音とはなちるさとの物語 その9
「あら、ちょっとごめんなさい」
若月さんはタブレットを取り出しながら立ち上がった。
「これ、置いていくから、今日の目的済ませちゃって」
上着の懐から何も書かれていない、金のカードを出してテーブルに置いた若月さんは、そのまま店の外まで行って通話している。お仕事の電話なのか真剣な表情だ。
ふいに紙を破る音。
何事かとそちらを見ると、冬香さんが金のカードを破いていた。
それと同時に安堂寺さんの雰囲気が変わる。
「!」
頬杖をついたままだが、射抜くような視線だ。
ごくり、と喉が鳴る。冷や汗をかきそうだ。
蛇に睨まれた蛙って、絶対こんな気持ちに違いない。
どうしよう、どうしよう!
露骨に顔を逸らすのも気が引けたが、気を張っていないと勝手に動きそうだった。
いや、顔だけじゃない。
本音を言うとこの場から全力で逃げ出したい。
ややして、ふっと目力を緩める安堂寺さん。
「傷ひとつない。大丈夫だよ、冬香」
少し顔を横に傾けて、冬香さんに言う。
それと同時に心が脱力するような不思議な感覚を味わった。白昼夢で金縛りになり、それから解放されたような感じと言った方が近いかな。
「よかった。私が見ても自分の色と区別つかなかったの」
「冬香の保護の下で、欠けることなく綺麗な状態だ。確かに色が冬香と似てる。区別つかないはずだよ。他も聞く?」
「ええ、お願い」
「そうだな……今は最低レベルだが、かなり先まで行けそうだな。オレの予想だとJ」
「まあ、そんなに?凄い事ね」
顔の前で手を合わせて、嬉しそうに私を見る冬香さん。会話の意味は分からなかったが、悪い事ではなさそうだ。
「あんた、昔から見えてただろ。街中で拾った事とかないか?」
拾う?
「な、何を……?」
「ふ〜ん、拾った事はないのか」
だから何を!?
安堂寺さんは私の疑問には何も答えず、冬香さんに顔を向けて言った。
「冬香がチューニングしたのか?」
「ほんの少しね。彼女の素質が良かったの。すぐにマイカも見えていたし」
「へえ、凄いな」
そう呟くように言った安堂寺さんは、目線を上に向けてブツブツと自問自答を始めた。
「もしかして、色の性質なんてもんがあるのか?いや、でもそれなら……」
2人の会話の内容は殆ど理解できなかったが、マイカが見えたのはちょっと凄い事なのかも?
「お待たせいたしました」
疑問を色々投げようとしていた私は、ワゴンが席に横付けされ、パティシエの男性が鉄板でクレープを温め始めた事によって遮られた。
「失礼いたします」
続いてウェイトレスが飲み物の用意をする。
「あら、本格的ね」
若月さんが戻ってきて席に着く。
ボワっと火がついたクレープに、近隣テーブルの視線も集まる。
「紅茶は3分ほど蒸らしてからお飲みください」
砂時計を置いて一礼する店員。
若月さんと私は紅茶、冬香さんは薄紅のハーブティー、安堂寺さんはコーヒーだ。
店員がいなくなると、安堂寺さんは自分の目前にある皿を、少しだけ冬香さんの方へ寄せた。
「じゃあ、いただきましょう」
母と何度も来たはずのこの空間が、今まで体験したことがないほどの華やかさで彩られていた。
五感の全てがこの場の空気を特別だと感じており、学校での嫌な気持ちが薄れていく。
「それにしても計画倒れだったわね」
食べながら、若月さんがポツリと呟く。
「そうですね。楽しみでしたのに」
残念そうな冬香さんの声に、私は首を傾げて二人を交互に見た。
「ま、三文芝居しなくて済んだけどな」
両肩を上げる安堂寺さん。
「実はね、音ちゃんの先輩を見つけて、あたしと礼で目の前から攫ってやろうと企んでいたの」
さ、攫う?
若月さんの言葉に状況が飲み込めない。
「ほら、あたし達、ちょっと見栄えするじゃない?」
ちょっとどころではないが、無言で3度頷いた。
「ついでにその先輩の取り巻きにも見せつけて、華麗にエスコートしようと思っていたの」
「跪いて、我々とデートしてくれ、みたいな事を言うんだっけ?」
若月さんの説明に続き、安堂寺さんは使うはずだった台詞を冬香さんに確認する。
「うん、王子様っぽくね」
冬香さんが頷き、若月さんが続ける。
「ついでにその先輩を、冬香の魅力でメロメロにしてやろうと思って。ま、礼の許す範囲でね」
それが実現していたら、翌日の学校は大騒ぎだろう。
良かったと思う反面、少し残念に思う自分がいた。
「冬香の力が発動しなくてよかったよ。ま、見知らぬ街を、1人で彷徨かせるのも嫌だしな」
安堂寺さんはポツリとそう言った後、ふっと息を吐くと、再び顎を手に乗せて外に目を向ける。その表情が少しせつなく見えて意外に思った。
「過保護なので気にしないでください」
冬香さんは困ったような顔で微笑むと、薄紅色のハーブティーを飲んだ。
その姿はとても清純な感じに見えるのに、時々見せるあの妖艶さが凄く不思議だ。別人のように感じるほど、纏う雰囲気がかけ離れている。そう思うと、過保護でもない気がした。
「なんかこの街のって、みんな同じ色してんのな」
外を見ていた安堂寺さんが言う。
「あ、それなんだけど」
若月さんが思い出したように口を開く。
「菟の調査によるとね、カルト的な組織が関係してそうって。半年くらい前から急激に勢力を伸ばしている団体だそうよ」
「なるほど、説明がつくな。じゃあ、あいつらみんな、強制的に憑けられているわけか」
頬杖をつきながら、街ゆく人々を観察している安堂寺さんは、納得したように言った。
「元凶は1人だよな」
ふと、安堂寺さんは外から視線を戻し、斜め前を見た。その視線の先で頷く若月さん。
「まだ調査中だけど、やっかいなのは1人ね。で、お仕事になったわよ」
「菟が取ってきたのか?」
「そうよ。被害者の会と被害に遭った企業からそれぞれ取ってきたって。あとはチーム沙が個別に当事者3名の親と交渉中よ」
「相変わらず、優秀な営業達だな」
「音ちゃんのおかげね」
「え?」
突然話題に自分が出てきて驚く。
「音ちゃんがね、自分で見つけて、自分で選んで、”はなちるさと”に来たのよ。偶然見つけたように感じているだろうけど、来ることは必然だったの」
真剣な顔の若月さんに、安堂寺さんが乾いた笑いを飛ばす。
「はは。わかんねぇだろ、予備知識なく言ったって」
「いいのよ。ここをご馳走する理由を述べているだけなんだから」
つい、とそっぽを向いて紅茶を飲む若月さん。
「えっと……?」
ご馳走してもらえる事は分かったが、その理由についてはよく分からない。
質問しようと口を開いたが、冬香さんが斜め前から安堂寺さんのお皿を取って、私に出してきた。
「どのお菓子にします?美味しそうですね」
選ばないとお皿を持たせたままになるので、急いで一番近い菓子を取る。冬香さんはそのお皿をそのまま若月さんに差し出しながら、目だけは私に向けて続ける。
「遠野さまがお店に来てくれたから、今回のお仕事に繋がったんです。わりと大きな規模になりそうですよ」
そう言ってふんわり笑む冬香さんの横で、ふと安堂寺さんが思い出したように聞いた。
「小箱はどうすんだ」
「カシェットにしてみないと分からないけど、このまま礼に頼もうかしら。今は大きな案件もないし、そろそろ暴れたいでしょ」
「了解」
お仕事の話のようだが、自分に関わりがある事だろうか。どこまで聞いて良いのか、知らないフリをした方が良いのか判断できない。どうしようかと、焼き菓子を齧りながら考えていると、冬香さんが何かを思い出したような声を上げる。
「礼の見立てによると、遠野さまはJまで行けるようです」
「え、本当?」
若月さんが驚いた顔をしたが、安堂寺さんはゆっくり頷いて言った。
「素質もあるようだし、存在消すためには訓練してやった方が良いかもな」
「そんなに輝き強いの?」
「現時点でサイス連中くらいはあるな」
「それは厄介ね」
若月さんは顎に手を当ててじっと考え込む。
「ダメダメ、とりあえず解放が先よ。今は冬香の保護もあるし、しばらくは大丈夫よね。ここでのお仕事を無事終えたら、その時はちゃんとスーツで音ちゃんのお家に行くわ」
「理事長モードですね」
「その前に説明してやれよ」
呆れた顔の安堂寺さん。これは質問のチャンスでは?
「音ちゃん、今度の土日、どっちか空いてない?」
若月さんが先に口を開いたので、私は質問を引っ込めて答えた。
「ど、どちらも空いています。部活もないし、友達もいないので……」
「じゃあ、明日お店に来れる?」
「は、はい」
「迎えを出すわね。朝8時前には”はなちるさと”で待機が必要だから」
誰か知らない人が迎えに来るのだろうか。少し不安だな。
「大丈夫ですよ」
冬香さんがそう言って微笑むと、なんだか大丈夫な気がしてきた。
「見て、体験して、納得してから、提案を受けな。迎えは多分あいつな」
安堂寺さんは頬を支えていた手の親指を立てると、外を指す。
つられるように外を見ると、スーツ姿の男性が立っていた。
若月さんが片手を上げて合図すると、軽く頷いてお辞儀をし、そのままどこかに行ってしまった。
「今の人が明日、迎えに来てくれるんですか?」
「そ、うちの従業員よ。菟って呼んであげて」
電話の人だ。
「なんで”うさぎ”なんですか」
「あいつの名前。本名だよ」
安堂寺さんがコーヒーを飲みながら教えてくれた。
とても男性的な外見のように感じたが、うさぎ、なんだ。
世の中、自分の知らないことで溢れているのね。
”はなちるさと”に予約をいれた月曜の晩には想像もしていなかった。木曜日から世界が反転してしまったようだ。
私はそんな事を考えながら、目の前のケーキを口に運ぶ。じんわり甘くて幸せだが、これが現実でないとしたら嫌だな。
幸せすぎて怖いって、こんな状態なのかもしれない。
そんな事を考えながら、美しい人達を眺める。
現実であるが故の辛い瞬間が翌日に待っているなんて、この時の私には予測もできなかった。