表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

3章


 卒業まで、残り5日。


 朝、昇降口で靴を履き替えていると、すっと視界に黒い影が差した。

 顔を上げると、彼女──会長の親友が、腕を組んで立っていた。


 「……今日も、付き合ってもらうわよ。」


 「……朝からずいぶん堂々とするな。」


 「当然でしょ。ここまで来たら、中途半端なことは許さない。」


 そう言って、彼女はポケットからメモ帳を取り出し、俺の手に押しつけた。

 ページの端に赤字でこう書かれている。


 ──《次は、特別な時間を共有する。》


 「特別な時間、ね……。」


 「そう。昨日の体育館は悪くなかったけど、まだ“一緒にいただけ”よ。」


 彼女は俺の視線を受け止めながら、続けた。

 「会長にとって、あなたが他の誰とも違う存在だと思わせるには、他の人が踏み込まない時間や場所で、ちゃんと向き合わなきゃ。」


 合理的で冷たい言葉なのに、なぜか心臓が高鳴る。

 俺は、深呼吸をして頷いた。

 「……で、今日はどこに連れ出すんだ?」


 「放課後に美術室。」


 「……美術室?」


 「そう。」


 彼女は、黒髪をかき上げながら視線を窓の外にやった。

 「会長はあそこが好きなの。絵を描くのが得意ってわけじゃないけど、よく一人でぼんやりしてるのを見かける。」


 意外だった。

 会長が美術室にいる姿は、俺の知っている彼女のイメージからは少し外れている。


 「いい雰囲気を作れる。準備はしておくから、あとはあんたがどうするか。」


 俺は、まだ何も決まらないまま、メモを見つめるしかなかった。


 放課後まで、教室で過ごす時間がやけに長く感じた。


 窓の外の光が傾いて、チャイムが鳴る。

 俺は、机の上のメモ帳を握りしめて席を立った。


 美術室のドアを開けると、やわらかな西陽が差し込んでいた。

 白いカーテンが揺れ、石膏像が静かに佇む中、会長が窓際の椅子に座っていた。


 制服のまま、スケッチブックを広げている。

 鉛筆を握る指先が光を受けて、やけに細く美しく見えた。


 「……会長。」


 俺が声をかけると、彼女は振り返った。

 「あ、どうしたの?」


 「準備の手伝いです。次の式典の装飾案をまとめておきたくて。」


 嘘だ。

 けれど、それ以上の言葉は必要なかった。

 会長は、小さく笑って「そうなんだ」とだけ言った。


 そのまま、俺は彼女の隣に座る。

 近い距離に、鼓動が早くなる。


 「……絵、描くんですか?」


 彼女はスケッチブックを閉じかけて、少しだけ頷いた。

 「うん。でも、上手くないよ。」


 「見せてもらってもいいですか?」


 「……うーん……。」


 少し悩んだ末、彼女はスケッチブックを差し出した。

 ページをめくると、そこには柔らかい色合いの風景や、制服姿の誰かが描かれていた。

 上手くはないと言ったが、それぞれの絵に、優しい雰囲気があった。


 「……すごいです。ちゃんと“その人”がいるみたいで。」


 そう言うと、彼女は頬を赤くして笑った。

 「ありがとう。」


 静かにページをめくり続けると、最後のページに、小さな文字で書き込みがあった。


 ──《卒業までに、伝える》


 その文字を見たとき、胸がぎゅっと痛んだ。


 「……これは?」


 彼女は、俺の視線に気づいて、一瞬言葉に詰まった。

 「……秘密。」


 その言い方が、ひどく苦しそうに見えた。


 俺は、口を開く。

 「……会長。」


 彼女が、こちらを見た。


 「もし、俺にできることがあるなら、言ってください。」


 俺の言葉に、彼女は目を丸くした。


 「……なんで?」


 「なんとなく、会長も無理してる気がするから。」


 俺がそう言うと、彼女はスケッチブックを閉じ、顔を伏せた。


 「……ありがとう。でも、大丈夫。」


 それ以上、俺には何も言えなかった。


 沈黙が流れる。

 窓の外の光が赤く染まり、美術室の中も橙色に満たされる。

 石膏像の影が長く伸びていた。


 彼女は、ゆっくりと顔を上げ、俺に向かって笑った。


 「……あなたって、面白いね。」


 「え?」


 「計算高いのに、こういう時だけ、ちゃんと感情が出る。」


 「……自覚は、あります。」


 それを聞いた彼女は、少しだけ、楽しそうに笑った。


 ──その笑顔が、俺の胸に刺さる。


 これ以上は、もう理屈じゃなかった。

 合理性も計算も、もうどうでもいい。


 ただ、この人を知りたいと思った。

 この人の、強がりの奥まで見たいと思った。


 彼女は、窓から外を見て、ぽつりと呟いた。


 「……もう少し、ここにいていい?」


 その声が、いつもより少しだけ小さくて、俺はすぐに答えた。

 「もちろんです。」


 窓の外で風が吹き、カーテンが揺れる。

 美術室は、まるで別の世界のように、静かで、あたたかかった。


 卒業まで、残り5日。


 俺は、もっと彼女を知りたいと思った。


 その思いが、もう止まらなかった。


 美術室の空気は、夕暮れの光で満ちていた。


 彼女は窓際で、スケッチブックを閉じ、膝の上に置いている。

 俺はその隣で、ただ黙って座っていた。


 風が吹くたびに、カーテンが揺れ、石膏像の影が二人を包む。


 「……やっぱり、こういう時間、いいね。」


 彼女がぽつりと呟いた。


 俺は少しだけ顔を上げる。

 「どういう意味ですか?」


 「なんとなく。静かで、余計なこと考えなくていいから。」


 俺は、その言葉を胸の奥で噛みしめる。

 ──彼女も、きっと、いつも誰かの前では笑っている。

 その裏で、こうして一人きりで、息をつく時間を作っているんだ。


 「……会長も、疲れるんですね。」


 俺がそう言うと、彼女は少し驚いたようにこちらを見た。

 そして、笑った。

 「……そうだね。疲れるよ、やっぱり。」


 笑顔の中に、ほんの一瞬、影が見えた。


 その影に触れたくて、俺は思わず言った。

 「俺にできることがあれば、言ってください。」


 彼女は、しばらく黙ったまま、スケッチブックの端を指でなぞっていた。

 やがて、ぽつりと言った。


 「……じゃあ、話を聞いてくれる?」


 「はい。」


 彼女は視線を窓の外に向け、言葉を探すように口を開く。


 「私ね、ずっと、“いい子”でいなきゃって思ってたんだ。」


 夕陽が、その横顔を赤く染める。


 「転校したり、引っ越したりが多かったから、どこに行っても、早くみんなと仲良くならなきゃって。友達の輪に入って、みんなの話を聞いて、笑わせて……それが、私の役目だと思ってた。」


 俺は黙って頷く。


 「でも、そうしてるうちに、だんだんわからなくなってきた。……本当の私は、どうやって生きたいのか。」


 彼女は、スケッチブックを抱きしめるようにして、小さな声で続ける。

 「弱い自分を見せたら、みんな離れていっちゃうんじゃないかって……怖かった。」


 その言葉が、胸の奥に刺さった。


 俺は、気づけば彼女の手に触れていた。


 彼女が驚いた顔でこちらを見る。


 「……俺は、離れません。」


 言った瞬間、自分でも驚くほど、言葉に力がこもっていた。


 彼女は、一瞬だけ目を見開き、それから、ふっと笑った。

 「……変な人だね。」


 「よく言われます。」


 彼女は笑いながら、そっと手を握り返してくれた。


 沈黙が訪れる。

 けれど、それは重苦しいものではなく、心地いいものだった。


 カーテンが揺れ、オレンジ色の光が差し込む中、二人はただ座っていた。


 しばらくして、彼女が小さな声で言った。

 「……私、名神にお願いしたんだ。」


 「……お願い?」


 彼女は頷いた。


 「卒業までに、本当の自分を、誰かに見つけてもらえますようにって。」


 その言葉を聞いて、俺は息を呑んだ。

 ──それは、俺がしてあげたいこと、そのものだった。


 気づけば、俺は彼女の目をまっすぐ見つめていた。


 「……俺に、見せてくれませんか。」


 彼女は、驚いたように一度瞬きをして、目を伏せる。


 そして、少し頬を赤くして、微笑んだ。

 「……じゃあ、もう少し、一緒にいてくれる?」


 「……はい。」


 そう答えると、彼女は少しだけ力を抜いて、俺の肩に頭を預けた。


 外では、夕陽が沈みかけていた。

 石膏像が長い影を伸ばし、二人を覆う。


 ──人魚の歌声が、また胸の奥で響いていた。


 合理的じゃない。

 けれど、もう、止められなかった。


 俺は、この人を、もっと知りたいと思った。

 どこまででも、見ていたいと思った。


 美術室の時計が、ゆっくりと時を刻む。

 卒業まで、残り5日。


 その時間が、あまりにも短く感じられて、俺は思わず目を閉じた。


 この人の歌声が、胸を打ち抜いたあの日から、ずっと。

 もう、戻れないところまで来ていた。


 俺は、彼女の髪からかすかに漂う香りを感じながら、小さく息を吐いた。


 ──戦いは、まだ終わらない。

 でも、今だけは、この時間が続けばいい。


 人魚の歌声が、まだ、遠くで響いている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ