2章
卒業まで、残り6日。
昼休み、屋上。
まだ冬の風が残る空気の中、校舎の屋上は人気がなかった。
重いドアを押して外に出ると、冷たい風が髪を揺らした。
俺は、彼女が言った通りに屋上へ来ていた。
屋上の手すりにもたれて、彼女は待っていた。
黒髪を軽く結んだ姿。
無表情のようでいて、目元がどこか落ち着かない。
俺の姿を確認すると、彼女は小さく頷いた。
「来たわね。」
「……来たけど。次の作戦って?」
俺が尋ねると、彼女はポケットから小さなメモ帳を取り出した。
そして、パラパラとページをめくり、赤いペンで何かを書き加える。
「昨日の接触は悪くなかった。でも、まだ足りない。もっと彼女の印象に残る必要がある。」
「……具体的には?」
「一番手っ取り早いのは、弱点を見せること。」
「弱点……?」
彼女は視線をこちらに向ける。
「人は、誰かの弱さを知ると、放っておけなくなるものなの。特に彼女みたいな性格なら、なおさら。」
「……なるほど。」
合理的だ、とまた思った。
この人は、まるで心の動きまで計算している。
彼女は、手すりに背中を預けながら言った。
「今日は放課後、手伝いの名目で彼女を呼び出して。教室でも生徒会室でもなく、図書室に。」
「……図書室?」
「いい雰囲気だし、人も少ない。話しやすい空気を作るにはちょうどいい場所よ。」
俺は深呼吸をして、頷いた。
「……わかった。」
「それと。」
彼女は、俺の方に一歩近づいた。
「できるなら、ちゃんと目を見て話すこと。あと、どうしても無理だと思ったら、素直にそれを言いなさい。それも、十分に武器になる。」
近い距離。
彼女の瞳の中に、俺の姿が映っていた。
──ああ、やっぱりこの人も、俺と似てる。
合理的でいながら、その奥に何かを隠している。
名神なんて信じているところが、証拠だ。
俺は少し笑ってしまった。
彼女は首をかしげて、小さく息を吐いた。
「……なに。」
「いや、なんでも。」
「……ならいいけど。」
そう言って、彼女はメモ帳を閉じた。
「じゃ、放課後。図書室で。」
彼女はドアの方へ向かい、振り返らずに去っていった。
残された俺は、少しだけ空を見上げた。
青空に白い雲が流れていく。
この空の下で、俺は本当に彼女に追いつけるのか。
俺はまた、深呼吸をした。
放課後、図書室。
木の香りが漂う静かな空間。
本棚が作る迷路のような通路を抜けて、一番奥の窓際に座っていた。
「……遅れてごめん。」
会長がやってきた。
制服のリボンを少し崩したままで、息を弾ませている。
「いや、大丈夫です。俺も今来たところですから。」
俺が言うと、彼女は柔らかく笑った。
──その笑顔だけで、胸が詰まる。
「で、手伝いって?」
彼女が尋ねる。
「……ああ。卒業アルバムの確認です。」
俺は、生徒会室から持ってきた確認用のリストを差し出した。
彼女は隣に座り、リストを見ながら小さくうなずいた。
「こういうの、いつも大変でしょ。ありがとうね。」
その言葉を聞いて、少しだけ息が詰まった。
「……いえ。」
会話が途切れる。
俺は言わなきゃいけない。
言えなきゃ、このまま何も変わらない。
──弱点を見せるんだ。
彼女の言葉が、頭の中で響く。
「……実は、俺、こういうの、苦手なんです。」
自然に出てきた言葉だった。
会長が、きょとんとした顔でこちらを見た。
「え?」
「……人と話すのとか、頼まれるのとか……正直、得意じゃないんです。だから、こうしてると、いつも自分が場違いに思えて。」
彼女は、何も言わずに俺を見つめた。
俺は視線を落としたまま、続ける。
「合理的に見えるように、考えてるだけで、本当は不器用だし、いつも不安です。」
そのとき。
すっと、彼女の手が俺の手に触れた。
驚いて顔を上げると、彼女は優しく笑っていた。
「そういうの、知ってるよ。」
「……え?」
「最初から、なんとなく。あ、頑張ってるんだなって思ってた。」
俺の胸が、熱くなる。
「……ありがとうございます。」
彼女は小さく首を振った。
「こちらこそ、ありがとう。私も、強くなんかないから。」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられるように痛んだ。
この人もまた、強がりながら生きている。
笑いながら、人を支えながら、きっとその裏で傷ついている。
──人魚の歌声に惹かれたのは、きっと、それを知りたかったからだ。
俺は、気がつくと、彼女を見つめていた。
会長の瞳が、海みたいに澄んでいた。
俺は、また息を呑んだ。
「……綺麗だ。」
小さな声でつぶやいてしまった。
会長が少し驚いたように、目を丸くした。
「え……?」
俺は、我に返り、慌てて視線を逸らした。
「な、なんでもないです。」
彼女は、数秒の沈黙の後、小さく笑った。
その笑顔が、俺の胸に深く刺さった。
その後、二人でリストを確認しながら、他愛のない会話を続けた。
窓の外が、茜色に染まっていく。
時間が経つのが、惜しいと思った。
卒業まで、残り6日。
あと6日で、この距離を、どうやって縮めればいいのか。
図書室を出ると、廊下の先で、彼女──会長の親友が待っていた。
「どうだった?」
腕を組み、無表情のままで訊く。
「……まあ、悪くなかったと思う。」
「ならいいけど。」
そう言いながら、彼女は俺の肩を軽く叩いた。
「明日は、もう一段階進めるわよ。」
「……どこまで考えてるんだ?」
彼女は一度立ち止まり、こちらを見た。
そして、小さく呟いた。
「どこまででも。私は、それくらいの覚悟でいるから。」
その表情は、やっぱり俺と同じだった。
──合理的に振る舞いながら、理屈じゃないものを抱えている。
俺は、小さく息を吐いて、彼女に言った。
「……じゃあ、最後まで付き合うよ。」
彼女は少しだけ目を丸くしたあと、口元で笑った。
「当然でしょ。借りを作るんだから。」
そう言って、先に歩き出す。
その背中を見ながら、俺もゆっくりと歩き出した。
人魚の歌声が、まだ頭の中で響いている。
卒業まで、残り6日。
──戦いは、まだ始まったばかりだ。
翌朝。
教室の窓際でノートを広げていると、廊下から視線を感じた。
顔を上げると、彼女──会長の親友がこちらを見ていた。
「……来て。」
それだけ言い残して、廊下の向こうに消えていく。
合理的に見えて、こういう強引なところがある。
俺はノートを閉じて、席を立った。
呼ばれた先は、生徒会室だった。
彼女は机の前で腕を組み、こちらを見た。
「……早く来なさい。」
「で、今日は何をするんだ?」
彼女は無言で、机の上の書類を俺の方に突き出した。
その上には、一枚の小さなメモ。
そこには、こう書かれていた。
──《弱点の次は、共通点。》
「共通点……?」
「そう。昨日の図書室は悪くなかった。でも、あれだけじゃ距離は縮まらない。弱さを見せたなら、次は同じ景色を見る。共通の時間を作るの。」
そう言うと、彼女はペンを取り、カレンダーを指さした。
「卒業式の準備で、今夜、装飾品の搬入がある。それに付き合う理由を作る。会長は準備委員も兼任してるから、絶対来るわ。」
彼女は、俺の目をまっすぐ見た。
「いい?このチャンスを逃したら、次はないと思いなさい。」
強い言葉だった。
けれど、その奥には、彼女自身の決意が滲んでいるように見えた。
──俺だけの戦いじゃないんだな。
俺は小さく息を吐き、メモをポケットにしまった。
「……わかった。」
「じゃ、夜、体育館集合。」
彼女はそれだけ言うと、書類に視線を落とした。
話は、終わったらしい。
俺は生徒会室を出て、廊下を歩いた。
昼の光が、窓から差し込んでいる。
俺の心臓は、いつもより早く脈を打っていた。
夜。
体育館は、すでに準備のために何人かが出入りしていた。
舞台の上には、金色の幕や紅白の布が広がり、椅子が並べられていく。
俺が到着すると、会長がいた。
白い手袋をはめて、舞台の幕を整えている。
彼女は俺に気づくと、驚いたように目を丸くした。
「あれ……どうしたの?」
「準備、手伝いに来ました。人手が足りないって聞いたので。」
彼女はすぐに笑顔になった。
「ありがとう、助かる。」
それだけで、胸が熱くなる。
俺は舞台に上がり、彼女の隣で幕を直した。
指先が、何度か触れる。
そのたびに、俺は息を呑んだ。
会話は、ほとんどなかった。
けれど、並んで作業をする時間が、少しずつ二人の間の壁を溶かしていくように感じた。
彼女が、紅白の布を箱から取り出したとき、俺が手を伸ばして受け取る。
「ありがとう。」
その言葉に、俺は少し笑った。
「……こういうの、得意なんですか?」
「うーん、そうでもないけど……好きかな。」
「なんでですか?」
彼女は少しだけ考えてから、言った。
「誰かのために何かをするのが、好きなのかもしれない。感謝してもらえるのが嬉しくて。」
俺はそれを聞いて、胸が締めつけられた。
この人は、ずっとそうやって誰かのために笑ってきたんだろう。
紅白の布を舞台の端まで伸ばしながら、俺は言った。
「……俺も、好きかもしれません。」
「え?」
「会長の、そういうところ。」
俺は、無意識に口にしてしまった。
彼女は一瞬驚いたようにこちらを見て、それから、ほんの少しだけ頬を染めた。
「……ありがとう。」
それ以上、言葉はなかった。
体育館の照明が柔らかく二人を照らしている。
俺は、ずっとこの時間が続けばいいと思った。
作業が終わると、他の生徒たちは先に帰り、体育館には俺と彼女だけが残った。
会長は椅子に座り、深呼吸した。
「……疲れたー。」
「お疲れ様です。」
俺も彼女の隣に座った。
沈黙が、やけに心地いい。
どこか遠くで、風が吹いて、体育館のカーテンが揺れる音だけが響いていた。
彼女がふと、顔を上げた。
「ねえ、名神って、知ってる?」
「……え?」
急に出てきた単語に、俺は反射的に彼女の親友の顔を思い浮かべた。
「卒業までに願いを叶えるってやつ。」
「あ……はい。知ってます。」
彼女は、小さく笑った。
「私、それ、信じてるんだ。」
その言葉に、胸がざわついた。
──あの人だけじゃなかったのか。
「子供っぽいかな。」
「……そんなことないと思います。」
彼女は、少しだけ驚いたように、俺を見た。
そして、また柔らかく笑った。
「ありがとう。」
その笑顔を見て、俺は決意した。
絶対に、この気持ちを伝えよう。
この人に、全部伝えよう。
卒業まで、あと5日。
俺は、体育館の天井を見上げながら、小さく息を吐いた。
──人魚の歌声が、まだ耳に残っている。
合理性なんて、とうに崩れていた。
それでも、俺は進む。
彼女の笑顔の理由を、全部知るために。