表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

1章


 合理的に生きるのは、楽だ。


 俺は中学を卒業して、高校に入学する前から決めていた。あえて少し下のランクの高校を選ぶ。周りよりも少しだけ良く見える環境に身を置けば、努力しなくても称賛される。提出物をほんの少しだけ工夫するだけで「よくできてるな」なんて教師に褒められる。学年順位が多少上がれば、周りの視線は自然と尊敬に変わる。


 そんな計算をして、俺はこの高校に来た。


 そして、入学してすぐに生徒会に立候補した。

 生徒会なんて、正直誰も真剣にやりたがらない。基本的には学校の雑務だし、文化祭や体育祭の調整だって、裏でやるだけの地味な仕事だ。だけど、バイトをするよりずっと効率的に内申点が稼げるし、先生や上の人間からも一目置かれる。


 合理的だろう?


 俺は、そういう人間だった。


 けれど、その合理的な世界観を、あっさりと崩した人がいる。


 現・生徒会長。


 彼女は、いわゆる完璧超人ではない。成績は悪くないが、学年トップでもない。運動神経も普通。特筆するような美貌を持っているわけでも、極端に可愛い仕草があるわけでもない。


 けれど、彼女のコミュニケーション力は、桁外れだった。


 誰とでもすぐに打ち解ける。

 どんな相手でも、否定することなく、少しでも気まずい空気が流れれば、笑顔で流してしまう。

 社交辞令ばかりで距離を取る俺に対しても、彼女はいつだって、感情を乗せて言葉を返してくれた。


 楽な人だった。


 余計な気を遣わずに、話せる人。

 最初は、ただそれだけの存在だった。


 それが、俺の世界の色を変える人になるなんて、思いもしなかった。


 その夜までは。


 文化祭の後夜祭、打ち上げのカラオケ。


 俺は断る理由がなかったから、とりあえず参加していた。こういう場に顔を出さず「付き合いが悪い」と言われるのは面倒だ。中座するタイミングを探しながら、ソファーの隅に座って、テーブルの上のコーラに手を伸ばした。


 誰かの歌が終わり、また誰かがマイクを取る。


 盛り上がる声、笑い声、チューニングの電子音。


 その時、彼女がマイクを持った。


 「え、歌うの?」


 誰かがからかうように言うのが聞こえた。

 彼女は照れくさそうに笑いながら、マイクを両手で持ち、モニターを見つめていた。


 俺は、コーラを一口飲もうとして、視線をモニターから彼女に移した。

 彼女は、恥ずかしそうな笑顔を浮かべながら、静かに歌い始めた。


 ──その瞬間。


 俺の中の世界の色が、音もなく塗り替えられた。


 ただのカラオケルームのはずなのに、俺の視界に広がったのは、どこまでも透き通った、エメラルドグリーンの海だった。

 水平線まで続く透明な水面。

 波が砂浜をなぞるたびに、光が反射してきらめく。

 まるでハワイの、どこまでも青い海の底にいるような。


 そんな、非現実的な景色が、頭の奥で広がった。


 音が、海を満たしていく。

 彼女の声が、歌詞の意味も関係なく、ただ美しくて、ただ心地よくて、胸の奥を貫いてきた。


 気づいた時には、俺はコーラのグラスを握りしめたまま、一口も飲んでいなかった。


 彼女の歌が終わり、周りが拍手をする声がしても、しばらく俺は動けなかった。

 胸の中がざわざわして、落ち着かなくて。


 人魚の歌声、だ。

 ──もし人魚の歌声というものが本当にあるなら、きっとこんな風に人の心を奪うのだろう。


 そう思った。


 そして、その日を境に、彼女のことを目で追うようになった。


 合理的じゃない。

 でも、もう止められなかった。


 そんな俺に、ある日、別の衝撃が訪れた。


 それは、卒業まで残り1週間のある日のことだった。


 生徒会室に一人で残っていると、ドアが開き、彼女──ではなく、その親友が入ってきた。


 彼女も生徒会のメンバーだ。

 黒髪を軽く結んだ姿で、仕事はそつなくこなし、どちらかといえば無口でドライ。

 俺は彼女とも業務上のやり取りくらいしかしてこなかった。


 「お疲れ。」

 軽く会釈して、俺はまた書類に目を落とした。


 その時だった。


 彼女が落とした鞄から、生徒手帳が落ちる。


 ぱらり、と開いたページに、ぎっしりと書き込まれた文字が目に入った。


 ──《願いを叶える名神めいしん


 俺は一瞬、何を見たのか理解できず、手帳を拾い上げる。


 そこには、どこか幼稚な字体で「好きな人と結ばれるための名神」とタイトルが書かれ、その下に「卒業までに必ず」と続いていた。


 ……え?


 視線を上げると、彼女が無言で俺を見ていた。

 無表情のようで、その目には確かに焦りと、苛立ちが浮かんでいた。


 俺は慌てて手帳を閉じ、差し出した。

 「悪い。見ちゃった。」


 彼女は手帳を受け取り、ゆっくりと深呼吸した。


 そして、次の瞬間。


 彼女が俺の背後の壁に手をつき、壁ドンの形で顔を寄せてきた。


 「……秘密を見たんだから、協力しなさい。嫌とは言わせないから。」


 息がかかるほどの距離。

 彼女の声は冷たいのに、なぜか俺の胸は少し高鳴っていた。


 「えっ……」


 俺が情けない声を出すと、彼女は小さく笑った。

 「私の恋は後で応援してもらうから、あんたのを先に叶えて借りを作ってあげる。それでいいでしょ。」


 言っていることの意味は、すぐには理解できなかった。

 けれど、その目が、真剣そのものだったから、俺は頷くしかなかった。


 ──合理的な俺の世界が、また音を立てて崩れていった。


 卒業まで、残り7日。


 俺と彼女の、戦略的な恋愛劇が、始まった。






 俺は、生徒会室のドアを閉めると同時に、ため息をついた。


 机の上の書類には、さっきの彼女の筆跡が残っている。きれいに揃った文字列の下に、小さく赤いペンで「がんばれ」と書かれていた。それが俺への皮肉なのか本気の励ましなのか、今の俺には判断がつかなかった。


 だが、今の立場は明確だ。


 ──彼女と取引した以上、俺は「彼女のために」会長へ告白する戦略を立てなければならない。


 自分で思っても、意味がわからない展開だった。

 合理的で効率のいい人生設計を好む俺が、わざわざこんな短い期間で、戦略的に恋愛を叶えるなんて。


 だが、もう後戻りはできない。


 彼女のあの目を見て、逃げられるほど俺は強くない。

 ……いや、強いとか弱いとかの問題じゃない。

 その場であの目を拒むなんて、俺には無理だった。


 翌日、俺は昼休みを使って生徒会室に行った。

 彼女はすでに来ていて、机の上に書類を並べながら俺を見た。


 「来たわね。」


 「……来たけど。具体的に、何をするんだ?」


 「戦略を立てる。私が監修してあげるから。」


 何を当たり前のように、と言いたくなったが、俺もそのために来たのだから言い返せなかった。


 彼女は、ペンを手に取り、紙の中央に線を引いた。

 「これはあなたの現状。」

 線の左に「現在」、右に「卒業式」と書く。

 その上に、彼女は赤いペンで言葉を並べていく。


 「文化祭の打ち上げで彼女の歌にやられた、からの、2年間ほぼ何もせず。進展ゼロ。ここから一週間で卒業式までに告白。まあ、無謀もいいところね。」


 「辛辣だな。」


 「事実でしょ。でも、できないとは言わないわ。」


 彼女は口元を少しだけ緩めた。

 その表情が、意外と柔らかいことに気づき、俺は少し目を逸らした。


 「方法は簡単。時間がない以上、接触頻度を極端に上げるしかない。人は、自分と一緒に過ごした時間が長い相手に親近感を持つものだから。」


 「……はあ。」


 「会長は案外、空き時間が多いから、チャンスは作れる。昼休み、放課後、そして……卒業式前日までの準備時間。ここを狙う。」


 彼女は、一気に予定を書き込んでいく。


 「合理的だろう?」


 俺は小さく笑ってしまった。

 「……合理的だな。」


 彼女は、ふっとこちらを見て、珍しく少しだけ笑った。


 その瞬間、なんとなく、俺は思った。

 ──この人も、俺と似たような人間なんじゃないか、と。

 計算しながら、立ち回って、合理的で、でも、それでもやっぱり、心のどこかに理屈じゃない感情を抱えていて。


 「じゃ、今日の放課後、早速第一段階。会長に資料を渡すついでに、質問してみなさい。」


 「どんな質問だ?」


 「何でもいいわ。大事なのは、あなたが“ちゃんと彼女を見てる”って気づかせること。」


 俺は思わず、息を吐いた。

 簡単に言うが、それが難しい。


 「じゃ、放課後、ここで集合。手順は私が説明するから。」


 そう言って彼女は鞄を持ち、出て行った。

 残された俺は、静まり返った生徒会室で、今まで一度も見たことのない心臓の高鳴りを感じていた。


 放課後。


 俺は、資料を持って会長のクラスへ向かった。

 廊下の向こうに、彼女の後ろ姿が見えた。


 鞄を抱えて、誰かと笑いながら話している。

 その笑顔を見た途端、足が止まった。


 ──やっぱり、綺麗だな。


 俺の中で、合理性なんて言葉は、もう役に立たなかった。


 「……よし。」


 資料を手に、歩み寄る。


 「会長。」


 呼ぶと、彼女はこちらを向いた。

 「あ、どうしたの?」


 「これ、生徒会の資料。確認してもらって……」


 彼女は資料を受け取り、ぱらぱらと目を通した。

 そして、小さく笑った。

 「ありがとう、助かる。ほんと、気が利くよね。」


 俺は、それだけの言葉で、胸がいっぱいになった。


 そこへ、彼女の親友──例の彼女が現れた。

 「終わった?次の段階、行くわよ。」


 会長は不思議そうにこちらを見たが、親友はさらりと俺の腕を引っ張り、人気のない廊下まで連れ出した。


 「悪くないわ。ああいう時は、もっと目を見て、少しだけ間を取るといい。」


 「……アドバイザーかよ。」


 「当たり前でしょ。こっちは人生かかってるんだから。」


 その言葉に、思わず聞き返した。

 「……人生?」


 彼女は、ほんの一瞬だけ沈黙した。

 そして、こちらを見ずに言った。


 「あなたの気持ちを叶えることで、私は借りを作る。借りは、いずれ返してもらう。それが私の戦略。」


 合理的だ、と俺は思った。


 そして同時に、それが彼女の防衛線なのだと気づいた。


 彼女も、合理的なふりをしているだけだ。

 きっと。


 俺たちは似ている。

 合理的で、計算高くて、でも、どこかに理屈じゃないものを抱えていて。


 彼女はそれを「名神」という形にした。

 俺は、それを「人魚の歌声」という形にした。


 ──彼女が名神を信じる理由も、俺が彼女の歌声に惹かれた理由も、同じものかもしれない。


 理屈じゃなく、ただ、惹かれてしまった。


 俺は無意識に、彼女に言った。

 「……ありがとう。」


 彼女は少し驚いた顔をした。

 そして、また少しだけ笑った。

 「礼を言うのはまだ早いわ。恋は戦場よ。これからよ。」


 その言葉を背に、俺はもう一度、会長のクラスの扉を見つめた。


 ──卒業まで、あと6日。


 ここからが本当の勝負だ。


 彼女の歌声が、今も耳の奥で響いている。


 合理性なんて、とうに崩れ去った。


 それでも俺は、戦いに挑む。

 人魚の歌声に恋をしてしまった男として。


 夜。


 家に帰り、机に向かうと、生徒会の資料の隅に、例の彼女のメモが貼られていた。


 《明日、昼休み、屋上で。次の作戦を伝える。》


 その下に、小さく、こう書いてあった。


 《勇気がなければ、借りは作れない。》


 俺はそのメモを見つめ、静かに笑った。


 ──ああ、わかってるさ。


 俺は、もうとっくに勇気なんてものに縋ってる。

 人魚の歌声を聞いてしまったあの日から、俺はもう、後戻りできないんだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ