1章
合理的に生きるのは、楽だ。
俺は中学を卒業して、高校に入学する前から決めていた。あえて少し下のランクの高校を選ぶ。周りよりも少しだけ良く見える環境に身を置けば、努力しなくても称賛される。提出物をほんの少しだけ工夫するだけで「よくできてるな」なんて教師に褒められる。学年順位が多少上がれば、周りの視線は自然と尊敬に変わる。
そんな計算をして、俺はこの高校に来た。
そして、入学してすぐに生徒会に立候補した。
生徒会なんて、正直誰も真剣にやりたがらない。基本的には学校の雑務だし、文化祭や体育祭の調整だって、裏でやるだけの地味な仕事だ。だけど、バイトをするよりずっと効率的に内申点が稼げるし、先生や上の人間からも一目置かれる。
合理的だろう?
俺は、そういう人間だった。
けれど、その合理的な世界観を、あっさりと崩した人がいる。
現・生徒会長。
彼女は、いわゆる完璧超人ではない。成績は悪くないが、学年トップでもない。運動神経も普通。特筆するような美貌を持っているわけでも、極端に可愛い仕草があるわけでもない。
けれど、彼女のコミュニケーション力は、桁外れだった。
誰とでもすぐに打ち解ける。
どんな相手でも、否定することなく、少しでも気まずい空気が流れれば、笑顔で流してしまう。
社交辞令ばかりで距離を取る俺に対しても、彼女はいつだって、感情を乗せて言葉を返してくれた。
楽な人だった。
余計な気を遣わずに、話せる人。
最初は、ただそれだけの存在だった。
それが、俺の世界の色を変える人になるなんて、思いもしなかった。
その夜までは。
文化祭の後夜祭、打ち上げのカラオケ。
俺は断る理由がなかったから、とりあえず参加していた。こういう場に顔を出さず「付き合いが悪い」と言われるのは面倒だ。中座するタイミングを探しながら、ソファーの隅に座って、テーブルの上のコーラに手を伸ばした。
誰かの歌が終わり、また誰かがマイクを取る。
盛り上がる声、笑い声、チューニングの電子音。
その時、彼女がマイクを持った。
「え、歌うの?」
誰かがからかうように言うのが聞こえた。
彼女は照れくさそうに笑いながら、マイクを両手で持ち、モニターを見つめていた。
俺は、コーラを一口飲もうとして、視線をモニターから彼女に移した。
彼女は、恥ずかしそうな笑顔を浮かべながら、静かに歌い始めた。
──その瞬間。
俺の中の世界の色が、音もなく塗り替えられた。
ただのカラオケルームのはずなのに、俺の視界に広がったのは、どこまでも透き通った、エメラルドグリーンの海だった。
水平線まで続く透明な水面。
波が砂浜をなぞるたびに、光が反射してきらめく。
まるでハワイの、どこまでも青い海の底にいるような。
そんな、非現実的な景色が、頭の奥で広がった。
音が、海を満たしていく。
彼女の声が、歌詞の意味も関係なく、ただ美しくて、ただ心地よくて、胸の奥を貫いてきた。
気づいた時には、俺はコーラのグラスを握りしめたまま、一口も飲んでいなかった。
彼女の歌が終わり、周りが拍手をする声がしても、しばらく俺は動けなかった。
胸の中がざわざわして、落ち着かなくて。
人魚の歌声、だ。
──もし人魚の歌声というものが本当にあるなら、きっとこんな風に人の心を奪うのだろう。
そう思った。
そして、その日を境に、彼女のことを目で追うようになった。
合理的じゃない。
でも、もう止められなかった。
そんな俺に、ある日、別の衝撃が訪れた。
それは、卒業まで残り1週間のある日のことだった。
生徒会室に一人で残っていると、ドアが開き、彼女──ではなく、その親友が入ってきた。
彼女も生徒会のメンバーだ。
黒髪を軽く結んだ姿で、仕事はそつなくこなし、どちらかといえば無口でドライ。
俺は彼女とも業務上のやり取りくらいしかしてこなかった。
「お疲れ。」
軽く会釈して、俺はまた書類に目を落とした。
その時だった。
彼女が落とした鞄から、生徒手帳が落ちる。
ぱらり、と開いたページに、ぎっしりと書き込まれた文字が目に入った。
──《願いを叶える名神》
俺は一瞬、何を見たのか理解できず、手帳を拾い上げる。
そこには、どこか幼稚な字体で「好きな人と結ばれるための名神」とタイトルが書かれ、その下に「卒業までに必ず」と続いていた。
……え?
視線を上げると、彼女が無言で俺を見ていた。
無表情のようで、その目には確かに焦りと、苛立ちが浮かんでいた。
俺は慌てて手帳を閉じ、差し出した。
「悪い。見ちゃった。」
彼女は手帳を受け取り、ゆっくりと深呼吸した。
そして、次の瞬間。
彼女が俺の背後の壁に手をつき、壁ドンの形で顔を寄せてきた。
「……秘密を見たんだから、協力しなさい。嫌とは言わせないから。」
息がかかるほどの距離。
彼女の声は冷たいのに、なぜか俺の胸は少し高鳴っていた。
「えっ……」
俺が情けない声を出すと、彼女は小さく笑った。
「私の恋は後で応援してもらうから、あんたのを先に叶えて借りを作ってあげる。それでいいでしょ。」
言っていることの意味は、すぐには理解できなかった。
けれど、その目が、真剣そのものだったから、俺は頷くしかなかった。
──合理的な俺の世界が、また音を立てて崩れていった。
卒業まで、残り7日。
俺と彼女の、戦略的な恋愛劇が、始まった。
俺は、生徒会室のドアを閉めると同時に、ため息をついた。
机の上の書類には、さっきの彼女の筆跡が残っている。きれいに揃った文字列の下に、小さく赤いペンで「がんばれ」と書かれていた。それが俺への皮肉なのか本気の励ましなのか、今の俺には判断がつかなかった。
だが、今の立場は明確だ。
──彼女と取引した以上、俺は「彼女のために」会長へ告白する戦略を立てなければならない。
自分で思っても、意味がわからない展開だった。
合理的で効率のいい人生設計を好む俺が、わざわざこんな短い期間で、戦略的に恋愛を叶えるなんて。
だが、もう後戻りはできない。
彼女のあの目を見て、逃げられるほど俺は強くない。
……いや、強いとか弱いとかの問題じゃない。
その場であの目を拒むなんて、俺には無理だった。
翌日、俺は昼休みを使って生徒会室に行った。
彼女はすでに来ていて、机の上に書類を並べながら俺を見た。
「来たわね。」
「……来たけど。具体的に、何をするんだ?」
「戦略を立てる。私が監修してあげるから。」
何を当たり前のように、と言いたくなったが、俺もそのために来たのだから言い返せなかった。
彼女は、ペンを手に取り、紙の中央に線を引いた。
「これはあなたの現状。」
線の左に「現在」、右に「卒業式」と書く。
その上に、彼女は赤いペンで言葉を並べていく。
「文化祭の打ち上げで彼女の歌にやられた、からの、2年間ほぼ何もせず。進展ゼロ。ここから一週間で卒業式までに告白。まあ、無謀もいいところね。」
「辛辣だな。」
「事実でしょ。でも、できないとは言わないわ。」
彼女は口元を少しだけ緩めた。
その表情が、意外と柔らかいことに気づき、俺は少し目を逸らした。
「方法は簡単。時間がない以上、接触頻度を極端に上げるしかない。人は、自分と一緒に過ごした時間が長い相手に親近感を持つものだから。」
「……はあ。」
「会長は案外、空き時間が多いから、チャンスは作れる。昼休み、放課後、そして……卒業式前日までの準備時間。ここを狙う。」
彼女は、一気に予定を書き込んでいく。
「合理的だろう?」
俺は小さく笑ってしまった。
「……合理的だな。」
彼女は、ふっとこちらを見て、珍しく少しだけ笑った。
その瞬間、なんとなく、俺は思った。
──この人も、俺と似たような人間なんじゃないか、と。
計算しながら、立ち回って、合理的で、でも、それでもやっぱり、心のどこかに理屈じゃない感情を抱えていて。
「じゃ、今日の放課後、早速第一段階。会長に資料を渡すついでに、質問してみなさい。」
「どんな質問だ?」
「何でもいいわ。大事なのは、あなたが“ちゃんと彼女を見てる”って気づかせること。」
俺は思わず、息を吐いた。
簡単に言うが、それが難しい。
「じゃ、放課後、ここで集合。手順は私が説明するから。」
そう言って彼女は鞄を持ち、出て行った。
残された俺は、静まり返った生徒会室で、今まで一度も見たことのない心臓の高鳴りを感じていた。
放課後。
俺は、資料を持って会長のクラスへ向かった。
廊下の向こうに、彼女の後ろ姿が見えた。
鞄を抱えて、誰かと笑いながら話している。
その笑顔を見た途端、足が止まった。
──やっぱり、綺麗だな。
俺の中で、合理性なんて言葉は、もう役に立たなかった。
「……よし。」
資料を手に、歩み寄る。
「会長。」
呼ぶと、彼女はこちらを向いた。
「あ、どうしたの?」
「これ、生徒会の資料。確認してもらって……」
彼女は資料を受け取り、ぱらぱらと目を通した。
そして、小さく笑った。
「ありがとう、助かる。ほんと、気が利くよね。」
俺は、それだけの言葉で、胸がいっぱいになった。
そこへ、彼女の親友──例の彼女が現れた。
「終わった?次の段階、行くわよ。」
会長は不思議そうにこちらを見たが、親友はさらりと俺の腕を引っ張り、人気のない廊下まで連れ出した。
「悪くないわ。ああいう時は、もっと目を見て、少しだけ間を取るといい。」
「……アドバイザーかよ。」
「当たり前でしょ。こっちは人生かかってるんだから。」
その言葉に、思わず聞き返した。
「……人生?」
彼女は、ほんの一瞬だけ沈黙した。
そして、こちらを見ずに言った。
「あなたの気持ちを叶えることで、私は借りを作る。借りは、いずれ返してもらう。それが私の戦略。」
合理的だ、と俺は思った。
そして同時に、それが彼女の防衛線なのだと気づいた。
彼女も、合理的なふりをしているだけだ。
きっと。
俺たちは似ている。
合理的で、計算高くて、でも、どこかに理屈じゃないものを抱えていて。
彼女はそれを「名神」という形にした。
俺は、それを「人魚の歌声」という形にした。
──彼女が名神を信じる理由も、俺が彼女の歌声に惹かれた理由も、同じものかもしれない。
理屈じゃなく、ただ、惹かれてしまった。
俺は無意識に、彼女に言った。
「……ありがとう。」
彼女は少し驚いた顔をした。
そして、また少しだけ笑った。
「礼を言うのはまだ早いわ。恋は戦場よ。これからよ。」
その言葉を背に、俺はもう一度、会長のクラスの扉を見つめた。
──卒業まで、あと6日。
ここからが本当の勝負だ。
彼女の歌声が、今も耳の奥で響いている。
合理性なんて、とうに崩れ去った。
それでも俺は、戦いに挑む。
人魚の歌声に恋をしてしまった男として。
夜。
家に帰り、机に向かうと、生徒会の資料の隅に、例の彼女のメモが貼られていた。
《明日、昼休み、屋上で。次の作戦を伝える。》
その下に、小さく、こう書いてあった。
《勇気がなければ、借りは作れない。》
俺はそのメモを見つめ、静かに笑った。
──ああ、わかってるさ。
俺は、もうとっくに勇気なんてものに縋ってる。
人魚の歌声を聞いてしまったあの日から、俺はもう、後戻りできないんだ。