、文字が頭に入ってこなかった。
ノートの隅に、昨日彼女──会長の親友から受け取った赤い文字がちらつく。
──《最終戦略》
ページを閉じて深呼吸する。
胸の奥で、何度も問いかける。
──本当に、俺でいいのか。
──彼女の隣に、立つ資格があるのか。
その答えが出ないまま、授業のチャイムが鳴った。
廊下に出ると、向こうから彼女が歩いてきた。
制服のリボンが風に揺れ、手には何も持っていなかった。
俺を見ると、一瞬だけ立ち止まり、小さく笑った。
「……お疲れさま。」
それだけ言って、彼女は通り過ぎる。
その背中を、どうしても見送れなかった。
──もう、決めるしかない。
放課後、ノートに書かれていた通り、体育館の裏に行く。
そこは、誰も来ない、夕陽が差し込む場所だった。
既に彼女がいた。
制服のまま、壁に寄りかかり、空を見上げている。
俺が近づくと、気配に気づき、顔を向ける。
「……来てくれたんだ。」
「はい。」
彼女は少しだけ笑った。
「……ちょっとだけ、付き合ってくれる?」
「もちろんです。」
それだけで、彼女の目が柔らかくなった。
「ありがとう。」
沈黙が落ちる。
遠くで風が吹いて、体育館の壁がわずかに鳴る。
その音の中で、彼女がぽつりと口を開いた。
「……私、小さい頃から、ずっと強がってばっかりだった。」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「本当は不安で、怖くて……でも、誰にも見せられなくて。」
俺は、何も言わずに彼女を見ていた。
「あなたといると、それを忘れられるの。……だから、ずるいよね。」
「……ずるくなんかないです。」
彼女が、少しだけ目を見開く。
俺は、一歩近づいた。
「……俺は、その強がりも、怖がりも、全部知りたいです。」
彼女は、息を呑んだまま動かない。
俺は、そっと手を差し伸べた。
制服の袖の上から、彼女の手を包み込む。
その温もりが伝わってきた瞬間、彼女が小さく震えた。
「……変な人。」
「……よく言われます。」
彼女が、少しだけ笑う。
その笑顔は、これまででいちばん自然で、優しかった。
「……私、卒業式の日に、全部伝えるから。」
俺は、強く頷いた。
「……はい。そのときは、俺も。」
「……楽しみにしてる。」
彼女が、俺の手をそっと握り返す。
夕陽が、二人を赤く染めていた。
まるで、世界の色が変わっていくみたいに。
人魚の歌声が、また胸の奥で鳴った。
あの日からずっと、止まらないまま。
卒業まで、残り2日。
戦いは、最終局面に差し掛かっていた。
夕陽が落ちるのと同時に、彼女の手から力が抜けた。
俺はそっと手を離し、彼女の様子をうかがった。
「……もう、大丈夫ですか?」
彼女は小さく頷き、目を閉じたまま息を整えていた。
体育館の裏は、すっかり夜の色に染まり、遠くの街灯が灯り始めている。
風が冷たく、制服の裾がはためいた。
「……ねえ、」
彼女が口を開く。
「……私、本当に卒業したくないのかもしれない。」
俺は、その言葉をただ受け止めた。
「このまま、この学校で、みんなと笑って、あなたとこうして、何も変わらずにいられたらいいのにって……。」
彼女の声が、風にかき消されそうになる。
「……でも、それは無理だから。」
その一言が、胸に突き刺さる。
俺は言った。
「……無理じゃないです。」
彼女が、こちらを見上げる。
その瞳に、弱い光が揺れていた。
「……卒業したって、終わりじゃないです。俺は、会長と一緒にいたいです。」
その言葉に、彼女の目がわずかに大きくなった。
「……どうして、そんなこと……」
「……会長の歌声を、聞いてしまったからです。」
それを言った瞬間、胸が熱くなる。
「……あの日から、俺の世界は変わってしまったんです。」
彼女が、かすかに息を呑む。
空気が静まる。
俺の心臓の音が、はっきりと聞こえた。
彼女は、しばらく俯いていたが、やがて小さく笑った。
「……ずるいね、あなた。」
「……はい。」
彼女が笑う。
それは、これまででいちばん泣きそうで、いちばん綺麗な笑顔だった。
「……私、ちゃんと伝えるから。」
「……俺も、伝えます。」
彼女は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。
その姿が、ひどく儚く見えた。
この人がどれだけ無理をして、笑ってきたのかが、痛いほど伝わる。
──だから、もう迷わない。
「……もう少し、歩きませんか。」
俺がそう言うと、彼女は頷いた。
「……うん。」
俺たちは、並んで歩き出した。
体育館の裏から校庭を抜け、正門へと向かう。
空には、白い月が浮かび、冷たい星が瞬いていた。
彼女が、ぽつりと呟く。
「……ここに来てから、いろんなことがあったな。」
「……はい。」
「最初は、ただ楽しくて、誰とでも仲良くなれて……それが私の武器だって思ってた。」
彼女の声が、少しだけ震えていた。
「でも……本当は、そんな強くない。」
俺は、立ち止まって彼女の前に立つ。
「知ってます。」
彼女が、驚いたように顔を上げる。
「強くなくてもいいです。俺が、支えます。」
そう言うと、彼女は小さく笑った。
「……変な人。」
「……よく言われます。」
そのやりとりに、彼女はほんの少しだけ声を出して笑った。
その笑い声が、夜空に溶けていく。
「……やっぱり、卒業したくないな。」
彼女が言う。
「……それでも、俺はついていきます。」
その一言で、彼女の瞳が潤んだ。
でも、彼女は涙をこらえて、まっすぐに俺を見た。
「……ありがとう。」
その言葉が、胸に深く残った。
校門に着くと、もう周囲は暗く、街灯の光が二人の影を伸ばしていた。
彼女が足を止め、俺の方を振り返る。
「……卒業式の日、ちゃんと聞いてね。」
「……はい。」
「その時は……あなたも、ちゃんと、伝えて。」
「もちろんです。」
彼女は、小さく息を吐いて笑った。
「楽しみにしてる。」
それだけ言うと、彼女は背を向けて、家路についた。
その背中を見送ったあと、俺は空を見上げる。
月が白く光り、胸の奥で人魚の歌声がまた鳴った。
──卒業まで、残り2日。
戦いは、もうすぐ終わる。
でも、その先に待っているのは、きっと。
彼女がくれた世界の続きを、俺が自分で歩き出すためのものだ。
そう思えた。
夜風が吹き、制服の袖が揺れる。
胸の中で決意が形になる。
──卒業式の日、俺は伝える。
この胸を貫いた、あの人魚の歌声のことも、その後のすべての気持ちも。
必ず。