3章
卒業まで、残り5日。
朝、昇降口で靴を履き替えていると、すっと視界に黒い影が差した。
顔を上げると、彼女──会長の親友が、腕を組んで立っていた。
「……今日も、付き合ってもらうわよ。」
「……朝からずいぶん堂々とするな。」
「当然でしょ。ここまで来たら、中途半端なことは許さない。」
そう言って、彼女はポケットからメモ帳を取り出し、俺の手に押しつけた。
ページの端に赤字でこう書かれている。
──《次は、特別な時間を共有する。》
「特別な時間、ね……。」
「そう。昨日の体育館は悪くなかったけど、まだ“一緒にいただけ”よ。」
彼女は俺の視線を受け止めながら、続けた。
「会長にとって、あなたが他の誰とも違う存在だと思わせるには、他の人が踏み込まない時間や場所で、ちゃんと向き合わなきゃ。」
合理的で冷たい言葉なのに、なぜか心臓が高鳴る。
俺は、深呼吸をして頷いた。
「……で、今日はどこに連れ出すんだ?」
「放課後に美術室。」
「……美術室?」
「そう。」
彼女は、黒髪をかき上げながら視線を窓の外にやった。
「会長はあそこが好きなの。絵を描くのが得意ってわけじゃないけど、よく一人でぼんやりしてるのを見かける。」
意外だった。
会長が美術室にいる姿は、俺の知っている彼女のイメージからは少し外れている。
「いい雰囲気を作れる。準備はしておくから、あとはあんたがどうするか。」
俺は、まだ何も決まらないまま、メモを見つめるしかなかった。
放課後まで、教室で過ごす時間がやけに長く感じた。
窓の外の光が傾いて、チャイムが鳴る。
俺は、机の上のメモ帳を握りしめて席を立った。
美術室のドアを開けると、やわらかな西陽が差し込んでいた。
白いカーテンが揺れ、石膏像が静かに佇む中、会長が窓際の椅子に座っていた。
制服のまま、スケッチブックを広げている。
鉛筆を握る指先が光を受けて、やけに細く美しく見えた。
「……会長。」
俺が声をかけると、彼女は振り返った。
「あ、どうしたの?」
「準備の手伝いです。次の式典の装飾案をまとめておきたくて。」
嘘だ。
けれど、それ以上の言葉は必要なかった。
会長は、小さく笑って「そうなんだ」とだけ言った。
そのまま、俺は彼女の隣に座る。
近い距離に、鼓動が早くなる。
「……絵、描くんですか?」
彼女はスケッチブックを閉じかけて、少しだけ頷いた。
「うん。でも、上手くないよ。」
「見せてもらってもいいですか?」
「……うーん……。」
少し悩んだ末、彼女はスケッチブックを差し出した。
ページをめくると、そこには柔らかい色合いの風景や、制服姿の誰かが描かれていた。
上手くはないと言ったが、それぞれの絵に、優しい雰囲気があった。
「……すごいです。ちゃんと“その人”がいるみたいで。」
そう言うと、彼女は頬を赤くして笑った。
「ありがとう。」
静かにページをめくり続けると、最後のページに、小さな文字で書き込みがあった。
──《卒業までに、伝える》
その文字を見たとき、胸がぎゅっと痛んだ。
「……これは?」
彼女は、俺の視線に気づいて、一瞬言葉に詰まった。
「……秘密。」
その言い方が、ひどく苦しそうに見えた。
俺は、口を開く。
「……会長。」
彼女が、こちらを見た。
「もし、俺にできることがあるなら、言ってください。」
俺の言葉に、彼女は目を丸くした。
「……なんで?」
「なんとなく、会長も無理してる気がするから。」
俺がそう言うと、彼女はスケッチブックを閉じ、顔を伏せた。
「……ありがとう。でも、大丈夫。」
それ以上、俺には何も言えなかった。
沈黙が流れる。
窓の外の光が赤く染まり、美術室の中も橙色に満たされる。
石膏像の影が長く伸びていた。
彼女は、ゆっくりと顔を上げ、俺に向かって笑った。
「……あなたって、面白いね。」
「え?」
「計算高いのに、こういう時だけ、ちゃんと感情が出る。」
「……自覚は、あります。」
それを聞いた彼女は、少しだけ、楽しそうに笑った。
──その笑顔が、俺の胸に刺さる。
これ以上は、もう理屈じゃなかった。
合理性も計算も、もうどうでもいい。
ただ、この人を知りたいと思った。
この人の、強がりの奥まで見たいと思った。
彼女は、窓から外を見て、ぽつりと呟いた。
「……もう少し、ここにいていい?」
その声が、いつもより少しだけ小さくて、俺はすぐに答えた。
「もちろんです。」
窓の外で風が吹き、カーテンが揺れる。
美術室は、まるで別の世界のように、静かで、あたたかかった。
卒業まで、残り5日。
俺は、もっと彼女を知りたいと思った。
その思いが、もう止まらなかった。
美術室の空気は、夕暮れの光で満ちていた。
彼女は窓際で、スケッチブックを閉じ、膝の上に置いている。
俺はその隣で、ただ黙って座っていた。
風が吹くたびに、カーテンが揺れ、石膏像の影が二人を包む。
「……やっぱり、こういう時間、いいね。」
彼女がぽつりと呟いた。
俺は少しだけ顔を上げる。
「どういう意味ですか?」
「なんとなく。静かで、余計なこと考えなくていいから。」
俺は、その言葉を胸の奥で噛みしめる。
──彼女も、きっと、いつも誰かの前では笑っている。
その裏で、こうして一人きりで、息をつく時間を作っているんだ。
「……会長も、疲れるんですね。」
俺がそう言うと、彼女は少し驚いたようにこちらを見た。
そして、笑った。
「……そうだね。疲れるよ、やっぱり。」
笑顔の中に、ほんの一瞬、影が見えた。
その影に触れたくて、俺は思わず言った。
「俺にできることがあれば、言ってください。」
彼女は、しばらく黙ったまま、スケッチブックの端を指でなぞっていた。
やがて、ぽつりと言った。
「……じゃあ、話を聞いてくれる?」
「はい。」
彼女は視線を窓の外に向け、言葉を探すように口を開く。
「私ね、ずっと、“いい子”でいなきゃって思ってたんだ。」
夕陽が、その横顔を赤く染める。
「転校したり、引っ越したりが多かったから、どこに行っても、早くみんなと仲良くならなきゃって。友達の輪に入って、みんなの話を聞いて、笑わせて……それが、私の役目だと思ってた。」
俺は黙って頷く。
「でも、そうしてるうちに、だんだんわからなくなってきた。……本当の私は、どうやって生きたいのか。」
彼女は、スケッチブックを抱きしめるようにして、小さな声で続ける。
「弱い自分を見せたら、みんな離れていっちゃうんじゃないかって……怖かった。」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
俺は、気づけば彼女の手に触れていた。
彼女が驚いた顔でこちらを見る。
「……俺は、離れません。」
言った瞬間、自分でも驚くほど、言葉に力がこもっていた。
彼女は、一瞬だけ目を見開き、それから、ふっと笑った。
「……変な人だね。」
「よく言われます。」
彼女は笑いながら、そっと手を握り返してくれた。
沈黙が訪れる。
けれど、それは重苦しいものではなく、心地いいものだった。
カーテンが揺れ、オレンジ色の光が差し込む中、二人はただ座っていた。
しばらくして、彼女が小さな声で言った。
「……私、名神にお願いしたんだ。」
「……お願い?」
彼女は頷いた。
「卒業までに、本当の自分を、誰かに見つけてもらえますようにって。」
その言葉を聞いて、俺は息を呑んだ。
──それは、俺がしてあげたいこと、そのものだった。
気づけば、俺は彼女の目をまっすぐ見つめていた。
「……俺に、見せてくれませんか。」
彼女は、驚いたように一度瞬きをして、目を伏せる。
そして、少し頬を赤くして、微笑んだ。
「……じゃあ、もう少し、一緒にいてくれる?」
「……はい。」
そう答えると、彼女は少しだけ力を抜いて、俺の肩に頭を預けた。
外では、夕陽が沈みかけていた。
石膏像が長い影を伸ばし、二人を覆う。
──人魚の歌声が、また胸の奥で響いていた。
合理的じゃない。
けれど、もう、止められなかった。
俺は、この人を、もっと知りたいと思った。
どこまででも、見ていたいと思った。
美術室の時計が、ゆっくりと時を刻む。
卒業まで、残り5日。
その時間が、あまりにも短く感じられて、俺は思わず目を閉じた。
この人の歌声が、胸を打ち抜いたあの日から、ずっと。
もう、戻れないところまで来ていた。
俺は、彼女の髪からかすかに漂う香りを感じながら、小さく息を吐いた。
──戦いは、まだ終わらない。
でも、今だけは、この時間が続けばいい。
人魚の歌声が、まだ、遠くで響いている。