音とはなちるさとの物語 その8
車に腰を預けて腕組みしていた若月さんは、私たちを見つけると大きく、しかしキュートに手を振っている。
「音ちゃん、無事だった?冬香、礼は?」
若月さんは色素の薄い目で私と冬香さんを交互に見て、心配そうな顔をする。
「シランスに取り込み中です」
「読み通りね。やっぱり他に誰かいた?」
「はい。女性が2名ほど」
「ふうん、そこも読み通りね」
冬香さんは頷いて答えとしている。
私は疑問に思って若月さんに聞く。
「どうして2名だと分かったんですか?」
若月さんは宙を見ながら答えてくれた。
「2名かどうかは分からないわ。ただ複数であると思ったの。もしかすると組織ぐるみかもって」
肩を竦め、両手を挙げた若月さん。
「ま、そんなことはどうでもいいわね。車の中で待ちましょ」
そう言うと、若月さんは後部座席の扉を開けて、私をエスコートする。
「さ、お嬢様、こちらへどうぞ」
「お邪魔します」
照れながらそう言って車に乗り込む。
助手席の真後ろに座ったところで、逆側のドアから冬香さんが乗ってきた。運転席には若月さんが座る。
「あの、倒れた先輩は大丈夫でしょうか。あ、女性のほうです」
そう冬香さんに問うと、ミラー越しに若月さんと目があった。心臓が跳ねて、慌てて冬香さんを見る。
「気絶しているだけなので大丈夫です。校内ですし、もう一人の方が介抱されるのではないでしょうか」
そのもう一人はすでに逃げているのだが……。
「礼が派手にやったのね」
運転席から溜息。
「さっきのって、普通の人にも見えるんですか?」
「何やったか知らないけど……」
バックミラーに映る若月さんの目が、ついっと冬香さんの方を見た。つられて横を見ると、ただ頷いた動作と私に向けられた笑顔。
「見えないほうね。と、言うことは、礼が何か投げつけたように見えるかも。そうじゃなくても、目の前で女の子が突然倒れたのを、完全に無視して立ち去る非道な男って感じかしら」
苦笑混じりの溜息を落とす若月さんから、着信音が響く。インカムを右耳に装着してから、若月さんが応答した。
「はい。ええ、……ええ。分かったわ。え?ラッキーじゃない。ええ、そう……その2人かしら。じゃあ、菟はそのまま交渉を続けて」
うさぎ?電話の相手だろうか。
「あ、戻ってきました」
冬香さんの声に、若月さんは頷くと車のエンジンをかける。再びミラー越しに後ろを見ながら、行き先を訊ねてくる。
「国道沿いにプチ・トリアノンって、ケーキ屋さん併設のかわいいお店があるようです」
冬香さんの言葉に、若月さんの目が輝く。
「ベルサイユ宮殿ね!」
若月さんの言葉に、私と冬香さんは目を見合わせた。
「プチ・トリアノンってマリー・アントワネットが愛したと言われる離宮でね。ベルサイユ宮殿の敷地内にある、とっても可愛らしい宮殿よ」
「それじゃあ、オーナーの好きなフランス菓子でしょうか」
「きっとそうよ。マカロン、フィナンシェ、フロランタンは紅茶に、パン・ドゥ・ジェンヌやサント・ノーレはハーブティーで頂くのがあたし流よ」
菓子の名前は半分以上分からなかったが、若月さんの店への期待は想像以上だ。冬香さんから若月さんに質問が飛ぶ。
「フォンダン・ショコラは何が合いますか?」
「絶対的にコーヒーよ」
かわいい内装に、おいしいお菓子、香り高い飲み物に、美形達がなんと絵になる事か。2人に囲まれている自分が、不似合いで申し訳ない気持ちになる。
後ろ姿しか見ていない、冬香さんの彼らしき人はどんな顔をしているのだろう。背が高い事しか分からなかったので、せめて普通の容姿であってほしいと願った瞬間、助手席の扉が開いた。
「はい、これ」
素早く乗り込んできた巻毛の男は、後ろを振り返りもせず青い小箱を若月さんに渡す。
「それじゃあ行きましょ」
若月さんの運転で車はゆっくり出発した。
薄ピンクと白のストライプが続く壁、童話に出てくるお菓子の家のような内装の店内は、バターの香りがたちこめており、利用者のほとんどを女性が占めていた。
いつもガヤガヤしているが、今日は一段と騒がしい。
いや、騒がしいのは、先ほどからかもしれない。私の目の前にその原因達がいるんだけど。
「……」
「オレはコーヒーだけでいい」
「……」
「あれもこれも気になるわねえ。冬香はショコラ系?音ちゃん、何にする?こっちのも捨てがたいし、あ〜、これもいいわね〜」
「……」
「チョコ系も捨てがたいですが、モンブランが上品で美味しそうですね」
「……」
互いに乗り出してメニューを覗き込む”はなちるさと”の2人。対して、メニューには欠片も興味がないと言った風に、テーブルに肘をつき、自らの手に顎を乗せて外を見ている男性。
その光景を何も言えずに、ただ見ていた。
無表情で無機質。そしてなめらかで滑るような素肌に整った目鼻立ち。
まるで作り物だ。
眉間に巻毛がかかっていて色っぽいが、それが唯一の俗世を思わせる。世の中にこんな完成された造作のモノが存在するのかと思うほどの美貌。
冬香さんみたいな美人の彼が、普通なんてあるはずなかった。今にして思えば、後ろ姿はすっきりしていたし、自信に満ちた言動だった。そりゃあ、冷静に考えれば男前だろうとは、想像できたかもしれない。
しかし、ここまで飛び抜けて美しいとは思わなかった。若月さんや冬香さんだって、かなり美人だが、冬香さんの彼は恐ろしさを感じるほど美しい。
校庭では動揺していたし、青い光やらなんやらでよく見えず、車でも自分が真後ろにいたから横顔すら確認出来なかった。プチ・トリアノンにて着席して、ようやく顔を見ることができたのだ。
よりにもよって、真正面である。
若月さんの隣に座るなんて、どうしよう、緊張しちゃう。そう思って、正面を見た時から言葉を失っている。
「なんかこの街、多くないか」
「うん。私もそう思ってたの」
正面の2人がそんな会話をしている。
「確かに騒々しいわね。でも、そんなことより先に注文よ。音ちゃんのお勧めはどれ?」
ふいに問われた私は、慌ててメニューに目を向けて答える。
「母がお店の方に聞いていたんですけど、フェネトラをかなり研究されているようでした。私もわりと好きです。個人的にはクレープ・シュゼットとタルト・オ・シトロン、あ、それにモンブランもお勧めです」
そう答えると、若月さんと冬香さんは目を見合わせた直後、私を見る。その目は想像以上に、輝いていた。
「あ、あの……。冬香さんの、彼氏さん」
目の前の人物にそう声をかけると、素早い動きでこちらに顔が向いた。その表情は驚きで目が大きく開かれている。
あ、ちゃんと人間だ。
そう、改めて認識した。
「もっかい」
「え?」
「もう一回呼んで」
何か変だったのだろうか。しかし名前を知らないので他に呼びようがなかった。
「と、冬香さんの彼氏、さん……」
そう呼ぶと、目の前の人物はにんまり笑い、返事もせずに冬香さんに顔を向ける。
「だって、冬香」
冬香さんは顔色ひとつ変えず、しかし隣は見ず私に言った。
「彼は”安堂寺 礼”と言います。名前でも苗字でも好きなほうで呼んでください」
「で、では安堂寺さん。先ほどコーヒーだけって言ってましたけど、ここって、飲み物だけはダメなんです。食べ物と飲み物、一品ずつ頼まないといけなくて……」
「あ、そうなの?それじゃあ、みんなで食べれるものある?」
こちらに目を向けた安堂寺さんの、まだ薄く笑みを湛えた真正面の顔が破壊力抜群だった。
「あ、えっと、そ、その……」
慌てて顔をメニューに向けた。
「プ、プチフールはいかがでしょう。焼き菓子の、も、盛り合わせです」
「じゃ、それとコーヒー」
「決まったわね。あ、すみませーん」
そう言って手をあげる若月さんに、店内の殆どが注目した。
チラチラ視線を感じていたが、露骨に見ることが出来ないでいたのだろう。声に反応した感じで、さりげなく視線を送っている女性の多いこと。中には惚けて固まっている人もいる。
「音ちゃん決まってる?適当に頼んでいい?」
隣から若月さんに顔を覗き込まれて、息が止まりそうだった。
ああ、あっちもこっちも心臓に悪い。
私は何も言葉が出てこず、無言で何度も頷いた。
「ご注文でしょうか?」
注文を取りに来た店員に、若月さんが全員分を頼む。安堂寺さんのコーヒー以外は、飲み物も若月さんに委ねた。
「あそこの席、華やか〜」
「えー、羨ましい。芸能人かなぁ。でも一人浮いてない?」
「あ、わたしも思ってたー。学生服だし、親戚の子じゃない?羨ましいー」
店内のひそひそ話す声が聞こえてくる。
浮いているかって、そんな事、言われるまでもなく自覚している。
こんな美形に囲まれて、浮いていないはずがない。
「……ダメだって言ったでしょ。音ちゃん、ここに皺できるわよ」
眉間にそっと押し当てられる若月さんの指。そして覗き込む顔。
「し、しわ……」
「そうよ。表情筋からできた皺を伸ばすの、大変なんだから。いつも不機嫌そうな顰めっ面のババアになりたいの?」
「い、嫌です」
「伸びたわね。よしよし」
額を抑えていた指が離れ、頭頂に手が置かれる。にこにこしながら撫でてくれる、若月さんの顔を見れずに正面を見ると、美形が2人。この場をどんな顔して過ごせばいいのか、本格的に悩み始めた頃、若月さんのカバンからタブレットの振動音が聞こえた。