5章
卒業まで、残り3日。
朝の教室は、いつもより騒がしかった。
クラスメイトたちが卒業式の準備やら、最後の写真撮影の予定やらで盛り上がっている。
その中にいても、俺の耳は別の音を探していた。
──あの歌声が、まだ胸の奥で鳴っている。
合理性や計算なんて、もうとっくに意味をなくしていた。
ふと、廊下の向こうから視線を感じる。
会長が、こちらを見ていた。
制服のリボンを整え、笑顔を浮かべている。
ただ、それがほんの少しだけ、作り物のように見えた。
俺は席を立ち、会長のもとへ向かう。
途中、彼女──会長の親友が視界に入った。
黒髪を揺らしながら、こちらを見て、ほんのわずかに頷く。
──わかってる。
今日も、進む。
廊下で会長とすれ違うとき、彼女が小さな声で言った。
「放課後、少し、時間ある?」
その言葉だけで、胸が高鳴った。
「……あります。」
彼女は小さく笑い、教室へ戻っていった。
放課後。
人気のない中庭に呼び出されると、彼女がベンチに座っていた。
制服のまま、空を見上げている。
冬の空は少し白く、どこか冷たかった。
「……来てくれてありがとう。」
彼女が俺を見ると、リボンが風で揺れる。
「俺の方こそ、ありがとうございます。」
そう答えると、彼女は小さく息をついた。
「……私、ずっと考えてたんだ。」
「何をですか?」
彼女は視線を落とし、手のひらを握りしめる。
「この2年間、ずっと……本当の自分を見せるのが怖かった。」
俺は言葉を飲み込む。
彼女の肩が少しだけ震えていた。
「でも、あなたがいて……私、少しずつ、素直になれる気がして。」
そう言うと、彼女は顔を上げ、俺をまっすぐに見た。
「……ありがとう。」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……俺の方こそ、救われました。」
彼女は少しだけ笑った。
それは、今までで一番、自然な笑顔だった。
しばらく沈黙が流れた。
彼女がベンチから立ち上がる。
「ねえ、歩かない?」
「……はい。」
俺たちは並んで、校舎の裏手へと歩く。
空は夕焼けに染まり、影が長く伸びていた。
途中、彼女が立ち止まり、石畳の上でこちらを見た。
「私ね、卒業式の日に、ちゃんと伝えようと思ってる。」
「……伝える?」
彼女は頷いた。
「本当の気持ち。ずっと言えなかったこと。だから……その時まで、そばにいてくれる?」
胸が締めつけられる。
「もちろんです。」
彼女は、ほっとしたように笑った。
「……ありがとう。」
その笑顔が、胸に刺さった。
俺は、思わず手を伸ばした。
制服の袖に触れる。
彼女は少し驚いたように俺を見て、それから、そっと俺の手に触れた。
その温もりに、心臓が早鐘のように鳴る。
合理性も、計算も、もう何も残っていなかった。
ただ、目の前の彼女がすべてだった。
彼女が、少しだけ俯いて言った。
「……私、ずるいよね。こんなお願いばかりして。」
俺は、首を横に振った。
「ずるくなんてないです。俺が勝手に、そうしたいって思ったんですから。」
彼女は、息を呑んだあと、小さな声で呟いた。
「……本当に、変な人。」
「……よく言われます。」
それを聞いた彼女は、笑いながら俺の手を握り返した。
そのぬくもりが、消えないでほしいと願った。
帰り道。
校門までの道を、二人で歩く。
足元の影が絡み合い、夕暮れの光が二人を染める。
「……もう少しだけ、一緒にいてくれる?」
その言葉に、俺は迷わず頷いた。
「もちろんです。」
卒業まで、残り3日。
俺の中で、答えは決まっていた。
──この人のすべてを知りたい。
人魚の歌声が、まだ胸の奥で響いている。
あの日からずっと、止まらないまま。
戦いは、まだ終わらない。
でも、それでいいと思えた。
彼女と過ごす時間が、少しずつ、俺の世界を塗り替えていく。
夕焼けの中、彼女の笑顔が、もう一度見たいと思った。
夕焼けに染まった校門の前で、彼女が立ち止まった。
「……ここまででいいかな。」
俺は、少し名残惜しくて、ほんのわずかに足を止めた。
「はい。」
彼女は手を離すと、制服のリボンを軽く整え、深呼吸をした。
「……ありがとう。」
それだけ言うと、彼女は小さく笑って、こちらを振り返った。
その笑顔が、あまりにも綺麗で、言葉が出なかった。
「明日も、お願いしていい?」
その言葉に、俺はすぐに頷く。
「もちろんです。」
彼女の笑顔が、もう一度、少し柔らかくなった。
俺が「お疲れさまでした」と言うと、彼女は「お疲れさま」と返して、振り返って歩き出した。
その背中が、街灯に照らされて、ほんのり金色に見えた。
俺はその場に立ち尽くしたまま、ポケットの中でこぶしを握った。
──もっと、この人に近づきたい。
人魚の歌声が、まだ耳の奥で響いている。
あの日からずっと。
合理性なんて、もうかけらも残っていなかった。
家に帰り、部屋に入っても、彼女の笑顔が頭を離れなかった。
机に突っ伏し、深呼吸をする。
胸がざわざわして、落ち着かない。
──卒業まで、残り3日。
今のままじゃ、足りない。
この距離を、あと3日で埋めるためには、もっと、踏み込まないといけない。
そう決めて、スマホを取り出した。
ディスプレイに、メッセージが届いていた。
差出人は、彼女──会長の親友。
──《まだ終わってない。明日の昼休み、屋上で。》
俺は深く息をついて、スマホをポケットにしまった。
窓の外には、白い月が浮かんでいた。
この月が、あと3回満ち欠けするまでに、俺はすべてを伝えなければならない。
──人魚の歌声に導かれるように。
翌日、昼休み。
屋上に出ると、彼女──親友が手すりに寄りかかって待っていた。
「遅い。」
「……すみません。」
彼女は、手にしたノートを俺に投げてよこす。
表紙に、赤字でこう書かれていた。
──《最終戦略》
「……これが?」
「そう。ここからは、もう待つ時間はない。あなたが動かなきゃ、終わる。」
彼女は、屋上の柵を背にして立ち、俺の目を見据えた。
「卒業まで、あと3日。彼女は必ず、式の日に気持ちを伝える。……それが、あなたの名前じゃなくても、止められるのは、今だけ。」
心臓が強く鳴る。
彼女が続ける。
「……だから、これ以上は、私も助けない。あとは、あなたが決めること。」
俺は、ノートを握りしめる。
中には、彼女がこれまで練り上げてきた戦略の痕跡がびっしりと詰まっていた。
彼女の文字が、決意を滲ませている。
俺は、深呼吸をして、彼女に頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございました。」
彼女は、少しだけ目を丸くしたあと、そっけなく言った。
「礼なら、全部終わってからでいいわ。」
そして、俺の肩を軽く叩いて、屋上を出ていった。
残された俺は、ノートを開いたまま、冬の空を見上げた。
雲一つない、真っ青な空。
遠くで風が吹いて、柵がきぃ、と音を立てる。
──もう、戻れない。
彼女のために用意されたこの舞台で、俺は俺自身の選択をしなければならない。
人魚の歌声が、今も胸の奥で鳴っている。
理屈じゃない。
合理性も、計算も、もう意味がなかった。
ただ、彼女の隣にいたい。
その一心で、俺はノートを閉じた。
制服のポケットにしまい、静かに呟く。
「……やるしかない。」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
俺は屋上をあとにし、教室へ向かった。
途中、廊下の向こうで彼女──会長とすれ違った。
制服のリボンを整えながら、ほんの一瞬こちらを見て、小さく笑った。
その笑顔が、俺の胸に深く刺さった。
──卒業まで、残り3日。
すべてを決める時間は、すぐそこまで迫っていた。